令和2年10月26日 「伊藤博文公墓所」墓参

 伊藤博文が安重根に射殺されて111年の今日、昨年に引き続き東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓「伊藤博文公墓所」墓参しました。

「伊藤博文公墓所」 普段は公開されておらず閉門となっている

 明治42年(1909)10月26日、今から111年前のこの日、中国黒竜江省ハルビン駅において、前韓国統監の伊藤博文が安重根により射殺されました。伊藤の葬儀は国葬となり、西大井の伊藤の別邸が墓所となり葬られました。

 伊藤を射殺し逮捕された安は、明治12年(1879)に黄海道海州府で地方名士の家に生まれ、甲午農民戦争では義兵として農民軍の鎮圧を行った経歴もありますが、日露戦争をきっかけに日本の朝鮮支配が進展すると韓国の独立のため愛国啓蒙運動を展開し、国際世論に韓国の現状を訴えるなどの活動を展開するようになりました。しかし第三次日韓協約による韓国高宗の廃位や韓国軍の解散などの出来事を契機に義兵闘争に身を転じ、最終的に伊藤暗殺の挙を敢行することになります。

 伊藤暗殺により捕えられた安は、その後短期間のあいだに処刑されますが、取り調べにおける厖大な供述や獄中で執筆した『安應七歴史』という自叙伝、未完に終わった『東洋平和論』などで自己の思想を述べ、事件の意義について語っています。

 安は伊藤暗殺の理由について第三次日韓協約の問題を指摘し、伊藤は「大韓独立主権侵奪の元凶」だと述べています。他方、安は自身の挙を反日や韓国独立といった意義のみならず、東アジアの帝国主義的現状から東洋の有志の青年の精神を覚醒させるものであり、日本対韓国の関係にとどまらず、東アジアにおける歴史的事件と位置づけられるものとしています。

 安のこうした東洋平和の思想は、ある種の「積極的平和主義」ということができます。伊藤もまた東洋平和の思想を有していましたが、それは武装平和主義であり、ある種の「消極的平和主義」といえます。

 東アジアの帝国主義の混乱が最終的にどうなったのか、さらに伊藤はじめ大日本帝国の東洋平和(武装平和主義、消極的平和主義)が最終的にどのような破局を迎えたのかを思う時、安の東洋平和の思想の確かさを知ることができます。

 安による伊藤射殺から1世紀以上もの時がたった今、怨讐を越え、安と伊藤の思想を再検討するなかで、安の東洋平和の思想の重要性は知られていくべきではないでしょうか。

伊藤博文の墓

 また安の人間性については、大変立派なものであったといわれています。伊藤暗殺の場に居合わせた満鉄理事の田中清次郎は事件後、これまで出会った人のなかで一番立派だと思う人物は誰だと聞かれると、すぐさま「それは安重根だ」と答えたといいます。田中は安による伊藤暗殺の瞬間、そしてその後の安の立ち居振る舞いを見て、そのように感じたそうです。

 戦後神社界を代表する言論人の葦津珍彦も安を「民族英雄の名にふさはしい、烈々たる信念のつよい志士で、その最後の処刑にいたるまでの進退行動は、文字どほり毅然たる国士の風格がいちじるしい」と評価しています。

 こうした安の人間性、国士・義士としての風格についても今少し知られてもいいのではないでしょうか。

令和2年10月21日 「出陣学徒壮行の地」記念碑、わだつみのこえ記念館

 77年前の今日、神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開催されました。例年、この日は神宮外苑に建つ「出陣学徒壮行の地」記念碑を訪れますが、今年は神宮外苑一帯が東京オリンピックの工事のさなかであり、記念碑が工事用の囲いで覆われているなど訪れることが難しいため、戦没日本人学徒の遺稿集『きけわだつみのこえ』の原資料などを所蔵・展示しているわだつみのこえ記念館を訪れました。

わだつみの声記念館の入口に掲げられているモニュメント

 先の大戦下、兵役法では中学校以上の学校在籍者の徴兵延期が認められていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴兵延期制を廃止し、この年の年末には文系大学の学生など徴兵検査をおこなった学生約10万人が軍に入営しました。

 徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。また各大学では、例えば國學院大學が10月14日、法政大学では15日など、21日までにそれぞれ壮行会が開催され、関西地方でも学徒出陣の壮行会が開催されるなどしましたが、こうした学徒出陣を記念するため、壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。

 学徒出陣によって下級将校となった学徒たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちからは徹底的に差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒出身の将校であり、学徒出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。

 こうした戦没学徒の遺稿集が『きけわだつみのこえ』であり、わだつのみのこえ記念館には、遺稿や遺品が所蔵・展示されています。

「出陣学徒壮行の地」記念碑(昨年撮影)

 また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、学徒兵とともに少年兵も積極的に動員されました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。

 当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。

 忘れてはならないのは植民地であった朝鮮、台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員されたことです。出陣学徒壮行会から約1ヶ月後の昭和18年11月30日、日比谷公会堂において「特別志願」に基づく朝鮮・台湾出身の在日学徒の学徒出陣の壮行会が開催されています。

 特別志願といっても、当時の文部省は各学校に対し、志願しない学徒には休学・退学措置を命じるなど、事実上の強制でした。また当時の新聞も「半島学徒へ決起運動」などの見出しの記事を掲載し、在日学徒へ軍に「志願」するよう煽りました。

 日本人学徒の学徒出陣、そして少年兵の戦争動員という歴史的事実を忘れてはなりませんが、朝鮮・台湾出身の学徒出陣という「もう一つの学徒出陣」もけして忘れてはならない歴史的事実であるはずです。

朝鮮出身学徒兵の入隊を伝える1944年1月の朝鮮総督府機関紙 聯合ニュースより

中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬についての見解(令和2年10月15日)

 来たる10月17日、令和元年(2019)11月に亡くなった中曽根康弘元首相の内閣・自由民主党合同葬がおこなわれる予定となっている。

101歳で亡くなった中曽根康弘元首相

 中曽根元首相の合同葬は、もともとは本年3月におこなわれる予定であったが、コロナの感染拡大にともない延期となっていた。

 ところが、延期されていた合同葬が10月17日にあらためておこなわれることや、合同葬の予算の半額である約1億円が政府予備費から支出されることが明るみになった本年9月以降、合同葬に対する社会的な批判の声が高まった。

 元首相の内閣・政党合同葬など一定の公職者の公的な葬儀そのものを一切おこなってはならないというつもりはない。これまでも元首相の内閣・政党合同葬や国会議長の議院葬など各種の公的な葬儀はおこなわれており、例えば平成30年の翁長雄志前沖縄県知事の県民葬など非常に感動的で後世まで語り継いでいきたい公的な葬儀があったことも事実だ。

コロナ禍のなかで

 しかし、公的な葬儀は、そうであるからこそ、広く国民の理解や納得に基づくものでなければならない。このたびの中曽根元首相の合同葬も、そもそもコロナの感染拡大にともない延期された経緯からしても、コロナ禍という現在の社会情勢とそこにおける国民感情をよく考慮しておこなわれるべきだ。

 今なお連日数百人単位でコロナ感染者が出ており、亡くなる方も少なくない。多くの人々がコロナ禍で外出制限を強制され、それにともない商店・企業が売り上げを落とし、倒産・廃業などの件数も上昇した。コロナ関連の解雇・雇止めも現在では6万人を超える状況となっている。

 そればかりではない。コロナの感染を防ぐため、入院患者へのお見舞いを制限する病院もあり、重篤な病により入院中の肉親を満足にお見舞いすることができないまま永遠の別れを迎えた家族もある。また、そうして亡くなった肉親の葬儀もコロナのために十分におこなうことができず、ごくごく近親者のみで簡単に済まさざるを得なかった事例もある。

 そうしたなかでのこのたびの中曽根元首相の合同葬。あまりに時宜ふさわしからず、社会的な批判や疑問視、あるいは不満の声が高まるのは当然といえよう。

合同葬の予算への批判について

 合同葬への約1億円の政府予備費の支出についても、予備費は全額コロナ対策へ宛てることを野党が求めていた経緯や、これまでの政府のコロナに関する経済対策の不十分さもあり、予備費10兆円のうちの1億円とはいえ、「その1億円があれば他に助かった命もあったというのに」という社会的な怒りが沸き起こるのも理解できる。

 一部では「合同葬に関する約1億円の予備費支出は当然だ」、「そんなことで不満が出るのは日本が貧しくなった証だ」などとあたかも合同葬や合同葬への予備費支出への批判を「庶民のひがみ」とでもいわんばかりの冷笑・嘲笑も散見されるが、合同葬や合同葬に関する予備費支出の問題はそのような低俗なものではなく、つまるところ現前のコロナ禍という社会情勢のなかでのあまりに無能かつ酷薄な政府のあり方への批判や不満、不信、あるいは新自由主義・自己責任社会を目指す菅首相の政治姿勢への批判などに基づくものであり、人々の「根底的な怒り」を見ていかなければ批判の意味も理解できないだろう。

弔意表明の求めと人々の警戒

 また、このたびの合同葬に関し、政府は関係機関に弔旗の掲揚や黙とうの実施など、弔意表明を求めている。これにともない文科省が全国の国立大学などに弔意表明を求めたことも明らかとなった。

過去の内閣・自民党合同葬(宮沢喜一元首相)の様子

 こうした政府による弔意表明の求めは、過去の首相の合同葬でもおこなわれており、中曽根元首相の合同葬においてだけ特別に政府が弔意表明を求めているわけではないことには留意したい。

 政府による合同葬での弔意表明の求めにあたり、明治天皇の崩御にともなって弔旗掲揚の方法としてさだめられた大正期の閣令「大喪中ノ國旗掲揚方ノ件」(大正元年7月30日閣令第1号)も周知されているが、これも例えば小渕恵三元首相の合同葬や東日本大震災の追悼式などで政府が関係機関に弔意表明のやり方として周知しているものでもあり、殊更に何かということはない。

 ただし、それではなぜこのたびの合同葬での政府による弔意表明の求めに対し、社会的な批判の声が高まっているのかということも考える必要があるだろう。

 それは、そもそも政府による弔意表明の求めが人々の内心の自由を侵害するおそれがあることや、これまで述べてきたようなコロナ禍との関連における政府への批判・不信に基づいていることはいうまでもないが、そればかりではなく、最近の日本学術会議の会員任命について特定の人物の任命を政府が拒むなど、菅首相によるファッショ的統制が進むなかで、政府による弔意表明の求め、すなわち政府による内心の自由の侵害、介入に対する警戒が強まっているからともいえる。

国民の理解に基づく公的葬儀を

 いずれにせよ、現在のコロナ禍という社会情勢とこれに対する無能かつ酷薄な政府の対応という政治のありように対する社会的批判・不満・不信が根強くあり、さらに菅首相の新自由主義・自己責任社会への志向、そしてファッショ的統制が進行するなかでは、このたびの合同葬に対する国民的な理解や納得は得られない。そして国民的な理解や納得に基づかない公的な葬儀はありえない。

 過ちをあらためることをためらう必要はない。今からでもこのたびの合同葬の時宜、あり方を再考すべきだ。「もう決めたことだから」、「今までやってきたことだから」という言い訳は通用しない。そうした“悪しき前例主義の見直し”は、菅内閣のスローガンであったはずだ。

令和2年10月14日 國學院大學学徒出陣壮行会77年 「学徒慰霊之碑」拝礼

 國學院大學で学徒出陣壮行会が開催されて77年の今日、國學院大學構内にある「学徒慰霊之碑」をお参りしました。

慰霊碑と歌碑(右)

 昭和18年10月、戦況の悪化により徴兵延期が廃止となり、その年の年末までに各大学の文系学生ら約10万人が徴兵検査をうけ、軍に入営しました。いわゆる学徒出陣です。

 徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われましたが、各大学ではそれ以前に大学ごとの壮行会が開催される場合もあり、國學院大學では同年10月14日、77年前の今日、壮行会が開催されました。

 國學院大學の学徒慰霊之碑は、そうした学徒出陣などで亡くなられた國學院大學の学生ら437人をお祀りしてます。慰霊碑の横には、戦没学徒を詠んだ折口信夫の歌碑も建立されています。

 なお例年、学徒慰霊之碑の前で学生有志を実行委員会とする國學院大學戦没先輩学徒慰霊祭が執り行われています。

 同慰霊祭は今年で50回目の節目を迎えますが、今年は折からのコロナ禍のため御遺族含め一般参列はなく、慰霊祭実行委員会と祭典を奉仕した学生団体の学生、教職員らごく少数の関係者で慰霊祭が執り行われたそうです。

令和2年10月12日 浅沼稲次郎没後60年 「浅沼稲次郎之墓」墓参

 日本社会党委員長浅沼稲次郎氏没後60年の今日、昨年に引き続き浅沼氏のねむる「浅沼稲次郎之墓」を墓参しました。

 浅沼氏は明治31年に三宅島に生まれ、早稲田大学に入学しました。早稲田では社会主義思想を信奉し、雄弁会で活動しました。そして卒業後は社会運動の道を進むようになりました。

 社会運動家としての浅沼氏は官憲による徹底的な弾圧をうけ、関東大震災では「主義者」として陸軍に連行され、暴行をうけることなどもありました。

 そうしたなかで浅沼氏は昭和11年、衆議院議員選挙に当選します。以後、紆余曲折あり、一時は議員の道をあきらめることもありましたが、戦後も一貫して政治家として活躍しました。「革新の旗手」といわれるほどの強い信念の持ち主であり、また「演説百姓」といわれるほど貧しい暮らしをしながら日本各地を遊説し続けましたが、昭和35年10月12日、今から60年前の今日、右翼少年山口二矢に刺殺されました。

 浅沼氏の墓は多磨霊園内にあり、妻享子氏とともに眠っています。「人間機関車」ともいわれた浅沼氏の大きな体と闘魂をあらわすように、浅沼氏の墓は非常に大きな墓でした。

 浅沼氏の墓を清掃し献花、しばし浅沼氏に慰霊・鎮魂のまことを捧げました。

 なお浅沼氏刺殺事件当時、神道言論人葦津珍彦は事件を繰り返し論じ、古今東西の「政治と暴力」の問題について考究していますが、一方で「人間浅沼の命を断つことの道徳責任」についてもしっかりと視点を置いて議論しています。

葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁

令和2年9月28日 安田善次郎刺殺事件99年 安田善次郎旧別邸「寿楽庵」見学、「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参

 大正10年(1921)9月28日、今から99年前の今日、大磯にある安田財閥総帥の安田善次郎の別邸「寿楽庵」に神州義団々長の朝日平吾が訪れ、安田を刺殺した上で朝日も自ら命を絶つ事件が発生しました。安田善次郎刺殺事件、朝日平吾事件などと呼ばれています。

寿楽庵の一角

 朝日は宗教運動や社会運動、社会事業を志ながらもうまくいかず、鬱々とした日々を過ごしていましたが、最後の事業として困窮した労働者を救う「労働ホテル」の建設を目指し、企業経営者や有名人のもとを訪れ、寄付を求めていました。ただし、労働ホテルの建設は、朝日が長を務める神州義団の運営費を集めるための寄付の表向きの名目でした。

 そうしたなかで朝日は安田のもとを訪れ寄付を求めたものの断られたため、事件に及んだといわれています。

 当時の安田は世間から大変な吝嗇家と思われており、事件後も安田への同情は小さいものでした。実際の安田は東大安田講堂はじめ様々な寄付・寄贈をしていたものの、それについてあまり知られることもなく、戦後恐慌の中で自分の儲けばかり考えている「奸富」「守銭奴」として、世間のうらみを買っていました。

 他方、安田を刺殺した朝日が当時の民衆、メディアから熱烈に英雄視されたかというと、けしてそうともいえず、朝日は一部からある種の狂人や政治ゴロ扱いされることもありました。

安田家累代墓

 いずれにせよ、朝日による安田刺殺は、このころよりあらわれる大正維新論、そこにおいて原型が形成されていく超国家主義・国家改造運動の先駆的なものと位置づけられ、昭和維新運動につながっていくものと理解されています。

 一方、最近の研究では、朝日が事件において名乗った神州義団と「神祇道」といわれる神州義団の理念との関連も注目され、「国家ノ宗祀」神社神道といわゆる「ネオ国教」論を結合させた「神社-ネオ国教」論の一類型とされる「神祇道」の宗教的情熱に基づく神道的な国民教化が朝日の描く理想社会のイメージの一角にあったのではないかとされ、超国家主義運動のはじまりとしての大正維新と神社神道の関連性、超国家主義の展開の中における神社神道のシンボル性の変遷なども検討されています。

 なお、朝日は安田刺殺にあたり、「斬奸状」と「死の叫声」と題する犯行声明文および遺書を残しているとともに、北一輝らに宛てた手紙をしたためています。朝日の行為は北の影響下にあったともいえるものであり、これにより北は朝日に思慕された人物としてカリスマ性を高めていきます。

 そればかりか朝日による安田刺殺は、その後の安田共済保険と安田保全社が争った安田共済生命事件においても影響をおよぼし、安田共済保険側について安田保全社と交渉した大川周明と、別ルートから安田保全社に近づき安田保全社から報酬をせしめた北、また大川と北の間に入ってさらなる報酬を得ようとした清水行之助も、それぞれ朝日による安田刺殺事件が直接間接のバックボーンであったといわれています。

朝日平吾之墓

令和2年9月24日 西郷軍壊滅の日 南洲西郷隆盛「留魂祠」参拝

 西南戦争での城山の戦いで西郷軍が壊滅したこの日、洗足池湖畔に鎮座する南洲西郷隆盛「留魂祠」を参拝しました。

留魂祠

 明治10年(1877)にはじまった西南戦争は熊本城攻略戦や田原坂の戦いなどを経て、西郷軍は鹿児島・城山に籠城し、この日最後の攻撃を敢行し、西郷隆盛が自刃するなど西郷軍は壊滅しました。

 江戸無血開城などで西郷と知己にあった勝海舟は、西郷の死を悼み、西郷の漢詩を刻む石碑を建てるとともに「留魂祠」を建て西郷の魂魄を招魂して祀りました。

 石碑と祠は当初、葛飾の薬妙寺内にありましたが、勝没後、勝の遺志により洗足池湖畔の勝夫妻の墓の横にうつされ今日に至ります。

 神道言論人葦津珍彦は「永遠の維新者」のなかで、近代国家の軍に対し市民軍必敗の法則を解説し、西郷軍に勝算のなかったことを冷徹に指摘しつつも

西郷の死は、旧時代の最後なのではない。中道の俗流ゴールに決して定着することなく、永遠の維新を目ざして戦う戦士の心中に猛進の精神をふるい起こさせる英雄詩である。永遠の維新には敗北もなければ挫折もない。

「永遠の維新者」の情念は、事にふれ、折にふれては生きつづけて、明治史の理想と現実の底流に大きな影響を及ぼしていった。明治史だけにとどまらない。それはいまもなお日本人の心の底に、消えることなき埋火のごとく生きつづけているのではないか。

 と西郷と西郷軍の英雄詩を称えていますが、私たちもこの英雄詩を忘れず継承していきたいと思います。

令和2年9月14日 自民党総裁選、菅義偉新総裁に物申す!

 安倍首相の突然の辞意表明をうけ、自民党は今日14日、両院議員総会を開催し、安倍政権で長く官房長官を務めた菅義偉氏を新総裁に選出しました。私たちは菅新総裁の選出をうけ、菅新総裁が自民党本部で行う記者会見の時間にあわせ、自民党本部前にて声をあげました。

 今回の自民党総裁選は、全国の一般党員による投票を認めず、国会議員と都道府県連による簡易型の総裁選となっており、総裁選のあり方の妥当性・正当性については、自民党内からも疑問が呈されています。

 派閥の領袖が党内を牛耳り、今後のポストの分配を念頭に党内で権力闘争が行われ、組閣名簿が飛び交い、猟官運動が公然と行われ、その一方で党員の声が平然と無視されるかたちで強行された今回の総裁選は、まさしく今後首班指名選挙と天皇陛下の任命のもとで成立する予定の菅新内閣が派閥領袖の動向を伺い、また財界など一部の利害関係者の意向を優先し、国民の声を平然と無視する政治を行うであろうことを示唆しています。

 そうして示唆された今後の菅新内閣の政治姿勢は、言うまでもなく、これまでの安倍政権・安倍政治の継続であり、菅新内閣とは、安倍政権・安倍政治の劣化コピー、あるいは安倍政権・安倍政治の負の部分を純化・強化させたものといえるのではないでしょうか。

 実際に、菅新総裁は、総裁選において、安倍政権の政策を高く評価し、アベノミクスなど安倍政権の政策を継承するといっています。森友・加計・桜を見る会などの問題についても、「丁寧さが求められている」などといいつも、けして再調査の必要を認めようとしていません。

 そもそも菅新総裁自身が第二次安倍政権で一貫して官房長官を務めてきたわけであり、菅新内閣は、安倍首相なき安倍政権であり、菅新総裁を担ぎ上げた「第三次安倍政権・第一次菅新内閣」とでもいうべきものです。

 沖縄の米軍基地問題についても、安倍政権は沖縄の基地負担軽減に取り組むといいつつ、県民が猛反対するなかで辺野古新基地建設を推進し、翁長前沖縄県知事に冷酷な態度をとるなど、まるで「沖縄いじめ」とでもいうような対応を繰り返してきましたが、菅新総裁は官房長官兼沖縄基地問題担当大臣でもあり、そうした「沖縄いじめ」の張本人であったといえます。そうしたなかで、菅新内閣が、沖縄の基地問題への方針をこれまでのものから根本的にあらため、沖縄の意向を汲んだ政策を行うとはとても思えません。

 菅新内閣を短命で終わらせ、約8年も続いた安倍政権・安倍政治を根本的にあらため、終止符をうたねばなりません。

自民党本部前にて

 そのために大事なことは、民主主義を機能させるということです。

 安倍政権は、国会を開会しないなど国会から逃亡し、公文書を改ざんし、様々なデータや数値を偽り、メディアを統制し、人々の声を押し潰すなど、民主主義を機能停止させ、それによって追及をかわして超長期政権を築いていきました。菅新総裁はそうした安倍政権のナンバー2であり、自身も官房長官会見で記者の質問にまともに答えようとしないなど、民主主義の機能停止に加担してきた人物です。

 当然のことながら、菅新内閣も同様に民主主義を機能停止させ、政権の安定をはかることでしょう。既に菅新総裁の総裁選出馬会見において、記者会見のあり方について質問した記者を嘲笑するかのような返答をしたり、首相の国会出席の頻度を見直すような発言をしています。

 求められているのは、メディアが権力と癒着せず、適切な距離感を保ち、しっかりと調査報道を行い、権力を監視し、政権を批判していくことにより、民主主義を機能させていくということです。上述の菅新総裁の総裁選出馬会見における記者の質問への嘲笑に対し、大手メディアが一緒になって笑っていた事実は、大変深刻なことです。

 コロナ禍のなかで市民が声をあげ権力を追及するのは大変難しい状況にあります。権力を監視するメディアのあり方は、今こそ問われています。権力と共犯関係になり、人々の声を無視し、これを押し潰し、パンケーキや苦労人などといって世論をミスリードするような報道であれば、メディアもまた厳しく批判、追及される必要があります。

 政治は政治として、メディアはメディアとして、人々は人々として、その本分を尽くし、民主主義を機能させていくこと。そのなかでこそ滅びるべきものは滅び、残るべきものは残っていくことでしょう。

 私たちは今後もそうした立場から声をあげ続けていく覚悟です。

令和2年9月13日 乃木静子・乃木希典夫妻墓参

 乃木静子および乃木希典夫妻の殉死より108年の今日、青山霊園内の乃木夫妻と乃木一族の墓をお参りしました。

 大正元年(1912)9月13日、崩御した明治天皇の大喪の礼がおこなわれたこの日の夜、乃木夫妻は自邸にて殉死しました。毎年、乃木夫妻の命日であるこの日に乃木神社で例祭がおこなわれるとともに、墓所にて墓前祭がおこなわれています。

 乃木夫妻の殉死は、当時においても新聞紙上や街々の噂で時代錯誤として悪くいわれることもありました。また白樺派などの新思潮や芥川龍之介なども乃木夫妻の殉死を批判しましたが、他方、森鴎外や夏目漱石などはこれを重く受け止め、文学作品のテーマとするなどしています。

令和2年9月12日 伊藤野枝・大杉栄・橘宗一墓前祭

 関東大震災時、憲兵により虐殺された女性解放運動家でアナキストの伊藤野枝、伊藤と事実上の夫婦関係にあったアナキストの大杉栄、そして大杉栄の甥の橘宗一を弔う墓前祭が「大杉栄之墓」(静岡市・沓谷霊園)にて営まれ、参列しました。

墓前祭がおこなわれた大杉栄之墓

 伊藤や大杉らは震災発生後の9月16日、東京憲兵隊に拘引され、憲兵大尉の甘粕正彦らによる激しい暴行をうけた後に扼殺され、憲兵隊の敷地の古井戸に捨てられました(甘粕事件)。

 事件は当時においても新聞報道などで話題となり、軍は厳しく批判され、震災への対応により市民から感謝や好意を寄せられていた軍の評価も大きく下がったといわれています。

 関東大震災時、軍や官憲により中国人労働者や朝鮮出身者が殺害されたことはよく知られていますが、甘粕事件のように伊藤や大杉などアナキスト、あるいは労働運動家なども組織的に虐殺された事実を語り継いでいきたいと思います。

荒畑寒村による碑文

 なお余談ながら、伊藤野枝は代準介を通じて玄洋社の頭山満から援助をうけていたり、戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は若きころ大杉栄の論著に影響されてアナキズムに関心を持つなど、在野右翼と不思議な接点があります。

 また在野右翼の側も震災時の朝鮮出身者虐殺において、虐殺を逃れた朝鮮出身者から助けを求められ、これを匿い守ったという出来事もありました。

 私たちも先人の精神を継承し、思想信条が異なるものとも迎合ではなく互いに認め合い、かつ弱い立場にあるものは誰であろうとも守るという正統派でありたいと思います。