東電福島原発の汚染水海洋放出の決定に抗議し撤回を求める(令和3年4月13日)

海洋放出の方針決定

 政府は関係閣僚会議において、東京電力福島第一原子力発電所の汚染水について、海洋放出する方針を決定した。

 海洋放出の方針決定に強く抗議し、撤回を求める。

福島第一原発と汚染水貯蔵タンク(朝日新聞2019.3.19)

 汚染水はこれまで、福島第一原発構内に設置されたタンクに貯蔵され、陸上保管が続けられてきた。

 汚染水は日々大量に発生しているため貯蔵タンクは次々に増設されているが、構内のスペースの関係上、まもなく陸上保管は限界を迎えるといわれている。

 そこで考えられたのが汚染水の海洋放出だ。

 汚染水は地下水や冷却水が事故により溶け落ちた核燃料(デブリ)と触れることで発生し、様々な放射性物質を含んでいる。そのため、そのままでは海洋放出できないので、汚染水をALPSといわれる施設で処理し、トリチウム以外の放射性物質の濃度を基準値以下まで低下させ、さらにトリチウムを国の基準値(60,000Bq/L)の40分の1(1,500Bq/L)まで希釈し、海洋放出するというのである。

海洋放出の問題点

 しかし、その実態は問題だらけだ。

 汚染水をALPSで処理し、トリチウム以外の放射性物質の濃度を基準値以下まで低下させるというが、実際にはALPS処理済の汚染水にトリチウム以外の放射性物質が基準値以上の濃度で残っており、海洋放出の前提は根本的に破たんしている。

 海洋放出にあたりALPS処理済の汚染水を二次処理し、あらためてトリチウム以外の放射性物質の濃度を低下させるというが、二次処理の技術も完全とはいえない。

 仮にトリチウム以外の放射性物質の濃度を低下させたとしても、トリチウムを海洋放出していいのかという問題もある。

 海外の原発でもトリチウムを含む水を海洋放出しているというが、通常稼働している原発と前代未聞の事故を起こした原発を単純に比較することはできない。

 また、海洋放出にあたり、汚染水のトリチウムを国の基準値の40分の1まで希釈するというが、それはトリチウムについての値であって、汚染水に含まれる他の放射性物質の濃度はどうなのか、汚染水全体としての濃度はどうなのか、明確な説明はない。

水産漁業者の苦しみ

 福島県はじめ三陸沖の水産漁業者の被害も深刻だ。

海洋放出に反対する福島県漁連会長(KFB福島放送2021.4.7)

 政府は風評被害について対策をするというが、汚染水の海洋放出は水産漁業者にとって風評被害を越えた実害であり、ある種の暴力ともいえる。

 海洋放出は一度で終わらず、濃度の問題から20年から30年、40年と延々と続く。そもそもデブリの取り出しが完了しなければ汚染水はいつまでも発生するのであり、極端にいえば100年先でも汚染水が発生し海洋放出が行われている可能性もある。その間、水産漁業者の苦しみに終わりはない。

 いうまでもなく海は一つにつながっており、アジア太平洋諸国はもちろん世界中に被害をおよぼす可能性もある。

 被害は人間ばかりでない。海洋生物はじめ各種の動植物にも大きな影響を与えることも十分に考えられる。考え直すべきだ。

陸上保管の継続を

 汚染水はひとまず陸上保管を継続する他ない。大型タンクの設置やモルタル固化など、陸上保管のための様々な方途を真剣に検討し、最善の策を選ぼう。

 また、そもそも汚染水を発生させないよう、地下水の遮断や冷却方法の見直しなど根本的な対策も必要である。

 人間は全知全能の持ち主ではなく、人間の技術は自然を「アンダーコントロール」できるようなものではない。「原発事故は絶対に起きない」などと驕った人間に突きつけられた自然の猛威とそれによる原発事故。あれからわずか10年で再び「海洋放出は絶対安全だ」などという愚かしき「アンダーコントロール」の思想に立ち返ってはならない。

 海洋放出に反対することを非科学的という向きもあるが、それは違う。むしろ疑問が呈される技術を妄信し、批判の声に耳を傾けず海洋放出に突き進む姿勢こそ非科学的だ。

 人間の知や技術には限界があるという謙虚な人間観に基づきながら、少しでも安全な技術を追求し、無謀な道を回避しながら知見を深め、多くの人々の幸福に寄与するのが人間らしい科学のあり方ではないだろうか。

 あらためて汚染水の海洋放出の方針決定に抗議し、撤回を求める。

令和3年3月23日 映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)

 ユーロスペース(渋谷)で公開中の映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」(佐古忠彦監督)を鑑賞しました。

 映画では、昭和20年1月、凄惨な地上戦が始まる直前に沖縄に県知事として赴任した島田叡を取り上げ、「軍官民共生共死の一体化」を訴える日本軍に協力し、県民にも決起戦闘を訴える一方で、県民の食料確保や疎開の実施に努め、知事として自身の責任は最後まで軍と運命をともにし死を以て全うしようと考えながら、戦闘下にあって部下や県民には生き延びるよう語りかけ、戦闘終結後の沖縄再建を託すなど、軍の方針との矛盾に悩み、知事という職務と開明的で進歩的な個人としての人間性の相克に苦しみつつも決断を下していく島田知事の姿が描かれていました。

 島田知事については、これまで諸作品で前任の知事である泉守紀が軍に迎合しながらも沖縄を見捨てて逃げたように描かれ、それと対照的に滅私奉公で尽くした人格高潔な人物として位置づけられてきましたが、一方で島田知事が軍に協力し、鉄血勤皇隊の編成などで県民を戦闘に動員したことは事実であるとして、今なおその評価は定まっていませんが、そうしたなかで勇気をもって島田知事を正面から取り上げ、公務と個人としての葛藤などその内面に迫り、証言をまとめたり新しい資料を発見することによって歴史的に位置づけなおした素晴らしい作品かと思います。

 なお佐古監督はTBSのアナウンサーや記者を務め、過去に映画「米軍が最も恐れた男 その名はカメジロー」なども制作しています。

映画「生きろ 島田叡─戦中最後の沖縄県知事」公式サイト

平成29年9月6日 映画『米軍(アメリカ)が最も恐れた男 その名は、カメジロー』

映画『米軍が最も恐れた男~その名は、カメジロー』(監督:佐古忠彦氏)

令和3年3月20日 オンライン講演会「登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館第11回企画展「極秘機関『陸軍登戸研究所』はこうして明らかになった─登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ─」のオンライン講演会「登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ」(講師:渡辺賢二さん、登戸研究所資料館展示専門委員)を視聴、学習しました。

オンライン講演会(ウェビナー画面) 右上は講師の渡辺さん

 現在の明治大学生田キャンパスとなっている陸軍登戸研究所では、特殊作戦のための兵器開発や諜報・謀略など秘密戦に関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発、あるいは大陸戦線での軍費確保や国民党政権の混乱のための偽札製造、アメリカ大陸を直接爆撃するための風船爆弾の開発、諜報要員のための盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 そのため終戦時の登戸研究所の解散にあたっては、書類や資材などの証拠隠滅がおこなわれました。職員など関係者たちにも戦後、暗黙裡で秘密保持が求められたため、彼らは戦前戦中の研究所での出来事を語ろうとはしませんでした。また関係者たちは占領してきた米軍に尋問されることもありましたが、731部隊と同様、資料や情報を提供することにより戦犯訴追を免れるとともに、それにより公職に就いたり米軍関係の仕事に就くこともあったため、関係者たちはなおのこと登戸研究所で何があったかについて口を閉ざしました。こうして登戸研究所は戦後、その実態がほとんどわからない状態でした。

 しかし登戸研究所のあった川崎市における平和教育の高まりや関係者の心情の変化のなかで、高校生が主体となって関係者との対話が試みられ、関係者による資料の提供や体験談の継承の動きがあり、明治大学への働きかけにより施設の保存や資料館の設置などが進められました。

 講師の渡辺さんよりそうした登戸研究所の歴史とこれまでの歩みを伺いました。次回のオンライン講演会は5月15日より、山田朗さん(明治大学教授)を講師として開催されます。ぜひご視聴下さい。

明治大学平和教育登戸研究所資料館第11回企画展「極秘機関「陸軍登戸研究所」はこうして明らかになった-登戸研究所掘り起こし運動30年のあゆみ-」

令和3年3月17日 「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」(国立歴史民俗博物館特集展示)

 国立歴史民俗博物館の特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」を見学しました。

 八重山諸島と宮古諸島は、現在の沖縄県の一部であり、近世以降は琉球王国の領域でもありましたが、中世の八重山・宮古には、例えばサンゴの石を積んで囲った沖縄島では見られない独特の集落があったり、そこから沖縄島ではあまり見ないタイプの中国製の陶磁器が見つかり、中国との直接交易があったことを伺わせるなど、中世の八重山・宮古は言語や習俗、交易などにおいて沖縄島とは異なる独自の文化圏であったと考えられます。

 また中世の日本の地図は八重山・宮古について詳細に記していませんが、アジアに進出してきたヨーロッパ人の地図には、八重山・宮古についても記されており、そうした地図からは八重山・宮古が南に向かって開かれた地であることを示しています。

 また奄美も近世において琉球王国の領域に組み込まれますが、中世においては独自の地域であり、都の貴族たちにとってはある種の「外国」でしたが、鎌倉幕府の御家人で後に北条氏の得宗被官としてこの地を所領とした千竃氏の書状を見るとそこには明確に「内」の意識があったりと、境界領域が奄美であったということができます。

 こうした遺跡や出土品、地図、文書、絵画などの中世の八重山・宮古・奄美をめぐる資料から、琉球・沖縄そして日本と世界の歴史に思いを馳せました。

 特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」の展示期間は、3月16日から5月9日までとなっています。途中、展示替えなどもあるようです。ぜひご見学下さい。

歴博特集展示「海の帝国琉球─八重山・宮古・奄美からみた中世─」

【東京大空襲76年】東京大空襲76周年 第15回朝鮮人犠牲者追悼会(東京大空襲朝鮮人犠牲者を追悼する会)

 東京大空襲から76年、東京都慰霊堂において東京大空襲76周年 第15回朝鮮人犠牲者追悼会(主催:東京大空襲朝鮮人犠牲者を追悼する会)が営まれ、東京大空襲で犠牲となった朝鮮半島出身者を慰霊追悼するため参列し、黙とう献花しました。

 東京大空襲では、様々な理由で日本に来ていた、あるいは強制動員により日本に連れられてきた朝鮮半島出身者も被害にあい、約1万人の朝鮮半島出身者が犠牲となり、負傷者は約4万人にのぼるといわれています。

 東京都慰霊堂には東京大空襲で犠牲となった人々の遺骨が安置されていますが、犠牲となった朝鮮半島出身者の遺骨も安置されており、毎年朝鮮半島出身者の犠牲者を慰霊追悼するため追悼会が開催されています。

 東京大空襲についてはいろいろな人が語り継ぎ、また各種の研究がなされ、平和学習などにおいても題材とされていますが、そこにおける朝鮮半島出身者の犠牲や被害についてはほとんど語られず、詳細な検証などもなされていません。広島・長崎への原爆投下と朝鮮半島出身者の被爆の体験についても同様のことがいえますが、それはあまりにも冷酷でむごい仕打ちです。

 東京大空襲における朝鮮出身者の犠牲や被害、その後の遺骨の奉還などについての研究は、李一満氏の論文「東京大空襲と朝鮮人」(『季刊戦争責任研究』第53号)が唯一まとまったものとしてある程度といえます。李氏は論文において、朝鮮出身者が渡日した背景や状況、朝鮮出身者の空襲被害に関する証言や体験談をまとめるとともに、公文書や東京都慰霊堂の資料などから朝鮮出身者の被害と犠牲、その後の遺骨の安置や引き渡しの現状などを分析しています。

 こうした東京大空襲における朝鮮半島出身者の犠牲についてもしっかりと語り継ぎ、さらなる検討や研究を進め、遺骨の引き渡しなども含め慰霊追悼していくべきです。

 また民間人をあえて狙い東京の下町地区に焼夷弾を投下した米軍の空襲は許されざる蛮行ですが、米軍の空襲の火の中には強制動員により連れてこられた朝鮮半島出身者が多数いたという日本の非道もまた許されるものではありません。そうした被害と加害の双方の歴史を忘れてはなりません。

【東京大空襲76年】東京大空襲・城北大空襲犠牲者および米兵捕虜慰霊追悼

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)

【東日本大震災10年】東日本大震災犠牲者慰霊追悼(福島県いわき市、千葉県旭市)

 東日本大震災から10年の年月が経ちました。震災による死者、行方不明者、避難生活などで亡くなった関連死の死者はあわせると約2万2200人、そして今なお約4万人以上の人が避難生活を送っています。

 まさしく未曾有の大震災より10年のこの日、大きな揺れと津波に見舞われた福島県いわき市平豊間地区、同市薄磯地区、そして千葉県旭市飯岡地区に建つ慰霊碑や記念碑を訪れ、震災関連犠牲者を慰霊追悼するとともに、被災や復興について学習しました。

8.5メートルの津波が襲ってきた豊間の海と浜辺

 福島県いわき市平豊間では震度6強の地震に見舞われた後、およそ三階建ての建物に相当する高さ8.5メートルの大津波に襲われ、住民85人が死亡または行方不明となり、約400戸の家屋が流失しました。

 豊間の浜辺の近くには「豊間地区東日本大震災慰霊碑」が建ち犠牲者を弔うとともに、例年慰霊碑の前で住民による追悼式などがおこなわれています。

豊間の「豊間地区東日本大震災慰霊碑」

 また豊間の隣のいわき市薄磯はいわき市内で一番大きな被害を出しました。薄磯では豊間と並ぶ8.1メートルの大津波が襲来し、265世帯の家屋のほとんどが流出、122人が亡くなったといわれています。

 そうしたなかで薄磯には「東日本大震災慰霊碑」が建ち犠牲者を弔っています。また慰霊碑の横の寺院では追悼の法要なども営まれています。

薄磯の「東日本大震災慰霊碑」

 また薄磯にある「いわき震災伝承みらい館」を訪れ、被災の状況や復興の歩みの展示を見学しました。東日本大震災当日、豊間中学校は卒業式であったため、卒業生たちの記念の寄せ書きが残る黒板が保存、展示されていたのが印象的でした。思い出深い卒業の日に襲ってきた大地震と津波。卒業生たちはこの日をどう過ごしたのか、それぞれの10年前の今日という日に思いを馳せました。

「いわき震災伝承みらい館」に展示されている豊間中学校卒業生の寄せ書きが残る黒板

 地震による津波は三陸沖や福島、茨城ばかりでなく、千葉の外房・九十九里浜一帯にも襲来し、犠牲者を出しました。なかでも千葉県旭市飯岡は海抜約7.6メートルもの津波に見舞われ、10人以上の犠牲者が出た他、300棟以上の建物が全壊するなど多大な被害を出しました。「東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑」はそうした津波と犠牲を記録する記念碑であり、記念碑を通じ心中にて犠牲者を慰霊追悼しました。

飯岡の「東日本大震災旭市飯岡津波被災の碑」

【東日本大震災9年】東日本大震災慰霊碑(福島県いわき市豊間地区)

【東日本大震災8年】東日本大震災慰霊之塔(宮城県仙台市若林区荒浜)

【東京大空襲76年】東京大空襲・城北大空襲犠牲者および米兵捕虜慰霊追悼

 東京の下町地区一帯が襲われた東京大空襲から76年を迎えます。

 空襲犠牲者の遺骨を安置する東京都慰霊堂では例年3月10日、春季大法要が営まれますが(昨年および今年はコロナのため一般参列者の参列については制限等があります)、感染症対策として密を避けるため、一日早い今日、東京都慰霊堂や空襲犠牲者の遺体を仮埋葬した地に建つ慰霊碑、下町以外の空襲の犠牲者を供養する地蔵、また撃墜された米軍機の搭乗員である米兵が処刑された地を訪れ、総ての犠牲者を慰霊追悼しました。

東京都慰霊堂

 東京大空襲による犠牲者の遺体の多くは猛火に焼かれたため生前の面影を留めず、身元がわからないため親族が遺体を引き取ることもかなわないため、上野公園や隅田公園、錦糸公園など下町の大きな公園や社寺の境内等に仮埋葬され、終戦後に仮埋葬から掘り起こされた遺骨が東京都慰霊堂に安置されたといわれています。仮埋葬地であった上野公園と隅田公園に建つ慰霊碑をお参りしました。

 こうした遺体の仮埋葬は戦時下にあって丁重かつ正確におこなわれたとはいえず、遺体の状況もあって一人一人を埋葬したというよりも、まさしく「処理」という言葉がふさわしいような扱いであったといわれています。そのため仮埋葬した遺体の数もアバウトであり、そもそも仮埋葬した場所もはっきりしておらず、空襲犠牲者の数も正確なところはわからず、今なおどこか仮埋葬の地で眠っている犠牲者の遺体もあると考えられています。

仮埋葬地の一つである上野公園の近くに建つ慰霊碑

 空襲犠牲者の遺体は土葬による仮埋葬だけでなく、可能な限り火葬も行われたといわれています。上野公園一帯は東京大空襲の犠牲者を仮埋葬した地の一つですが、上野公園内に建つ西郷さんの銅像の周辺では空襲犠牲者の遺体を野焼きしたといわれ、いわば臨時の火葬場でもありました。

臨時の火葬場であった西郷像

 東京大空襲というと3月10日の下町地区の空襲を想起しますが、それ以外にも東京各地が空襲に見舞われています。

 東京大空襲の約一ヶ月後の4月13日夜から14日未明にかけての城北大空襲では、現在の板橋区や豊島区など東京の城北地区一帯が襲われました。板橋区大山に建つ空襲犠牲者供養の地蔵は、その際の犠牲者を供養しています。

空襲犠牲者供養の地蔵

 軍需工場があった立川も空襲に見舞われましたが、戦争末期の8月、立川を襲ったB-29が撃墜され、搭乗員の米兵が捕えられました。米兵は錦国民学校(現在の立川市立第三小学校)の校庭に連行され、柱に縛り付けられ、多数の市民に竹の棒などで殴打された上で、近くの寺院である正楽院の墓地で日本軍将校により斬首され、そのまま埋葬されたといわれています。

 米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、戦中、日本の各地でこうした米兵捕虜の虐殺事件や虐待事件という戦争犯罪が起きていたことも忘れてはなりません。

米兵捕虜が斬首埋葬された墓地のある正楽院

 また民間人の空襲犠牲者への補償は戦後76年経った今なお満足に行われておりません。それとともに空襲はたくさんの戦争孤児を生みましたが、孤児たちを支える政治や社会の仕組みは十分でなく、大変厳しい生活を送ったといわれながら、孤児たちの戦後がどのようなものであったのか今でも十分に解明されていません。

 あらためて米軍による市民を巻き込む空襲という戦争犯罪を忘れてはなりませんが、その犠牲者被害者に対し日本の政治や社会が十分に対応し、寄り添ったのか、考えていく必要もあります。

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)

【東京大空襲75年】東京大空襲犠牲者慰霊・追悼

【東京大空襲74年】戦災孤児収容施設「東水園」跡(旧品川第五台場)

令和3年3月3日~6日 新基地建設のため沖縄南部からの土砂採取に反対するハンストへの連帯行動

 現在、沖縄では辺野古新基地の埋立工事が進められています。

 これまで防衛省の計画では、埋立用の土砂は主に県外で採取し沖縄に運搬して使用することとなっていましたが、沖縄県による県外土砂規制条例制定の動きもあり、沖縄県内で土砂を採取する方針に切り替わりました。それにより現在まで土砂採取がおこなわれている本部半島のみならず、今後は沖縄南部でも土砂の採取が計画されるようになりました。

 ところが沖縄南部は沖縄戦の最激戦地であり、土砂採取地一帯は戦跡国定公園に指定され、今なお遺骨収集が行われ、収骨されている状況です。つまり沖縄南部で採取される土砂には沖縄戦犠牲者の遺骨が含まれている可能性もあることから、3月1日から6日まで、遺骨収集ボランティアのガマフヤーの具志堅隆松さんが沖縄県に対し工事中止を命じるよう求めるとともに、沖縄防衛局に土砂採取をやめるよう求め、沖縄県庁前でハンストをおこなっています。

 しかし考えてみれば、沖縄の人々にそうした苦闘を強いているのは、勝手な都合で沖縄に基地を押しつけ、また辺野古に新基地を建設しようとしている本土であり、端的にいえば政府・菅政権です。

 その意味において、具志堅さんら沖縄の戦いに本土の私たちが連帯するには、政府・菅政権に辺野古新基地建設をやめるよう求めることであるはずです。

 そこで3月3日から具志堅さんのハンスト最終日である6日まで、それぞれ1日のうちの限られた時間ですが、首相官邸前で具志堅さんら沖縄の戦いを紹介しながら座り込みや街宣をおこない、政府・菅政権に対し沖縄戦犠牲者に向き合い辺野古新基地建設を撤回するよう求めました。

 安倍前首相が硫黄島を訪れた際、地下に多くの日本兵の遺骨が眠っているといわれる自衛隊の滑走路にひざまずいたことは有名ですが、硫黄島の戦いの犠牲者への思いがそこまでありながら、沖縄戦の犠牲者のことは知らないし、遺骨がどうなってもいいということはないはずであり、特に保守を自認する政治家や政党こそ怒りを持つべきではないでしょうか。

 そもそも政府は戦後70年を期し、遺骨収集を「国の責務」と表現し、これまで以上に力を入れていく方針を打ち出しましたが、沖縄南部での土砂採取計画は、そうした政府方針と矛盾します。また沖縄戦における沖縄南部の米須での旧真和志村の住民による遺骨収集と「魂魄の塔」の建立が示しているように、戦後の沖縄の住民の歴史もいわば遺骨収集とともにあったわけであり、遺骨収集の軽視はすなわち沖縄の歴史の軽視といえます。

 それとともに、これは右や左を越えた人倫の話でもあります。

 沖縄南部には沖縄の住民や日本兵の犠牲者のみならず、戦った米兵の犠牲者もいれば、日本軍の軍属であった朝鮮半島出身者の犠牲者の遺骨も眠っています。そうした土砂を誠心誠意の遺骨収集と弔いのもと民生用の工事等で使うのならばまだしも、何の敬意も敬虔さもなく海の底に沈め、米軍基地の下敷きにするなど、人間としてやってはならないことです。

 付け加えるならば、新基地建設が進められている辺野古のキャンプ・シュワブ内にも多くの遺骨が強く反対します。

大浦崎収容所 今帰仁村住民の墓地なども見える

 すなわち辺野古崎周辺は沖縄戦時、大浦崎収容所として住民が収容された場所です。収容所における住民の暮らしぶりは厳しいものがあり、飢えやマラリアなど病気の蔓延で死者が続出し、埋葬されました。今帰仁村から連れて来られ大浦崎収容所に収容された住民の墓地もあり、そこも新基地建設であらたな基地となる予定です。

 こうした新基地建設を認めていいのか。強く反対します。

3月3日 官邸前での座り込み
3月4日 官邸前での座り込み
3月5日 官邸前での座り込み
3月6日 自民党本部前での街宣

【東京大空襲76年】「東京大空襲を語り継ぐつどい」(東京大空襲・戦災資料センター開館19周年)

 まもなく昭和20年3月10日の東京大空襲から76年となりますが、東京大空襲・戦災資料センター開館19周年を記念しオンライン配信された「東京大空襲を語り継ぐつどい」を視聴しました。

オンライン配信の冒頭

 同センターでは毎年この時期に「東京大空襲を語り継ぐつどい」を開催していますが、昨年はコロナの影響で中止となり、今年はオンラインでの配信というかたちとなりました。

 内容は、戦争体験談「ガラガラ、ガラガラ、猛火 焼夷弾 私は逃げて 逃げて 命をつないだ」(東京大空襲体験者の白石哲三さん)、講演「今、戦争体験と向き合う―戦後76年の現実から考える」(センター館長の吉田裕さん)、報告「戦災資料センタ―この一年の動き」(センター学芸員の比江島大和さん)、そしてセンター名誉館長の早乙女勝元さんの挨拶というものでした。

 白石さんは、3月10日にB-29が来襲し家族7人が4班に分かれてバラバラで逃げたこと、お姉さんたちは母親の「暗いところを目ざして逃げなさい」という忠告に基づき暗い方暗い方へと逃げ、気づいた時には春日部にまで避難していたという話、奇跡的にも家族全員無事だったが、その後の避難先である大森でも空襲に見舞われ焼け出されたことなど、貴重なお話しを伺うことができました。また東京の地図や空襲の映像、空襲を描いた絵などを用いつつ、視覚的にもわかりやすくお話しして下さいました。

お話しされる吉田館長

 吉田さんは日本近現代史を長年にわたって研究され、『日本軍兵士』(中公新書)などのご著書でも知られる著名な歴史学者でもありますが、けして堅苦しくなく、ご自身の体験に基づきながら笑い話も交えつつお話しして下さいました。

 特にお話しの冒頭、先般お亡くなりになられた東京大空襲体験者でもある半藤一利さんの言葉をひきつつ様々な戦争体験の語られ方を紹介するとともに、戦争体験を忘れようとした戦後まもなくの人々の精神性や、語られてこなかった戦争体験、戦後76年という時の流れとそこにおける戦争体験の継承の難しさ、戦争関係の博物館などの展示のあり方など、様々なことを伺うことができました。

 オンライン配信は14日までとなっており、現在も申し込み可能ですので、ぜひご視聴下さい。

 詳細は以下よりご確認ください。

令和3年2月25日 二・二六事件85年 事件刑死者・犠牲者慰霊

 昭和11年の2月26日に発生した陸軍青年将校らによる二・二六事件から85年を明日に控え、事件で刑死した青年将校らの慰霊像や墓所をお参りしました。

二・二事件慰霊像

 「二・二六事件慰霊像」は、青年将校らや事件の「首魁」と見なされた北一輝などが死刑判決をうけ刑死した陸軍刑務所跡(現在のNHK付近)に建っています。

 この慰霊像は、昭和40年に事件刑死者らの遺族・関係者による集まりである「仏心会」により建立され、刑死者のみならず、自死者、また青年将校らに命を奪われた重臣や警察官も慰霊しています。

二十二士之墓

 麻布の賢崇寺の墓地に建つ「二十二士之墓」は、事件で刑死した青年将校ら22人の墓です。

 事件後、警察や憲兵の圧力もあり、刑死した青年将校らを葬ることが難しい状況にありました。そうしたなかで様々な縁により賢崇寺に葬られ、現在まで丁重に弔われています。

 特に2月26日は刑死者ばかりでなく、慰霊像同様、事件で命を奪われた重臣や警察官なども含めた法要がおこなわれているそうです。

北一輝先生之墓

 目黒不動尊(瀧泉寺)の墓地に建つ「北一輝先生之墓」は、北一輝の故郷佐渡の大安寺の墓所とともに北が葬られています。

 北は事件の「首魁」として検束され刑死します。北が事件に全く関与していなかったということはできませんが、北が「首魁」として事件を計画し、指導し、実行していったとはいえず、弟子の西田税とともに有罪・死刑の結論ありきの裁判により刑死しました。

磯部浅一 妻登美子之墓

 小塚原回向院の墓地に建つ「磯部浅一 妻登美子之墓」には、元陸軍一等主計(大尉相当)で事件に参加し刑死した磯部浅一と妻の登美子が葬られています。

 磯部が獄中で記した日記や手記など獄中記が今に伝わっていますが、そこには昭和天皇を激しく叱責する文言が散見される一方、「陛下に直通することが第一番です」「今となっては、上御一人に直接に御すがりするより他に道はないと思います」といった昭和天皇への希求や渇仰が記されており、磯部の忠義の心の激しい揺れ動きを読み取ることができます。

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

令和2年2月26日 二・二六事件84年 磯部浅一・登美子夫妻墓参