【広島・長崎原爆投下75年】日米が連携し「核なき世界」を実現しよう─戦後神社界の反核・原水爆禁止の思想に学ぶ─

 広島・長崎への原爆投下より75年の月日が経とうとしている。

 昭和20年8月6日8時15分、米国は広島市上空に原爆を投下し、15万人もの無辜の民の生命を奪った。続いて9日にも米国は長崎に原爆を投下し、7万3千人もの市民を殺害した。

 被害をうけたのは日本人ばかりではなく、勤労動員などで広島に連れてこられた朝鮮半島出身者や、捕虜として収容されていた米兵なども大きな被害をうけた。また、これにより現在に至るまで多くの人が原爆症といわれる放射線障害に苦しめられた。

 米国による原爆投下は、非戦闘員の殺害を目的とした戦争犯罪である。原爆投下に先立つ3月10日の東京大空襲では、あえて非戦闘員を狙い住宅地が密集する東京の下町地区を目標に定める「選別爆撃」を行った。また、沖縄などから出撃した米軍機は、日本各地を無差別に爆撃、機銃掃射を行なったが、その様子は米軍機に搭載されたガンカメラに記録され、その非道を現在に伝えている。

 こうした原爆投下や空襲といった米国の戦争犯罪は到底許されず、厳しく糾弾されるべきものである。

核廃絶と原爆犠牲者の慰霊、追悼

 一方で、今を生きる私たちにとって重要なことは、米国の非道をただひたすら追求し、謝罪要求に終始することのみではないはずだ。まず何よりも、何の咎もなく核の火に焼かれた犠牲者の無念を晴らし、苦しむ御霊をお慰めするために、核の戦争被爆国である日本と戦争使用国であり今なお大量保有国である米国こそが協調、連携し、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」を実現するべきだ。それはまた、私たち自身が核の恐怖から逃れ、平和で豊かな世界を生きるために必要なことでもある。

原爆死没者慰霊碑に献花したオバマ前大統領と安倍首相

 オバマ前大統領は伊勢志摩サミットの帰路、広島平和記念公園の原爆死没者慰霊碑に献花し、核の恐怖と核軍縮の取り組みについてスピーチをした。原爆投下後、米国大統領の広島訪問や慰霊碑への献花は初めてであり、これは世界史に刻まれるべき出来事だ。大統領の献花とスピーチにより、犠牲者の苦しむ御霊はいささかなりとも鎮められたに違いない。トランプ大統領はもちろん、次代の米国大統領も被爆地を訪れ、犠牲者の御霊をお慰めするべきである。

 オバマ前大統領は広島でのスピーチで「核保有国は、勇気をもって恐怖の論理から逃れ、核兵器のない世界を追求しなくてはいけない」と述べた。世界有数の核保有国である米国は、原爆投下の反省に立ち、スピーチの内容通り、全ての核保有国に先立って核廃絶に取り組むべきだ。

 しかし、現在のトランプ政権は未臨界核実験を実施したり、限定核使用の新指針を発表するなど、核廃絶に全く逆行している。また、世界初の核実験である「トリニティ実験」から75年を迎えた先日には、同実験を「素晴らしい業績」と述べるなど、核使用を賛美するかのような発言をしている。

 日本もまた戦争被爆国として核廃絶に向けてあらゆる行動をとるべきだが、日本政府は国連核兵器禁止条約に不賛同の意思を示すなど、核廃絶の熱意を疑わざるをえない。それ以外にも先日の「黒い雨」訴訟で明らかになった通り、被爆者の救済に対しても限りなく消極的なのが日本政府である。最近では広島県が被曝した旧広島陸軍被服支廠の解体を検討するなか、各方面から日本政府に維持に向けた取り組みをするよう要請がなされているが、政府の態度ははっきりしていない。

 先の大戦の終戦の詔書には

敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。()()くむは、朕何を()てか億兆の赤子()()し、皇祖()皇宗)神霊()()せむや。

とあり、日本が核廃絶に取り組むべきことは、国家的使命ともいえることはしっかりと認識しなければならない。

 その他、最近になり、日本政府がNPT(核不拡散条約)に署名しながら長年にわたり批准していないことについて、昭和天皇が当時の前尾繁三郎衆院議長に疑義を呈したため、三木武夫首相が慌てて国会承認を取りつけたと報じられている。これは一歩間違えれば天皇の政治介入と批判されかねない出来事ではあるが、昭和天皇の核廃絶や核不拡散の強いご意志を伺い知ることができる。

葦津珍彦の反核武装論に学ぶ

 戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦氏は、その論文「まづ核なき武装へ─終戦大詔の悲願継承せよ─」において、核兵器の残虐性と軍事情勢の変化から日本核武装論へ疑問を呈すと共に、核兵器を許さず平和を希求する終戦の詔の強い意志を継承し、日本の核なき防衛と世界的な核廃絶を訴えている。さらに葦津氏は、世界的な核廃絶の先導役に日本がなるべきだとも論じ、それは非核保有国の共感を結集させるものであり、日本の世界史的使命であるとする。

長崎平和公園 平和祈念像

 北朝鮮や中国の「脅威」が叫ばれる現在、こうした「脅威」を前に日本と国際世論がどのような動向を示そうが、何ら現実的な有効性を持たないと嘲笑されるかもしれない。しかし葦津氏は、同論文において、第一次世界大戦で使用された毒ガス兵器が第二次世界大戦では少なくとも公然と乱用されることのなかった事実を指摘し、国際世論と国際的取り決めの重みを示し、核廃絶においても国際世論と国際的取り決めの有効性を主張しているが、これは充分説得力がある。日本政府はただちに核軍縮政策を転換し、世界的な核廃絶に立ち上がるべきである。

 こうした葦津氏の反核武装論は、「神社新報」紙上で葦津氏が連載していたコラム「時局展望」においても「米軍事政策の転換に際して 神道人と原水爆国防論」との記事でも主張されている。そこでは葦津氏は

日本が将来に於て、万一にも自ら原爆を使用したならば終戦の詔書は、その道義的権威を失ひ、民族の存亡を賭した悲史の教訓はその意味を失はねばならない。終戦の詔書に明示せられし原爆拒否の道義的宣言は、断じて弱者の悲鳴ではない。

目的のために手段を誤ってはならない。終戦の大詔は、この道義の大原則を明示せられてゐる。犯罪的手段を選ぶほどならば、目的の放棄も亦やむを得ぬ、この悲痛なる道念あってこそ、地上に道義は保たれるのである。

ときっぱり日本の核武装を否定している。なお、この葦津氏がいう「目的のために手段を誤ってはならない」という指摘は、違憲の安保法制や米軍との一体化を進める自衛隊はじめ現代の日本の防衛政策にも通じる指摘といえよう。また神社本庁も昭和30年の世界宗教会議にて原水爆禁止の議案を提出しているが、愛国者として終戦の詔書にも反する日本核武装論などあってはならず、むしろ積極的に「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」の実現のために努力することこそ、愛国的立場であることをしっかりと確認したい。

 そしてオバマ前大統領が

科学によって、私たちは海を越えて交信したり雲の上を飛行したりできるようになり、あるいは病気を治したり宇宙を理解したりすることができるようになった。しかし一方で、そうした発見はより効率的な殺人マシンへと変貌しうる。(略)広島が、こうした現実を教えてくれる。

とスピーチにて述べたように、科学技術の進歩が人類へもたらす惨禍といったより高次な問題も考えていくべきだ。つまり原子力発電所の即時全面廃炉など、原子力政策の転換も核軍縮政策と同時に進めていくべきである。

等閑視された「沖縄と核」

 昭和47年の「沖縄返還」にいたるまでの返還交渉は「核抜き、本土並み」が標語であり、実際に沖縄に配備中の戦略核などが撤去されたが、一方で有事の際には沖縄への核の持ち込みを認める密約が存在したことは有名な話である。

昭和20年8月9日、読谷飛行場に緊急着陸後、離陸するB-29(沖縄県公文書館)

 そもそも米軍統治下の沖縄には、最大で1300発ともいわれる大量の核兵器が配備されていた。当初、米軍は伊江島で「LABS(ラブス)」といわれる核爆弾の投下訓練を開始したが、その後に本土に配備中であった核弾頭を搭載できるロケット砲「オネスト・ジョン」を沖縄に移設させ、さらにソ連による沖縄への核攻撃を防ぐため、迎撃用の核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」を配備し、60年代以降には広島型原爆の70倍もの威力の核弾頭を搭載した核ミサイル「メースB」を配備するなど、沖縄を「核の島」としていった。

 米軍による沖縄への核配備は県民には知らされておらず、被爆国日本としても許されざることだ。さらにソ連の沖縄への核攻撃を米軍が恐れたように、沖縄への核配備は沖縄が核攻撃を受ける可能性を高め、何らかの事故によって放射能汚染などの被害をもたらすこともありえる。

 NHKの取材によれば、実際に核弾頭を搭載したナイキ・ハーキュリーズが暴発し、爆発こそしなかったが那覇沖に着弾する事故が発生し、キューバ危機の際にはメースB発射基地は「デフコン2」といわれる核戦争の臨戦態勢にあったといわれている。また、空母で輸送中の核兵器を搭載した米軍機が沖縄近海で落下し、今なお放置されている現実もある。暴発したナイキ・ハーキュリーズとともに、沖縄近海の海の底には複数の核兵器が眠っているのである。これほど恐ろしい事実があるだろうか。

 こうした沖縄への核の配備や沖縄と核の問題を日本政府は事実上容認あるいは放置し続けた。その上で沖縄返還時における核密約が存在する。日米は沖縄県民の思いや安全を顧みることなく、「沖縄と核」について無関心であり、等閑視し続けたともいえる。沖縄戦時には、米軍に占領・拡張された沖縄の読谷飛行場に、長崎に原爆を投下したB-29ボックスカーが原爆投下直後に立ち寄り、燃料補給などをした事実があるように、「沖縄と核」の問題は根深い。その上で、いまなお日米が核廃絶に取り組まず、むしろ逆行していることは指摘した通りだ。

 日米が手を携えて広島と長崎、そして沖縄に向き合い、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」を実現するよう、両政府に求める。

令和2年8月5日 ヨコハマトリエンナーレ2020(横浜美術館)

 横浜美術館で開催中のヨコハマトリンエンナーレ2020「AFTERGLOW 光の破片をつかまえる」を訪れ、本展の招待作家である沖縄の写真家石川真生さんの作品「沖縄ソウル」、「アカバナ 赤花 沖縄の女」を鑑賞しました。

 ヨコハマトリエンナーレは横浜市で三年に一度開催されている現代アートの国際的な展示であり、現在で7回目を数えます。

 石川さんの作品は、本展のなかでも「エピソード」という取り組みにおける「エピソード04 熱帯と銀河のための研究所」において展示されていますが、ここではミクロネシアにおける日本やアメリカの統治、植民地主義という大きなテーマが掲げられ、そこにおいて米軍統治下の沖縄における沖縄の女性、フィリピンの女性、黒人の女性などを写し出した石川さんの写真が評価され、展示されています。

令和2年8月4日 李登輝台湾元総統弔問記帳(台北駐日経済文化代表処)

 台湾の李登輝元総統の逝去にともない、台北駐日経済文化代表処にて弔問記帳をしました。

弔問記帳を受け付けている台北駐日経済文化代表処

 李氏は国民党独裁下の台湾において初の台湾出身の人物として副総統に就任し、蒋経国総統没後は総統として蒋氏の晩年から胎動していた民主化路線を継承し、台湾の民主化に尽力しました。

 李氏は日本統治時代の台湾に生まれ、台北高校卒業後は京都帝国大に学び、学徒出陣により陸軍少尉となるなど、李氏の言葉によれば青年時代は「日本人」として生き、流暢な日本語をしゃべり、たびたび日本を訪問し各界の人士と交流したことから、「親日」などといわれますが、李氏はそう簡単に「親日」などといえるような人物とは思えません。

 国民党時代は蒋氏の忠実な腹心として実務をこなし、総統就任後は中国やアメリカ、そして日本など台湾を取りまく難しい国際情勢の荒波のなかで台湾のための政治をおこなってきたのが李氏であり、私たちは彼を「親日」などといってわかりやすく理解する前に、彼が指導した台湾の置かれた難しい国際情勢と、台湾をそこに追いやった日本の責任、そしてそこにおける「親日」の意味を考えていく必要があるのではないでしょうか。

大勢の弔問客

 そもそも台湾では戦後、「犬去りて、豚来る」といわれました。すなわち日本(犬)による台湾の植民地統治も、その後の国民党(豚)による独裁統治も、どちらも台湾の自由と民主主義を奪ったのであり、台湾の人々から唾棄されたのです。そうしたなかで台湾の自由と民主主義の実現に尽力したのが李氏であり、私たちは李氏の「親日」に“甘え”ることなく、過去の日本の台湾統治の歴史をよく学び、その負の歴史を直視し、その上で現在危機に瀕する日本の自由と民主主義を守っていくことこそが李氏を真に忍び、李氏の事績を顕彰していくことと考えます。

令和2年7月15日 靖国神社鎮霊社、招魂斎庭拝礼

 例年であればみたままつりの期間中である靖国神社を訪れ、同社を参拝するとともに、同社境内にある鎮霊社および元宮、そして招魂斎庭などを拝礼しました。

靖国神社大鳥居

 靖国神社は7月13日から16日まで「みたままつり」の期間とされ、祭儀や奉納行事、献灯の掲揚などが毎年行われていますが、今年は折からのコロナ禍でみたままつりの斎行が中止となり、奉納行事や献灯掲揚なども全て取り止めとなりました。ここまでの事態は、昭和22年からはじまる同社みたままつりの歴史上、初めてのことだと思います。

 花瑛塾としても例年、献灯をしており、まつりがおこなわれず、諸霊をお慰めできないことはやるせないかぎりですが、よい機会であるのでごく簡単にみたままつりの歴史を紹介します。

みたままつり前史

 靖国神社はいうまでもなく幕末維新以降、戊辰戦争や西南戦争での官軍の殉難者はじめ対外戦争で戦死した軍人軍属やこれに関連する殉難者などが祀られています。

靖国神社拝殿

 満州事変以降、戦線は拡大していき、昭和16年の対英米開戦にいたると、これまでとは比較にならないほどの夥しい戦没者が発生し、靖国神社としても合祀すべき戦没者の数は大変なものとなっていきました。

 そして昭和20年の終戦を迎えるが、靖国神社はいまだ満州事変や日中戦争の戦没者の合祀を終えておらず、太平洋戦争での膨大な戦没者合祀は僅かしかできていない状況でした。こうした状況下、陸海軍の解散も現実味を帯びるなか、政府と靖国神社は未合祀の戦没者を一括して合祀する「臨時大招魂祭」をおこなうこととしました。

 同時に、合祀の対象もこれまでの軍人軍属の戦死者だけでなく、「敵の戦闘行動に因り死没せる常人(戦災者、鉄道・船舶等に乗車船中遭難せるもの)」あるいは「大東亜戦争終結前後に於て憂国の為に自決或は死亡せるもの」など、広く戦争犠牲者全般の合祀という方向での検討がなされました。

 こうした合祀方針は東条英機がポツダム宣言受託直後の8月28日、靖国神社に戦死者はもちろん戦災者、そして戦争終結時の自決者も合祀すべきとの提言に基づくものと考えられますが、ともあれ陸軍省は合祀方針を幅広いものとしつつ、9月21日に以下の二種の提案をしています。

  1. 内閣主催のもと、靖国神社以外の地で一般戦災者も含む大合同慰霊祭を実施する。
  2. 軍の解体を控え、靖国神社において軍人軍属のみならず常人の戦災者や自決者も含めた大合祀祭を実施する。

 以上の陸軍の方針や提案に対し、海軍や宮内省から批判や意見が出ました。すなわち海軍は合祀対象の拡大については将来あらためて議論することとし、今回は合祀しない方がいいと注文をつけ、宮内省もやはり合祀対象の拡大には難色を示し、一般戦災者を含む慰霊祭をおこなうとするならば、それは靖国神社以外の地でおこなうべきだとしました。

 こうした意見のため陸軍の案の通りには進まず、結局この年11月19日から21日まで軍人軍属を対象とした「臨時大招魂祭」が靖国神社で実施されることになりました。しかし陸軍のいう合祀対象者の拡大、靖国神社での幅広い戦争犠牲者の慰霊、一般戦災者の慰霊は、その後思わぬかたちで実現することになります。

みたままつりの献灯もなく静かな境内
みたままつりの「前夜」

 昭和21年4月に結成された長野県の遺族会は、同年6月頃より上京して遺族の待遇改善を求める政府への建議、代議士への請願などに取り組んでいましたが、靖国神社の姿が昔とは大きくかわり寂しくなっていたため、靖国神社参拝団を結成しようとしていたところ、GHQに差し止められ、パンフレットなどを押収されることがありました。そこで遺族会は長野県内の女性たちを呼び寄せ、GHQ幹部臨席のもと靖国神社境内で地元の木曽ぶしや伊那ぶしを演舞し、理解を得ようとしました。

靖国神社鎮霊社(左)と元宮(右)

 そして7月14日および15日とGHQバンス少佐などを来賓とし、靖国神社境内で「奉納盆踊大会」が実施されました。大会は地元町会の協力もあり、大変な好評を得たといわれています。

 みたままつりはの神学的な基礎づけは、民俗学者の柳田国男がおこなったことはよく知られています。柳田は戦没者を天皇のために戦死した英霊として顕彰するというよりも、特に未婚のまま亡くなった青年の霊の鎮魂、慰霊を企図していたようです。この年の奉納盆踊り大会の開催前後から柳田と靖国神社主典の坂本定夫は接触しており、坂本からみたままつりについて相談をうけていたといわれています。

 ところで、実施当初のみたままつりで慰められるみたまが靖国神社祭神であることはいうまでもありませんが、それ以外の一般戦没者も含まれているかはっきりしないところもありました。

 そうしたことから昭和24年よりみたままつりに先立ち7月13日に「諸霊祭」が行われ、一般戦没者も含め全戦没者を慰霊するようになりました。そして昭和40年に同じく靖国神社祭神のみならず全ての戦争犠牲者を祀る鎮霊社が創建され、以降みたままつりに先立ち鎮霊社の例祭を行うことにより、諸霊祭にかえるようになりました。

 もちろん靖国神社においてみたままつりのように靖国神社祭神以外の一般戦没者を慰霊する祭祀は、極めてイレギュラーなものです。一方で靖国神社における祭儀、慰霊、追悼のあり方については、戦前や戦後間も無くも様々な見解があり、議論や論争もありました。実際に、軍主導で一般戦没者の靖国神社への合祀や慰霊祭の実施も検討されたことは述べた通りです。そして、それはかなわなかったが、戦後間も無く、民衆的な基盤を持つみたままつりとして実現したものであり、これからも大切に斎行されるべきまつりと考えます。

招魂祭(招魂式)が行われた招魂斎庭

令和2年7月2日 大日神社参拝

 大日神社(千葉県白井市)を参拝しました。

 同社の祭神は天照大神ですが、境内社の天神八幡神社では菅原道真公と生食が祀られています。

 天神様が菅原道真公であるということはよく知られていますが、八幡神は一般的に応神天皇であり、生食という耳慣れない神であることは不思議に思われるかもしれません。

 この生食は「いけずき」と読まれ、源平時代の馬の名前です。生食はこの地で生まれ、その後源頼朝に贈られ、頼朝が佐々木高綱に与え、生食に乗馬した佐々木高綱が梶原景季と宇治川の戦いで先陣争いをした話は大変有名です。

 八幡神は武の神ですが、生食を見た人たちは生食を八幡神の使いと信じ、八幡と呼んだといわれています。そのための生食の生まれたとされるこの地では生食が八幡神として祀られているといわれています。

令和2年6月23日 沖縄慰霊の日(魂魄の塔、平和の礎)

 先の大戦で日本軍沖縄守備隊が壊滅し、組織的戦闘が終わったとされる沖縄慰霊の日のこの日、魂魄の塔および平和祈念公園内の平和の礎を訪れ、全ての犠牲者に慰霊のまことをささげました。

魂魄の塔

 魂魄の塔は現在の糸満市の米須に建立された慰霊塔ですが、もともとは沖縄戦における犠牲者の遺骨の納骨場所でした。沖縄戦直後、同地付近で亡くなった犠牲者の遺体・遺骨がそのままになっている状況のなか、同じく付近に一時収容されていた真和志村民が遺骨を収容し、現在の「魂魄の塔」の場所に収容しました。後に遺骨は移され、慰霊碑となりました。なお「魂魄の塔」と名付けたのは翁長雄志前知事の父で収骨作業に尽くした助静氏といわれています。

 平和の礎は、同じく糸満市摩文仁の平和祈念公園内に建立された記念碑であり、軍人や住民、国籍や性別など一切関係なく、沖縄戦で犠牲となった全ての戦争犠牲者の名前が刻銘されています。

「海軍中将大田実顕彰碑」訪問

 大田中将出生の地である千葉県長柄町に建立されている「海軍中将大田実顕彰碑」を訪れました。

 75年前の6月11日、沖縄の小禄・豊見城地区で米軍と戦闘を展開していた大田実中将(沖縄戦時は少将)率いる海軍部隊が壊滅し、13日未明には大田中将が自決しました。

 大田中将は自決の直前、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」と打電しています。75年前に発せられたこの言葉について、今を生きる私たちはよく向き合う必要があります。

海軍沖縄方面根拠地隊司令官大田実海軍中将顕彰碑

中国政府による香港への国家安全法制導入に抗議する─「港人治港」「一国二制度」の大原則を守れ─

※ 6月30日、中国の全人代常務委員会は「香港国家安全維持法」を可決した。今年5月末の全人代における香港への国家安全法制の導入方針を採択したことに基づく動きであるが、香港ではこれにより民主派団体の解散や、メンバーの脱退などが相次いでいる。

以下の声明は、5月末の全人代での香港への国家安全法制導入方針の採択についての花瑛塾の抗議声明であるが、現在の事態の本質はこの時と何もかわっていない。あらためてその際の声明を公開し、中国政府の暴挙に強く抗議する。

中国政府による国家安全法制の導入

 中国で開催されていた全国人民代表大会(全人代)は最終日の28日、香港での反中国的な動きを取り締まる国家安全法制を導入する方針を採択した。

28日閉幕した中国全人代

 香港では昨年、逃亡犯条例改正に対する反対運動(反送中運動)が爆発的な盛り上がりを見せたが、この問題はあくまでも香港政府が香港立法会で条例改正を目指したものである。しかし、このたびの国家安全法制の導入は、中国政府が香港の治安関係法令を直接制定し適用するものであり、香港の高度な自治を認める「一国二制度」を根底から覆すものだ。

 そもそも香港では、いわば香港の憲法である香港基本法のもと、中国の法令が適用されないが、香港基本法では外交や軍事、領事などに関しては例外的に中国の法律の適用を認めている。中国政府は、国家安全法制をそうした香港基本法における例外の一部として香港に適用するというのである。

 ここで香港に適用される国家安全法制の中身は、これから中国政府が具体的な法令として制定することになっているが、外国の政治団体が香港で活動することを禁じたり、中国政府はもちろん、香港政府への抗議そのものを規制する内容になっていくのではないかともいわれている。また中国の治安機関が香港で直接活動することも可能になるといわれ、制度上や手続き上だけでなく、香港の自治と民主主義を実態的にも中国政府が取り締まることが懸念されている。

「国家百年の計」─葦津珍彦が論じた香港返還

 戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は昭和58年、「香港の将来─東洋解放のゴール サッチャー対鄧小平の見識」との記事を執筆している。そこで葦津は、当時の英国の首相サッチャーが鄧小平に香港返還を約したこと、そして鄧小平が香港返還後50年の現状維持(香港の高度な自治、一国二制度)を方針としたことについて高く評価している。

市民に襲いかかる香港警察

 サッチャーはこのころフォークランド紛争に勝利し、自信を深めていた。一方、鄧小平も非常に強硬な態度で英国に対し香港返還を求めていた。実際、鄧小平はやろうと思えば軍を派遣し、香港を実力で回収することなど容易であった。さらに香港を実力回収すれば、鄧小平は「解放の英雄」として歴史にその名を刻むことにもなっただろう。

 しかし鄧小平が香港を実力で回収すれば、英国も黙ってはいない。場合によっては英軍が軍事行動を展開することもありえるし、香港を破壊し、焦土にすることも考えられる。

 サッチャーと鄧小平。互いに国家を領導する宰相は、最終的にはそうした方途をとらず、サッチャーはフォークランド紛争で勝ち取った栄光を背景としつつ香港を平和的に返還することでむしろ国家の威厳を確保し、鄧小平は短兵急な実力回収を避け、名声を選ばず香港を平和的に手中にする利を得た。葦津は香港返還問題をめぐる両宰相の対応について、国家百年の計を見定めたステーツマンと最大の評価をしている。

鄧小平とサッチャー

 ひるがえって今日の中国政府、習近平指導部の香港政策はどうだろうか。まさにこのたびの国家安全法制の導入などは、香港の高度な自治を否定し、一国二制度を覆し、あたかも香港を実力で回収するかのごとき政策ではないか。

 習近平は香港を実力で回収し、葦津のいうように鄧小平が手にしなかった「解放の英雄」の名声を得るかもしれないが、世界は中国政府の対応を非難し、政治的にも経済的にもあらゆる面で香港そして中国との関わりを見直そうとするだろう。

 現在の中国政府の香港政策は、香港のためにもならず、中国のためにもならず、世界にとっても好ましいものではない。「国家百年の計」を見失った誤った政策だ。中国政府は香港の「港人治港」「一国二制度」の大原則を守るべきである。

日本政府は最大級の抗議を

 こうした香港の情勢について、日本政府は中国政府に対し、抗議らしい抗議をおこなっていない。安倍首相は新型コロナウイルス感染症の対策にあたっても、最後まで習近平来日にこだわり、それにより感染症対策を怠り、初動対応に失敗した。日中の友好そのものは大変結構であるが、安倍首相の日中外交も国家百年の計に基づくものでなく、自身の名声のために習近平との親密さをアピールするだけのものである。

 葦津は上述の香港返還に関する記事において、

 「国家百年の計」、次の世紀のための長期遠大の方針を立てること、それがただのその場限りの時務的なポリティシャアン的思考ではなくして、真のステーツマン的見識によって確立されて行かなくてはならない。

 国際ニュースを見ていると、中国や英国の交渉には、なお「国家百年の計」を見定めようとするステーツマン風の構想が見える。だが日本の政治や外交には、ポリティシャン的な進退のみが目について、遠謀深慮のステーツマンの英風が片影も見えない。

と当時の英国と香港の外交に比して日本政治・日本外交を批判している。この葦津の批判は、まさに現在の安倍首相の対中外交にも当てはまるのではないだろうか。

 真に中国を思い、友好を望むのであれば、その香港政策の誤りを正し、国家百年の見地から、香港市民の声と民主主義を侮ってはならないと忠告するべきである。日本政府は中国政府による香港への国家安全法制導入に最大級の抗議をし、また世界に向けてこの問題を訴えていかなければならない。

アジアの平和と友好の見地から

 日本は過去の戦争で香港を占領し、軍政を敷いた。英国支配からの解放といっても、日本もまた香港の自治を奪った歴史がある。香港をめぐる中国への抗議は、ただの反中国の政治闘争ではなく、過去の反省とアジアの平和と友好の見地に立った上のものでなければならない。それもまた国家百年の計である。

香港に入城する日本軍

 戦前の日本には、中国最初の政党「中国革命同盟会」の結成に関わり、孫文や宋教仁を支援するなど、中国革命に身を捧げた宮崎滔天など「大陸浪人(シナ浪人)」といわれる一群の人々がいた。大陸浪人の系譜は戦前の右翼の系譜とも重なり合うが、一方で大陸浪人のなかには国威伸張のため国家の手先として大陸を跳梁跋扈した人物もいる。

 滔天はそうした大陸浪人を「国家的浪人」とか「シナ占領主義者」と批判し、自身の立場を「一言にして吾徒の宗旨を告白すれば、人類同胞主義也。寓邦平和主義也」と述べている。

 その上で滔天は、当時の日本外交が列強に気がねをし革命派を援助しないのならば、「僭越ながら吾等のような連鎖も必要」と述べ、日中両国を結ぶのは民間の志士しかないとしている。花瑛塾も「僭越ながら」ではあるが、日本政府が何かに気がねをし誤った対応をとっているのならばそれを強く批判し、アジアの市民と「連鎖」して「萬邦平和」のために尽くしていきたい。

2019年(令和元)6月14日~17日 花瑛塾亜細亜倶楽部(香港「反送中」「林鄭下台」運動と日本の過去、そして沖縄)

【松井市長は何を思うか】市民の声と野党の追及が実現した検察庁法改正の見送り─次回国会へ継続審議へ─

 国家公務員法改正と検察庁法改正について、政府・与党が今国会での改正を見送った。与野党国対間では次回国会への継続審議で一致したそうだ。

 検察庁法改正の問題についてはこれまで何度も取り上げてきたことであり、ここであらためて繰り返さないが、かかる問題の多い検察庁法改正が見送られたことは、継続審議でいいのかどうか議論は様々あるとしても、ひとまず了としたい。

 新型コロナウイルス感染症の蔓延にともない、国全体として早急に様々な対策をとる必要に迫られているなか、今どうしても検察庁法改正をやらねばならないのかとの批判が高まっていた。

 こうした批判に対し、安倍首相は「地方自治体での条例成立などの観点から、今国会で改正しなければならない」と説明していたが、結局はこのたびの見送りにより、不要不急の改正案だったということを政府・与党みずから暴露した。

 他方、検察官も含む国家公務員の定年引き上げそのものは野党も認めており、国民的なコンセンサスも得られている。批判は検察官の定年に関する勤務年長などの内閣の特例措置であり、国家公務員法改正と検察庁法改正を一括して見送ったのは不可解極まりない。定年引き上げは必要なのだと強調してきたこれまでの政府答弁や、それに対し理解を示してきた野党、そして国民的の声に対し、大変不誠実といわざるをえない。

 また、そもそもの発端ともいえる今年一月末に閣議決定された東京高検黒川検事長の勤務延長の違法性は解消されておらず、検察庁法改正を見送るだけで済む問題ではないことはしっかりと確認したい。

 政府・与党は黒川検事長の違法な勤務延長を取り消すとともに、特例措置により検察官人事への内閣の恣意的な介入を許す検察庁法改正案を廃案とし、国家公務員法の改正とは切り離した上で、野党の対案なども検討・研究しつつ、あらためて上程するべきだ。

 このたびの検察庁法改正については、多くの市民が反対の声をあげたり、疑問を示した。その一方で、日本維新の会と大阪維新の会の代表である大阪市松井一郎市長は、SNS上で「自公は圧倒的な議席を持っている。政局ごっこしても成立するのならば、付帯決議によって権力を牽制するのが少数野党の役割」などと述べた。

 こうした権力への屈服と現状追認のどこが「維新」なのかはなはだ疑問であるが、それはともかくとしても、圧倒的な議席を有する与党と民意を無視し悪政を敷いてきた政府を、市民の声が動かしたのである。市民が松井市長とは逆に権力に屈服せず、現状を追認しなかったからこそ事態は動いたのだ。松井市長は今、何を思っているのだろうか。この動きをどう言い訳するのだろうか。全く情けなく、つまらない男といわざるをえない。

 官僚人事を掌握し、政権におもねる官僚を重用することが安倍政権の求心力の源泉であったが、今回の見送りにより安倍政権の官僚統治の歯車は狂った。政権崩壊の序曲といっても過言ではなかろう。

 黒川検事長の違法な勤務延長と検察庁法改正に関する検察OBの意見書の一節には、「法が終わるところ、暴政が始まる」とのジョン・ロックの言葉がひかれていたが、まさに安倍政権は法を終わらせ、民主主義を停止させ、暴政をほしいままにしてきた。

 しかし「桜を見る会」の問題一つとっても、国会議員が国会で追及し、マスコミがメディアで追及し、市民が街頭で追及すれば、安倍首相の目は途端に泳ぎ始める。安倍政権を攻略する道は、ここにあるのだ。

 占領からの独立間も無く、法相による指揮権が発動された造船疑獄における検察の捜査について、戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は、次のように述べている。

 現状より判断すれば、われわれは司法検察当局の勇断を切に望まざるを得ないけれども、政党の腐敗が国民自らの政治勢力によつて粛清されないで、この粛清が、主として検察司法官僚に依存せねばならぬと云ふ事は、最も深く考ふべきところではあるまいか。──神社新報、昭和29年3月1日

 河井克行・案里夫妻の疑惑なども含め、検察の捜査に期待する向きもあるが、検察はけして正義のヒーローではなく、検察もまた強大な捜査権限を持つ捜査機関・公権力であり、市民がしっかりとチェックをしなければならない。

 大事なことは、葦津のいうように、何よりもまず国民の声を聞くしっかりとした政治が行われるべきだということであり、それは法を終わらせることなく、民主主義を生かしていくということである。

 法を終わらせず、民主主義を生かすことにより安倍政権を倒し、全ての人々が豊かである国にしていきたい。