令和3年9月13日 乃木夫妻殉死の日 乃木静子希典夫妻墓参、乃木神社参拝

 乃木静子、乃木希典夫妻の殉死より109年の今日、青山霊園内の乃木夫妻と乃木一族の墓所をお参りするとともに、乃木夫妻を祭神としてお祀りする乃木神社をお参りしました。

乃木夫妻のお墓と墓前祭の祭壇

 大正元年(1912)9月13日、崩御した明治天皇の大喪の礼が行なわれたこの日の夜、乃木夫妻は自邸にて殉死しました。殉死後、乃木邸内には夫妻を祀る小祠が創建され、これをもとに大正11年に乃木神社が創建されます。そして乃木神社では毎年夫妻殉死のこの日、例祭が執り行われるとともに、墓所にて墓前祭が執り行われています。

 乃木夫妻の殉死は、当時においても新聞紙上や街々の噂で時代錯誤として悪くいわれることもありました。例えば、乃木夫妻の殉死後に発行された「時事新報」には、乃木が自ら命を絶つとすれば、多くの犠牲者を出した日露戦争後に死ぬべきであったと批判する同紙主筆石川幹明の記事が掲載されるなどしています。それ以外にも、白樺派などの新思潮や芥川龍之介らが乃木夫妻の殉死を批判しました。

 他方、森鴎外や夏目漱石などは、乃木夫妻の殉死を重く受け止め、文学作品のテーマにしています。また石川啄木は、殉死以前から「予の畏敬措く能はざる真骨頂漢乃木将軍」と乃木を称賛していました。

 西南戦争で軍旗を奪われたり、日露戦争で我が子を失うという悲劇、そうした影の部分が乃木の名声にかえって光彩を与える結果となり、それは日露戦争の勝利とその後の三国干渉での屈辱という当時の日本が置かれていた姿と重なり合っているという指摘もあります。

乃木神社

 なお乃木家は、長州藩の支藩である長府藩の藩士ですが、そのルーツをたどると、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本に連行された朝鮮の捕虜(被虜)に行き着くとの指摘があります。実際に長府藩の藩士の家の由緒をまとめた「藩中略譜」や関連の家系図には、乃木家の始祖として「朝鮮国ノ人」「朝鮮国之人」と記されています。

 近世において、乃木家のように、被虜をルーツとする武士は少数ながら実在しました。そして彼らは、朝鮮民族としてのアイデンティティーを失わず、「略譜」にあるようにむしろそれを内外に主張していました。また朝鮮のルーツを正確に記す「略譜」の存在は、彼らがそのルーツにより公然と差別や蔑視されることがなかったということを示しています。

 一方で明治後期より乃木家は、朝鮮がルーツであることを示す家譜を書き換えますが、問題は乃木ないし乃木家のルーツが何かということではなく、日本の歴史のある時期のある一定の領域においては、朝鮮民族や朝鮮民族をルーツとすることがけして差別や蔑視の対象ではなかったということにあります。

 日清日露と日本の対外戦争は、朝鮮や中国に対する日本人の蔑視や差別感情を強める要因にもなりましたが、その対外戦争で活躍した乃木のルーツと古来の日本の朝鮮観から学ぶべきことは多いと思います。

令和2年9月13日 乃木静子・乃木希典夫妻墓参

菅首相、退陣へ─政治的に「破産」した菅政権を乗り越え、野党の共闘で政権交代を─(令和3年9月3日)

 菅首相は今日3日、自民党臨時役員会において、同党総裁選への出馬の見送りを表明した。事実上の退陣表明であり、昨年9月16日に発足した菅政権は、ついに終焉を迎える。

記者会見での菅首相:週刊女性2021.8.5

 もともと菅首相は、総裁選への出馬を表明しており、引き続き政権を担うつもりであった。しかし急降下を続ける内閣支持率や横浜市長選挙など各種選挙の敗北もあり、政権の求心力は低下していた。自民党岸田文雄前政調会長も総裁選への出馬を表明しており、同党中堅若手ばかりでなく派閥領袖クラスも含め党内は動揺し、新しい「顔」を求め権力闘争が展開されていた。

 菅首相も総裁の座にしがみつき、政権を延命させるため、権力闘争の渦中でなりふり構わぬ攻勢を仕掛けていた。

 そもそも菅首相の狙いは、パラリンピック閉幕後ただちに解散総選挙を行い、総裁選を無投票で乗り切るものであった。それが難しくなり総裁選の日程が組まれた後もなお、解散総選挙を行い総裁選を吹っ飛ばすことを目論んでいた。

 また岸田前政調会長が党役員の任期を1期1年連続3期までとし、二階幹事長の事実上の更迭を主張し党内の支持を得ると見るや、対抗するように二階幹事長の交代を含む党役員人事の刷新、さらには内閣改造まで行おうとした。

 しかし解散総選挙により総裁選を吹っ飛ばすこともままならず、最後はこの人事の問題が退陣の決定打となった。求心力を失い、泥舟と化した菅首相の周囲から人は離れ、党役員就任を求めても誰も受けなくなっていった。幹事長の受け手も見つからず、さりとて二階幹事長を続投させるわけにもいかず、全てが行き詰まり、政権の座を投げ出さざるを得なくなったのである。

 こう聞くと、自民党内の権力闘争により菅首相が退陣に追い込まれたかのようであるが、けしてそうではない。もちろん直接的には党内の権力闘争の結果であるが、わずか一年前に圧倒的多数の支持を得た菅首相を追い込んだのは、ただの権力闘争の力学だけでない。先に述べた内閣支持率の低下、選挙の敗北といった菅政権への人々の強い不満や不信感が菅首相のままでは自民党が持たない、有権者の審判に堪えられないという党内の危機感を生み、権力闘争につながっていったのだ。

 現実に各社の選挙予測の結果は、自民党の単独過半数割れを示している。ただの権力闘争ではなく、政権交代、自民党下野という切羽詰まった情勢がそこにあった。

 それほどまでの菅政権への人々の強い不満や不信感は、言うまでもなく菅政権発足直後の学術会議会員の任命拒否に始まり、汚染水海洋放出の決定、沖縄基地問題、無為無策のコロナ対策、五輪パラの強行、アフガン撤退問題など、菅政権の数々の失政悪政によるものである。

 つまり菅政権は、自らの失政悪政により行き詰まったあげく、ワクチン接種さえ進めば大丈夫、五輪をやれば政権が浮揚する、党役員人事を刷新すれば、内閣改造をやれば、解散総選挙を行えば、などと空手形をきりまくり、結局は進退窮まってどうにもならず、政治的に「破産」したのである。

安倍前首相の「意中の人」とされる岸田氏が政権を担っても、根本的には安倍政権の踏襲となろう:ハフポスト2020.9.1

 菅首相は、今月29日の新総裁選出をもって総裁を交代し、首相も辞任するとのことだ。その後は、おそらくただちに首班指名選挙、組閣、天皇陛下による任命と続き、時期を見て解散総選挙となると見られる。

 安倍前首相の辞意表明後、なぜか「お疲れ様相場」で内閣支持率が上がった。そして菅政権発足後も「ご祝儀相場」やパンケーキだ何だとのメディアによる囃し立てにより内閣支持率は好調であった。今回もおそらくそのようになり、新総裁新首相は好調な内閣支持率のまま総選挙を迎えるであろう。

 自公政権が続く限り、安倍政権そして菅政権と続いてきた失政悪政の連続は、根本的にはかわらない。政権交代しかない。

 あらためて野党は共闘し、連合政権の政権構想を高々と掲げ、選挙協議をし、政権交代を実現しなければならない。

 奇しくも明日9月4日は、あの悲しむべき沖縄少女暴行事件から26年の日である。自民党の「顔」がかわっただけでは、沖縄の基地負担はかわらない。新基地建設は止まらない。共闘の力で政権交代を実現しよう。

令和3年9月1日 米海兵隊による普天間飛行場からのPFOS汚染水の放出について米国大使館に抗議

 8月26日、在沖米海兵隊は、普天間飛行場内で保管していた発がん性が疑われている有機フッ素化合物PFOSなどを含む汚染水を下水道に放出しました。この米軍の横暴に対し、沖縄県内では県民の怒りが募っていますが、私たちも米国大使館前にて抗議の声をあげました。

米国大使館前にて

 今回、米軍が放出したPFOS汚染水は、約6万4000リットルといわれています。なぜ米軍がこれほど大量のPFOS汚染水を保管していたのかよくわかっていませんが、在沖米軍施設で使用されている泡消火剤にPFOSなどの含有が指摘されており、それとの関連が考えられます。

 米軍は、PFOS汚染水について、これまで業者に処分を委託していたが財政負担が大きいとして、今年7月に入り日本側へPFOS汚染水を希釈処理した上で下水へ放出したいと打診してきました。沖縄県や普天間飛行場のある宜野湾市はもちろん、防衛省も放出しないよう米軍に求め、PFOS汚染水の処理をどうしていくか日米で協議が進められようとしているなか、米軍は突如として下水への放出を開始しました。

 米軍は、PFOS汚染水の濃度を日本の暫定目標値よりも低くなるよう処理しており安全だと説明していますが、日本の暫定目標値は放出の基準ではありません。そもそも日本には、PFOSなどの処理について明確な安全基準などは定まっていないそうです。しかも米軍が確実に処理したかどうか確認することもできないため、不安は全く解消されていません。

 PFOSなどは、下水処理場で除去することもできず、下水に放出されればそのまま海に流れることになります。自然界でほとんど分解されない物質でもあり、海を経由して様々なかたちで人体に蓄積していくことも考えられます。

普天間飛行場内で漏出したPFOSなどを含む泡消火剤を確認する米軍関係者:琉球新報2020.4.10

 これまでも米軍は、沖縄でPFOSなどを含む泡消火剤を飛散させています。また在沖米軍施設周辺の土壌からPFOSなどが検出されるなど、沖縄の人々は米軍により危険な状況にさらされています。

 「沖縄を守る」という米軍こそが、沖縄にとって何より危険であり脅威であるのが現実です。沖縄北部での米軍廃棄物の問題も含め、沖縄の自然を汚し、人々に危険をもたらす米軍は、今すぐ撤退すべきです。

※なお都内は現在、コロナ緊急事態宣言中であることから、抗議の時間を短くしたり、抗議者の人数を限定するなど、感染対策をとった上で抗議行動を行ないました。

【関東大震災98年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼─九月、東京の路上で、奪われた命、奪った命を忘れてはならない─

 大正12年(1923)9月1日、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生しました。関東大震災です。死者、行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。

 また震災発生直後から朝鮮半島出身者はじめ中国人や社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍や警察、そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で始まり、暴行、虐殺も発生しました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。

関東大震災後の浅草一帯:時事通信

 毎年9月1日、東京都慰霊堂では、震災犠牲者を弔う秋季大法要が営まれています。また東京都慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会が開催されています。

 しかし、昨年同様、今年もコロナ禍のためいずれの式典も一般参加者の参列はご遠慮いただき、関係者のみで執り行うこととなっています。なお朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会の様子は、オンラインで配信されるとのことです。

 花瑛塾は例年9月1日に歴史の継承と犠牲者の慰霊追悼のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂および慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者と虐殺犠牲者を慰霊追悼しています。その他、東京や千葉にあるいくつかの震災犠牲者や朝鮮半島出身者をはじめとする虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺現場を訪れ、追悼しています。

 今年もコロナ禍の情勢や各種行事の開催状況に鑑み、一日早い8月31日に各所を訪れました。

一昨年の追悼集会での金順子さんの追悼鎮魂の舞

 虐殺の事実は様々な歴史修正にさらされていますが、九月、東京の路上で、多くの人の命が奪われた歴史、そして多くの人の命を奪った歴史を忘れてはなりません。

 また忘れないばかりでなく、吉野作造が震災後に虐殺事件を振り返り、「今度の災害に際しても〔中略〕一面に於て悲しむべき幾多の罪悪を伴つた事に付ては、昨今遅ばせに報ぜらるゝ司直官憲の検挙所罰等に満足することなく、吾人はもつともつと深く考ふる所がなければならぬと思ふ」といったように、深く考えをめぐらしていかねばなりません。

 吉野は虐殺事件の要因の一つとして「力の玩弄」ということを指摘し、「我国の民衆には法律的に若くは社会的に何等かの権力を与へられると其の本旨に遵つて運用する代りに動もすれば無暗に之を振り廻し他の迷惑がるを寧ろ痛快がると云ふ悪癖のあることである」と述べました。いわば吉野は虐殺事件について社会的な考察を加えたといえますが、この指摘は一面の事実といえるでしょう。

 私たちもなぜこんなことが起きたのか、今も虐殺事件に通底する社会状況や人々の心性、差別の構造などがあるのではないのか、よくよく考えていかねばなりません。

東京都慰霊堂、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

 関東大震災と東京大空襲の犠牲者のうち、身元不明の遺骨を安置し弔う東京都の施設である東京都慰霊堂を参拝し、東京都慰霊堂に隣接する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を参拝しました。

秋季大法要の準備が進む東京都慰霊堂

 なお東京都知事は例年、「追悼碑」前において開催されている朝鮮人犠牲者追悼集会に追悼文を送っていましたが、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめました。今年も送付はしないとのことです。

 こうした小池都知事の動きの背景には、歴史修正主義のライターが執筆した虐殺の事実を歪曲するトンデモ本をネタ本とした古賀俊昭元都議の都議会質問があるといわれています。

 古賀元都議は都議会質問で小池都知事に追悼文の送付の取り止めばかりか追悼碑の撤去すら求めており、追悼文の送付の取り止めはいわば彼らの狙いの「第一歩」でしかなく、最終的には追悼碑の撤去、そして虐殺の事実の抹消につながっており、警戒していかなければなりません。

東京都慰霊堂の横に建つ関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 震災発生のわずか数時間後には「朝鮮人が放火をしてまわっている」といったデマが飛び交いはじめました。さらに市民や官憲、そしてメディアが一体となり民族差別に基づく暴動幻想やレイピスト神話が煽られていきました。これにより関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑のある荒川旧四つ木橋付近では、軍や「自警団」による虐殺事件が発生し、多くの朝鮮半島出身者が犠牲となりました。

 なお、この追悼之碑には、官憲やデマを信じた日本人により多くの朝鮮半島出身者が殺されたと明記されていますが、このことは日本人が建立した慰霊碑としては初めてのことであったといわれています。

 追悼之碑近くの荒川河川敷では例年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会や市民グループ「ほうせんか」の方々など有志による例年追悼式典が開催されていますが、今年は9月4日に追悼式典が開催されるそうです。また最近、震災や虐殺の事実を継承するための証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(編著:ほうせんか、出版:ころから)が増補復刊したそうです。

関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑
中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場

 震災時に虐殺されたのは、朝鮮半島出身者だけではありませんでした。

 9月3日、軍の騎兵連隊など部隊は大島8丁目(現東大島文化センター付近)に中国人労働者数百名を連行し、虐殺しました。「大島町事件」です。

 事件の背景には、中国人への差別、蔑視があったことはもちろんながら、第一次世界大戦後の不況下にあって、手配師が安価な労働力の供給源である中国人労働者を敵視し、これを「整理」する狙いがあったともいわれています。

中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場の東大島文化センター
亀戸事件犠牲者之碑

 虐殺は朝鮮出身者や中国人というアジアの人々に対するものでおさまることはありませんでした。

 9月3日頃、軍の騎兵連隊などの部隊は、日本人労働運動家を虐殺しました。「亀戸事件」です。

 亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮半島出身者に関するデマと一緒に飛び交った社会主義者に関するデマの存在があるとともに、震災による混乱を奇貨とした官憲が、かねてより危険視していた労働運動家を抹殺すべく検束、虐殺したといわれています。

 亀戸の浄心寺の境内には犠牲者を弔う碑が建立され、犠牲者10名の名前が刻まれています。

亀戸事件犠牲者之碑
地方出身者虐殺事件「検見川事件」遺体遺棄現場

 9月5日には、千葉市検見川で3人の日本人が虐殺されました。検見川事件です。

 事件は、震災により沖縄出身の儀間次郎や秋田出身の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりなどから「朝鮮人に違いない」として殺害されたというものでした。

 途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認し「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えましたが、「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したそうです。

 最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」に、さらに数百人の群衆が群がり、そうした群集心理の沸騰の中で3人は虐殺されたともいわれています。遺体は花見川橋から花見川に東京湾に向けて捨てられたそうです。

新花見川橋 当時の花見川橋がかけ替えられたと思われる
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

 被差別部落出身の人たちも虐殺されました。

 9月6日、旧福田村(現千葉県野田市)で香川出身の行商人ら15人が自警団に襲われ、乳児や胎児を含む9人が虐殺されました。「福田村事件」です。

 犠牲となった行商人らが被差別部落出身であったため、事件後も被害者の救済などはほとんどなされず、犯人たちは処罰されたものの早々に釈放されたといわれています。

関東大震災福田村事件追悼慰霊碑
中国人宗教家、社会活動家虐殺事件「王希天事件」現場

 虐殺事件は国際問題にも発展しました。「王希天事件」です。

 9月12日、軍は震災による中国人被災者の救援を行なっていた宗教家で社会活動家の王希天を現在の旧中川逆井橋付近で殺害し、遺体を斬り刻み川に投げ捨てました。

 王希天虐殺は隠蔽され、日中間の国際問題にまで発展しました。しかし日本政府は王希天虐殺をうやむやにし続けたといわれています。

王希天の遺体が投棄された逆井橋
関東大震災犠牲同胞慰霊碑

 船橋市の馬込霊園内に建つこの慰霊碑は、終戦後、虐殺された朝鮮半島出身の犠牲者を追悼するため在日朝鮮人連盟千葉県本部が建立したものです。

 既に法界無縁塔という朝鮮半島出身の犠牲者を弔う供養塔が建立されていましたが、碑文に虐殺の事実が記されていないなど歴史的事実と経緯を踏まえた供養塔でないことから、この慰霊碑が建立されました。

関東大震災犠牲同胞慰霊碑
関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 習志野にあった習志野支鮮人収容所では、収容中の朝鮮出身者を軍が付近の集落の「自警団」に引き渡し、彼らに虐殺させることもありました。

 千葉県八千代市高津でもそうして6人の朝鮮出身者が虐殺され、後に遺骨が高津の観音寺に安置されたことから、境内に慰霊碑が建立されました。慰霊碑の横には韓国から贈られたという韓国式の鐘楼もあります。

関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 以上、東京、千葉の震災関連の地、特に震災時の虐殺に関連する地を訪れ、慰霊追悼しましたが、東京や千葉にはこれ以外にも多くの関連の地があり、また神奈川や埼玉などにもあります。その他、慰霊集会や行事なども毎年各所で開催されています。

 この記事をご覧になり、関心を持っていただき、ご自分で関連の地や慰霊集会などを調べ、足を運び、参加し、歴史と向き合い、そして慰霊追悼のまことを捧げてほしいと思います。

【関東大震災97年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼─九月、東京の路上で、奪われた命、奪った命を忘れてはならない─

令和2年9月12日 伊藤野枝・大杉栄・橘宗一墓前祭

令和3年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

 昨年に続き、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催されたシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いに参列、献花黙とうしました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 76年前のこの日、スターリンの秘密指令により、満州などにいた日本兵らがソ連国内に移送された上で抑留され、シベリアやモンゴル、遠くはウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などソ連勢力圏内各地で過酷な労働を強いられました。抑留者は男性兵士だけではなく、満蒙開拓で現地にいて、軍の看護業務などについていた女性たちも抑留されたといわれています。

 強制抑留、強制労働された日本兵らは約57万5000人にもおよび、抑留は最長で10年以上も続き、約5万5000人もの人が犠牲となりました。

 無事抑留から解放され日本に引き揚げた人たちも、強制労働と寒さ、飢えという過酷な生活による肉体的な疲弊や、ソ連側がつくりあげた抑留者同士での相互監視や相互密告、つるし上げなどによる精神的な荒廃に悩まされ、さらには「シベリア帰り」として白い眼で見られ就職差別をされることもあったといいます。

 こうした抑留経験者、引揚者に対し、日本政府はこれまで十分な支援や補償をしてきませんでしたが、11年前にいわゆるシベリア特措法が成立し、抑留者への特別給付の実施や抑留の全容解明などが政府に求められました。

 しかし今にいたるまで抑留の経緯の解明は進んでおらず、遺骨の収容なども停滞しています。コロナ禍で遺骨収容が全面的に停滞する昨年までに、約2万2000人分の遺骨が収容されたとはいえ、それでもなお半数であり、いまだに多くの遺骨が彼の地に眠っています。

 そればかりか一昨年には、遺骨収容作業で抑留者の遺骨として持ち帰った遺骨が日本人の遺骨ではなく、現地の人たちと思われる外国人の遺骨だった、しかもそうした情報に接しながら確認などしなかったという、重大な問題が明るみとなりました。

献花台にて献花合掌する参列者たち

 日本人抑留者が埋葬された現地の埋葬地は荒れ果てているようですが、同じようにソ連に連行されたドイツ兵の埋葬地は現在も整然としているといわれます。その違いの要因はなんでしょうか。

 ソ連がドイツ人抑留者の埋葬地を丁重に管理し、日本人抑留者の埋葬地を軽視したということもあるかもしれませんが、遺骨問題などに象徴される日本政府の抑留問題への関心の薄さを思うと、ドイツ政府がソ連に対し埋葬地の管理を要請したり、みずから進んで管理していたが、日本政府はまったくそういうことをしなかったのかもしれない、両政府の抑留問題への意識の差があらわれているのではないかとも思います。

 集いで挨拶された抑留体験者の方も、埋葬地やこれまで建立した慰霊碑の荒廃を憂い、政府に再三再四、管理を要請していました。今年の追悼の集いには、御遺族や関係者、一般参列者とともに、厚生労働大臣の代理として厚労省幹部や与野党の国会議員も参列していましたが、それぞれの立場を越えてこの問題にあたって欲しいと思います。

 また近年、日本軍に徴用され軍属等となっていた朝鮮半島出身者約2万人のうちの1万人ほどがソ連の捕虜となり、そのうち約2000人がシベリアで強制抑留され、少なくない朝鮮半島出身者が犠牲になっていた事実が調査により明るみとなりました。しかしソ連側の資料提供などの状況から、犠牲者の数もさらに増える可能性があるなど、実態は判然としていません。

 こうした朝鮮半島出身者のシベリア抑留の実態解明や犠牲者の遺骨の収容、葬送なども、日本政府の責任として行っていく必要があります。戦後76年もの年月が経ちながらまったく戦争が終わっていない現実を直視し、早急に具体的な対策を進めていくべきではないでしょうか。

令和2年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

令和3年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

 北一輝の命日の今日、泰叡山護國院瀧泉寺(目黒不動尊)にある「北一輝先生之墓」、および興国山賢崇寺にある二・二六事件の刑死者の墓「二十二士之墓」を参りしました。

「北一輝先生之墓」 北とともに妻のすず子、子の大輝が眠っている

 北は昭和12年の今日、今から84年前の今日午前5時50分、二・二六事件の「首魁」とされ、弟子の西田税、元陸軍軍人の磯部浅一、同じく村中孝次とともに渋谷の陸軍刑務所内で銃殺されました。北の遺体は妻すず子らが引き取り、その日のうちに火葬され、その後に近親者や友人門下生らによる葬儀を経て、遺骨は目黒不動尊と賢崇寺の他、北の郷土である佐渡の勝広寺に安置されたといわれています。

 二・二六事件の「首魁」といっても、北が「首魁」といえるようなかたちで事件を計画し、組織し、実行した事実はありません。北が事件に無関係とまではいえませんが、「首魁」というようなことはありえず、事件は明らかに冤罪でした。それは北を裁いた軍法会議の裁判長も理解していたほどですが、それでも陸軍上層部の意向に基づき処刑されました。

 そんなこともあり、北は戦前の国家主義思想の巨頭のように理解され、後に丸山真男に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」とまで評されますが、他方で北の「支那革命外史」の前半部を読んだ吉野作造が感銘をうけて北のもとを訪ねたり、GHQが戦後、北の目指したものを「民主主義革命」と見なすなど、北の思想はそう簡単に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」と一刀両断できるようなものではありません。北と共に猶存社の同人でもあった満川亀太郎も「北君はいわゆる社会主義を嫌うが、皇室中心主義も嫌う」と述べています。

「二十二士之墓」 青年将校らとともに北、西田が眠っている

 また北は日蓮主義者ともいわれていますが、最近の研究では北を正統な日蓮主義者と位置づけることにも疑問が呈されています。北が熱心に法華経を信仰したのは事実であり、子の大輝宛の遺品は遺言を添えた法華経であったほどでしたが、そうした北の法華経信仰は北独自の信仰というべきものであり、北自身はイスラム教やキリスト教など幅広く各宗教に関心を持っており、そもそも国立戒壇など法華経を国教のように位置づける思想も持ち合わせてはいませんでした。

 北が亡くなって84年。北は刑死の前日、面会にきた弟子の馬場園義馬が「国体論」や「改造法案」など北の著書を復刊させたいと話した際、「君達はもう一人前に成って居るのだから、あれを全部信ずる必要はない。諸君は諸君自身の魂の上に立って、今後国家の為めに大体ああ云うものを実現する心持ちで努力すれば宜ろしい」と述べていますが、北の思想はこれからもまだまだ研究され、私たち自身が解釈し、再評価そして再批判し、現代に生かしていく必要があるのではないでしょうか。

令和3年2月25日 二・二六事件85年 事件刑死者・犠牲者慰霊

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

76年目の8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えて

 昭和20年8月15日、今から76年前のこの日、昭和天皇みずからポツダム宣言の受託を国民に告げる終戦の詔書を読み上げる「玉音放送」がラジオ放送されました。

76年目の終戦の日の靖国神社

 日本のポツダム宣言受託の旨は、連合国に対し既に8月10日に第一次受託通告がなされ、14日に最終受託通告がなされています。また陸海軍人へ降伏を告げる昭和天皇の勅語は17日に渙発されており、さらに正式な日本の降伏調印式は翌月9月2日に行われています。その一方で、沖縄や北方地域あるいは中国大陸を含むアジア各地では、8月15日以降も一部で激しい戦闘が続けられています。

 こうした事実関係を見ると、8月15日とは一体何の日なのか一考を要します。少なくともこの日をもって正式に戦争が終結したということはできませんが、それでも8月15日が先の大戦の一つの大きな節目であることは間違いありません。

 8月15日は現在、戦没者を追悼し平和を祈念する日、終戦記念日とされ、天皇皇后両陛下御臨席のもと、政府主催の全国戦没者追悼式が開催されている他、各地で戦争に関連する様々な式典や行事、集会、儀式などが開催されています。

 「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾も例年8月15日前後、先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れた国内外を問わぬ全ての犠牲者を慰霊追悼し、世界の平和を祈念するため、各種の式典や行事、集会などに出席するなどしています。

 しかし昨年は、折からのコロナ禍によって様々な動きを制限せざるをえませんでした。

 今年もコロナ禍の収束を見ないなか、昨年同様きわめて限られた動きとなりましたが、8月14日から15日にかけ、戦争犠牲者の慰霊追悼と世界の世界の平和を祈念し、埼玉県護国神社みたま祭への献灯と参拝、第56回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8.14式典)の視聴をした他、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝しました。

埼玉県護国神社みたま祭献灯

 埼玉県護国神社では例年8月15日、みたま祭を斎行し、同社に祀られている埼玉県出身の国事殉難者の霊をお慰めするとともに、前日14日にはみたま祭前夜祭として奉納演奏などが行なわれていますが、昨年よりコロナのためみたま祭への一般参列が中止となり、前夜祭もまた取り止めとなっています。

 しかし、みたま祭の献灯は続けられていることから、私たちも例年通り今年も献灯するとともに、みたま祭前日の14日、個人として同社を参拝し、慰霊追悼の念を捧げ、世界の平和を祈念しました。

 その後、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催された第56回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8.14式典)のオンライン配信を視聴しました。

式典が行なわれた千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」と「平和実現」を誓うものです。

 式典は毎年、多くの来賓や信徒、一般参列者が千鳥ヶ淵戦没者墓苑に集い営まれていますが、昨年に引き続き今年もコロナのため、新宗連青年会のメンバーのうち関東在住の代表者などだけが集い、式典拝礼を行ない、その模様がオンライン配信されました。

 昨年、そして今年と式典がコロナのため来賓やこの式典を重要な祈りの場と考えている各宗派の信徒さん方、そして一般参列者の参列をお断りし、オンライン配信のみに限定していることを知ってか知らずか、現地に赴き写真撮影などをする者が出てくるかもしれないと案じましたが、多くの心ある人たちがこのたびの式典のあり方を理解し、オンライン配信を通じて「絶対非戦」と「平和実現」の祈りを捧げており、私たちも心を共にし「絶対非戦」「平和実現」を誓いました。

 また8月15日には、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝し慰霊追悼した他、全国戦没者追悼式における正午の黙とうに合わせて黙とうするとともに、天皇陛下のお言葉を拝聴しました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の一角に建つ平和祈念、追悼慰霊碑

 終戦の日にあたり例年同様のことを述べていますが、戦後76年を迎え、今や戦後100年が視野に入りつつあるなか、靖国神社をめぐる情勢など日本の戦没者慰霊は落ち着きのない状況が続いています。

 そればかりか時の政権は過去の戦争に真摯に向き合う姿勢を欠き、安保関連法の制定や自衛隊の中東派遣、南西諸島への配備、空母建造など軍拡路線を続け、このままでは新たな「戦死者」が生まれるおそれがあるばかりか、日本の攻撃により海外で新たな「戦死者」「戦争犠牲者」を生みかねない危険な状況にあります。

 終戦の詔書には「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ」「世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」とあります。

 また昭和25年の神社新報の社説には、「われ等神道人の任務は、この民のために平和を守るべく懸命の力を致すにあると信ずる」「現下の日本人にとつて、最も必要なのは、侵略者に対抗するための軍備を急ぐことでもなければ、武器を携へて海外の義勇軍に身を投ずることでもない」とあります。

 こうした言葉に接する時、私たちはけして軍事強国など目指してはならず、再び隣国を威嚇するような国になってはいけない、それこそが先人の願いであり、また終戦の詔書における「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」の語の本義であるということを理解できるはずです。

今年の全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下:NHK2021.8.15より

 全ての戦争犠牲者に心からの慰霊追悼の意を表するとともに、二度と戦争を繰り返さないような平和な日本を実現することが、戦後100年を迎えようとする私たちの「真の慰霊」と信じ、これからも平和の実現のために取り組んでいきたいと思います。

75年目の8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えて

 

令和3年8月7日 オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館2021年度帝銀事件関連企画オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(講師:山田朗館長、明治大学文学部教授)を視聴、学習しました。

事件発生直後の帝銀椎名町支店:JAPANアーカイブスより

 陸軍登戸研究所では、「秘密戦」といわれる日本軍の特殊作戦のための兵器開発や諜報謀略などに関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発から偽札製造、風船爆弾の開発、盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 戦後、登戸研究所一帯は紆余曲折を経て明治大学が購入し、研究所跡も様々な経緯によって同大の資料館となり、これまで各種の展示や講演会などがおこなわれてきましたが、現在はコロナの感染状況や緊急事態宣言の発令により直接の見学や資料館内での講演会等が実施できないため、オンラインでの講演会が定期的にされています。

 第1回のオンライン講演会では、登戸研究所資料館展示専門委員の渡辺賢二さんを講師とし、戦後長らく闇に埋もれてしまった登戸研究所に関連する証言や資料の掘り起こしと実態解明について、資料館として結実していくまでの地域の人々や関係者の取り組みについて伺いました。

 第2回は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長で、明治大学で日本近現代史を専門とされる山田朗さんを講師とし、昭和25年に明治大学が登戸研究所跡地を購入して以降、大学としてどのように登戸研究所の歴史的検証や跡地の活用をしてきたか、平和教育や理化学教育の面から登戸研究所をどう位置づけてきたのかなどを伺いました。

初公判に際して法廷に立つ平沢さん:Wikipedia「帝銀事件」より

 今回は、引き続き山田館長より、戦後まもなくに発生した大事件で冤罪事件としても知られる帝銀事件と日本軍の秘密戦、そこにおける登戸研究所の存在についてお話を伺いました。

 そもそも帝銀事件とは、昭和23年に帝国銀行椎名町支店で発生した強盗事件です。犯人は支店の行員ら16人に「集団赤痢が発生した。予防薬を飲んでもらいたい」などといって毒物を飲ませ12人を殺害、現金と小切手を奪って逃走しました。

 警察は目撃証言に基づく聞き込みなど従来型の捜査に加え、毒物を用いての事件ということもあり、秘密裏に軍関係者への捜査を開始します。犯人は現場で行員らに名刺を渡しますが、帝銀事件の関連事件と思われる事件で利用された名刺に記された人物名を辿ると、南方軍防疫給水部(9420部隊)で現地住民を毒殺した人物であることがわかり、そこを解明していくと731部隊にも行き着くこともあって、警察はこれは怪しいと見て軍関係者への捜査を徹底します。

 そうした警察の捜査は、同時に軍の生物化学兵器開発やその使用という暗部の解明にもつながっていきました。そして捜査の過程で登戸研究所における毒物や生物化学兵器の実態なども解明されていったそうです。

 日本軍の秘密戦や731部隊をはじめとする生物化学兵器開発の実態の解明は、歴史的には相当後に本格化するのであり、戦後まもなくのこの時期に捜査というかたちであっても解明が進んだのは、非常に意義のあることといえます。

 他方、GHQは昭和22年頃から軍関係者について戦犯免責し、対ソ情報を提供させるなど協力関係を築き、取り込んでいきましたが、そうしたこともあってか帝銀事件の捜査が進み警察が軍関係者に接触し始めると、GHQが秘密事項を口外しないよう働きかけたり、軍関係者も同様に組織的に根回しするといった動きもありました。

 事件は画家の平沢貞通さんが逮捕されることで急展開しますが、平沢さんに毒物の知識はなく、平沢さんを取り調べても毒物の入手ルートは解明されず、自白もかなり無理やりにつくられたものであることから、きわめて冤罪の可能性が高いと思われます。警察の捜査陣ですら当初、平沢さんを「シロ」と表現していたほどでした。

 平沢さんは死刑判決をうけ獄中で亡くなってしまいますが、今でも再審請求が続けられ冤罪を晴らすための戦いがおこなわれていますが、山田館長の講演後、再審請求を続けている帝銀事件再審弁護団の渡邉良平弁護士より、「帝銀事件第二十次再審請求の進捗状況報告」として再審請求の現状と展望についての報告を伺いました。

令和3年5月15日 オンライン講演会2「資料館開館にむけての明治大学の取り組み」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

【広島・長崎原爆投下76年】「核なき世界」の実現と被爆者、戦争被害者の救済に全力を

広島、長崎原爆投下76年

 広島、長崎への原爆投下より76年を迎える。

 昭和20年8月6日、米国は広島に原爆を投下し、約15万人もの人々の命を奪った。そして9日には長崎にも原爆を投下し、約7万3千人もの人々の命を奪った。奇跡的にも生き延びた人々や原爆投下直後より救護等で市内に入域した人々は、その後長期間にわたり原爆症といわれる放射線障害に苦しめられた。

 また忘れてはならないことは、原爆により被害をうけたのは日本人ばかりではないということだ。勤労動員など様々な理由で広島に連れてこられていた朝鮮半島出身者や、捕虜として収容されていた米兵なども原爆の被害をうけている。

 かかる米国の戦争犯罪は到底許されず、厳しく糾弾されなければならない。

日本の使命としての核廃絶

 しかし今を生きる私たちにとって重要なことは、米国の非道をただただ追求し、謝罪要求に終始することのみではないはずだ。

原爆が投下地点の真下にあった広島県産業奨励館跡(原爆ドーム):Wikipedia「原爆ドーム」

 何よりも大切なことは、何の咎もなく核の火に焼かれた犠牲者の無念を晴らし、苦しむ御霊をお慰めするため、核の戦争被爆国である日本と戦争使用国であり今なお大量保有国である米国という日米両国こそが協調連携し、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」を実現するということ、二度とこのような惨禍を繰り返さないため具体的に行動することである。

 それはまた、私たち自身が核の恐怖から逃れ、平和で豊かな世界を生きるために求められていることでもあろう。

 先の大戦の終戦の詔書には

敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。くむは、朕何をてか億兆の赤子し、皇祖皇宗神霊せむや。

とある。

 戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は、この終戦の詔書をひきつつ、核兵器の残虐性と軍事情勢の変化から日本核武装論へ疑問を呈し、日本の核なき防衛と世界的な核廃絶を訴え、日本が世界的な核廃絶の先導役になるべきだと論じている。そして、それは非核保有国の共感を結集させるものであり、日本の国家的使命、世界史的使命であるとも述べている。

 葦津氏はまた

日本が将来に於て、万一にも自ら原爆を使用したならば終戦の詔書は、その道義的権威を失ひ、民族の存亡を賭した悲史の教訓はその意味を失はねばならない。終戦の詔書に明示せられし原爆拒否の道義的宣言は、断じて弱者の悲鳴ではない。

目的のために手段を誤ってはならない。終戦の大詔は、この道義の大原則を明示せられてゐる。犯罪的手段を選ぶほどならば、目的の放棄も亦やむを得ぬ、この悲痛なる道念あってこそ、地上に道義は保たれるのである。

として、日本の核武装を否定している。終戦の詔書にも反する日本核武装論などあってはならず、むしろ積極的に「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」の実現のために努力することこそ、本来的な日本の立場であることを確認したい。

核廃絶と被爆者、戦争被害者の救済

 そうであればこそ、日本は核廃絶に向けたあらゆる行動をとるべきである。

長崎平和祈念式典:毎日新聞2020.8.9

 しかし日本政府が現にやっていることは、核廃絶の動きに真っ向から反し、米国の核保有を擁護し続けるものである。

 例えば政府は平成28年、国連での核兵器禁止条約をめぐる交渉開始決議に反対し、翌年の核兵器禁止条約交渉会議も不参加とした。それでも国連で採択された核兵器禁止条約は世界の国々が批准し今年初頭に発効、それにより核兵器はついに違法な兵器となったわけだが、こうした各国の核廃絶に向けた具体的な行動に対し、政府は背を向けるばかりか、足を引っ張っている。

 また国内的には、被爆者はじめ犠牲者も含む戦争被害者の救済に後ろ向きな政府の姿勢も問われなければならない。

 政府はこれまで広島原爆後の「黒い雨」の範囲や雨以外での被爆の可能性をきわめて限定的にとらえ、多くの被爆者への原爆手帳の交付を拒んできた。こうした政府の対応をめぐる「黒い雨」訴訟は地裁、高裁での原告勝利判決を経て最近になりようやく和解がなされたが、訴訟は長年にわたり、少なくない原告が訴訟の途中で命を落としている。

 原爆以外でも、東京大空襲はじめ米国による空襲の被害をうけた民間人空襲被害者への救済は、戦後何一つなされていない。今年の通常国会で空襲被害者救済法の制定が目指されたが、政府と自民党の一部の反発をうけ、法案提出にも至らなかった。

 核廃絶や平和の取り組みとともに、被爆者や戦争被害者へのあまりに冷酷な政府の姿勢も見直されるべきである。

 あらためて日米が手を携えて広島、長崎に向き合い、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」の実現を目指すよう日米両政府に訴えるとともに、特に日本政府には被爆者や戦争被害者に一刻も早く十分な救済を講じるよう求める。

【広島・長崎原爆投下75年】日米が連携し「核なき世界」を実現しよう─戦後神社界の反核・原水爆禁止の思想に学ぶ─

令和3年8月3日 陸自部隊の在沖米軍施設への配備に関する行政文書の不開示決定(存否応答拒否)に対する不服審査への意見書の提出

 本年1月、陸上自衛隊水陸機動団の在沖米軍施設キャンプ・シュワブへの配備計画が報じられました。これをうけ私たちは、1月25日付で配備に関する検討等の行政文書を開示せよと防衛大臣に宛てて開示請求をしました。

「離島奪還」を目的とする演習を行なう水陸機動団:西日本新聞2018.4.8

 ところが防衛大臣は、この開示請求について、対象文書の存在の有無を明らかにするだけで外国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれるおそれがあるとし、3月29日付で対象文書の存在の有無を明らかにしない不開示決定、いわゆる存否応答拒否を理由とする不開示決定をしました。

 私たちはこれを不服とし、4月1日付で不服審査を請求したところ、防衛大臣は6月30日付で情報公開・個人情報保護審査会へ諮問したことを通知し、同審査会が私たちに不服審査についての意見書や資料の提出を求めてきたため、今日付で意見書と資料を提出しました。

 意見書は以下のリンクからご覧になれます。

令和3年(行情)諮問第277号、「水陸機動団の在沖米軍施設への配備についての検討・協議等に関する文書の不開示決定(存否応答拒否)に関する件」についての意見書

 意見書は、大きく二つの主張をもって存否応答拒否を理由とする不開示決定の不当性を指摘しています。

 一つは、防衛大臣の国会答弁をもとにした主張です。

 防衛大臣は、対象文書の存否を明らかにするだけで他国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれ、不開示情報を開示することになるため存否の応答を拒否する不開示決定を行ったわけですが、すでに防衛大臣は国会答弁で過去に陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が行われていた事実を認めています。

 対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は、陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が過去に行われていたかどうかということですが、すでに防衛大臣によりそうした検討等が過去に行われていたことが明らかにされている以上、対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は公知のものであり、対象文書の存否の応答を拒否することはできないはずです。

 もう一つは、過去の行政文書の開示をもとにした主張です。

 実は平成24年の時点で、統合幕僚監部内で陸自部隊の在沖米軍施設への配備や共同使用をめぐる検討等が行われており、それに関する行政文書も存在しておりました。これについて防衛大臣も当該行政文書の真正性を認めるとともに、平成30年には当該行政文書の開示もされています。

 つまり、私たちの開示請求の対象文書の原型ともいえる行政文書、少なくともそれに関連する行政文書が存在し、それを防衛大臣が真正と認め、また開示されている以上、対象文書の存否の応答を拒否する不開示決定は不当です。

 今後、審査会で私たちの意見書やそれに対する防衛大臣による反論の審査が行われ、数ヶ月から長ければ数年後に答申が出されるとのことです。

 また進展があればご報告いたします。

令和3年1月25日 北部訓練場放射性廃棄物問題・辺野古新基地陸自配備問題について情報公開請求をしました