令和2年11月24日 「楯の会」事件50年 森田必勝墓参

 三島由紀夫、森田必勝らによる「楯の会」事件より50年を明日に控えたこの日、森田のねむる「森田家先祖代々之墓」をお参りしました。

「森田家先祖代々之墓」

 昭和20年に三重県四日市市で生まれた森田は、早大在学中に三島由紀夫と出会い、三島の設立した「楯の会」に入会します。入会後は楯の会の学生長などとして活躍しますが、昭和45年11月25日に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島とともに命を絶ちました。

 墓参後、森田の墓の近くにある森田の生家を弔問し、庭に建つ森田の胸像や森田の辞世が刻まれた歌碑に拝礼するとともに、森田の位牌や遺影など御仏前をお参りし、焼香合掌しました。

「森田必勝之像」と歌碑

令和2年11月16日 花瑛塾結成4周年「花田家之墓」墓参

 平成28年(2016)11月16日に結成した花瑛塾はこの日、結成4周年を迎え、5年目を迎えるなか、道統の祖と仰ぐ花田瑛一氏のねむる「花田家之墓」を墓参をし、結成よりこれまでの取り組みと今後の決意をお伝えしました。

 花田氏は昭和初期の東京に生まれ、私立大学に進学しますが、終戦直後の混乱の時代にあって中途で退学、その後は東京の渋谷で青春を過ごし勇名を馳せるとともに、昭和後期からは千葉の館山に道場を設け、多くの青少年の指導に当たりました。私たちはそうした花田氏を道統の祖として仰ぎ、範としています。

 本年は新型コロナウイルス感染症の拡大のなかで、何よりもまず感染症の収束のための行動を優先しなければならないと考え、花瑛塾として沖縄での活動はじめ表立った活動を控えていますが、感染症が収束したあかつきには、再び活発な運動を展開していくとともに、今後とも花田氏の足跡を学び、その遺志の継承と発展に務めてまいります。

「花田家之墓」

令和2年11月8日 ねりま沖縄映画祭2020(映画「ふじ学徒隊」「イザイホウ」など鑑賞)

 10月17日から11月8日まで開催された「ねりま沖縄映画祭2020」の最終日の8日、沖縄を題材とした映画を数多く撮影制作した野村岳也監督の映画「ふじ学徒隊」と「イザイホウ」ならびに野村監督を追悼するショートムービーを鑑賞しました。

映画祭の会場入口

 「ふじ学徒隊」は沖縄戦で野戦病院に動員された積徳高等女学校の女学生たちの記録映画、「イザイホウ」は沖縄の久高島の伝説的な神事を取材したドキュメンタリー映画です。特に「イザイホウ」は撮影後、40年間も封印され続けた伝説的な映画として有名です。

 野村監督の父親は軍医として沖縄戦に従軍し、沖縄の地で戦死しました。そうしたこともあり野村監督は沖縄に何度も通い、沖縄戦や沖縄の伝統的な祭祀や行事を題材に多くの映画を撮影するとともに、海燕社という映像プロダクションを設立して沖縄で映像事業を展開していったそうです。

 ふじ学徒隊(積徳学徒隊)の生存者の元女学生たちやその御遺族は高齢化が進み、その体験を直接伺うことは年々難しくなってきています。また久高島のイザイホー(イザイホウ)も祭祀をおこなう神女の数が減少し、祭祀が途絶えて久しい状況にあります。そして野村監督自身も今年5月に87歳でお亡くなりになるなかで、何かを継承したり伝承したりしていくことの大変さと重要さを感じた映画祭でした。

令和2年1月25日 花瑛塾第22次沖縄派遣団③(映画「ふじ学徒隊」鑑賞など)

米国大統領選挙の結果とバイデン次期大統領について(令和2年11月8日)

米国大統領選挙、バイデン候補が制す

 米国大統領選挙の投開票がおこなわれ、米民主党ジョー・バイデン候補が選挙人の過半数を得ることを確実にし、勝利演説をおこなった。今後、トランプ大統領による訴訟や政権移行の妨害なども考えられるが、順当にいけば来年1月にはバイデン候補が次期米国大統領に就任する予定である。

次期米国大統領に就任する予定のバイデン(左):CNNより

 トランプ大統領はこれまで様々なフェイクニュースを発信し、米国内の世論を攪乱し続けた。今回の大統領選挙においても、フェイクニュースの発信をはじめ常軌を逸した数々の振舞いをし、米国の民主主義をぐらつかせた。それ以外にもトランプ大統領による人種差別、民族差別、移民差別の言動や政策はひどいものがあり、米国社会のみならず世界に差別や偏見、分断を撒き散らした。

 目下のコロナ禍でもトランプ大統領の対応は非難を浴びている。トランプ大統領はコロナの危険性を軽視し、マスクの着用やいわゆる「3密」を避けるといったごく基本的な対応すらしなかった。そしてロックダウンなど厳しい対応をしたニューヨークのクオモ市長と対立し、「間も無くワクチンが手に入る」、「コロナの感染拡大は中国のせいだ」などといったフェイクニュースを発信する一方で、全米での爆発的感染を防ぐこともできなかった。今や米国は1日10万人単位で感染者が増えているが、その一因に感染症対策をしようとしないトランプ大統領の選挙集会があるともいわれている。

 またトランプ大統領の外交は危険極まりないものであった。対中国外交では、中国を一方的に敵視し、対立をエスカレートさせた。中国の覇権主義・大国主義的振る舞いは許し難いが、トランプ大統領の対中国外交はとにかく敵対に次ぐ敵対を繰り返し、出口なきゲームとなっていった。対イラン外交では、オバマ前大統領が実現したイラン核合意を一方的に離脱し、イランへの制裁を発動したり、イラン革命防衛隊幹部を暗殺するなど横暴を振るった。対キューバ外交では、これもオバマ前大統領が進めた緊張緩和の流れを巻き戻し、キューバへの制裁を強化した。対北朝鮮外交では、金正恩委員長との首脳会談を実現し、核開発やミサイル発射など北朝鮮の軍事的挑発を抑え込んだものの、過去にはトランプ大統領自身が北朝鮮に向けて危険な軍事的威嚇を繰り返した。

 それ以外にもパリ協定からの離脱や原子力推進など、地球環境の面でもトランプ大統領の政策を肯定することはできない。またニューヨークタイムズが報じたトランプ大統領の脱税疑惑や巨額の債務などスキャンダルも含め、今日まで4年間のトランプ大統領の振る舞いや政策を考えれば、米国にとっても世界にとっても大統領に再選させ、もう4年米国のリーダーを任せるべき人物でないことは明らかであろう。

 無論、トランプ大統領を支持した多くの米国の有権者の判断も尊重しなければならず、彼らがトランプ大統領に何を期待したのかといったことも考えるべきだが、彼らのトランプ大統領への期待が人種差別や排外主義のようなものであれば、それは実現してはならないものであり、経済的苦境からの脱却であれば、それはトランプ大統領を再選させても実現しないだろう。

 他国の民主主義、他国の有権者の判断、民意について軽々に論評し、その賛否を論じることはしたくないが、客観的に見ても、バイデン候補を米国のニューリーダーに選出し、トランプ大統領を再選しなかったことは、米国の有権者の賢明な判断であり、良識が示されたといっていいだろう。

 バイデン候補の勝利演説は、分断の統合と米国の結束を強く意識したものであった。トランプ大統領によりぐらつかされたとはいえ、米国の自由と民主主義はやはり底堅く、なお輝きを失っていない。それはもちろんバイデン候補がカマラ・ハリス氏を副大統領に指名し、ハリス氏が米国初の女性副大統領に就任予定であることにも示されている。

日米安保、沖縄の基地問題について

 それでは今回の大統領選挙の結果は、日本にどのような影響をもたらすだろうか。特に花瑛塾として力を入れている沖縄の基地負担の軽減につながるだろうか。

埋立工事が進む辺野古:東京新聞より

 沖縄の人々にとっては酷かもしれないが、私たちの見通しをいえば、バイデン候補が米国大統領になっても沖縄の基地負担がただちに軽減されるとは思えない。

 もちろんトランプ大統領よりは若干ましだろう。トランプ大統領は昨年、ロシアとの間で締結されていたINF(中距離核戦力)廃棄条約を離脱した。これに関連して、米軍が中距離弾道ミサイルを沖縄に配備する計画だと報じられている。この計画が実現されれば、沖縄の基地負担は増加するばかりか、沖縄が破滅的なミサイル戦闘の戦場となる可能性が高まる。そうしたなかでバイデン候補がトランプ大統領の外交を見直し、INF廃棄条約に復帰すれば、あるいは沖縄への中距離弾道ミサイルの配備計画も白紙となるかもしれない。

 他方、平成7年(1995)に起きたあの痛ましい沖縄少女暴行事件当時の米国大統領は、民主党クリントン元大統領であった事実を忘れてはならない。

 事件をうけてクリントン元大統領は謝罪し、国防長官であったペリー元国防長官は沖縄の基地縮小や移転を検討したが、日本政府は米国に在沖米軍基地の移転や縮小は求めなかった。そして沖縄からの強い抗議や反発をうけて、翌年に普天間飛行場の返還を柱とするSACO合意を結び、沖縄の基地負担が軽減されると喧伝したが、普天間飛行場の返還の名の下に辺野古新基地建設が強行されるなど、SACO合意の実態は基地負担の軽減どころか、基地機能を強化するものであった。

 こうした事実からいえることは、沖縄の米軍基地の永続を望んでいるのは、誰よりも日本政府自身であるということだ。そうであるのならば、バイデン候補が大統領に就任したからといって沖縄の基地負担が軽減するとは考えられない。もちろんトランプ大統領の再選は沖縄の基地負担の軽減にとって論外であるが、いずれにせよ誰が米国大統領になろうと、日本がかわらない限り沖縄の基地負担の軽減はありえない。

 言うまでもなく米国は日米安保条約の一方の当事者であり、日米安保条約や日米地位協定など日米安保体制の問題について考える必要がある。また民主主義国として沖縄の民意を尊重するべきことも当然である。しかし最後の最後は、日本政府が米国に沖縄の基地問題を説き、基地負担の軽減のために具体的で合理的な主張をし、毅然とした態度で交渉をしなければ、米国は動かない。

 バイデン候補を次期大統領とした米国民の賢明な判断と良識に敬意を表しつつ、歓迎しつつも、これをもって日本がかわる、沖縄の基地負担が軽減される、対米関係がかわるといった裏返しの対米依存のようなねじ曲がった期待は抱かず、日本として次期大統領に何を訴え、米国をどう動かすかを考えていく必要がある。

令和2年11月5日 東京都写真美術館TOPコレクション「琉球孤の写真」

 東京都写真美術館で開催中の同館TOPコレクション「琉球弧の写真」を鑑賞しました。

展示の様子

 東京都写真美術館は現在約35,000点のコレクションがありますが、本展示では同館の新規収蔵作品を中心に山田實、比嘉康雄、平良孝七、伊志嶺隆、平敷兼七、比嘉豊光、石川真生という沖縄を代表する7人の写真家の作品のうち主に初期の作品が展示されています。

 琉球孤(奄美から沖縄、宮古、八重山に至るまで諸島)に生きる人々の何気ない日常の姿、例えば伝統行事に参加したり、仕事をしたり、遊んだりする姿──それは米兵やその家族の姿も含めて──などが写し出された作品が展示されている他、コザ騒動や毒ガス移送作戦、全軍労による抗議など歴史的事象を撮影した作品が展示されています。

 11月23日までが展示期間となっています。ぜひご鑑賞ください。

令和2年10月26日 「伊藤博文公墓所」墓参

 伊藤博文が安重根に射殺されて111年の今日、昨年に引き続き東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓「伊藤博文公墓所」墓参しました。

「伊藤博文公墓所」 普段は公開されておらず閉門となっている

 明治42年(1909)10月26日、今から111年前のこの日、中国黒竜江省ハルビン駅において、前韓国統監の伊藤博文が安重根により射殺されました。伊藤の葬儀は国葬となり、西大井の伊藤の別邸が墓所となり葬られました。

 伊藤を射殺し逮捕された安は、明治12年(1879)に黄海道海州府で地方名士の家に生まれ、甲午農民戦争では義兵として農民軍の鎮圧を行った経歴もありますが、日露戦争をきっかけに日本の朝鮮支配が進展すると韓国の独立のため愛国啓蒙運動を展開し、国際世論に韓国の現状を訴えるなどの活動を展開するようになりました。しかし第三次日韓協約による韓国高宗の廃位や韓国軍の解散などの出来事を契機に義兵闘争に身を転じ、最終的に伊藤暗殺の挙を敢行することになります。

 伊藤暗殺により捕えられた安は、その後短期間のあいだに処刑されますが、取り調べにおける厖大な供述や獄中で執筆した『安應七歴史』という自叙伝、未完に終わった『東洋平和論』などで自己の思想を述べ、事件の意義について語っています。

 安は伊藤暗殺の理由について第三次日韓協約の問題を指摘し、伊藤は「大韓独立主権侵奪の元凶」だと述べています。他方、安は自身の挙を反日や韓国独立といった意義のみならず、東アジアの帝国主義的現状から東洋の有志の青年の精神を覚醒させるものであり、日本対韓国の関係にとどまらず、東アジアにおける歴史的事件と位置づけられるものとしています。

 安のこうした東洋平和の思想は、ある種の「積極的平和主義」ということができます。伊藤もまた東洋平和の思想を有していましたが、それは武装平和主義であり、ある種の「消極的平和主義」といえます。

 東アジアの帝国主義の混乱が最終的にどうなったのか、さらに伊藤はじめ大日本帝国の東洋平和(武装平和主義、消極的平和主義)が最終的にどのような破局を迎えたのかを思う時、安の東洋平和の思想の確かさを知ることができます。

 安による伊藤射殺から1世紀以上もの時がたった今、怨讐を越え、安と伊藤の思想を再検討するなかで、安の東洋平和の思想の重要性は知られていくべきではないでしょうか。

伊藤博文の墓

 また安の人間性については、大変立派なものであったといわれています。伊藤暗殺の場に居合わせた満鉄理事の田中清次郎は事件後、これまで出会った人のなかで一番立派だと思う人物は誰だと聞かれると、すぐさま「それは安重根だ」と答えたといいます。田中は安による伊藤暗殺の瞬間、そしてその後の安の立ち居振る舞いを見て、そのように感じたそうです。

 戦後神社界を代表する言論人の葦津珍彦も安を「民族英雄の名にふさはしい、烈々たる信念のつよい志士で、その最後の処刑にいたるまでの進退行動は、文字どほり毅然たる国士の風格がいちじるしい」と評価しています。

 こうした安の人間性、国士・義士としての風格についても今少し知られてもいいのではないでしょうか。

令和2年10月21日 「出陣学徒壮行の地」記念碑、わだつみのこえ記念館

 77年前の今日、神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開催されました。例年、この日は神宮外苑に建つ「出陣学徒壮行の地」記念碑を訪れますが、今年は神宮外苑一帯が東京オリンピックの工事のさなかであり、記念碑が工事用の囲いで覆われているなど訪れることが難しいため、戦没日本人学徒の遺稿集『きけわだつみのこえ』の原資料などを所蔵・展示しているわだつみのこえ記念館を訪れました。

わだつみの声記念館の入口に掲げられているモニュメント

 先の大戦下、兵役法では中学校以上の学校在籍者の徴兵延期が認められていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴兵延期制を廃止し、この年の年末には文系大学の学生など徴兵検査をおこなった学生約10万人が軍に入営しました。

 徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。また各大学では、例えば國學院大學が10月14日、法政大学では15日など、21日までにそれぞれ壮行会が開催され、関西地方でも学徒出陣の壮行会が開催されるなどしましたが、こうした学徒出陣を記念するため、壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。

 学徒出陣によって下級将校となった学徒たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちからは徹底的に差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒出身の将校であり、学徒出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。

 こうした戦没学徒の遺稿集が『きけわだつみのこえ』であり、わだつのみのこえ記念館には、遺稿や遺品が所蔵・展示されています。

「出陣学徒壮行の地」記念碑(昨年撮影)

 また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、学徒兵とともに少年兵も積極的に動員されました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。

 当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。

 忘れてはならないのは植民地であった朝鮮、台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員されたことです。出陣学徒壮行会から約1ヶ月後の昭和18年11月30日、日比谷公会堂において「特別志願」に基づく朝鮮・台湾出身の在日学徒の学徒出陣の壮行会が開催されています。

 特別志願といっても、当時の文部省は各学校に対し、志願しない学徒には休学・退学措置を命じるなど、事実上の強制でした。また当時の新聞も「半島学徒へ決起運動」などの見出しの記事を掲載し、在日学徒へ軍に「志願」するよう煽りました。

 日本人学徒の学徒出陣、そして少年兵の戦争動員という歴史的事実を忘れてはなりませんが、朝鮮・台湾出身の学徒出陣という「もう一つの学徒出陣」もけして忘れてはならない歴史的事実であるはずです。

朝鮮出身学徒兵の入隊を伝える1944年1月の朝鮮総督府機関紙 聯合ニュースより

中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬についての見解(令和2年10月15日)

 来たる10月17日、令和元年(2019)11月に亡くなった中曽根康弘元首相の内閣・自由民主党合同葬がおこなわれる予定となっている。

101歳で亡くなった中曽根康弘元首相

 中曽根元首相の合同葬は、もともとは本年3月におこなわれる予定であったが、コロナの感染拡大にともない延期となっていた。

 ところが、延期されていた合同葬が10月17日にあらためておこなわれることや、合同葬の予算の半額である約1億円が政府予備費から支出されることが明るみになった本年9月以降、合同葬に対する社会的な批判の声が高まった。

 元首相の内閣・政党合同葬など一定の公職者の公的な葬儀そのものを一切おこなってはならないというつもりはない。これまでも元首相の内閣・政党合同葬や国会議長の議院葬など各種の公的な葬儀はおこなわれており、例えば平成30年の翁長雄志前沖縄県知事の県民葬など非常に感動的で後世まで語り継いでいきたい公的な葬儀があったことも事実だ。

コロナ禍のなかで

 しかし、公的な葬儀は、そうであるからこそ、広く国民の理解や納得に基づくものでなければならない。このたびの中曽根元首相の合同葬も、そもそもコロナの感染拡大にともない延期された経緯からしても、コロナ禍という現在の社会情勢とそこにおける国民感情をよく考慮しておこなわれるべきだ。

 今なお連日数百人単位でコロナ感染者が出ており、亡くなる方も少なくない。多くの人々がコロナ禍で外出制限を強制され、それにともない商店・企業が売り上げを落とし、倒産・廃業などの件数も上昇した。コロナ関連の解雇・雇止めも現在では6万人を超える状況となっている。

 そればかりではない。コロナの感染を防ぐため、入院患者へのお見舞いを制限する病院もあり、重篤な病により入院中の肉親を満足にお見舞いすることができないまま永遠の別れを迎えた家族もある。また、そうして亡くなった肉親の葬儀もコロナのために十分におこなうことができず、ごくごく近親者のみで簡単に済まさざるを得なかった事例もある。

 そうしたなかでのこのたびの中曽根元首相の合同葬。あまりに時宜ふさわしからず、社会的な批判や疑問視、あるいは不満の声が高まるのは当然といえよう。

合同葬の予算への批判について

 合同葬への約1億円の政府予備費の支出についても、予備費は全額コロナ対策へ宛てることを野党が求めていた経緯や、これまでの政府のコロナに関する経済対策の不十分さもあり、予備費10兆円のうちの1億円とはいえ、「その1億円があれば他に助かった命もあったというのに」という社会的な怒りが沸き起こるのも理解できる。

 一部では「合同葬に関する約1億円の予備費支出は当然だ」、「そんなことで不満が出るのは日本が貧しくなった証だ」などとあたかも合同葬や合同葬への予備費支出への批判を「庶民のひがみ」とでもいわんばかりの冷笑・嘲笑も散見されるが、合同葬や合同葬に関する予備費支出の問題はそのような低俗なものではなく、つまるところ現前のコロナ禍という社会情勢のなかでのあまりに無能かつ酷薄な政府のあり方への批判や不満、不信、あるいは新自由主義・自己責任社会を目指す菅首相の政治姿勢への批判などに基づくものであり、人々の「根底的な怒り」を見ていかなければ批判の意味も理解できないだろう。

弔意表明の求めと人々の警戒

 また、このたびの合同葬に関し、政府は関係機関に弔旗の掲揚や黙とうの実施など、弔意表明を求めている。これにともない文科省が全国の国立大学などに弔意表明を求めたことも明らかとなった。

過去の内閣・自民党合同葬(宮沢喜一元首相)の様子

 こうした政府による弔意表明の求めは、過去の首相の合同葬でもおこなわれており、中曽根元首相の合同葬においてだけ特別に政府が弔意表明を求めているわけではないことには留意したい。

 政府による合同葬での弔意表明の求めにあたり、明治天皇の崩御にともなって弔旗掲揚の方法としてさだめられた大正期の閣令「大喪中ノ國旗掲揚方ノ件」(大正元年7月30日閣令第1号)も周知されているが、これも例えば小渕恵三元首相の合同葬や東日本大震災の追悼式などで政府が関係機関に弔意表明のやり方として周知しているものでもあり、殊更に何かということはない。

 ただし、それではなぜこのたびの合同葬での政府による弔意表明の求めに対し、社会的な批判の声が高まっているのかということも考える必要があるだろう。

 それは、そもそも政府による弔意表明の求めが人々の内心の自由を侵害するおそれがあることや、これまで述べてきたようなコロナ禍との関連における政府への批判・不信に基づいていることはいうまでもないが、そればかりではなく、最近の日本学術会議の会員任命について特定の人物の任命を政府が拒むなど、菅首相によるファッショ的統制が進むなかで、政府による弔意表明の求め、すなわち政府による内心の自由の侵害、介入に対する警戒が強まっているからともいえる。

国民の理解に基づく公的葬儀を

 いずれにせよ、現在のコロナ禍という社会情勢とこれに対する無能かつ酷薄な政府の対応という政治のありように対する社会的批判・不満・不信が根強くあり、さらに菅首相の新自由主義・自己責任社会への志向、そしてファッショ的統制が進行するなかでは、このたびの合同葬に対する国民的な理解や納得は得られない。そして国民的な理解や納得に基づかない公的な葬儀はありえない。

 過ちをあらためることをためらう必要はない。今からでもこのたびの合同葬の時宜、あり方を再考すべきだ。「もう決めたことだから」、「今までやってきたことだから」という言い訳は通用しない。そうした“悪しき前例主義の見直し”は、菅内閣のスローガンであったはずだ。

令和2年10月14日 國學院大學学徒出陣壮行会77年 「学徒慰霊之碑」拝礼

 國學院大學で学徒出陣壮行会が開催されて77年の今日、國學院大學構内にある「学徒慰霊之碑」をお参りしました。

慰霊碑と歌碑(右)

 昭和18年10月、戦況の悪化により徴兵延期が廃止となり、その年の年末までに各大学の文系学生ら約10万人が徴兵検査をうけ、軍に入営しました。いわゆる学徒出陣です。

 徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が行われましたが、各大学ではそれ以前に大学ごとの壮行会が開催される場合もあり、國學院大學では同年10月14日、77年前の今日、壮行会が開催されました。

 國學院大學の学徒慰霊之碑は、そうした学徒出陣などで亡くなられた國學院大學の学生ら437人をお祀りしてます。慰霊碑の横には、戦没学徒を詠んだ折口信夫の歌碑も建立されています。

 なお例年、学徒慰霊之碑の前で学生有志を実行委員会とする國學院大學戦没先輩学徒慰霊祭が執り行われています。

 同慰霊祭は今年で50回目の節目を迎えますが、今年は折からのコロナ禍のため御遺族含め一般参列はなく、慰霊祭実行委員会と祭典を奉仕した学生団体の学生、教職員らごく少数の関係者で慰霊祭が執り行われたそうです。

令和2年10月12日 浅沼稲次郎没後60年 「浅沼稲次郎之墓」墓参

 日本社会党委員長浅沼稲次郎氏没後60年の今日、昨年に引き続き浅沼氏のねむる「浅沼稲次郎之墓」を墓参しました。

 浅沼氏は明治31年に三宅島に生まれ、早稲田大学に入学しました。早稲田では社会主義思想を信奉し、雄弁会で活動しました。そして卒業後は社会運動の道を進むようになりました。

 社会運動家としての浅沼氏は官憲による徹底的な弾圧をうけ、関東大震災では「主義者」として陸軍に連行され、暴行をうけることなどもありました。

 そうしたなかで浅沼氏は昭和11年、衆議院議員選挙に当選します。以後、紆余曲折あり、一時は議員の道をあきらめることもありましたが、戦後も一貫して政治家として活躍しました。「革新の旗手」といわれるほどの強い信念の持ち主であり、また「演説百姓」といわれるほど貧しい暮らしをしながら日本各地を遊説し続けましたが、昭和35年10月12日、今から60年前の今日、右翼少年山口二矢に刺殺されました。

 浅沼氏の墓は多磨霊園内にあり、妻享子氏とともに眠っています。「人間機関車」ともいわれた浅沼氏の大きな体と闘魂をあらわすように、浅沼氏の墓は非常に大きな墓でした。

 浅沼氏の墓を清掃し献花、しばし浅沼氏に慰霊・鎮魂のまことを捧げました。

 なお浅沼氏刺殺事件当時、神道言論人葦津珍彦は事件を繰り返し論じ、古今東西の「政治と暴力」の問題について考究していますが、一方で「人間浅沼の命を断つことの道徳責任」についてもしっかりと視点を置いて議論しています。

葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁