令和3年8月3日 陸自部隊の在沖米軍施設への配備に関する行政文書の不開示決定(存否応答拒否)に対する不服審査への意見書の提出

 本年1月、陸上自衛隊水陸機動団の在沖米軍施設キャンプ・シュワブへの配備計画が報じられました。これをうけ私たちは、1月25日付で配備に関する検討等の行政文書を開示せよと防衛大臣に宛てて開示請求をしました。

「離島奪還」を目的とする演習を行なう水陸機動団:西日本新聞2018.4.8

 ところが防衛大臣は、この開示請求について、対象文書の存在の有無を明らかにするだけで外国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれるおそれがあるとし、3月29日付で対象文書の存在の有無を明らかにしない不開示決定、つまり存否の応答を拒否する不開示決定をしました。

 私たちはこの不開示決定を不服とし、4月1日付で不服審査を請求したところ、防衛大臣は6月30日付で情報公開・個人情報保護審査会へ諮問したことを通知し、同審査会が私たちに不服審査についての意見書や資料の提出を求めてきたため、今日付で意見書と資料を提出しました。

 意見書は以下のリンクからご覧になれます。

令和3年(行情)諮問第277号、「水陸機動団の在沖米軍施設への配備についての検討・協議等に関する文書の不開示決定(存否応答拒否)に関する件」についての意見書

 意見書は、大きく二つの主張からなっています。

 一つは、防衛大臣の国会答弁をもとにした主張です。

 防衛大臣は、対象文書の存否を明らかにするだけで他国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれ、不開示情報を開示することになるため存否の応答を拒否する不開示決定を行ったわけですが、すでに防衛大臣は国会答弁で過去に陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が行われていた事実を認めています。

 対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は、陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が過去に行われていたかどうかということですが、すでに防衛大臣によりそうした検討等が過去に行われていたことが明らかにされている以上、対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は公知のものであり、対象文書の存否の応答を拒否することはできないはずです。

 もう一つは、過去の行政文書の開示をもとにした主張です。

 実は平成24年の時点で、統合幕僚監部内で陸自部隊の在沖米軍施設への配備や共同使用をめぐる検討等が行われており、それに関する行政文書も存在しておりました。これについて防衛大臣も当該行政文書の真正性を認めるとともに、平成30年には当該行政文書の開示もされています。

 つまり、私たちの開示請求の対象文書の原型ともいえる行政文書、少なくともそれに関連する行政文書が存在し、それを防衛大臣が真正と認め、また開示されている以上、対象文書の存否の応答を拒否する不開示決定は不当です。

 今後、審査会で意見書や意見書に対する防衛大臣による反論の審査が行われ、数ヶ月から長ければ数年後に答申が出されるとのことです。

 また進展があればご報告いたします。

令和3年1月25日 北部訓練場放射性廃棄物問題・辺野古新基地陸自配備問題について情報公開請求をしました

靖国神社 第74回みたままつりに献灯しました

 靖国神社では毎年7月に「みたままつり」が開催され、祭典が執り行われるとともに境内には各界名士などが揮毫した雪洞や崇敬者による献灯が掲揚点灯され、靖国神社の御祭神をお慰めしています。昨年のみたままつりはコロナの影響で中止となりましたが、今年は第74回みたままつりとして無事開催の運びとなり、花瑛塾も例年通り献灯しました。

多くの献灯が掲揚されている靖国神社神門前

 みたままつりは昭和21年7月、長野県遺族会の有志による境内での奉納盆踊りを契機として靖国神社側と柳田国男が検討を重ね、翌年7月から正式な祭典として執り行われるようになりました。

 みたままつりの神学的基礎づけは柳田『先祖の話』によるもので、仏式の盆行事とは異なるものとされています。むしろ柳田は、先の大戦末期、わが子の召集や折口信夫の養子である折口(藤井)春洋の戦死などを受け、「〔日本〕固有の生死感を振作せしめる一つの機会」について思索を続けていました。

 そんな柳田と新たな民衆的な基礎を持つ慰霊祭祀のあり方を模索していた靖国神社が交流を深めるなかで、みたままつりが成立していきます。

今年の花瑛塾の献灯
夜になり点灯された献灯

 そうした背景もあり、昭和24年には7月13日のみたままつり前夜祭に先立ち、靖国神社に合祀されている祭神(戦没者)以外の一般戦没者も慰霊する「慰霊祭」が同社神職の発意のもと行われ、以後「諸霊祭」として恒例のお祭りとなるなど、みたままつりは靖国神社に祀られていない一般戦没者も慰霊の対象としているところに大きな特徴があります。

 その諸霊祭が行われていた場所が旧招魂斎庭(本殿向かって左側の境内地)であったといわれ、常磐木の神籬をたて、そこへ臨時に諸霊を招くかたちで祭儀が行なわれていたそうです。

 昭和40年に旧招魂斎庭の奥(元宮の隣)に「鎮霊社」が建立され、嘉永6年以降の戦没者で靖国神社に祀られざる御霊、および同年以降の諸外国人の戦没者を祀ることになると、それ以降は鎮霊社の例祭(7月13日)が諸霊祭にかわっていきました。

 靖国神社は占領中、GHQに対してみたままつりを「フォークの祭(民俗行事)」と説明していますが、いわゆる「A級戦犯」の靖国神社への合祀以前の一般戦没者をも慰霊の対象とする民衆的基盤を持つお祭り(「フォークの祭」)としてのみたままつりを通じ、靖国神社における戦没者慰霊の多様性や戦後の戦没者慰霊のあり方などに思いを巡らせていただければ幸いです。

例祭に向けて舗設が進んでいた鎮霊社

 なお今年のみたままつりは、感染症対策として露店の出店や各種奉納行事などは中止となっています。ただし祭典は16日までですが、雪洞や献灯の掲揚点灯期間は18日まで、閉門時間も夜8時までに延長されています。また期間中は、夜間中庭参拝として拝殿からさらに進み本殿前の中庭での参拝が可能となっています。

 その他、感染症対策の観点から境内の様子のオンライン配信などもなされ、オンラインによる祈願の申し込みも可能となっています。

 

本年も靖国神社みたま祭(7月13日~16日)に献灯しました

令和元年7月16日 靖国神社みたま祭 旧招魂斎庭・鎮霊社 拝礼

名古屋市での「私たちの『表現の不自由展・その後』」に対するテロを許さない

 名古屋市の市施設「市民ギャラリー栄」で開催中の「私たちの『表現の不自由展・その後』」(名古屋展)をめぐり7月8日、ギャラリーに宛てた郵便物をギャラリー職員が開封したところ、同封されていた爆竹が爆発するという事件が発生した。

テロに見舞われた名古屋展の会場:東海テレビ2021.7.8

 郵便物には爆竹の他、名古屋展の中止を求める内容を記した紙片も入っていたとの情報もあり、事件が名古屋展を狙った“テロ”であることは明白である。

 事件をうけ名古屋市は、名古屋展最終日である11日までのギャラリーの休館を決めた。これにより名古屋展はこの日をもって事実上の閉幕、中止に追い込まれた。

 ギャラリーを一時休館し安全を確認することは当然であるが、被害状況や規模などから考えて、はたして8日から11日まで数日間にわたって休館する必要があるのかは疑問である。施設内に危険物などがないか確認し、警備体制を増強するなど相応の措置をとれば、再開可能だったはずだ。

 公共施設の利用の規制について、最高裁は「明らかな差し迫った危険の発生が、客観的な事実に照らして具体的に予見される場合でなければならない」と厳格な判断をしている。テロ行為直後は確かにそうした危険な状況であったといえるだろうが、その後もその翌日も翌々日も、警備体制を増強するなどしてもなお「明らかな差し迫った危険の発生が、客観的な事実に照らして具体的に予見される」といえるのだろうか。

事件後に名古屋展会場を捜査する警察:メーテレ2021.7.8

 憎むべきは卑劣なテロ犯人であるが、名古屋展の開催期間を狙い定めたかのように休館にする名古屋市の対応は、あたかもテロに乗じて名古屋展を中止にさせたかのようであり、はなはだ不審である。

 本当に安全確認のため11日まで休館する必要があるというのならば、12日以降に展示を再開できるよう名古屋市として対応すればいい。あるいは11日までの間、他に展示できる施設を用意したり、斡旋するなどの代替措置もとりえたはずだ。

 テロを実行することなどは絶対に許されない。またテロに屈することもあってはならない。そしていうまでもなく、テロを利用することもあってはならない。まして政治の側が、である。

 名古屋展で展示されている平和の少女像は、戦時性暴力の問題を訴える作品であるが、2年前のあいちトリエンナーレに続き、再びこの少女像が暴力にさらされてしまったのは、あまりに残念である。いたいけな少女像の顔を見れば、何とか最後まで展示をし、政治と暴力からこの少女像を守ってあげられないものかと慚愧に堪えない。

 ともあれ気に入らない表現がテロにより平然と圧殺され、さらには政治がそうした事態を利用するような社会の「その後」の恐ろしさについて、私たちはあらためて考え、そして警戒していく必要がある。

 いうまでもなく私たちは表現の不自由展・その後の一部作品について受け入れ難いものがある。しかし、それとこれとは別だ。名古屋展に対するテロを許さない。

「表現の不自由展かんさい」会場利用承認取消しをめぐって─不自由展への批判と権力の濫用の容認は別儀である─

国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について

令和3年7月4日 熱海市土石流災害支援行動

 静岡県熱海市伊豆山地区で発生した土石流災害から一夜明けたこの日朝、避難所となっている市内の「いきいきプラザ」へ飲料水やマスクなどの支援物資をお届けにうかがいました。

熱海市伊豆山地区の土石流災害現場:静岡新聞2021.7.4

 現地へ到着した時点で行方不明者の捜索救助活動は再開されていたものの、二次災害の危険が伴うため土砂の撤去作業などは始まっておりませんでした。そのため土砂の撤去作業などもお手伝いしたかったのですが、やむなく支援物資の搬入後、撤収しました。

 いきいきプラザとともに災害現場近くの伊豆山小学校なども避難所となっているようですが、交通が確保されていないため、現在のところいきいきプラザが支援物資の受付、集積所となっているようです。

 また熱海市内や熱海市へ向かう道路も各所で通行止めや迂回指示が出されています。

 そうした状況を踏まえ、支援物資の搬入やボランティアなどで現地を訪れる際には、交通の状況をよく確認するとともに、避難所での支援物資のニーズやボランティアの募集状況、物資受付所の場所など事前によく確認し、また新型コロナウイルスの感染対策をするなどして、住民の方々や災害救助関係の方々のご迷惑にならないよう配慮をした上での行動をお願いします。

 全ての行方不明者の早期の救助と無事を祈り、引き続き事態を注視してまいりつつ、必要ならば今後も支援活動を継続していく予定です。

熱海市内のいきいきプラザ

 それとともに、昨年のこの日は九州を中心とする豪雨により熊本の球磨川がはん濫する災害が発生しました。その一年前の令和元年6月には、台風15号によって千葉県や神奈川県を中心に停電や断水、家屋の損壊など大きな被害が出ました。さらにその前の平成30年7月には、西日本豪雨が発生しています。

 コロナ禍での災害にはもっとも警戒が必要であり、注意しなければなりませんが、この時期はそもそも台風や豪雨、水害など大規模な自然災害が多く発生する傾向にあり、東京五輪にリソースを割いている余裕はありません。また五輪にリソースを割くがゆえ、コロナ対策と災害対策がおろそかになることも考えられます。

 今こそ東京五輪はきっぱり中止し、人々の命を守る行動に全力をあげるべきではないでしょうか。

お届けした支援物資の一部

西日本豪雨災害に関連し、皆様からお預かりした物資を被災地へ届けました

「表現の不自由展かんさい」会場利用承認取消しをめぐって─不自由展への批判と権力の濫用の容認は別儀である─

 令和元年8月3日、国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019のグループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止が発表され、大きな話題となった。

大阪展フライヤー

 あいトリ問題については、公開中止直後、「国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展『表現の不自由展・その後』の公開中止について」として見解を発表しているので、関心があればそちらを読んでいただきたい。

 それから約2年後の今年6月後半から7月半ばにかけ、「表現の不自由展・その後」とおおよそ同一内容の展示が「表現の不自由展・その後 東京EDITION & 特別展」(東京展)、「私たちの『表現の不自由展・その後』」(名古屋展)、「表現の不自由展かんさい」(大阪展)として開催される予定であった。

 しかし東京展をめぐっては、展示会場となったギャラリー周辺での抗議活動をうけ、ギャラリー側が会場提供を取りやめた。東京展実行委員会は急遽別会場を確保したが、そちらの会場も最終的に会場貸出を拒否したため、開催は現在不透明な状況である。

 また大阪展をめぐっては、会場として利用が承認されていた大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者が、突如として利用承認を取消したため大きな問題となっている。

一方的な利用承認取消しは許されない

 大阪展実行委員会によると、管理者側は大阪展の開催に関し電話やメールの他、街宣車を用いた抗議などがあり、一般利用者や施設の他の入居者、施設南館の保育所の幼児や保護者などの安全確保が困難であるとの理由をあげ、センターの管理上支障がある場合は利用承認を取消すことができるという府立労働センター条例に基づき取消したそうだ。

あいトリ不自由展・その後で展示された平和の少女像:朝日新聞2019.8.3

 しかし実行委員会は、これまで大阪展の警備体制について管理者側や所轄の警察署と何度となく打ち合わせをし、準備をしてきていると述べている。

 それでもなお管理者側にとって管理上の不安や問題があるというのならば、まずは管理者として実行委員会側に警備の強化を依頼するといった相談や打ち合わせがあってしかるべきであろう。そうした懸念解消に向けた努力なく有無をいわせず取消すなど、あまりに一方的だ。

 そもそも実行委員会によると、エル・おおさかで過去に開催された他のイベントでは、大阪展への抗議以上の抗議も見受けられたという。利用承認を取消さねばならないほど差し迫った危険は本当に存在していたのだろうか。

 万一、一定の危険があったとしても、2年前に各国の首脳が一堂に会した大阪サミットの警備を無事に遂行し、警視庁と並び称される“天下の大阪府警”が警備しきれないとは考え難い。警備をする気がなかったのなら話は別であるが。

 事実、あいトリでも様々なトラブルがあったとはいえ、少なくともあいトリの終盤で不自由展・その後の展示は無事に開催されている。そもそも不自由展・その後は、過去にも開催されている。今回、東京展や大阪展と並んで開催される名古屋展も同じく公共施設を利用する予定となっているが、抗議をうけつつも(カウンター的な展示会が同時に開催されるといった問題はあるとしても)現時点ではひとまず開催の見込みとなっている。

 管理者側は取消しにあたり、事前に大阪府に相談し容認を得ていたという。取消し後、吉村洋文大阪府知事も取消しを支持する発言をしている他、取消しには維新系府議が暗躍したともいわれており、こうした状況を勘案すると、取消しは事実上、大阪府・維新が主導した措置とも推測される。

 実行委員会側は今後、処分取消し(管理者側による承認取消しの取消し)を求めて提訴するとともに、取消しの執行停止を求める法的措置もとるそうだ。当然のことである。取消しをしなければならない明確な理由もなく、取消しを避けるための努力もしないまま一方的に取消すなど、管理者の裁量権の濫用であり違法行為である。

不自由展・その後の「その後」を考える

 不自由展・その後の作品の中には、花瑛塾としてもとても受け入れられないものが存在する。抗議や批判も当然あるだろう。暴力行為や住宅街での大音量での抗議など法律や社会常識を踏み外すものでない以上、そうした抗議や批判もまた認められるべきだ。

 もちろん脅迫や犯罪を構成するような抗議に対しては、法的措置や警察力による対応など毅然とした対応が必要である。他方、書面による申し入れや落ち着いた状況での面談形式での申し入れなど相応の抗議に対しては、主催者側も一切相手にしないという姿勢ではなく、やはり一定の条件の下でそれ相応の対応も必要となってくるだろう。

 ここまで事態がこじれると、主催者側も作品に関する丁寧な解説をしたり、あえて抗議者に作品を鑑賞してもらった上での対応や説得、質疑応答といったことも、あるいは必要なのかもしれない。そうした対応を重ねることで、東京展の開催実現も見えてくるのかもしれない(抗議者や批判者がただ脅迫や妨害を目的としていなければだが)。

 ともあれ、そのような不自由展・その後への批判や批判に関する市民的解決の模索と、公権力が市民による公共施設の利用を恣意的に規制するという違法行為や権力の濫用を容認するのは、全く別の話である。公権力が気に入るものや都合のよいものは、法とは別の論理で保護され、公権力が気に入らないものや都合の悪いものは、法とは別の論理で恣意的に規制される。これでは全くの暗黒社会だ。

 不自由展・その後の展示に感心はしない。不自由展・その後が開催できなくなった社会の「その後」を考える必要があるといっているのである。不自由展・その後がやられて喜んでいれば、「その後」にやられるのは自分たちだ。不自由展・その後への批判と権力の濫用を容認することは別儀である。危機感を抱いた方がよい。

国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について

【沖縄戦76年】2021沖縄シンポジウム「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」(東京弁護士会)

 オンライン開催された2021沖縄シンポジウム「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」(主催、東京弁護士会)に参加し、第一部の講演「沖縄戦を忘れない─沖縄戦とPTSD─」(講師、蟻塚亮二さん)、および第二部の講演「沖縄は今なお本土の捨て石か─辺野古新基地建設の予定地の地質・活断層について─」(講師、立石雅昭さん)を聴講しました。

 このシンポジウムでは例年、東京の弁護士会館にて沖縄戦や基地建設をめぐる講演や写真展示などが開催されています。昨年はコロナの影響で中止となりましたが、今年はオンラインでの開催となり、沖縄戦とPTSDの問題に詳しい精神科医の蟻塚さん、また地質学・堆積学を専門的に研究されている新潟大学名誉教授の立石さんより、それぞれお話しを伺いました。

 特に蟻塚さんは、戦後ほとんど把握されてこなかった沖縄戦の壮絶な体験を要因とする戦争トラウマとPTSD、特に晩発性のPTSDに精神科医として向き合い、苦しむ方々の治療やケアにつとめるとともに、シンポジウムなどで症例の報告や理解促進とケアのためにできることなどを訴えています。

 沖縄戦においては、多くの米兵が涕泣や汚物の垂れ流し、機関銃の乱射といった異常行動を伴う戦争神経症を発症させましたが、言うまでもなく少なくない数の日本兵も戦争神経症とみられる異常行動を起こしており、戦後も沖縄戦を経験した沖縄住民が戦争神経症や戦争トラウマによるPTSDに苦しみ続けました。

 しかし、そうした苦しみに対する理解や医学的解明は進まず、戦争神経症に悩む人たちはその異常行動から「戦争幽霊」「兵隊幽霊」などといわれたり、戦争トラウマによるPTSDについては「気持ちが弱いからだ」などとして片付けられたりしていました。

 特に戦争トラウマによる晩発性のPTSDは、その症状や発症数の多さという点で非常に深刻なものがあります。晩発性ですからある程度歳をとった沖縄の住民が、例えば親族の死をきっかけに沖縄戦におけるトラウマが蘇り、不眠が続いたり体調を崩したり、あるいは戦争犠牲者の遺体を思い出して肉が食べられなくなったり、遺体の匂いを感じるようになったりといった症例を訴えることが多々あったそうです。

 精神科医として沖縄に赴任していた蟻塚氏は、そうした住民と接する中で海外の軍隊におけるPTSDの事例などとも比較しつつ、戦争トラウマとPTSDの問題に向き合い、治療やケアをする一方で、この問題を広く発信してきましたが、このたびのオンラインでのシンポジウムでもその実例を紹介いただきながら戦争トラウマとPTSDの問題、そしてこれをどう乗り越えていくかなどお話し下さいました。

沖縄戦のPTSDについてお話しされる蟻塚医師:琉球新報2014.12.17

令和元年6月22日 「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」シンポジウム(東京弁護士会)

【沖縄戦76年】慰霊の日「魂魄の塔」お参り、6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(ユンタンザミュージアム)

 沖縄「慰霊の日」の23日、沖縄戦の犠牲者を慰霊する「魂魄の塔」をお参りするとともに、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日に関連してオンライン配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(講師:豊田純志氏、読谷村教育委員会文化振興課村史編集係)を視聴しました。

魂魄の塔と雨のなか訪れた人たちの献花、お供えなど

 沖縄戦直後、現在の糸満市米須付近では、亡くなった犠牲者の遺体がまだ白骨化しきっておらず、髪の毛や皮膚が残っているような状況で野ざらしとなっており、ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏によると付近は「幾万の屍がるいるいとして風雨にさらされ、亡魂恨み泣き、身の毛のよだつ荒野」が広がっていたそうです。

 そうしたなかで昭和21年、金城和信村長主導のもと、米軍により米須付近に一時的に移転収容されていた旧真和志村の人々が野ざらしの遺体や遺骨の収容を始め、納骨しました。これが魂魄の塔の淵源です。

 旧真和志村の人々は同年5月に米須を去りますが、その後も地元住民が遺骨収容作業を続け、魂魄の塔に納骨しました。そうしたこともあり、魂魄の塔に合祀された犠牲者の数は約3万5000柱といわれ、沖縄最大の慰霊塔となりました。当初は自然の大きな穴に納骨していましたが、あまりの遺骨の多さで次第に山になっていったそうです。

魂魄の塔を訪れた自民党青年部慰問団 昭和34年撮影:沖縄県公文書館所蔵

 その後、魂魄の塔に納骨されていた遺骨は、識名の戦没者中央納骨所へ移され、さらに摩文仁に整備された国立沖縄戦没者墓苑に移され、魂魄の塔は現在のようなかたちの慰霊塔となりました。

 例年、慰霊の日は魂魄の塔にたくさんの参列者が訪れますが、沖縄戦から76年の今年の慰霊の日は大雨であり、また昨年も含めコロナの影響でお参りする人も少なく、物寂しい慰霊の日となりました。

 その後、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日にあわせて配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」を視聴しました。

 ユンタンザミュージアムでは今年、慰霊の日に関連し第34回平和創造展「沖縄戦と読谷村の軍事要塞化」を開催予定であり、慰霊の日には6.23慰霊の日講座として「読谷村における軍事飛行場建設について」との講演がなされる予定でしたが、コロナによる緊急事態宣言のためミュージアムが休館となり展示も行われず、6.23慰霊の日講座のみオンライン配信されるかたちとなりました。

 講師の豊田さんによると、沖縄戦の地上戦以前より読谷村では日本軍北飛行場の建設が進められ、それにより沖縄戦では米軍上陸ポイントとなり読谷村一帯は激戦地となったそうです。また上陸した米軍は北飛行場の接収を進め、拠点としていきますが、それは他方で義烈空挺隊の空挺特攻や日本軍特攻機の攻撃対象になるということでもあり、読谷村では引き続き激戦が続きました。

 北飛行場は沖縄戦後、米軍の読谷飛行場として拡張されるとともに、北飛行場北西にはさらにボーロ―飛行場という新たな飛行場が建設されるなど、読谷村一帯は軍事要塞と化していき、住民の被害や負担は長く続いていきました。特に昭和40年には、読谷飛行場でのパラシュート投下訓練中のトレーラー落下事故により女子小学生が犠牲となる痛ましい事故が起きています。

 この講座は慰霊の日が過ぎてもYouTubeで引き続き視聴することができますので、ぜひ視聴し沖縄戦とその後の米軍統治による読谷村での飛行場建設や住民の被害、基地負担などについて学んでいただきたいと思います。

令和2年6月23日 沖縄慰霊の日(魂魄の塔、平和の礎)

【沖縄戦76年】沖縄戦を学ぶオンライン学習会 第5回「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」(沖縄県平和委員会)

 沖縄「慰霊の日」を明日に控えた22日、沖縄県平和委員会主催の沖縄戦を学ぶオンライン学習会の第5回「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」(講師:山口剛史さん、琉球大学教育学部)を聴講しました。

講師の山口さん:琉球朝日放送2020.3.25

 山口さんは琉球大学で主に沖縄戦と平和教育の問題などについて研究されていますが、特に学校での授業の実践を通じ、子どもたちの歴史認識や子どもたちの疑問と向き合い、沖縄戦教育・平和教育のあり方についてお考えになっています。

 このたびのオンライン学習会で山口さんは、現在の沖縄戦教育・平和教育の一例、例えば沖縄戦で住民が避難したガマに子どもたちを連れていき見学させ、そのなかでガマ内の暗闇を体験させるという「暗闇体験」を通じて子どもたちが感じる恐怖心から沖縄戦の恐怖を想起させ共感させるといったガマ学習を取り上げ、はたしてそうした体験は学び、伝えていくべき沖縄戦の実相(恐怖)なのかと問題を投げかけます。

 その上で沖縄戦教育が陥っている問題としてしばしば指摘されている「戦争は悲惨」「平和が大事」といったいわゆる「平和教育のマンネリ」について、必ずしも戦後70数年といった歴史が生み出したものではなく、子どもが主人公の授業をどうつくりあげるかという問題だとし、「地上戦の特徴を考える」、「沖縄戦における戦争動員について考える」、「沖縄の住民はどう生き残ったのかということを考える」という山口さんの実践を紹介いただきました。

 例えば「地上戦の特徴を考える」という実践では、沖縄戦のすさまじい地上戦の惨状を形容する有名な「鉄の暴風雨」「カンポーヌクエヌクサー(艦砲の喰い残し)」といった言葉を具体的にイメージすることを大事にし、子どもたちに爆弾の破片を触らせ具体的に「モノ」を通じて戦場のリアリティを想起させつつ、いかに地上が危険だったかを考えることを通じ、上述のガマ学習でいえば住民が避難するためにガマに入ったこと、ガマを求めて南部へ避難したこと、そしてそのガマを日本兵に追い出されたといった沖縄戦教育に導き、そこから今も軍隊があり兵器があることはなぜなんだろうといった総合的な平和教育に発展させていくといった実践をなされているそうです。

 そうした山口さんの実践と沖縄戦教育・平和教育の現状のリポートを通じ、学校教育ばかりでなく社会教育や地域教育を通じ、私たちがどのように「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」ということを考えさせられました。

学習会でお話しされる山口さん

 学習会の最後、聴講者との質疑応答では、沖縄戦や過去の大戦の被害の側面ばかりでなく朝鮮出身者や大陸での加害の問題、チビチリガマを荒した少年たちと学校教育の問題、沖縄への差別や蔑視の問題などについて、活発な意見交換がなされました。

【沖縄戦76年】「沖縄の戦争展」写真・資料展示会「沖縄戦展」(戦場体験放映保存の会、文京シビックセンター)

 18日、戦場体験放映保存の会による「沖縄の戦争展」の写真・資料展示会「沖縄戦展」を鑑賞しました。

「沖縄戦展」展示会場の様子

 「沖縄の戦争展」では、沖縄戦犠牲者の遺骨が混じっている可能性のある沖縄南部の土砂を基地建設のために使用してはならないと訴えている遺骨収容ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんを招いたウェブ講演会や、沖縄戦を実際に戦った元日本兵の方や白梅学徒隊として看護要員に動員された沖縄の女性から戦争体験を伺うウェブ茶話会、沖縄戦に関連する写真やガマなどから見つかった資料、沖縄戦体験者の証言をまとめたパネルなどを展示する「沖縄戦展」からなっています。

 写真・資料展示会「沖縄戦展」では、日米の激しい戦闘の様子やそれにより命を落とした犠牲者の遺体、あるいは捕虜となった兵士たちや収容された住民たちなど米軍が撮影した沖縄戦当時の写真が展示されているとともに、兵士や住民が逃れたガマを戦後に調査撮影した写真なども展示され、そこでは人々の衣服が米軍の火炎攻撃により炭化しガマに付着した様子など、凄惨な沖縄戦の現実が示されていました。

 また具志堅さんはじめ多くの人が今なお取り組んでいる沖縄戦の遺骨収容の様子を撮影した写真も展示されていました。

 展示されている写真を見ると、遺骨収容と聞いてイメージするような、遺骨がある程度骨格を保ったまま発見収容されることもある一方で、一見遺骨とわからなくなりながらもよく見ると細かく無数の遺骨が土砂に混じって発見収容されることもあり、慣れない者が簡単なチェックをして遺骨はなかったと判断し南部の土砂を基地建設に使用するようなことは絶対に避けなければならないことが理解できます。

遺骨収容の様子や土砂に混じった細かい遺骨など

 写真・資料展示会「沖縄戦展」は、文京シビックセンター1階にて今月18日から20日まで、ウェブ茶話会は19日と20日にネットもしくは文教シビックセンター近くの視聴会場にて視聴することができます。残念ながら具志堅さんの講演は終了していますが、展示会場で録画が放送されています。

 詳しくは以下の案内をご覧下さい。

【沖縄戦76年】「海軍中将大田実顕彰碑」、ピースフェア2021「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦」

 12日、沖縄戦で海軍沖縄方面根拠地隊の司令官を務めた大田実海軍中将の生家に建つ「海軍中将大田実顕彰碑」(千葉県長柄町)を訪問しました。

「海軍中将大田実顕彰碑」

 大田中将は明治24年、千葉県長柄町に生まれ、海軍兵学校を卒業後、主に砲術や海軍における陸戦の専門家として上海事変などに陸戦隊の大隊長として出征した他、ミッドウェー島攻略を目指す海軍部隊の陸戦の指揮官などを務めました。

 また昭和19年より海軍沖縄方面根拠地隊の司令官として沖縄の海軍部隊を指揮し、米軍沖縄上陸後は海軍小禄飛行場(現那覇空港)周辺の防衛などを担い、昭和20年6月13日未明、豊見城の海軍司令部壕において海軍部隊の幕僚ともども自決しました。

 自決直前の6月6日、大田中将は沖縄県知事にかわり海軍次官宛てて、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉で結ばれた沖縄戦の実情を報告する文章を送りました。

 この「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の一節は大変有名であり、県民を思いやる立派な言葉ですが、それはあくまでも沖縄戦で軍が県民を戦争に巻き込み、保護や配慮も十分でなく、県民が多大な犠牲を強いられたという沖縄戦の現実があっての上でのものであり、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の言葉だけが独り歩きし、まるで県民がみずからの意志でお国のために勇戦敢闘したという、ある種の殉国美談として語られることには注意が必要です。

顕彰碑と碑文

 それとともに軍首脳として沖縄戦の指揮をとった大田中将自身が沖縄戦において沖縄県民のために何をしたのか、戦争を避け、住民保護に全力を尽くしたのかということも考える必要があります。県民への配慮は、沖縄戦において大田中将自身がするべきことであったはずですが、沖縄戦では大田中将ひきいる海軍部隊も県民を多数防衛召集し戦争に動員しており、沖縄県民を「スパイ」視したり、また朝鮮出身者を戦争に巻き込むなどもしてます。

 そして何より大田中将が「御高配」を願った「後世」たる現代を生きる私たちは、沖縄戦で犠牲になった沖縄に何を押しつけ、何を強いて、何を得ているのか、そのことも考えていく必要があります。

 その後、千葉市の複合ビル Qiball(キボール)で開催中の千葉市平和のための戦争展ピースフェア2021 in 千葉「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦・他」を見学しました。

ピースフェアの展示

 ピースフェアでは、昭和20年5月8日、6月10日、7月7日の千葉市空襲など千葉県と千葉市に関係する戦争の展示とともに、主に東京大空襲と沖縄戦を中心とした戦争孤児の問題についての展示がなされていました。

 戦争孤児の問題は近年ようやく本格的な実態調査や研究が進み、社会的に認知されるようになりました。特に沖縄戦と戦争孤児の問題については、沖縄北部の沖縄戦や沖縄戦における護郷隊、あるいは秘密戦の問題に詳しい川満彰さんが研究を進めています。

 また戦争孤児の問題とも関連しますが、今国会での成立が期待されながらも残念ながら法案提出にいたらなかった空襲被害者救済法の早期成立に向けた展示などもなされていました。

 ピースフェアは13日(日)まで Qiball 1階のホールで開催しています。

「海軍中将大田実顕彰碑」訪問