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人々の暮らしの上に強制的に建設された普天間飛行場

 アメリカ軍海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)周辺における、アメリカ軍機の部品落下事故など、アメリカ軍機関連事故が多発している。つい先日、同飛行場の付近の普天間第二小学校にアメリカ軍海兵隊大型輸送ヘリCH-53Eスーパースタリオンの窓が落下する事故が発生した。また2004年には、同じく同飛行場の付近にある沖縄国際大学に同ヘリが墜落する重大事故も発生している。

1944年9月29日アメリカ軍撮影航空写真(赤枠内が神山集落)【国土地理院提供】

 普天間飛行場は、沖縄戦においてアメリカ軍が宜野湾・神山・新城などの集落を接収し建設された。集落の他にも、普天間飛行場内には宜野湾村役場や小学校などもあり、畑が広がり、カーといわれる井泉や御嶽など信仰の場もあった。戦中の航空写真には、現在の普天間飛行場内にあった神山集落の様子がはっきりとわかる。また現在の旧神山集落跡の航空写真を見ると、集落が普天間飛行場内に位置していることも見てとれる。これは宜野湾・新城などの集落についても同様である。

 アメリカ軍機関連事故を受けて、「何もない飛行場の周囲に人々が住み始めたのだ」といった言説が飛び交っているが、それはまったく倒錯した議論である。そもそも普天間飛行場は人々が暮らす集落をつぶし、そこので祭祀・信仰を破壊し、人々の故郷への愛着や記憶の上に建設されたものなのだ。「本土」のアメリカ軍基地はほぼ国有地など公有地に立地するが、普天間飛行場の敷地面積のうち民有地が占める割合は約90%となっていることも、普天間飛行場の建設経緯を示している。飛行場の周囲に人が住んだのではない。そもそも人の住んでいるところに飛行場がつくられたのだという基本線を確認したい。

 さらに沖縄全体にいえることだが、沖縄のアメリカ軍基地は比較的高地の居住性のよい場所に建てられている。戦後、アメリカ軍の収容所から解放された人々が故郷に帰るとそこはアメリカ軍の基地となっており、故郷という意味でも居住性という意味でも基地の周囲に家屋を建てるしかなかった。

現在の普天間飛行場の航空写真(赤枠内が旧神山集落跡)

 また普天間飛行場は、もともとはあまり激しい訓練が行われなかった比較的静かな飛行場であり、人々は飛行場周囲に定住していった。しかしハンビー飛行場(北谷町)が1976年に返還されると同飛行場所属部隊が普天間飛行場に移転するなど普天間飛行場の基地機能はすこしずつ強化され、騒音や墜落の危険性が高まっていったのである。既に1970年代にはアメリカ軍は普天間飛行場の危険性を認識しており、この危険性の除去を怠ってきたのはアメリカ軍と日本政府なのである。

 普天間飛行場内には遺跡も多数ある。戦前・戦中はいうまでもなく、古来よりそこに人が住んでいたのである。そして集落を追い出されたがため、戦後も飛行場の周囲に住まざるを得なかった罪のない住民を指弾するのではなく、人々の住むなかに飛行場をつくり、さらにその危険性を認識しつつも根本的な解決をはかろうとしなかったアメリカ軍や日本政府を批判するのが議論の本筋であることはいうまでもない。