平成30年11月16日 花瑛塾は結成2周年を迎え、墓参と街宣をおこないました

 平成28年(2016)11月16日に結成した花瑛塾はこの日、結成2周年を迎え、花瑛塾「道統の祖」と仰ぐ先覚者の墓参をおこない、結成よりこれまでの取り組みと今後の決意をお伝えしました。

 同氏は、昭和初期に東京に生まれ私立大学に進学しますが、終戦直後の混乱の時代にあって中途で退学、その後は東京・渋谷で青春を過ごし勇名を馳せるとともに、昭和後期からは千葉・館山に道場を設け、多くの青少年の指導に当たりました。今後とも私たちはその足跡を学び、遺志の継承・発展に務めてまいります。

故人は関東平野を一望する奥多摩に眠り、いまでもそこから私たちを睥睨しているかのようです

 その後、首相官邸・外務省・自民党本部などにて、先日のシンガポールでの日ロ首脳会談における自称「外交の安倍」による四島返還から二島返還への北方領土交渉の方針転換を問い質すとともに、先日発生した大東諸島付近海域における米海軍機墜落事故などに象徴される沖縄への基地押しつけ・過重な基地負担の見直しを訴えました。

 今回の日ロ首脳会談は、今年9月、ウラジオストクで行われた東方経済フォーラムの席上、プーチン大統領が安倍首相に「年末までに領土問題などの前提条件なく日ロの平和条約を締結したい」と呼びかけたことに始まります。

 日本政府の基本方針は、北方領土(四島)の帰属確認後に日ロ平和条約を締結するというものであり、これまで数々の首脳会談を繰り返しながら、安倍首相の提案はプーチン大統領に何ら理解されていなかったことが明るみとなりました。

 その点から今回の首脳会談によってどのように日ロ交渉が進展するのか注目されていましたが、両首脳は従前のプーチン大統領の提案や北方領土交渉の基本方針に沿って、昭和31年(1956)の日ソ共同宣言を基礎として平和条約締結交渉を加速することで一致したとされ、これにより四島すべての帰属確認をおこなわず平和条約締結後に色丹島と歯舞諸島が返還されるという方向、つまり二島返還で北方領土問題が決着する可能性が高まりました。

 戦後70年以上、北方領土問題がまったく進展しなかったことを振り返れば、これまでの交渉のあり方を見直し、原点に戻って交渉をやり直すことは、けして悪いことではありません。

首相官邸(西門側)

 しかし、そうであれば、これまでの四島返還とは一体何だったのか、これまでの対ソ・対ロ交渉に誤りはなかったのか、真剣な総括が必要です。そして、今後、国後島・択捉島の二島の返還はどうするつもりなのか、明確な説明が必要なのではないでしょうか。

 安倍首相は自分のことを「外交の安倍」などといって得意になっているようですが、第2次安倍政権の6年間で目立った外交的成果はあがっていません。さらに日ロ首脳会談は今回を含めて23回実施されながら何らの進展もなく、安倍首相が「点数かせぎ」のために功を焦って二島返還に舵をきったとすれば、日本とロシアの将来、なかでも北方領土元島民や現在北方領土に住んでいるロシアの人々に、大きな禍根を残すことになります。

 事実、プーチン大統領は日ソ共同宣言の内容をさらに詰めるとし、色丹島と歯舞諸島の「主権」のあり方についても検討する必要があるとしています。色丹島と歯舞諸島すら返ってくるかどうかわからないのが実情であり、「外交の安倍」は本当に「外交の安倍」なのかよく考え直すべきではないでしょうか。

 また今月12日、沖縄県大東諸島付近海域において、自衛隊と共同巡航訓練を行っていた米海軍機FA18戦闘攻撃機が墜落する事故が発生しました。幸いにも2名の搭乗員は緊急脱出し命に別状はなく、民間人の犠牲者などもいなかったそうですが、一歩間違えれば大事故になっていたことでしょう。

 米軍統治下から沖縄県が復帰して以降、米軍機の墜落事故は50件にものぼり、年に一度は米軍機が墜落していることになります。沖縄以外の日本の他の都道府県で、年に一度は米軍機が墜落するような都道府県はあるのでしょうか。沖縄の過重な基地負担がここにあらわれています。

外務省

 昨年は沖縄県東村高江で米軍ヘリが大破・炎上する事故が発生し、普天間第二小学校にヘリの部品が落下する事故なども起きています。

 今回の墜落事故に関連し、菅官房長官は「米軍機の事故はあってはならない」と発言しましたが、今回の事故やこれまで繰り返されてきた数々の墜落事故などに対し、政府が米軍に飛行停止や機体の点検などを強く求め、実行させたことはありません。

 米軍ヘリの窓枠が落下した普天間第二小学校では、いまでも米軍機が学校上空を飛行し、その都度、避難の合図があり、子どもたちはシェルターに逃げ込むという、まるで空襲警報のようなことが行われています。

 こうした米軍の無法・横暴を放置していると、いつか人身に関わる大事故の発生につながります。

 政府は沖縄の基地負担軽減のため、地位協定の改定はもちろん、在沖米軍基地の大幅な縮小という事態の根本的な解決に向けて努力するべきです。

第23回安倍・プーチン日ロ首脳会談開催、昭和31年日ソ共同宣言を基礎に平和条約締結交渉加速へ─「外交の安倍」が功に焦ったか─

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 ASEAN関連首脳会談のためシンガポールを訪れている安倍晋三首相は14日午後、ロシア・プーチン大統領と首脳会談を行った。安倍首相とプーチン大統領による首脳会談は、今回を含め23回目となる。

14日午後、シンガポールで会談する日ロ首脳【毎日新聞

 今回の首脳会談は、ウラジオストクでおこなわれた9月の東方経済フォーラムの席上、プーチン大統領が年末までに領土返還などの前提条件なしの条約締結を提案し、その場にいた安倍首相が何らの反応を示すことがなかったため、国内的に大きな問題となったこともあり、非常に注目されていた。会談の結果、日ロ両首脳は鳩山一郎内閣が昭和31年(1956)にソ連と締結した日ソ共同宣言を基礎とし、平和条約締結交渉を加速させる方針で一致したと報じられている。

 日ソ共同宣言には、平和条約の締結後、色丹島と歯舞諸島を日本側に引き渡すと明記されているが、北方四島のうり国後島および択捉島、あるいは他の千島列島や南樺太の帰属・返還については何らの言及がない。これまでプーチン大統領は日ソ共同宣言について「いまだ有効」との見解を示しており、政府・自民党の従前の北方四島返還交渉と大きく異なる「二島返還」で日ロ交渉が加速する可能性がある。

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 日ソ共同宣言では、日ソ両国の国交回復、ソ連による日本の国連加盟の支持、戦犯の引き渡し、通商交渉の開始や漁業での協力など、領土問題以外での懸案事項の解決もはかられており、その点は評価するべきものと考える。当時、ソ連の対日参戦やシベリア抑留問題、あるいは共産主義の脅威や東西冷戦の激化のなかで、対ソ外交の進展は国内的な感情にも配慮する必要があり、難しいものであった。そうしたなかでの鳩山内閣による対ソ交渉の開始と共同宣言締結は、戦後日本外交史上、大きな意味があるといえる。

 一方で、繰り返しとなるが、日ソ共同宣言は最大の懸案事項である北方領土問題について、平和条約締結後の色丹島と歯舞諸島の引き渡しを明記するものの、その他の領土の帰属・返還について言及がない。戦後、領土問題を中心に日ソ・日ロ交渉は何らの進展がなかったこともあり、日ソ・日ロ交渉の原点でもある日ソ共同宣言に回帰して交渉をやり直すことはアプローチの一つとして有用でもあろうが、それでは昭和31年に時計の針を戻しただけでもあり、領土問題の根本的な解決にはならない。

 領土返還・国境画定交渉における日本政府の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の北方四島は、北海道の一部であるから返還せよという主張であったが、国後島・択捉島は実際には千島列島の一部であり、そのことは日本政府も認めている。そして日本政府はサンフランシスコ条約で千島列島の主権を放棄しているのである。つまり日本政府の領土返還要求に根拠はなく、ロシア・旧ソ連が反発し領土返還・国境画定交渉が座礁したのも無理はないことだ。

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 花瑛塾はこれまで、日本とロシアが以下の4つの点を確認することにより、新たなアプローチで北方問題に取り組む必要があることを訴えてきた。

  1. 旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これにもとづく領土占拠の無効。
  2. 旧ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の連合国の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効。
  3. 過去の日本政府の不当な領土返還要求の撤回。
  4. 旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、過去の領土返還・国境画定交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ交渉へのアメリカの干渉の排除。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状態、すなわち1945年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、70年以上もの旧ソ連・ロシアの統治という歴史の重みを理解し、そこにおいて築かれた人々の暮らしや文化を尊重し、北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土返還・国境画定交渉のあり方を模索する必要があるのではないだろうか。

 江戸幕府と帝政ロシアの日魯和親条約以来、樺太・千島交換条約やポーツマス条約と、国際法にのっとり国境線は幾度も変更された。従って日ロともに、いまにおいて国境線の変更をためらう理由はない。さらに日魯和親条約における樺太島雑居地化など、日本とロシアは柔軟な北方政策を展開した。こうした先人の知恵に学び、過去の経緯に固執して北方政策の歴史的本質を見失うことなく、日ロ関係を展開していく必要があるはずである。

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 同時に、領土返還・国境画定交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携して果たすべき役割は数多い。

 その上で、二島返還論で日ロが妥結するのであれば、政府・自民党はこれまでの四島返還を主軸とする日ソ・日ロ外交とは一体何だったのか、総括をする必要がある。23回も繰り返してきた日ロ首脳会談。いよいよ結果を出す段階に入らなければならないが、自称「外交の安倍」がこれまで外交的成果をあげられなかったため、功に焦って事態の本質を見失い、取り返しのつかないことになることを強く警戒するものである。両国首脳の果たすべき責任は重いことを自覚して欲しい。

米軍機が那覇市の東南東約290キロの海域に墜落─米軍は軍用機、化学兵器、核爆弾など、あらゆる「危険」を沖縄の海に捨ててきた─

 11月12日、米海軍FA18戦闘攻撃機1機が那覇市の東南東約290キロの海上で墜落した。墜落機搭乗員2名は緊急脱出し、米軍ヘリに救助され無事とのこと。漁船が墜落事故に巻き込まれるなどその他の人的被害も確認されていない。

 墜落現場は空域と海域が米軍に提供されている沖縄近海の訓練区域「マイク・マイク」とされる。事故当時、自衛隊と米軍が共同巡航訓練を行っており、墜落機は米空母「ロナルド・レーガン」から発艦した機体だった。

墜落現場略図(「琉球新報」より)

 「琉球新報」によると、沖縄県内で発生した米軍機の墜落事故は沖縄の日本復帰以降、計50件に上るとのこと。さらに県内では6月、嘉手納基地所属のF15戦闘機が那覇沖に墜落した事故が発生したばかりであり、16年12月にはMV22オスプレイ(普天間飛行場所属機)が名護市安部の海岸に墜落した他、17年にはCH53Eの不時着・炎上や部品落下など米軍機の事故やトラブルが相次いでいる。

 墜落機搭乗員はじめ、人的被害がなかったのが唯一の救いだが、一歩間違えれば多数の犠牲者が発生していたかもしれないありえない事故である。事故原因はいまのところ不明であるが、米空母「ロナルド・レーガン」の整備兵の疲労が事故の遠因ともいわれている。また自衛隊との共同巡航訓練中の事故とのことだが、おそらく自衛隊が米空母の護衛をしながら共同巡航していたものと考えられ、はからずもこの事故によって自衛隊と米軍の一体化が明るみとなったとの指摘もある。

 機体は水没したため引き揚げ・回収は不可能といわれ、このまま機体の残骸が沖縄近海に放置されることになる。これにともなう海洋汚染や漁業への被害も懸念される。墜落機は爆弾を実装していたのだろうか。安全面での心配もある。

 沖縄戦後、米軍は沖縄洋上に多数の危険物品を投棄してきた。ジャーナリストで「沖縄タイムス」特約通信員のジョン・ミッチェル氏は、著書『追跡 日米地位協定と基地公害 「太平洋のゴミ捨て場」と呼ばれて』(岩波書店、2018年)において、米軍が過去、大量の化学兵器(毒ガスなど)を沖縄洋上の海中に投棄した事実や、沖縄近海の海中に米軍の核兵器が打ち捨てられている事実を指摘している。

 1969年、沖縄・知花弾薬庫でサリン爆弾の定期補修中に漏出事故が発生し、多数の米兵が負傷した。米軍は事故を隠ぺいしたが、報道により事実が明るみとなると地域住民の化学兵器の撤去要求が高まり、1971年から「レッドハット作戦」といわれる化学兵器撤去計画が実施された。しかし作戦を担った米陸軍荷役担当者は、撤去・移送のため化学兵器を入れた金属容器を積載した船が沖縄沿岸を出発し、数時間後、沖縄洋上でその金属容器を海中に投棄したと証言している。この頃の米軍の科学者たちは、化学兵器は海中に投棄すれば危険性が希釈されると考えていたようである。

レッドハット作戦で知花弾薬庫にある毒ガスを移送するトラック(沖縄県公文書館【0000108844 /037625】)

 また1959年、那覇米空軍基地に配備されていた「ナイキ・ハーキュリーズ」といわれる核ミサイルが海に誤発射された。幸い核ミサイルそのものは不発であったが、一つ間違えれば那覇沖で核爆発が起きていたという恐るべき事故であった。さらに1965年、横須賀に航行中の米空母から核爆弾を搭載した軍用機が転落し、水没する事故が発生した。これまで事故は陸地から800kmの地点で発生したとされていたが、米海軍の文書には琉球諸島の東130kmの地点で事故が発生したと記されていた。那覇沖に発射された核ミサイルと空母から転落した核爆弾という2つの核兵器は、いまでも沖縄の海域に沈んでいる。

 今回の墜落機はじめ、米軍は沖縄の海に化学兵器や核爆弾などを捨て、海と人の命を危険にさらし、汚染させてきたのである。米軍基地返還地の土壌汚染など、陸地の汚染・危険はいうまでもない。日米地位協定の抜本的な見直しや沖縄駐留米軍の大幅な縮小など、事態の根本的な解決に向けて動き出さねばならない。

平成30年11月10日 在日韓人歴史資料館第113回土曜セミナー

 在日韓人歴史資料館(東京・港区)で開催された第113回土曜セミナーに参加しました。「三韓征伐─古代朝鮮支配『言説』の消長─」とのテーマで、同資料館館長で早稲田大学教授の李成市氏よりお話しを伺いました。

 『古事記』『日本書紀』など記紀神話に語られる神功皇后のいわゆる「三韓征伐」譚は、記紀の編纂当時の日本が置かれていた対外関係─特に新羅国を念頭においた─を背景に生成していった神話であり、朝鮮半島出兵や任那日本府の存在などは歴史的実証に耐えうる性格のものではありませんが、一方でこうした古代日本の朝鮮支配の言説は、いわゆる元寇・蒙古襲来といわれる異国合戦や豊臣秀吉による朝鮮出兵、あるいは幕末・維新期や明治新政府の征韓論、そして韓国併合など、日本の対外関係の進展に伴い変容しながら、その基底に存在し続けました。

 例えば中世においては、神功皇后の「三韓征伐」譚は当時の神国思想の展開と相まって『八幡愚童訓』『太平記』などにおいて様々に語られ、神功皇后は皇后であっても「女帝」として評価され、さらに天照大神と同一視する「神」としての認識も高まりました。また自然と人々の間には隣国に対する優越した意識も生まれていきました。

 近世においても錦絵などに「三韓征伐」が描かれ、古代日本の朝鮮支配の「事実」が視覚的に庶民へ広まっていきました。そのため、朝鮮から江戸幕府へ派遣された朝鮮通信使は、日本側の知識人の一部では尊敬をもって迎えられたものの、庶民は朝鮮通信使一行から「三韓征伐」譚を想起し、古代からいまにいたるまでこのような「服属儀礼」が行われてきたのだと誤解していたといわれています。

 近代においてもこうした認識は基本的に改まらず、戦前の歴史学者も韓国併合にあたって「三韓征伐」譚を想起し、古代日本の朝鮮支配という「事実」の再現を見ていたのであり、昨今のいわゆる「徴用工」問題における河野太郎外務大臣の韓国を恫喝するような発言の背景にも、こうした古典的で自国優越的な古代朝鮮支配「言説」を読み取ることができます。

お話しされる李先生と聴講者

平成30年11月8日 花瑛塾行動隊街頭行動(沖縄基地問題など)

 花瑛塾行動隊は8日、首相官邸・米大使館・自民党本部周辺などにて、安全保障や抑止力の観点からも、沖縄の発展の観点からも、まったく無意味かつ有害な辺野古新基地建設の中止など、沖縄の民意に向き合うよう日米両政府に訴えました。

 沖縄に駐留する米軍の大半は海兵隊であり、辺野古新基地も海兵隊の基地の新設ですが、海兵隊そのものは防衛のためではなく敵国への出撃・上陸・占拠のための攻撃用部隊であり、沖縄の防衛に役立つものではありません。そして米軍再編に伴い、在沖海兵隊は部隊兵員も小規模となり、かつ年の半分は沖縄にいないといった状態にあります。

内閣府下(首相官邸付近)

 そもそも沖縄返還に伴い、沖縄の局地防衛は自衛隊に任されており、日米新ガイドラインにおいても島嶼部防衛は日本側が担うことになっています。つまり在沖海兵隊は名実ともに日本(沖縄)を守るものではありません。

 経済的な面でも、既に沖縄の発展にとって基地の存在は阻害要因であることが明るみとなっており、近年では米軍基地の存在による猛烈な環境破壊や人々の健康への影響が問題視されています。事実、返還された沖縄の米軍基地跡から土壌汚染が発覚したり、危険な薬品の不法投棄などが発見されています。また普天間飛行場周辺でも高濃度の汚染が確認されています。一体、米軍基地が私たちに何をもたらすのか、冷静に考える必要があるのではないでしょうか。

 沖縄は選挙をはじめ様々な機会でこうした民意を何度も示し、あらゆるルートを通じて日米両政府に基地負担軽減の要請や基地の危険性の注意を行っておりますが、これを聞かず、沖縄の美しい自然を軍事基地建設のためひたすら破壊する日米両政府は、まるで神話に出てくる神の裁きにあう愚かしく罪深い人間を象徴しているかのようです。

米大使館

平成30年11月1日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑧(小浜島戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は1日、アールムティの特攻艇秘匿壕や震洋隊兵舎跡地、ナークレーやニシンダの慰安所跡地、仮校舎となった嘉保根御嶽など、小浜島(八重山郡竹富町)の沖縄戦戦争遺跡や関連施設跡を見学しました。

 沖縄戦時、小浜島では米軍の上陸や地上戦こそありませんでしたが、空襲が毎日のようにあったといわれています。また日本軍が駐屯し牛などの食糧や資材の供出がおこなわれたり、石垣島での飛行場建設のための徴用などもあり、住民生活に大きな影響を与えました。

 特に小浜島ではマラリアが猖獗を極め、毎日のようにマラリアによる死者が出たといわれています。なおマラリアについては石垣島はじめ八重山諸島一帯で相当の犠牲者が出ています。マラリアが猖獗を極めた理由としては、軍の命令によってマラリア有病地帯へ避難せざるを得なかったり、軍が優先的に「キニーネ」というマラリアの特効薬を確保したなどの理由が考えられます。

 以下、小浜島の見学箇所を紹介します。

アールムティの特攻艇秘匿壕と震洋隊兵舎跡地 小浜島東部のアールムティといわれる海岸に現存する特攻艇秘匿壕。昭和20年(1945)1月、小浜島には海軍の特攻艇部隊である第38震洋隊が駐屯したが、部隊は直後に石垣島へ移動したため、続いて第26震洋隊が駐屯した。第26震洋隊はアールムティの海岸に特攻艇秘匿壕を築造し、アールムティの海で特攻艇の訓練をおこなった。築造は朝鮮人軍夫が主に従事した他、島民も動員させられた。

壕の総延長は130メートルほどで、内部はH型の構造となっており、第26震洋隊犠牲者の卒塔婆が置かれている
特攻艇の訓練がおこなわれたアールムティの海岸

小浜島国民学校の仮校舎となった嘉保根御嶽 最初に小浜島に駐屯した第38震洋隊は、小浜国民学校を兵舎として利用した。そのため子どもたちは学校を追い出され、仲山御嶽や嘉保根御嶽を仮教室として授業を受けた。その後、部隊は学校への駐屯は敵の目につきやすいとして民家にも分屯し、黒島家を司令本部とするなどした。第38震洋隊に続いて駐屯した第26震洋隊も黒島家を司令本部とし、金城家の2階を無線通信所とした。第26震洋隊には朝鮮人軍夫約50人が軍属として連れて来られ、長田家や仲盛家を宿泊先として特攻艇秘匿壕などの築造作業に従事させられた。朝鮮人軍夫が毎朝トラックで築造に向かう姿が目撃されている他、朝鮮人軍夫の食事の様子などを眺めた島民が、食文化の違いを珍しく感じたという証言が残っている。

近くの仲山御嶽とともに島の集落にある仮教室となった嘉保根御嶽

ナークレー、ニシンダの慰安所跡地 第26震洋隊駐屯後、島の東南部のナークレーやニシンダといわれる地域に慰安所が建設された。どちらの慰安所かは不明だが、第26震洋隊の兵士の証言によると、ある慰安所には2坪程度の部屋が5部屋あり、朝鮮人3名、日本人1名の4名の女性が慰安婦にさせられていた。また慰安所建設のため各家庭から畳2枚の供出が命じられ、学校の床板まではぎ取って慰安所建設の資財に充てたという証言も残っている。

ニシンダの慰安所跡地と思われる場所(ナークレーの慰安所は、現在はリゾート地となっている)

花瑛塾会報「神苑の決意」第25号発行しました

 花瑛塾会報「神苑の決意」第25号発行しました。読者の皆様のお手許には、近日中に届くと思います。

 昭和45年(1970)11月25日に発生した「楯の会事件」(三島事件、三島・森田事件)より今月で48年となりますが、戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦氏は、同事件について強い関心を抱き、「神社新報」などで複数の記事を執筆し、事件の分析と三島氏の思想の解明を試みています。

 今号巻頭言では、葦津氏の「楯の会事件」評および三島由紀夫論と、その背景にある葦津氏の朝鮮戦争時の日本再軍備・再武装論批判から一貫する自衛隊論・国防論について読み解いています。

 「楯の会事件」の檄文には、沖縄返還に関する本土(自衛隊)の防衛責任や日米繊維交渉など、沖縄返還に関する日米交渉・日米密約・基地の自由使用など現在の通じる問題について論が及んでおり、三島氏が存命であれば沖縄の問題についてどう発言するのかなど夢想していまいます。

 その他、本号各記事の見出しや購読方法など、詳細についてはNEWSLETTERもしくはONLINE STOREよりご確認下さい。

 

国交相が辺野古新基地建設埋立承認撤回の執行停止を決定ー日本政府の横暴を止めるべきは誰か?

埋立承認撤回執行停止、新基地工事再開へ

 今月10月30日、石井国交相は沖縄県の埋立承認撤回について執行を停止すると発表した。早ければ明日11月1日にも工事が再開される見込みだ。

 本年8月30日、沖縄県が辺野古新基地建設の埋立承認を撤回して以降、沖縄県と政府は様々なやり取りがあった。沖縄防衛局は10月17日、行政不服審査法に基づき、公有水面埋立法を所管する石井啓一国交相に審査請求するとともに、撤回の効力を止める執行停止を申し立てた。そして沖縄県は24日、石井国交相へ沖縄防衛局の申し立ての却下を求める意見書を送付したが、これが認められず今回の執行停止となる。

 沖縄県は国地方係争処理委員会への審査申し出を検討しているとのことだが、同委員会の判断が出るまで3か月程度の時間がかかるため、それまでに工事は一定程度進むことになる。

 ここまでの流れは、翁長雄志県知事時代における埋立承認撤回取消しに関する沖縄県と政府の攻防と同じである。行政不服審査法の利用など、政府の対応については様々な問題があり、そうした横暴を許すことはできないが、前回も大きな批判を呼んだ方途と同じ轍を踏まざるを得ないこと自体、政府の手詰まり感をよくあらわしている。

新基地建設はまったく進んでいない

 昨年開始された護岸工事から1年の時が経つが、護岸はいまだ全体の一部しか完成していない。これからさらに完成した護岸のかさ上げを行う必要があり、大浦湾側の護岸工事はほぼ手つかずとなっている。そして大浦湾には「マヨネーズ並み」といわれる軟弱地盤が存在しており、地盤改良などもおこなわなければならない。もちろんキャンプ・シュワブ陸上部の工事も必要だ。全体として見れば辺野古新基地建設はまったく進んでいないのである。

 政府は警察力を背景に工事を再開し、沖縄県民に心理的に大きな抵抗感がある土砂投入をおこない、「あきらめムード」の醸成を狙っている。一方で、工事再開といっても、実際はほとんど何もできないという予測もある。昨年の護岸工事の開始でも「本体工事着工」などと大々的に喧伝したが、やったことは採石が詰まったカゴを海岸に置いただけであった。

 「勝つまで絶対あきらめない」─私たちに政府への直接的な法的対抗手段はないが、デニー知事を支えあきらめることなく粘り強く抵抗していきたい。

 そうした抵抗の一つとして、米国はじめ辺野古新基地建設や在沖米軍基地の問題を世界に訴えようという動きがある。この動きは大変すばらしいものであり、デニー知事を筆頭にぜひとも「沖縄からの報告」を世界に訴えたい。日米安保体制において、米国は日本政府に基地を提供されている側であるが、そこでの基地の使用と軍の運用は米国の責任でおこなわれている。主権国家であり人権と民主主義国家の米国もまた、自国の軍隊が他国民に和迷惑をかけている現状を放置するわけにはいかないはずだ。

日本政府と沖縄基地問題の「主体性」

 ところで、「本土」のごく一部の方面から、辺野古新基地建設はじめ在沖米軍基地の問題の解決について、米国の政治情勢なかでもトランプ大統領の意向に期待する「米国頼み」とも思える声が聞こえてきた。このような主体性なき問題意識は、「辺野古二段階返還論」などという暴論の「風まかせ」に通じる危険性がある。

 戦後、在沖米海兵隊は何度も沖縄撤退を計画し、昭和52年(1977)には「撤退は時間の問題」と当時の防衛庁が判断するに至ったこともあった。平成7年(1995)の沖縄少女暴行事件でも海兵隊撤退が議論されたが、当時のペリー国務長官は日本側が海兵隊沖縄駐留の継続を要望したと証言するなど、日本政府が米軍を食い止め、沖縄駐留を求め続けたのである。

 米国の世論を注視し、米国の世論へ問題を喚起することは大事だ。しかし本土のごく一部の方面が「トランプ大統領が在日米軍撤退を指示か」などと浮き足立ち、問題の本質を見失ったかのような議論をしていることは歓迎できない。それは沖縄基地問題についての主体性を見失うことであり、沖縄の人々を再び傷つけることになる。

 沖縄の人々が本土の人々に期待していることは何か。まさしく今回の埋立承認撤回の効力停止といった日本政府の横暴を自分の問題として受け止め、これを糺すことにある。心当たりがあれば注意されたい。

平成30年10月30日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑦(石垣島事件・尖閣諸島戦時遭難事件慰霊など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は30日、沖縄戦時に石垣島で発生した日本軍による米軍捕虜殺害事件の事件現場や慰霊碑を訪れるとともに、同じく沖縄戦時の石垣島で発生した疎開船への米軍の攻撃とこれによる尖閣諸島への漂流事件の慰霊碑を訪れました。その後、今年度内に着工が目指されている石垣島平得大俣地区の陸上自衛隊駐屯地建設予定地を見学しました。

石垣島事件 沖縄戦時、石垣島では連日米・英軍が空襲をおこなっていたが、昭和20年(1945)4月15日午前9時頃、対空砲撃により米軍機が撃墜され、搭乗員の米兵3人は海軍石垣島警備隊によって捕虜になった。午後3時頃からバンナ岳の麓の警備隊司令部で捕虜への尋問が開始され、その日の午後6時頃に全員殺害された。

 殺された米兵はバーノン・L・ディボー中尉(28歳、操縦士)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳、通信員)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳、機銃操作)。

米兵殺害・遺体遺棄現場(手前)と海軍石垣島警備隊司令部跡のバンナ岳(奥)

 捕虜については、日本軍の沖縄守備隊は陸海軍とも当初は沖縄本島に送致しており、戦闘の激化に伴い台湾へ送致することになっていた。しかし海軍石垣島警備隊司令・井上乙彦大佐は、台湾への送致の困難や部隊の士気向上のため捕虜の殺害を企図し、警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地に長さ4メートル、幅1.5メートル、深さ1.5メートルの遺体を遺棄する穴を準備して100人以上の将兵を召集した。そして将校がディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は棒に縛りつけられ集団で殴打された上で40人もの下士官・兵により銃剣で刺殺された。

 敗戦後、捕虜殺害という戦争犯罪の発覚を恐れた井上大佐は遺体を掘り起こし、火葬した上で遺灰を海に流し、丁重に葬ったかのように3人分の十字架を建立するよう命じた。こうして事件は隠ぺいされたが、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、井上ら7人が戦犯として絞首刑となった。

尖閣諸島戦時遭難事件 昭和20年6月30日、石垣島島民を載せた2隻の疎開船が台湾へ向けて出港したが、7月3日に米軍の機銃掃射により1隻は沈没し、約50人ほどの機銃掃射による犠牲者や溺死者を出した。もう1隻は航行不能となったが持ち直し、付近の漂流者を救出して翌日には尖閣諸島の魚釣島に辿りついた。

 島の食糧事情は最悪であり、漂流したところを救出された人たちは着の身着のままで携行食糧もなく、次第に衰弱していき、漂着から30日ほどすると餓死や病死で犠牲となるものが続出した。遭難から約40日後に救出されるが、政治情勢や交通の難により犠牲者の遺族たちは尖閣諸島で慰霊などが出来ないため、海に臨む石垣島の海岸に慰霊碑が建立され、いまも犠牲者の霊を慰めている。

 沖縄戦では、こうした尖閣諸島戦時遭難事件など戦時船舶遭難事件が多発している。代表的な事例としては、対馬丸事件が有名である。軍は「口減らし」のため子どもや高齢者の疎開を進めたが、既に疎開船の航路には米軍潜水艦が出没しており、軍の輸送船も攻撃され被害を出すなど疎開の危険性は充分承知していた。軍がその事実を住民に説明せず疎開を進めた責任は重たい。また住民は疎開先の台湾や九州でも飢えや病気など苦しい思いをした。

尖閣列島戦時遭難死没者慰霊之碑

陸上自衛隊石垣駐屯地(仮称)予定地 現在、自衛隊はいわゆる「南西シフト」といわれる南西諸島の防衛強化をはかっており、特に宮古諸島・八重山諸島からなる先島諸島では、陸上自衛隊の警備部隊・ミサイル部隊・沿岸監視隊の配備が進められている。石垣島では500人から600人規模の警備部隊・ミサイル部隊の配備が計画されており、今年度内にも石垣市平得大俣で駐屯地建設の着工が予定されている。宮古島でも駐屯地建設がはじまっており、与那国島には既に沿岸監視隊が配備されている。

 石垣島住民の自衛隊配備反対の意思は根強く、賛否を問う住民投票を求める動きもある。今月31日午後7時から石垣市大川公民館で住民投票に向けての署名集めのための集会も開催される。一方的に自衛隊配備を決めた政府や石垣市の対応への不信もあり、先島諸島あるいは南西諸島全体での自衛隊配備強化に対する批判も存在する。

 一方で、島内には自衛隊配備に賛成する声もあり、「自衛隊配備推進」と記されたノボリが道沿いに掲げられている光景も目にする。既に自衛隊が配備された与那国島のように、島の分断・対立・緊張が高まることが懸念される。石垣島では過去、新空港の建設計画によって反対運動がおこったため地域住民が賛否で鋭く対立し、いまに至るまで尾を引いている現実がある。

 戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦は、急迫不正の侵害に対し国民を守るため必死の抵抗をする自衛隊によって、国家と国民の信頼・連帯が維持され、国民の側も自衛隊にそうした期待を抱いているとする。まさしく葦津における自衛隊の「建軍の本義」は、「国家と国民の信頼の防衛」といってよいのではないだろうか。

 一方で葦津は、朝鮮戦争によってはじまる日本再武装について、「建軍の本義」なき再武装の危険性を説いた。国家性に具体的に結びつかず、「自由と民主主義のため」という普遍的な価値観に基づいて建てられた軍は、必ず「自由と民主主義のため」に外国の政治に介入したり、時の政治家に都合よく利用されると葦津はいうのだ。戦後、米軍やソ連軍が諸外国に介入した理由を想起すれば、戦争が終わり間もない時期での葦津のこの指摘は卓見というべきである。

陸自石垣駐屯地建設予定地

 葦津は「建軍の本義」を追及することなく、不純不正の精神によって建てられた軍は、国民に対し深い禍を残すという。いま、自衛隊が「南西シフト」によって南西諸島全体に緊張をもたらし、石垣島はじめ南西諸島の人々に不信感を抱かれ、あるいは不信感をもたらしているのならば、それは国家と国民の信頼・連帯が阻害されていることになる。自衛隊は防衛のために本当に守らねばならないものを「陥落」させているのならば、南西諸島から「名誉ある撤退」をおこなうことによって国家と国民の信頼・連帯を確保する必要があるのではないだろうか。

 人々の声に耳を傾けず、権力者のいうがまま配備を強行するのならば、自衛隊はまさしく葦津の指摘する国民に対し深い禍を残す存在になったというべきであろう。

平成30年10月29日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑥(ババハルさん慰霊など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は29日、戦時中、沖縄戦を控えて日本軍の配備が進んでいた石垣島で亡くなった慰安婦のババハルさん(国籍など不明)が埋葬された地(石垣市川平)を訪れ、慰霊・追悼の祈りを捧げました。

 ババハルさんは石垣市川平に設置された慰安所で慰安婦として働かされていましたが、何らかの理由で亡くなりました。遺体は川平の海岸近くの畑に埋葬されましたが、墓もなく弔う人もいません。同地で亡くなった兵隊も同様に埋葬されたとはいえ、仲間の兵隊が復員にあたって遺骨を持ち帰るといったことがありました。しかしババハルさんは慰安婦にさせられ命を落とし、ただ土に埋められたきり弔う人も顧みる人もいません。彼女の無念や悔しさはいかばかりでしょうか。

ババハルさんが眠る石垣・川平の畑

 沖縄戦時、石垣島には10箇所前後の慰安所があったと推定されています。沖縄本島も入れれば、100以上の慰安所が設置され、日本人や朝鮮人の女性が慰安婦として働かされました。軍は工兵部隊を用いて慰安所を建設し、性病検査をおこなうなどしました。慰安所の管理は軍に委託された業者がおこなうなどしたそうです。

 沖縄戦時、石垣島では地上戦こそなかったものの、連日のように米英軍機による空襲がありました。しかし軍は機密保持を理由に慰安婦を防空壕に入れなかったため、彼女たちは空襲の際に樹の下にうずくまり身を隠していたといわれています。沖縄本島でも戦闘が始まると慰安婦は見捨てられ、戦場に取り残される例もありました。特に朝鮮人慰安婦たちは言葉もわからず土地勘もなく、泣きながら逃げまどう姿が目撃されています。

 普段の慰安婦の待遇は悪く、稼ぎからは沖縄までの交通費や生活費が差し引かれ、食事もままならず付近住民に食べ物をねだる姿も目撃されています。一方で日本人慰安婦は将校専用の慰安所で働かされ、朝鮮人慰安婦より多少はましな待遇にあるなど、出身地や民族での差別もありました。

 また石垣市では、新築したばかりの八重山高等女学校を軍が解体し、建築資材を供出させて慰安所を造った事例もあり、八重山高等女学校の女生徒はじめ地域住民は軍に不信感をもったともいわれています。

 なお、この日、その他に沖縄戦時の石垣島守備隊(独立混成第45旅団)司令部付近の慰安所跡(石垣市石垣)、海軍石垣島警備隊司令部付近の慰安所跡(同大川)、海軍第19震洋隊基地付近の慰安所跡(同川平)などを見学しました。現在は通常の民家などになっているため、画像などはありません。

 祖国を愛し、自国の歴史をわが歴史として感じ、過去の戦争について深い思いを持てばこそ、慰安婦とされた人々の苦労に思いを致し、国策のあやまちを反省し、これからの国の歩みに生かさなければならないと思います。