【東日本大震災10年】東日本大震災犠牲者慰霊追悼(福島県いわき市、千葉県旭市)

 東日本大震災から10年の年月が経ちました。震災による死者、行方不明者、避難生活などで亡くなった関連死の死者はあわせると約2万2200人、そして今なお約4万人以上の人が避難生活を送っています。

 まさしく未曾有の大震災より10年のこの日、大きな揺れと津波に見舞われた福島県いわき市平豊間地区、同市薄磯地区、そして千葉県旭市飯岡地区に建つ慰霊碑や記念碑を訪れ、震災関連犠牲者を慰霊追悼するとともに、被災や復興について学習しました。

8.5メートルの津波が襲ってきた豊間の海と浜辺

 福島県いわき市平豊間では震度6強の地震に見舞われた後、およそ三階建ての建物に相当する高さ8.5メートルの大津波に襲われ、住民85人が死亡または行方不明となり、約400戸の家屋が流失しました。

 豊間の浜辺の近くには「豊間地区東日本大震災慰霊碑」が建ち犠牲者を弔うとともに、例年慰霊碑の前で住民による追悼式などがおこなわれています。

豊間の「豊間地区東日本大震災慰霊碑」

 また豊間の隣のいわき市薄磯はいわき市内で一番大きな被害を出しました。薄磯では豊間と並ぶ8.1メートルの大津波が襲来し、265世帯の家屋のほとんどが流出、122人が亡くなったといわれています。

 そうしたなかで薄磯には「東日本大震災慰霊碑」が建ち犠牲者を弔っています。また慰霊碑の横の寺院では追悼の法要なども営まれています。

薄磯の「東日本大震災慰霊碑」

 また薄磯にある「いわき震災伝承みらい館」を訪れ、被災の状況や復興の歩みの展示を見学しました。東日本大震災当日、豊間中学校は卒業式であったため、卒業生たちの記念の寄せ書きが残る黒板が保存、展示されていたのが印象的でした。思い出深い卒業の日に襲ってきた大地震と津波。卒業生たちはこの日をどう過ごしたのか、それぞれの10年前の今日という日に思いを馳せました。

「いわき震災伝承みらい館」に展示されている豊間中学校卒業生の寄せ書きが残る黒板

 地震による津波は三陸沖や福島、茨城ばかりでなく、千葉の外房・九十九里浜一帯にも襲来し、犠牲者を出しました。なかでも千葉県旭市飯岡は海抜約7.6メートルもの津波に見舞われ、10人以上の犠牲者が出た他、300棟以上の建物が全壊するなど多大な被害を出しました。「東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑」はそうした津波と犠牲を記録する記念碑であり、記念碑を通じ心中にて犠牲者を慰霊追悼しました。

飯岡の「東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑」

【東日本大震災9年】東日本大震災慰霊碑(福島県いわき市豊間地区)

【東日本大震災8年】東日本大震災慰霊之塔(宮城県仙台市若林区荒浜)

【東京大空襲76年】東京大空襲・城北大空襲犠牲者および米兵捕虜慰霊追悼

 東京の下町地区一帯が襲われた東京大空襲から76年を迎えます。

 空襲犠牲者の遺骨を安置する東京都慰霊堂では例年3月10日、春季大法要が営まれますが(昨年および今年はコロナのため一般参列者の参列については制限等があります)、感染症対策として密を避けるため、一日早い今日、東京都慰霊堂や空襲犠牲者の遺体を仮埋葬した地に建つ慰霊碑、下町以外の空襲の犠牲者を供養する地蔵、また撃墜された米軍機の搭乗員である米兵が処刑された地を訪れ、総ての犠牲者を慰霊追悼しました。

東京都慰霊堂

 東京大空襲による犠牲者の遺体の多くは猛火に焼かれたため生前の面影を留めず、身元がわからないため親族が遺体を引き取ることもかなわないため、上野公園や隅田公園、錦糸公園など下町の大きな公園や社寺の境内等に仮埋葬され、終戦後に仮埋葬から掘り起こされた遺骨が東京都慰霊堂に安置されたといわれています。仮埋葬地であった上野公園と隅田公園に建つ慰霊碑をお参りしました。

 こうした遺体の仮埋葬は戦時下にあって丁重かつ正確におこなわれたとはいえず、遺体の状況もあって一人一人を埋葬したというよりも、まさしく「処理」という言葉がふさわしいような扱いであったといわれています。そのため仮埋葬した遺体の数もアバウトであり、そもそも仮埋葬した場所もはっきりしておらず、空襲犠牲者の数も正確なところはわからず、今なおどこか仮埋葬の地で眠っている犠牲者の遺体もあると考えられています。

仮埋葬地の一つである上野公園の近くに建つ慰霊碑

 空襲犠牲者の遺体は土葬による仮埋葬だけでなく、可能な限り火葬も行われたといわれています。上野公園一帯は東京大空襲の犠牲者を仮埋葬した地の一つですが、上野公園内に建つ西郷さんの銅像の周辺では空襲犠牲者の遺体を野焼きしたといわれ、いわば臨時の火葬場でもありました。

臨時の火葬場であった西郷像

 東京大空襲というと3月10日の下町地区の空襲を想起しますが、それ以外にも東京各地が空襲に見舞われています。

 東京大空襲の約一ヶ月後の4月13日夜から14日未明にかけての城北大空襲では、現在の板橋区や豊島区など東京の城北地区一帯が襲われました。板橋区大山に建つ空襲犠牲者供養の地蔵は、その際の犠牲者を供養しています。

空襲犠牲者供養の地蔵

 軍需工場があった立川も空襲に見舞われましたが、戦争末期の8月、立川を襲ったB-29が撃墜され、搭乗員の米兵が捕えられました。米兵は錦国民学校(現在の立川市立第三小学校)の校庭に連行され、柱に縛り付けられ、多数の市民に竹の棒などで殴打された上で、近くの寺院である正楽院の墓地で日本軍将校により斬首され、そのまま埋葬されたといわれています。

 米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、戦中、日本の各地でこうした米兵捕虜の虐殺事件や虐待事件という戦争犯罪が起きていたことも忘れてはなりません。

米兵捕虜が斬首埋葬された墓地のある正楽院

 また民間人の空襲犠牲者への補償は戦後76年経った今なお満足に行われておりません。それとともに空襲はたくさんの戦争孤児を生みましたが、孤児たちを支える政治や社会の仕組みは十分でなく、大変厳しい生活を送ったといわれながら、孤児たちの戦後がどのようなものであったのか今でも十分に解明されていません。

 あらためて米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、その犠牲者被害者に対し日本の政治や社会が十分に対応し、寄り添ったのか、考えていく必要もあります。

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)

【東京大空襲75年】東京大空襲犠牲者慰霊・追悼

【東京大空襲74年】戦災孤児収容施設「東水園」跡(旧品川第五台場)

令和3年3月3日~6日 新基地建設のため沖縄南部からの土砂採取に反対するハンストへの連帯行動

 現在、沖縄では辺野古新基地の埋立工事が進められています。

 これまで防衛省の計画では、埋立用の土砂は主に県外で採取し沖縄に運搬して使用することとなっていましたが、沖縄県による県外土砂規制条例制定の動きもあり、沖縄県内で土砂を採取する方針に切り替わりました。それにより現在まで土砂採取がおこなわれている本部半島のみならず、今後は沖縄南部でも土砂の採取が計画されるようになりました。

 ところが沖縄南部は沖縄戦の最激戦地であり、土砂採取地一帯は戦跡国定公園に指定され、今なお遺骨収集が行われ、収骨されている状況です。つまり沖縄南部で採取される土砂には沖縄戦犠牲者の遺骨が含まれている可能性もあることから、3月1日から6日まで、遺骨収集ボランティアのガマフヤーの具志堅隆松さんが沖縄県に対し工事中止を命じるよう求めるとともに、沖縄防衛局に土砂採取をやめるよう求め、沖縄県庁前でハンストをおこなっています。

 しかし考えてみれば、沖縄の人々にそうした苦闘を強いているのは、勝手な都合で沖縄に基地を押しつけ、また辺野古に新基地を建設しようとしている本土であり、端的にいえば政府・菅政権です。

 その意味において、具志堅さんら沖縄の戦いに本土の私たちが連帯するには、政府・菅政権に辺野古新基地建設をやめるよう求めることであるはずです。

 そこで3月3日から具志堅さんのハンスト最終日である6日まで、それぞれ1日のうちの限られた時間ですが、首相官邸前で具志堅さんら沖縄の戦いを紹介しながら座り込みや街宣をおこない、政府・菅政権に対し沖縄戦犠牲者に向き合い辺野古新基地建設を撤回するよう求めました。

 安倍前首相が硫黄島を訪れた際、地下に多くの日本兵の遺骨が眠っているといわれる自衛隊の滑走路にひざまずいたことは有名ですが、硫黄島の戦いの犠牲者への思いがそこまでありながら、沖縄戦の犠牲者のことは知らないし、遺骨がどうなってもいいということはないはずであり、特に保守を自認する政治家や政党こそ怒りを持つべきではないでしょうか。

 そもそも政府は戦後70年を期し、遺骨収集を「国の責務」と表現し、これまで以上に力を入れていく方針を打ち出しましたが、沖縄南部での土砂採取計画は、そうした政府方針と矛盾します。また沖縄戦における沖縄南部の米須での旧真和志村の住民による遺骨収集と「魂魄の塔」の建立が示しているように、戦後の沖縄の住民の歴史もいわば遺骨収集とともにあったわけであり、遺骨収集の軽視はすなわち沖縄の歴史の軽視といえます。

 それとともに、これは右や左を越えた人倫の話でもあります。

 沖縄南部には沖縄の住民や日本兵の犠牲者のみならず、戦った米兵の犠牲者もいれば、日本軍の軍属であった朝鮮半島出身者の犠牲者の遺骨も眠っています。そうした土砂を誠心誠意の遺骨収集と弔いのもと民生用の工事等で使うのならばまだしも、何の敬意も敬虔さもなく海の底に沈め、米軍基地の下敷きにするなど、人間としてやってはならないことです。

 付け加えるならば、新基地建設が進められている辺野古のキャンプ・シュワブ内にも多くの遺骨が強く反対します。

大浦崎収容所 今帰仁村住民の墓地なども見える

 すなわち辺野古崎周辺は沖縄戦時、大浦崎収容所として住民が収容された場所です。収容所における住民の暮らしぶりは厳しいものがあり、飢えやマラリアなど病気の蔓延で死者が続出し、埋葬されました。今帰仁村から連れて来られ大浦崎収容所に収容された住民の墓地もあり、そこも新基地建設であらたな基地となる予定です。

 こうした新基地建設を認めていいのか。強く反対します。

3月3日 官邸前での座り込み
3月4日 官邸前での座り込み
3月5日 官邸前での座り込み
3月6日 自民党本部前での街宣

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)

 まもなく昭和20年3月10日の東京大空襲から76年となりますが、東京大空襲・戦災資料センター開館19周年を記念しオンライン配信された「東京大空襲を語り継ぐつどい」を視聴しました。

オンライン配信の冒頭

 同センターでは毎年この時期に「東京大空襲を語り継ぐつどい」を開催していますが、昨年はコロナの影響で中止となり、今年はオンラインでの配信というかたちとなりました。

 内容は、戦争体験談「ガラガラ、ガラガラ、猛火 焼夷弾 私は逃げて 逃げて 命をつないだ」(東京大空襲体験者の白石哲三さん)、講演「今、戦争体験と向き合う―戦後76年の現実から考える」(センター館長の吉田裕さん)、報告「戦災資料センタ―この一年の動き」(センター学芸員の比江島大和さん)、そしてセンター名誉館長の早乙女勝元さんの挨拶というものでした。

 白石さんは、3月10日にB-29が来襲し家族7人が4班に分かれてバラバラで逃げたこと、お姉さんたちは母親の「暗いところを目ざして逃げなさい」という忠告に基づき暗い方暗い方へと逃げ、気づいた時には春日部にまで避難していたという話、奇跡的にも家族全員無事だったが、その後の避難先である大森でも空襲に見舞われ焼け出されたことなど、貴重なお話しを伺うことができました。また東京の地図や空襲の映像、空襲を描いた絵などを用いつつ、視覚的にもわかりやすくお話しして下さいました。

お話しされる吉田館長

 吉田さんは日本近現代史を長年にわたって研究され、『日本軍兵士』(中公新書)などのご著書でも知られる著名な歴史学者でもありますが、けして堅苦しくなく、ご自身の体験に基づきながら笑い話も交えつつお話しして下さいました。

 特にお話しの冒頭、先般お亡くなりになられた東京大空襲体験者でもある半藤一利さんの言葉をひきつつ様々な戦争体験の語られ方を紹介するとともに、戦争体験を忘れようとした戦後まもなくの人々の精神性や、語られてこなかった戦争体験、戦後76年という時の流れとそこにおける戦争体験の継承の難しさ、戦争関係の博物館などの展示のあり方など、様々なことを伺うことができました。

 オンライン配信は14日までとなっており、現在も申し込み可能ですので、ぜひご視聴下さい。

 詳細は以下よりご確認ください。

令和3年2月25日 二・二六事件85年 事件刑死者・犠牲者慰霊

 昭和11年の2月26日に発生した陸軍青年将校らによる二・二六事件から85年を明日に控え、事件で刑死した青年将校らの慰霊像や墓所をお参りしました。

二・二事件慰霊像

 「二・二六事件慰霊像」は、青年将校らや事件の「首魁」と見なされた北一輝などが死刑判決をうけ刑死した陸軍刑務所跡(現在のNHK付近)に建っています。

 この慰霊像は、昭和40年に事件刑死者らの遺族・関係者による集まりである「仏心会」により建立され、刑死者のみならず、自死者、また青年将校らに命を奪われた重臣や警察官も慰霊しています。

二十二士之墓

 麻布の賢崇寺の墓地に建つ「二十二士之墓」は、事件で刑死した青年将校ら22人の墓です。

 事件後、警察や憲兵の圧力もあり、刑死した青年将校らを葬ることが難しい状況にありました。そうしたなかで様々な縁により賢崇寺に葬られ、現在まで丁重に弔われています。

 特に2月26日は刑死者ばかりでなく、慰霊像同様、事件で命を奪われた重臣や警察官なども含めた法要がおこなわれているそうです。

北一輝先生之墓

 目黒不動尊(瀧泉寺)の墓地に建つ「北一輝先生之墓」は、北一輝の故郷佐渡の大安寺の墓所とともに北が葬られています。

 北は事件の「首魁」として検束され刑死します。北が事件に全く関与していなかったということはできませんが、北が「首魁」として事件を計画し、指導し、実行していったとはいえず、弟子の西田税とともに有罪・死刑の結論ありきの裁判により刑死しました。

磯部浅一 妻登美子之墓

 小塚原回向院の墓地に建つ「磯部浅一 妻登美子之墓」には、元陸軍一等主計(大尉相当)で事件に参加し刑死した磯部浅一と妻の登美子が葬られています。

 磯部が獄中で記した日記や手記など獄中記が今に伝わっていますが、そこには昭和天皇を激しく叱責する文言が散見される一方、「陛下に直通することが第一番です」「今となっては、上御一人に直接に御すがりするより他に道はないと思います」といった昭和天皇への希求や渇仰が記されており、磯部の忠義の心の激しい揺れ動きを読み取ることができます。

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

令和2年2月26日 二・二六事件84年 磯部浅一・登美子夫妻墓参

令和3年2月17日 戯曲「喜劇人類館」観劇(オンライン配信)

 オンライン配信中の戯曲「喜劇人類館」を観劇(視聴)しました。

喜劇「人類館」の一幕:毎日新聞2021.2.16

 明治36年の大阪で開催された内国勧業博覧会において、「人類館(学術人類館)」において朝鮮出身者やアイヌ、台湾原住民(先住民)、アジア人、アフリカ人とともに沖縄県民が琉球人として「展示」され、国内外から批判を浴びました。これを人類館事件といいます。

 戯曲「人類館」は戦後、知念正真氏が書き下ろし、沖縄以外に本土でも上演され、大きな反響を呼ぶとともに、戯曲賞を受賞するなど大変な評価をうけました。

 今回、知念正真氏の子どもである知念あかね氏が制作・総指揮をとり、上江洲朝男氏が演出し、7年ぶりに戯曲「人類館」が上演される予定でしたが、新型コロナウイルス感染症の拡大により観客を入れての上演が難しくなったため、無料にてオンライン配信されることになりました。制作陣も役者さんたちも大変残念なことであり、断腸の思いでの決断だったとは思いますが、全国で幅広い人に観劇(視聴)していただくよい機会であるとも思います。

 戯曲「人類館」は時代設定が様々に変転していくことで有名ですが、今回の「喜劇人類館」でも明治後期の人類館事件でありながら「展示」されている沖縄の男女が戦後の米軍統治時代を語ったり、沖縄戦の描写となり、また現代を思わせるセリフまわしがあったりと、より一層時代設定が錯綜し、初見では状況把握が難しいかもしれせん。

 しかし、それによってこそ人類館に「展示」されている男女(無論、男女を監督する同化主義的言説を振りかざしたり、あからさまな差別・蔑視をする調教師風の男も含め)の表象する「琉球処分」から沖縄戦、米軍統治時代を経て現在に至るまでの沖縄の本質的な状況が浮かび上がってくるのであり、人類館そのものが沖縄であることが見え隠れし始めてきます。

 オンライン配信は今月21日までとなっています。ぜひご覧下さい。

 

令和3年2月13日 「花田家之墓」墓参

 花瑛塾「道統の祖」と仰ぐ故花田瑛一塾長の三十三回忌を間も無くに控え、花田塾長とそのご家族のねむる「花田家之墓」をお参りしました。

 花田塾長は昭和初期の東京に生まれ、私立大学に進学しますが、終戦直後の混乱の時代にあって中途で退学、その後は東京の渋谷で青春を過ごし勇名を馳せるとともに、昭和後期からは千葉の館山に道場を設け、多くの青少年の指導に当たりました。

 これまでも花瑛塾結成の周年や花田塾長の祥月命日にあわせて墓参を続けておりますが、今月で花田塾長がお亡くなりになって三十三回忌を迎えるにあたり、あらためて今後とも花田塾長を仰ぎ、範とし、挺身して参る旨を墓前にお誓いいたしました。

令和3年2月11日 紀元祭・神武天皇御陵遥拝式

 紀元節のこの日、神前にて紀元節をお祝い申し上げるとともに、紀元祭および神武天皇御陵遥拝式に参列しました。

 紀元節とは明治初期から終戦直後までの祝祭日であり、神武天皇の即位をお祝いするものです。『日本書紀』には神武天皇即位について「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治6年の太政官布告によって2月11日が神武天皇即位の日「紀元節」とされましたが、終戦後の昭和23年、GHQの意向もあり「国民の祝日に関する法律」の制定によって廃止されました。

 ところが昭和41年、2月11日が「建国記念の日」として祝日となり、「建国をしのぶ日」とされました。また戦前から紀元節を日本建国の日ととらえ、お祝いする向きもありました。

 しかし紀元節は神武天皇即位の日であっても、日本建国の日とすることは難しいのではないでしょうか。日本の建国はあくまでも瓊々杵尊の天孫降臨によるものであり、それは神武天皇即位以前のはるか遠い悠久の昔の出来事であるはずです。

 そうすると神武天皇即位とは「神武建国」ではなく、天孫降臨により建国された日本を神武天皇が中興なされた「神武中興」であり、紀元節の佳き日に神武天皇即位のお祝いを通じて、天孫降臨による日本の建国と、神武天皇即位による神武中興の大業をしのぶという意味での紀元節であり、建国記念の日と認識し直す必要があるのではないでしょうか。

 実際、紀元節制定に尽力した大国隆正や玉松操あるいは岩倉具視といった幕末・維新期の国学者や神道家、政治家も紀元節を建国の日とはしておらず、河野省三や平泉澄なども同様のことをいっている他、そのことは『日本書紀』以降の古代の文献や北畠親房らの中世の思想書・歴史書などにもあきらかにあらわれています。

 他方、歴史学の立場からは、神武天皇即位紀元は讖緯説に基づくものであり、推古天皇9年辛酉正月朔日から辛酉革命の起きる1260年ほど前倒しして設定されたともいわれております。そうすると推古天皇9年辛酉自体が聖徳太子など当時の人々にとって革命の年と考えられていたともいえるのであり、実際に十七条憲法の制定や隋との外交関係の確立など、推古天皇9年辛酉の年とその前後は国家の大変革の時期でもありました。

 神武紀元が推古天皇9年辛酉をもとにするとしても、そのころの国家の大変革もまたある種の建国として、また中興として、しのぶべきものともいえます。

 いずれにせよ天孫降臨による日本建国と神武天皇即位による日本中興、そして推古天皇9年辛酉という国家大変革という建国とその中興に関する様々な歴史と事情を学び、私たちはこれからの建国と中興と大変革へ歴史をつむいでいくべきではないでしょうか。

「国旗損壊罪」新設のための刑法改正に反対する(令和3年1月30日)

「国旗損壊罪」新設に反対する

 先般、高市早苗議員ら自民党の保守系議員グループのメンバーが同党下村博文政調会長を訪れ、「国旗損壊罪」新設のための刑法改正案の国会提出を申し入れ、了承された。

「国旗損壊罪」新設について説明する高市議員らと下村政調会長

 高市議員らはこれをうけ、今後各党に呼びかけ議員立法として国会への共同提出を目指すとしている。

 「国旗損壊罪」新設の動きは、今回が初めてではない。

 平成24年の民主党政権下において、やはり高市議員ら野党時代の自民党の保守系議員グループが中心となり、「国旗損壊罪」新設のための刑法改正案が国会提出されている。しかし同改正案は衆議院の解散総選挙などもあり、審議されないまま廃案となった経緯がある。

 今回も「国旗損壊罪」の成立は、微妙な情勢である。

 公明党も含め与党内には「国旗損壊罪」への疑義が根強く、高市議員らがそもそも改正案を国会提出にまでこぎつけることができるかどうかも不透明である。また仮に改正案が国会に提出されても、現在のコロナ禍の情勢で審議に付されるかどうかも判然としない。前回同様、廃案になる可能性は相当に高い。

 しかし、そうであったとしても、「国旗損壊罪」新設の動きそのものが大変危うく、また愚かしい。

 花瑛塾として「国旗損壊罪」新設にきっぱりと反対する。

「国旗損壊罪」の内容

 今回の改正案の内容も平成24年の改正案と全く一緒である。

 高市議員は月刊誌『正論』平成30年10月号において、刑法で「外国国章損壊罪」が制定されていながら自国旗の損壊を罰する「国旗損壊罪」が制定されていないことを問題視し、「このアンバランスを是正する」と述べているが、まさにその通り「国旗損壊罪」新設のための改正案は、刑法第92条の

外国に対して侮辱を加える目的で、その国の国旗その他の国章を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

という外国国章損壊罪に対応し、

日本国に対して侮辱を加える目的で、国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、2年以下の懲役又は20万円以下の罰金に処する。

との条文を新たに定めるというものである。

外国国章損壊罪と「国旗損壊罪」

 しかし外国国章損壊罪と自国旗の損壊を罰する「国旗損壊罪」は、対応関係にはない。

 なぜならば外国国章損壊罪は、刑法第4章「国交に関する罪」に属し、外国旗の損壊による当該国と日本の外交関係の悪化を避けるという保護法益がある。そういうこともあり、外国国章損壊罪には1項に引き続き2項として「前項の罪は、外国政府の請求がなければ公訴を提起することができない」と定めている。

 外国旗の損壊と自国旗の損壊は関連がなく、従ってバランスをとるようなものではない。両者は無関係なのである。

 それでは「国旗損壊罪」の保護法益は何であろうか。

 平成24年に改正案が国会提出された際も議論となったポイントだが、「国旗損壊罪」はこの点が明確ではない。

 高市議員は上掲『正論』で

立法者としての私の意図は(中略)「日本国の威信や尊厳を象徴する国旗に対して多くの国民が抱く愛情や誇りを、せめて外国国旗が保護されているのと同程度には守りたい」ということ

と述べているが、この言をもってしても結局のところ「国旗損壊罪」の保護法益は何なのか、一体誰のために何を守ろうとする罪状なのかはっきりしない。

 高市議員は上掲『正論』において、平成11年の国旗国歌法の制定の際に本当は国旗国歌への尊重義務を条文に加えたかったが、それでは当時の民主党の賛成を得られないため断念した経緯があるという。

 「国旗損壊罪」新設は、国旗国歌法の制定の不備の“リベンジ”とでもいいたいのか。

 国旗国歌法の制定にあたり、当時の小渕恵三首相が国旗国歌の強制は考えていないと国会で答弁しているが、「国旗損壊罪」は国旗尊重の強制であり、それは国旗国歌の強制への第一歩ともいえる。

 このように人々の思想良心の自由や表現言論の自由に大きく踏み込む危険のある法律を、曖昧でいい加減な説明のもと数の力でごり押しさせるようなことはあってはならない。

立法事実は何か

 また「国旗損壊罪」新設には、立法事実の面からも問題がある。

『正論』に掲載された高市議員の論考

 高市議員は上掲『正論』で、自国旗損壊の事例として、平成21年に鹿児島県内で開催された当時の民主党の集会において、2流(2枚)の国旗を切り貼りして急造された民主党旗が掲揚された事例と、平成15年に韓国で開催された「慰安婦」の集会で大きく×印が記された日本国旗の前で民主党議員が演説した事例をあげる。

 前者の民主党の集会で国旗が切り貼りされたことは、民主党側も事実関係を認め謝罪している。国旗を切り貼りするなど当然あってはならず、私たちとしても不適切と考えるし、不愉快である。しかし、これは「国旗損壊罪」にいう「日本国に対して侮辱を加える目的」による行為とはいえない。

 また後者の韓国で民主党議員が大きく×印が記された日本国旗の前で演説したという事例の詳細は不明であるが、よしそれが事実であったとしても、日本国旗に×印を記したことは韓国における韓国市民の行動であり、当然「国旗損壊罪」とは無関係である。

 このように国旗損壊の具体的な事例が存在しないのであれば、「法律を制定する場合の基礎を形成し、それを支えている─背景となる社会的・経済的─事実」といわれる立法事実もないと考える他ない。

 この点においても「国旗損壊罪」新設を認めることはできない。

ジョンソン事件と米国旗

 高市議員は上掲『正論』で「適用違憲の判例あり」と予防線を張りながらではあるが、米国は法律で米国旗(星条旗)への冒涜行為を禁じ、他方で外国旗への侮辱行為は禁じていないなどと、あたかも「国旗損壊罪」を国際的な常識かのようにいう。

 しかし、まさに高市議員が張った予防線通り、米国の最高裁は1989年のジョンソン事件において、反レーガンを訴える政治デモの際に米国旗を焼却したジョンソンが国旗への冒涜行為を禁じるテキサス州法をもとに有罪判決をうけたことについて、国旗焼却は合衆国憲法修正第1条が認める表現の自由の範囲内であるとし、テキサス州法の適用を違憲としている。

 たしかに一枚の布きれという意味での米国旗は、ジョンソンの手により火をつけられ、滅したかもしれないが、ジョンソン事件への対応は米国が自由と民主主義の国であることをあらためて国内外に示し、米国の統合を強めたものであり、そうした米国を象徴する存在としての米国旗は、それまで以上にその色味を増し、美しく輝き、不滅のものとなったといえる。

上塗りされ重ね塗りされ輝く国旗

 日本の国旗も同様である。

 昭和62年の沖縄海邦国体では、沖縄の読谷村に住む男が国旗を焼却する事件が発生した。男は事件について、沖縄戦をはじめ沖縄における国旗の歴史的意味を説いたが、そうした男の主張は裁判においても汲まれ、一審判決でも情状として酌量されたほどであった。

 事件により国旗は焼却され、滅したものの、事件を通じて多くの国民が沖縄戦の悲劇や沖縄における国旗の問題に気づかされ、それにより国旗には沖縄の悲しみや苦しみ、怒り、国旗に対する複雑な思いといった新たな色味が加えられた。国旗は事件により焼却されることにより、より歴史的な深みと重みのある国旗になったのではないだろうか。

 国旗は法律で保護された無機質で人工的なものではなく、否定的感情や肯定的感情の別なく多くの人々から率直な思いをぶつけられることにより、いわば絵画でいう上塗りや重ね塗りを施され、そうすることでその色味は重厚なものとなり、存在感を増し、陰影を富ませ、血を通わせ、象徴性を高めていく。今後、国旗が仮に冒涜行為に遭難したとしても、国旗はそれを上塗り重ね塗りの歴史的材料とし、日本の統合を示す輝きを増すであろう。

 かくて法律論的な意味においても、如上の花瑛塾の思想からしても、「国旗損壊罪」新設を認めることはできない。

 ましてこのコロナ禍である。政治家たちは罰則をもうけて国旗の損壊を取り締まる前に、国民・市民の暮らしを損壊する自らの政治を律したらどうか。

 「国旗損壊罪」新設に反対する。

令和3年1月26日 オンライン学習会「戦争孤児の実態から学ぶ沖縄戦」(沖縄県平和委員会)

 『戦争孤児たちの戦後史 1 総論編』(吉川弘文館)の共編著者であり、沖縄戦研究者として名護市史の編纂などにも携わった川満彰さんを講師とした講座「戦争孤児の実態から学ぶ沖縄戦」(主催:沖縄県平和委員会)がオンライン形式で開催され参加し、川満さんより「沖縄戦で生まれた戦争孤児─戦場の童・艦砲ヌ喰ェ残サー─」と題するお話を伺いました。

講師の川満彰さんの共編著書『戦争孤児たちの戦後史 1 総論編』

 沖縄戦では多くの子どもが犠牲となりましたが、当然生き残った子どもたちもいます。しかし、そうした子どもたちの両親も無事だったとは限らず、少なくない数の子どもたちが戦争孤児となりました。

 彼らは親戚や孤児院に引き取られるなどしましたが、統治者であった米軍は孤児院に食糧の提供はするものの積極的な監督をするわけでもなく、また琉球政府など行政が孤児たちの保護や調査を十分にするわけでもなく、孤児たちは戦後長く苦しい生活を余儀なくさせられました。

 また親戚や孤児院に引き取られることもなく、全くの孤児、いわゆる「浮浪児」となってしまった子どもたちも大勢いましたが、彼らに対する保護や調査も行われず、彼らはやむなく犯罪行為に手を染めて日々を生き抜かざるをえない状況に追いやられました。

 事実、沖縄戦により犠牲となった子どもたちの総数は正確にはわかっておらず、また戦争によって生まれた孤児の総数も正確には把握されていません。こうしたところに戦時下での子ども、あるいは戦後における孤児たちがいかに社会的に軽視されてきたかがあらわれていると思います。

米軍が沖縄戦の組織的戦争終結後にコザ孤児院で撮影したとされる写真(沖縄県公文書館所蔵)