大正10年(1921)9月28日朝9時30分頃、大磯にある安田財閥総帥安田善次郎の別邸「寿楽庵」において、神州義団の団長を名乗る朝日平吾が安田を刺殺し、朝日もその場で自ら命を絶つ事件が発生しました。
安田善次郎刺殺事件、朝日平吾事件、神州義団事件などと呼ばれているこの事件からちょうど100年のこの日、刺殺された安田善次郎が眠る「安田家累代墓」、ならびに朝日平吾が眠る「朝日平吾之墓」をお参りしました。
九州で生まれ育った朝日は、早稲田大学や日本大学で学ぶとともに、軍に入隊し第一次世界大戦では青島の戦いに従軍するなどしましたが、少年期より家族や周囲との折り合いが悪く、軍の除隊後は大陸に渡り馬賊となるも長続きせず、事業を始めるも挫折し、宗教の世界や社会運動、社会事業を志すも周囲との軋轢により上手くいかず、鬱々とした日々を過ごしていました。
そして朝日は、最後の事業として困窮した労働者を救うため「労働ホテル」の建設を目指します。
朝日は、大倉喜八郎や浅野総一郎、古河虎之助ら財閥の総帥に労働ホテル建設のため出資を求めますが、断られ続けました。わずかに渋沢栄一が協力的な態度を示したり、森村開作から若干の出資を得るなどしたものの全く計画通りにいかず、朝日は最後の機会として安田善次郎に出資を求めようとしました。
しかし、すでにこの時、朝日はテロを決意しており、「奸富安田善次郎巨富ヲ作ストイエドモ富豪ノ責任ヲハタサズ」「ヨッテ天誅ヲ加エ世ノ警トナス」などと記された「斬奸状」や「死ノ叫声」と題した犯行声明文をしたため、100年前のこの日、犯行におよびます。
事件当初、民衆やメディアは朝日をある種の狂人や政治ゴロとして扱いました。当時の首相の原敬も朝日を兇漢、不良の徒と見なして事態を深刻に受けとめず、警視庁官房主事の正力松太郎も「こんどの事件はたいしたことじゃない」「思想方面なんかに関係があるものか」と発言しています。
他方、安田は世間から大変な吝嗇家と思われており、事件後も安田への同情はあまり寄せられませんでした。東大安田講堂が寄贈者である安田の名を冠しているように、実際の安田は様々な寄付寄贈をしていましたが、それよりも戦後恐慌の中で金儲けばかり考えている「奸富」「守銭奴」として世間のうらみを買っていました。そのため当初は兇漢とされた朝日がいつしか英雄視され、同情が寄せられようになり、朝日の葬儀には右翼関係者だけではなく左翼、労働運動関係者も駆けつけたほどだったといいます。
大正デモクラシーを代表する思想家である吉野作造は、朝日による安田刺殺を肯定するつもりはない、朝日の行動には徹頭徹尾反対だ、安田一人を除いて社会を救うなどという考えは短見であり憫笑の至りと前置きしつつ、「けれどもあの時代に朝日平吾が生れたと云ふその社会的背景に至ては、深く我々を考へさせずには置かぬものがある」と指摘しています。
また吉野は、朝日による安田刺殺の約一ヶ月後に発生した中岡艮一による原敬刺殺事件をうけて、この事件の動機は政治的主義主張に基づくものとは思えないとし、「只何んとなく社会の何処かに暗雲が棚曳き、それが年と共に濃厚な低気圧を作りつゝあるやうに思はれてならない。果してさうだとすると、其低気圧が何時勃発して雨となるか風となるか分らない」と当時の鬱屈した、あるいは煩悶に満ちた人々の織り成す世相を表現しつつ、「誰が遣るか分らないと云ふ所に深く考ふべき点があるのではなからうか」ともいいます。
昭和維新、超国家主義など主に戦前の日本思想史を研究した橋川文三は、朝日を身分的地位が行動の前提であった明治期の右翼テロリストと区別し、朝日は何らの身分を代表するものではなく、何らの地位もない、いわば匿名の人間であったと分析していますが、現代の社会もどことなく人々の鬱屈や煩悶が暗雲として棚引き、それが濃厚な低気圧を形成し、風雨が吹き荒れるように特定の誰かではなくどこの誰でもない匿名の大衆のなかから再び朝日があらわれ社会を攻撃する気配があるように感じられます。
橋川は、テロについて、人間行動の極限形態として自殺と相表裏するものであるという趣旨のことを示唆していますが、年間約2万人もの自殺者を出している現代の日本社会は、まさにテロと相表裏する人間行動の極限形態が頻発しているのであり、それがいつ他者を攻撃するテロに転化しても不思議ではありません。
安田刺殺を朝日という粗暴な右翼による身勝手で短絡的なテロと断じるのは簡単な話です。
しかし橋川が朝日の犯行声明文である「死ノ叫声」について、「ここに見られる思想・心情は、敵とさし違えようとする勇壮な戦士のそれというより、自己の無力感をしたたかに嘗めた〔中略〕怨恨と憂鬱に結びついた発想」、「その底に流れるリズムは遺骸と沈鬱な無力感の告白のように思われてならない」とし、「朝日の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーヴな思想である」と見抜き、「朝日のパーソナリティに見られる傲慢とさえいえる要素と、その反面におけるむしろ病的というに近い懐疑・怨恨・挫折の感情との複合、葛藤の中から、近代日本人にとって、ある意味では未知というべき感受性が形成されたのではないか」と大衆社会論的視覚による分析を試みているように、その粗暴で身勝手で短絡的なテロにどのような意味と背景があったのかを考えていくことも重要であるはずです。
実際、朝日が「死ノ叫声」において維新を志す青年志士に檄した内容には、普通選挙の実現や世襲華族世襲財産制の撤廃、小作農の救済、兵役の軽減など、驚くほど民主的である意味ではあまりに平凡な項目も含まれています。橋川も朝日を「大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならない」といいますが、こうした朝日像はほとんど知られていません。
朝日が本当に求めていたものは何だったのか。朝日が求めていた何かは、現代の日本に存在し充足しているのか。存在しておらず充足してないとすれば、再び朝日が蘇るのではないだろうか。
二度とこのような事件が起きないようにするためにも、事件を忘れることなく、朝日に向き合っていく必要があるのではないでしょうか。
令和2年9月28日 安田善次郎刺殺事件99年 安田善次郎旧別邸「寿楽庵」見学、「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参