平成30年10月28日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑤(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は28日、沖縄戦の最激戦地の一つ嘉数高地(宜野湾市)および運玉森(西原町)を見学しました。沖縄戦時、首里にあった日本軍沖縄守備隊(第32軍)の司令部を防衛するため複数の防衛線が築造されましたが、嘉数高地はそのうち第1防衛線の主陣地、運玉森は最終防衛線の首里東側の主陣地とされ、日米・軍民問わず多くの人が犠牲となりました。

 以下、紹介します。

嘉数高地 読谷・北谷の海岸へ上陸した米軍は、一部部隊を北進させ、主力は首里の第32軍司令部攻略のため南進した。この米軍を第32軍は宇地泊・大謝名・嘉数・西原・我如古・和宇慶の第1防衛線で迎え撃った。特に嘉数高地では約2週間におよぶ日米の激戦となった。南進する米軍にとって、嘉数高地は高地という軍事上の優勢のみならず、高地手前に比屋良川という川が流れ堀のようになっており、天然の要害となっていた。

比屋良川(手前)から嘉数高地(奥)を望む

 第32軍は嘉数高地に無数の壕やトーチカを築造し、さらに米軍と対峙する高地の斜面の反対側(首里側)の斜面から砲撃する「反射面陣地」によって米軍を苦しめた。米軍は嘉数高地の戦いで一時的に第32軍以上の被害を出し、1日に1mしか前進できない日もあり、「いまいましい丘」と呼称した。

 嘉数高地陥落後、第32軍は第2防衛線である前田高地に部隊を撤退させ、進撃する米軍とさらなる戦闘を継続した。いわゆる「ハクソーリッジの戦い」である。米軍は戦車や火炎放射装甲車など猛烈な火力で攻め立てたが、あまりの戦闘の激しさから精神に異常をきたす兵士が続出したといわれている。

 また沖縄戦では多数の住民が戦闘に巻き込まれ、あるいは防衛隊などとして軍に召集・協力し犠牲となったが、それは嘉数高地の戦いも例外ではなく、嘉数付近の住民は戦闘前は陣地構築に動員され、戦闘中は防衛隊として自爆攻撃を強いられ、敗北色が濃くなると避難壕を追い出されるなどした。実際に沖縄戦で嘉数住民の半数以上が戦死している。

嘉数高地の住民避難壕デラガマ(崩落を防ぐため支柱で補強している)

運玉森 米軍がコニカル・ヒルと呼称した運玉森は、嘉数高地・前田高地陥落後の首里東側の最後の防衛線である。ちなみに首里西側の最後の防衛線は、有名なシュガーローフ・ヒル(安里52高地)である。米軍は中城湾(バックナー・ベイ)から運玉森へ砲撃を加えつつ前進し、突破した。ここでも住民が戦闘に動員された記録が残っている。

首里方面から運玉森(奥)を望む

 最終的に運玉森と安里52高地が陥落し、米軍は首里の司令部陥落も時間の問題であり、沖縄戦は間も無く終結すると予測していたが、第32軍は島尻へ撤退し、摩文仁を司令部としてさらなる抗戦をはかる。本土決戦のため1秒でも時間を稼ぎ、1人でも多くの米兵に出血を強要するためであり、首里撤退はまさしく沖縄戦が「捨て石」であることを示している。

運玉森から米軍が布陣した我謝・安室集落(奥)と中城湾(同)を望む

平成30年10月27日 花瑛塾第15次沖縄派遣団④(沖縄環境ネットワーク結成20周年記念シンポジウム「沖縄の環境を考える」)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は27日、沖縄国際大学で開催された沖縄環境ネットワーク結成20周年記念シンポジウム「沖縄の環境を考える」に参加しました。

 シンポジウムは第1部「報告:沖縄の今」として、砂川かおり氏(沖縄国際大学講師)「沖縄環境ネットワーク結成から20年、活動の歴史と今」、牧志治氏(水中写真家)「辺野古・大浦湾の海と、現在」、吉川秀樹氏(ジュゴン保護キャンペーンセンター国際担当)「ジュゴン訴訟、埋立て承認撤回、今後の展開」、花輪伸一氏(元世界自然保護基金ジャパン)「復刻版『琉球弧の住民運動』から学ぶこと─本土での沖縄との連帯運動の視点で」との報告がありました。

発表・報告の様子と満員の会場

 第2部では台湾のグラミー賞とも呼ばれる「金曲奨」を受賞したHIRARA(宮古出身の歌手)さんの宮古伝統音楽や台湾伝統音楽などのコンサートがおこなわれました。台湾アミ族との交流も踏まえたHIRARAさんの歌では、姪子さんのお囃子などもあり、大変盛り上がりました。

 引き続き第3部「基地からの環境汚染」では、ジョン・ミッチェル氏(調査報道ジャーナリスト、沖縄タイムス特約通信員)「情報公開法でとらえた米軍基地環境汚染」、桑江直哉氏(沖縄市議会議員、沖縄環境ネットワーク世話人)「沖縄市サッカー場の土壌汚染と、沖縄市の情報公開の問題点」、桜井国俊氏(沖縄大学名誉教授、沖縄環境ネットワーク世話人)「基地環境問題にどう立ち向かうのか」との報告がありました。

報告するジョン・ミッチェル氏

 第1部および第3部の発表・報告では、「基地と環境問題」をテーマに、古くは勝連半島の埋め立てなど金武湾一帯をCTSといわれる石油備蓄基地をはじめとする「平和産業」の拠点とするための開発計画に対する反対運動「金武湾闘争(CTS反対運動)」や、近くは辺野古ジュゴン訴訟における国防総省と日本政府の動向と米国における裁判の問題、あるいはジョン・ミッチェル氏による在日米軍と環境破壊・汚染問題の実態報告など様々なお話を伺いました。

 なおジョン・ミッチェル氏は、これまで米国の情報公開法を利用し、神経ガスの海中投棄や枯葉剤の地中への埋伏など、沖縄での米軍による環境汚染を調査・告発しており、日本政府はミッチェル氏の告発によって米軍による環境破壊・汚染の事実を把握するような状況にあります。これらミッチェル氏による調査をまとめた『追跡 日米地位協定と基地公害』が大きな話題となっていますが、この日の「沖縄タイムス」には同氏による嘉手納・普天間飛行場などでの米軍の泡消火剤流出による猛烈な環境汚染についてのスクープが掲載されており、タイムリーな報告でした。

ミッチェル氏による調査結果を1面に掲載する「沖縄タイムス」2018.10.27

 辺野古新基地建設はじめ沖縄の基地問題は、民主主義や地方自治、あるいは防衛政策や安全保障、日米関係はじめ日本外交のあり方、法律手続きの適正さ、経済的合理性、そして騒音・犯罪・土地収用など住民の被害など、様々な視点からその問題点を指摘することができますが、動植物などの自然環境の保護、あるいは人間の健康被害など「環境」という点からも考えるべき問題だと気づかされました。

平成30年10月26日 花瑛塾第15次沖縄派遣団③(沖縄戦戦争遺跡見学など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は26日、伊江島(伊江村)にて沖縄戦の戦争遺跡や戦後の基地問題に関する施設などを見学しました。

 沖縄戦における伊江島の戦いは、強制集団死(いわゆる「集団自決」)や防衛隊による民間人殺害などの悲惨な出来事が発生したり、少年義勇隊や女子救護班・婦人協力隊といった子どもや女性が防衛隊として動員され、「斬り込み」といわれる敵陣への自爆攻撃や万歳突撃を強制されるなど、沖縄戦の縮図のような悲惨な戦場となりました。

 また戦後、伊江島住民は故郷の伊江島から遠く離れた久志や慶良間諸島の収容所に隔離されました。帰島はなかなか許されず、帰島した頃には伊江島には米軍の巨大な基地ができていました。さらに昭和28年以降はいわゆる「銃剣とブルトーザー」による土地の接収がおこなわれ米軍基地は拡大していき、核模擬爆弾投下訓練なども行われました。住民は土地の強制接収や過酷な基地負担に猛反発し、抗議運動を展開しますが、これが後の「島ぐるみ闘争」に発展していきます。

 以下、見学した戦争遺跡や参拝した慰霊碑などを紹介します。

【公益質屋跡】 公益質屋とは、戦前に設立された市町村などの公的機関による市民向け金融機関。井川正少佐(後に大佐)率いる日本軍伊江島守備隊は、城山(タッチュー)とその手前の高地を陣地としたが、公益質屋はその高地にあり、米軍の砲撃にさらされた。米軍は昭和20年4月16日に島の南西に上陸し城山を目指して進撃したため、公益質屋も建物の南西側が際立って破壊されている。

公益質屋

【ニィヤティヤガマ】 伊江島の南側海岸に面する海食洞。もともとは子授けの神の伝説が存在する自然壕。伊江島では昭和18年から飛行場建設が進められ、多数の兵隊や徴用人夫が配備されており、彼ら軍人軍属や住民が米軍による空襲の際の避難場所として利用された。

ニィヤティヤガマ(内部空間は相当に広い)

【アハシャガマ】 伊江島北東の自然洞穴。沖縄戦時、住民や防衛隊など100人以上が避難していたといわれる。4月21日、伊江島守備隊が壊滅したが、翌日22日、ガマにいた防衛隊が米兵の接近に気づき爆雷を爆発させ、住民を巻き込む強制集団死をした。ガマ内部はその際に崩落があり、遺体は当分の間そのまま放置された。その他、サンザタ壕やユナッパチク壕でも強制集団死が発生した他、母親が泣き止まない赤子を殺害したり、防衛隊が住民に手榴弾を投げつけるといった出来事も発生した。

アハシャガマ

【伊江島守備隊第3中隊関連壕および城山】 伊江島守備隊の司令部があった城山の手前の高地(学校高地)には、地下壕が築かれ伊江島守備隊第2中隊、第3中隊が配備され、巨大な砲撃陣地となっていた。一帯では日米の熾烈な戦闘が行われ、米軍は「血塗られた丘」「血の稜線」などと呼称した。城山山頂からは島全域が見渡せる。また伊江島の戦いの前日、米軍は伊江島の南に浮かぶ水納島を制圧し、水納島から城山を砲撃するなどした。

伊江島のシンボルともいえる城山(タッチュー)

【アーニー・パイル記念碑および芳魂之塔】 アーニー・パイルは米軍従軍記者として伊江島の戦いに参加していたが、4月18日に伊江島守備隊の機銃掃射により戦死した。芳魂之塔は伊江島の戦いで犠牲になった軍民約3500人を慰霊するもの。守備隊壊滅の日の毎年4月21日に平和祈願祭が執り行われている。

従軍記者アーニー・パイル記念碑

【団結道場およびヌチドゥタカラの家】 戦後、米軍は伊江島住民の家にガソリンで火をつけ、ブルトーザーでなぎ倒し、土地を強制接収し基地を建設していった。抗議する住民には容赦なく暴行をふるい投獄までしたが、阿波根昌鴻ら住民は「伊江島土地を守る会」を結成し団結道場を拠点に抗議活動を続けた。伊江島住民の抗議活動は、後に沖縄全域で展開した「島ぐるみ闘争」の淵源となる。なお、ヌチドゥタカラの家は当時の運動の資料館である。

往時の雰囲気が伝わる団結道場

【LCT慰霊碑】 終戦後間も無くの伊江港で発生した米軍の爆弾処理船(LCT)の爆発事故「波止場事件」犠牲者を慰霊する碑。沖縄戦の戦後処理のため未使用の爆弾や不発弾を積載したLCTだが、荷崩れが発生し爆発した。多数の犠牲者を出した他、焼けただれた鉄片が島内各地に飛散するなど被害をもたらした。

LCT慰霊碑

平成30年10月25日 花瑛塾第15次沖縄派遣団②(沖縄戦戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は25日、特攻艇秘匿壕群(読谷村)、旧栄橋(嘉手納町)、旧美里国民学校奉安殿(沖縄市)の沖縄戦戦争遺跡を見学しました。

 沖縄戦は現在の沖縄基地問題の原点でもあります。旧日本軍が建設した飛行場などを米軍が接収し、さらに拡大していった事例もあり、沖縄戦とこれに続く軍政・施政権下のなかで基地が拡大していきました。沖縄戦では壮絶な地上戦が戦われ、日米・軍民約20万人もの犠牲者を出しましたが、こうした膨大な沖縄戦での犠牲者は、日本軍が沖縄を軍事的「捨て石」とする戦略持久作戦を展開したために発生しました。そしていま日本政府は「抑止力」「安全保障」の名の下で沖縄に基地を押しつけ、沖縄を政治的「捨て石」としています。

 沖縄戦の悲惨さとそこに見え隠れする沖日米の歴史的関係を知れば、沖縄への基地の押しつけなどはできないはずですが、花瑛塾は沖縄戦戦没者追悼のためにも歴史を振り返り、それを現実の行動につなげていきたいと思います。

 以下、見学した戦争遺跡を簡単に紹介します。

【特攻艇秘匿壕群】 読谷村渡久地の比謝川河口に面する人工壕。現在は小さな漁港となっている。昭和19年12月より陸軍海上挺進基地第29大隊が築造し、翌年2月より陸軍海上挺進第29戦隊が配備され、この人工壕に特攻艇「マルレ」(連絡艇)を秘匿し、米艦艇への海上特攻作戦に備えた。基地隊には多数の朝鮮人軍夫が動員され、過酷な軍務に従事した。その他、近くの北谷町にも秘匿壕がある他、慶良間諸島渡嘉敷島や石垣島などにも存在する。特攻艇による海上特攻による戦果は、現在も不明な部分が大きいが、沖縄戦時、海上特攻や航空特攻など数々の特攻作戦が展開された。

特攻艇秘匿壕群

【旧栄橋】 嘉手納町屋良、現在の嘉手納高校の裏に流れる比謝川に架かっていた橋。二重アーチ状の鉄筋コンクリート造りの堅牢な橋梁だったが、昭和20年4月1日の米軍上陸とともに日本軍が爆破・破壊した。日本軍は読谷・北谷など比謝川河口に上陸してきた米軍について、水際で上陸を阻止するのではなく、これを上陸させつつ遊撃戦を展開し出血・消耗を強制させながら第1線防衛線である大謝名・嘉数・我如古・和宇慶ラインに米軍を引き込み南下させ、そこで打撃を与える作戦を企図していた。このため第1線陣地の増強と遊撃戦展開のため、米軍の進行を遅滞させるべく主だった橋を爆破・破壊した。

木々が生い茂りわかりにくいが、破壊され露わになった橋脚が見える

【旧美里国民学校奉安殿】 沖縄市美里児童園内。「奉安殿」とは天皇・皇后両陛下のお写真である「御真影」を保管する施設。沖縄戦時、御真影奉護は教員・学校長の重大任務であり、沖縄各地の御真影が集められ「奉護隊」が戦災を逃れるため御真影とともに避難するなどした。最終的に御真影は昭和天皇の御真影のみを残して奉護隊はやんばるの森の大湿帯をさまようが、第32軍壊滅の連絡を遊撃部隊である護郷隊・村上隊長より聞き、昭和天皇の御真影を奉焼した。本土の奉安殿などはGHQの指令で破壊されたが、沖縄はGHQではなく米軍が直接統治したため破壊を免れた。歴史の皮肉といわざるをえない。奉安殿には沖縄戦時の弾痕が生々しく残っている。

現存する奉安殿

平成30年10月24日 花瑛塾第15次沖縄派遣団①(沖縄県議会傍聴など)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団はこの日、沖縄県議会米軍基地関係特別委員会における辺野古県民投票条例や各種陳情などの審議を傍聴しました。

 先日の本会議でデニー知事を侮辱するような質問を繰り返した米軍基地関係特別委員会の委員でもある自民党県議らは、本日の委員会でも辺野古新基地に関する沖縄県の認識についての県職員の発言のあげ足とりに終始し、県民投票の必要性や今後の沖縄米軍基地のあり方を展望するような議論の深まりはありませんでした。保守政治家としての知的誠実さや品格、あるいは基地問題への議論の高まりや愛郷的な問題意識が欠如しているように感じました。

沖縄県議会

 自民党沖縄県連会長・國場幸之助衆院議院は、県知事選挙・豊見城市長選挙・那覇市長選挙と立て続けの敗北をうけて県連会長職を辞任しましたが、実際には既婚女性への卑猥な言動が週刊誌に取り上げられており、スキャンダル含みの辞任でした。

 國場議員は「沖縄四天王」の1人で國場組創業者・國場幸太郎氏を祖父とし、昭和45年(1970)に瀬長亀次郎氏らと共に戦後初の沖縄選出の国会議員となった國場幸昌氏を大叔父とする人物であり、5年前まで普天間飛行場県外移設を主張していた「沖縄保守」の政治家でもあります。結局、安倍・石破ラインの圧力に屈服し辺野古新基地建設容認派に転落しましたが、いまやその政治力や指導力が問われ、さらに人間性まで問題視されています。

 また那覇市長選挙で再選された城間幹子氏に挑んだ翁長政俊氏は、長く県議などを務め、自民党沖縄県連幹事長など沖縄自民党の要職を歴任した人物でもありました。翁長氏は選挙の敗北により政界引退を余儀なくされましたが、選挙の敗因は官邸が那覇市長選挙の敗北を見切り、選挙中にも関わらず辺野古埋立承認撤回への不服審査申し立てるなど、沖縄切り捨て・東京本位の振る舞いをしたからといわれています。沖縄保守政界の中枢人物であっても中央政界の「系列保守」である限りためらいもなく利用され、使い捨てにされるのです。

 こうした一連の出来事や今日の委員会質疑からいえることは、沖縄保守政界から「沖縄保守」の伝統や高潔な精神が消えようとしているということです。自民党沖縄県連はいわば「東京の自民党の沖縄支店」ではなく「沖縄の自民党の総本店」として、「系列保守」から脱却した本来の「沖縄保守」としての堂々の旗を掲げるべきではないでしょうか。

沖縄県議会米軍基地関係特別委員会

 その他、糸満・摩文仁の平和祈念資料館を見学するとともに、沖縄戦を戦った歩兵第22連隊壊滅の地に建つ「栄里の塔」や米軍沖縄攻略部隊司令官であり沖縄戦で戦死したバックナー中将を弔う「バクナー慰霊碑」をお参りしました。

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は昨日23日に沖縄入りし、辺野古新基地建設が再開されようとしている状況下、しばらくのあいだ沖縄にて取り組みをする予定です。

[那覇市長選挙]城間幹子氏大差で再選 県都発展を沖縄発展へ 日本政府は沖縄の声に応答せよ

 今月10月14日告示、21日投開票の那覇市長選挙は開票を終え、現職の城間幹子氏が一騎打ちとなった翁長政俊氏を大差で破って当選し、市政2期目を迎えることになった。

 開票結果は城間氏79,677票、翁長政俊氏42,446票。最終投票率は48.19%であった。なお、自民党沖縄県連会長・国場幸之助衆院議院は21日、県知事選挙、豊見城市長選挙、そして今回の那覇市長選挙と立て続けの敗北の責任を取り、県連会長職の辞任を表明した。また翁長政俊氏は政界引退の意思を示した。

当選確実の一報に喜ぶ城間幹子氏[日経新聞2018.10.21 20:08]

 沖縄県の県都・那覇市のリーダーである市長の責任は重大だが、城間氏は1期目で子どもの貧困対策など数々の結果を出した。こうした城間氏の実行力に多くの人の支持が集まったものと思われる。2期目の市政で那覇市をさらなる高みへ導き、沖縄全体が豊かで平和な島となるようリーダーシップを発揮して欲しい。

 そして故翁長雄志氏がいっていたように、沖縄はアジアのダイナミズムを取り入れ、いまやアジアが沖縄を手放さない状況にある。城間氏には、アジアとしっかりと結びつき、アジアへ、そして世界へ羽ばたく沖縄をデニー知事とともに作り出して欲しい。

 9月30日の沖縄県知事選挙でのデニー知事の勝利、10月14日の豊見城市長選挙での山川ひとし市長の勝利につづき、故翁長氏の後継者として那覇市長となった城間氏の2期目の勝利は、新基地建設反対・基地負担軽減という沖縄の民意をあらためて世界に表明するものでもある。また、こうした沖縄の民意は、これまでの県知事選挙や衆参国政選挙、過去の県民投票や名護市民投票などの住民投票でも示された歴史的な民意でもある。

 日本政府はこうした沖縄の民意をあえて無視し、居直り、辺野古新基地建設を強行している。沖縄県が撤回した辺野古沖の公有水面埋立についても、防衛省が国土交通省に「不服審査」を申し立てるという、政府内での「自作自演」の「茶番劇」をやろうとしている。沖縄の人々へ辺野古新基地建設の政治的・法的・軍事的・経済的・環境的な合理性を何ら説明することなく、「基地負担軽減」の名の下で耐用年数200年の基地をつくることは、民主主義を踏みにじり、沖縄の人々の人権をおびやかす暴挙といわざるをえない。

 「神社新報」昭和31年(1956)6月30日付記事「千島と沖縄」は、昭和31年に発出された「プライス勧告」によって土地の強奪と基地建設が強行される沖縄の現状について、次のように述べる。

全島の四分の一が軍用地に接収され、しかも永代地上権を設定されんとしてゐる沖縄同胞のあの悲壮なる抵抗には政府はもっと親身になる必要がある。

 また「プライス勧告」や基地問題を訴えようと鳩山一郎元総理のもとへ沖縄の人々が訪れた際、鳩山元総理が「昼食中である」「昼寝の時間だ」などといって面会を拒否したことについて、同じく「神社新報」同日記事「沖縄土地問題を訴へる」は、

八十万同胞が血涙を以て訴へてゐるその声に、たとへ五分間でも耳を傾けることが出来ないといふのであらうか。

慶良間島に於ては小学生までが闘ひ斃れた。ひめゆり部隊、鉄血勤皇隊等々の正に鬼神をして哭かしむる最後についてはもはや云ふべき言葉もない。[中略]この様に至誠以て本土を護った沖縄県民に対し、その本土は余りにも冷淡ではなかったか。

 と怒りとも悲しみともいえる言葉を記す。

 「神社新報」にあらわれた当時の状況を顧みたとき、いまから62年前の沖縄と本土・政府の関係性や、本土・政府の冷淡さ、過酷さは、いまとかわらないことがわかる。基地問題は沖縄への「構造的差別」といわれるが、その「構造的差別」は同時に「歴史的差別」でもあるといえるだろう。

 沖縄はあと何度民意を示せばよいのか。どうすれば日本政府は沖縄の民意に向き合うのか。そしてこれまで示し続けてきた民意はどこにいってしまうのか。都合のいい「民意」が出るまでは沖縄の民意を認めず、対立と分断を強制し、沖縄の人々を疲れさせ、諦めさせようとする卑劣な行為を日本政府はただちにやめるべきである。

 昭和30年代の神道人は本土の冷淡さ、過酷さを鋭く告発し、行動していた。花瑛塾は当時の神道人の精神を継承し、日本政府・安倍政権に対し沖縄の声へ応答するよう求めていきたい。

平成30年(2018)10月21日 「出陣学徒壮行の地」記念碑

 秩父宮ラグビー場(東京・青山)敷地内に建つ「出陣学徒壮行の地」記念碑を訪れました。

 先の大戦時、兵役法は中学校以上の学校在籍者の徴集延期を認めていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴集延期制を廃止し、この年の年末には徴兵検査をおこなった学生約10万人が入営しました。そして徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。このため壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。

「出陣学徒壮行の地」記念碑

 学徒出陣によって下級将校となった学徒兵出身者たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちには差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒兵出身の将校であり、学徒兵出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。

 また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、植民地であった朝鮮・台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員された他、女性も少数ながら通信隊に動員されるなどしました。しかし政府は植民地出身者や女性の動員に消極的であり、むしろ学徒兵や少年兵を積極的に動員しました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。

 当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。

 なお、「出陣学徒壮行の地」記念碑は、4年前に東京オリンピックの工事のため現在の地に移っており、新国立競技場が完成した際には再び移転するそうです。

平成30年10月19日 フィリピン方面戦没者慰霊祭

 フィリピン・ダバオ市ミンタルにある旧日本人墓地にて「フィリピン方面戦没者慰霊祭」(主催:社団法人戦没者慰霊の会「櫻街道」)が開催され、参列しました。

 ダバオは先の大戦以前から多くの日本人が住み、日本人街が形成されていました。日本人移民はマニラ麻といわれる麻の栽培などをおこなったそうです。また先の大戦ではマレー上陸作戦、真珠湾攻撃にならんでフィリピン攻略作戦がおこなわれ、マッカーサー率いる米軍と激しい戦闘がおこなわれました。日本軍はマレーとフィリピンを占領し、東西から挟み撃ちするかたちでインドネシアなどの南方重要資源地域の制圧を目指したといわれています。

 戦争末期では米軍によるフィリピン奪還作戦がおこなわれ、フィリピン各地で激戦となりました。これにより日本が設定していた「絶対国防圏」は崩壊し、沖縄が急速に主戦場とされるとともに、本土決戦が現実化していきました。

 沖縄とフィリピン・ダバオは結びつきがつよく、ダバオへの日本人移民の半数が沖縄県出身者でした。そのため沖縄・摩文仁の丘には「ダバオの塔」があり、またダバオ・ミンタル日本人墓地には「沖縄の塔」が建立されています。

 ダバオ市ミンタルの日本人墓地は、平時で亡くなった日本人の墓地であるとともに、戦後、フィリピンで戦没した日本人・フィリピン人の御霊を慰霊する慰霊碑が建立され、今回の慰霊祭はそこでおこなわれました。

 参列者も日本人ばかりではなく、現地住民も多数参列しており、全ての戦争犠牲者の慰霊と日本・フィリピンの友好をはかる慰霊祭になったと思います。

 なお「櫻街道」は、東アジア各地で先の大戦の戦没者の慰霊祭や遺骨収容事業と、桜の植樹活動をおこなっています。

慰霊祭の様子
戦争犠牲者慰霊碑

辺野古新基地建設における沖縄県による公有水面埋立承認撤回への政府の「対抗措置」を読み解くー翁長県政時における政府との攻防を事例にー

 昨日10月17日、防衛省・沖縄防衛局は辺野古新基地建設に関し、沖縄県による公有水面埋立承認の撤回について、石井啓一国土交通相に行政不服審査法に基づく審査を請求するとともに、撤回の執行停止を申し立てた。新基地建設に関する政府による沖縄県への「対抗措置」であり、沖縄県知事選挙で示された圧倒的民意を顧みない政府の暴挙は許されず、「対立と分断」を引き起こす政府の対応を糾弾する。

 国交省は比較的短期間のうちに防衛省の申し立てを認め、早ければ数週間以内に工事が再開される見通しだ。政府の「対抗措置」なるものは、そもそも行政の措置に関する私人の救済を念頭にしている行政不服審査法を、防衛省が私人になりすまして「仲間」である国交省に不服を申し立てる「自作自演」「猿芝居」であり、法の濫用といわざるをえない。

 こうした「対抗措置」は、すでに翁長県政時にも政府がおこなってきた「常套手段」でもある。翁長雄志前沖縄県知事は平成27年(2015)10月、仲井真弘多元知事による公有水面埋立承認を取消したが、政府は同じように行政不服審査法に基づき石井国交相に申し立てをおこない、最終的には沖縄県と政府の訴訟となった。今回の「対抗措置」により、沖縄県と政府は前回同様訴訟になることであろう。前回の訴訟においては、沖縄県と政府は一時的に和解したが、政府は「和解破り」をおこない工事を強行した。今回も最終的には訴訟となる見通しのため、前回の公有水面埋立承認取消しに関する沖縄県と政府の攻防を確認することにより、今回の事態を把握し今後の対応について検討したい。

翁長県政時における公有水面埋立承認取消しに関する県と国の攻防

 平成25年(2013)12月、仲井真元沖縄県知事は、公有水面埋立法に基づく沖縄防衛局による辺野古新基地建設の埋立工事の許可申請を承認した。しかし翁長前知事がこの承認を取消したため、国は沖縄県の取消しを違法として提訴、平成28年(2016)12月20日、最高裁は沖縄県の承認取消しを違法とした福岡高裁那覇支部判決を支持、沖縄県の上告を退けた。国はこれを受けて辺野古新基地建設を再開するわけだが、この司法判断は憲法の地方自治規定と地方自治法を踏みにじり、かつ沖縄の基地負担を永続化させるものであり、許されざるものである。

 本件違法確認訴訟とこれに関連する代執行訴訟、そしてその訴訟の和解あるいは行政不服審査法に基づく措置など、沖縄県と国の一連の訴訟の経緯は錯綜しており、いささか分かりづらい。当事者も沖縄県や沖縄防衛局あるいは国土交通省または裁判所や国地方係争処理委員会など多岐に渡る。以下、時系列的に国と沖縄県の紛争を確認したい。

平成25年(2013)

  • 12月27日 防衛省・沖縄防衛局は名護市辺野古での新基地建設のための埋立工事許可を申請し、沖縄県(仲井真前知事)が承認。

平成27年(2015)

  • 10月13日 翁長前知事は仲井真元知事による埋立承認には瑕疵があるとしてこれを取消す。
  • 同月14日 防衛省は沖縄県の措置を不服として石井国交相に行政不服審査法に基づく審査請求と承認取消しの執行停止を申し立てる。
  • 同月27日 石井国交相は承認取消しの執行停止を発表。さらに閣議において、地方自治法に基づき沖縄県に代わり埋立承認の取消しを取消す代執行の手続きに着手。
  • 11月2日 沖縄県は執行停止を不服として国地方係争処理委員会へ審査を申し出る。
  • 同月9日 石井国交相は沖縄県に取消しを取消すよう是正指示を出すが、沖縄県はこれを拒否。
  • 同月17日 国交省は承認取消しを違法として、取消しを取消す代執行訴訟を福岡高裁那覇支部に提訴。

平成28年(2016)

  • 3月4日 代執行訴訟について沖縄県と国の和解成立。
  • 同月7日 石井国交相は埋立承認取消しを違法として、取消しを取消すようあらためて沖縄県に是正指示を出す。
  • 同月23日 沖縄県は石井国交相の是正指示について国地方係争処理委員会に審査を申し出る。
  • 6月17日 国地方係争処理委員会は是正指示の違法性を判断せず、沖縄県と国に協議を求める。
  • 同月24日 翁長前知事は安倍首相に文書で協議を求める。
  • 7月22日 是正指示に従わないのは違法として国が沖縄県を相手に違法確認訴訟を提起。
  • 9月16日 福岡高裁那覇支部が埋立承認取消しは違法と判決。
  • 12月20日 最高裁が沖縄県の上告棄却。
  • 同月26日 翁長前知事は埋立承認取消しを取消す。
  • 同月27日 防衛省・沖縄防衛局は辺野古新基地建設の工事再開。

平成29年(2017)

  • 4月25日 辺野古新基地建設の護岸工事がはじまる。
  • 7月24日 沖縄県が岩礁破砕差止訴訟を提起。

平成30年(2018)

  • 3月13日 那覇地裁は沖縄県による岩礁破砕差止の提訴を却下。
  • 6月12日 政府は沖縄県に8月17日以降に土砂投入をおこなうと通知。
  • 7月27日 翁長前知事は埋立承認撤回を発表。
  • 8月8日 翁長前知事逝去。
  • 同月31日 沖縄県は埋立承認を撤回。
  • 9月30日 沖縄県知事選挙でデニー氏が当選。
  • 10月12日 デニー知事と安倍首相が面談。
  • 同月17日 防衛省は国交省に埋立承認撤回の執行停止と審査を申出る。

 平成28年12月20日に最高裁が沖縄県の上告を退けた訴訟は、同年3月4日に和解が成立した代執行訴訟ではなく、代執行訴訟の和解成立後に沖縄県が国の是正指示に従わないのは不作為の違法であるとして、国が福岡高裁那覇支部に提訴した地方自治法に基づく違法確認訴訟である。

 代執行訴訟の和解条項においては、国の是正指示に関しては、沖縄県が国地方係争処理委員会の審査を経て、沖縄県が国を相手に訴訟を提起すると取り決められていたが、国地方係争処理委員会が法的判断を避け、両者の協議を求めたため、沖縄県は提訴を控え、国に協議を申し出たのである。しかし国は沖縄県が是正指示に従わないのは違法として提訴したのであり、その訴訟の結果が平成28年9月16日の福岡高裁那覇支部判決と最高裁判決である。

 しかし違法確認訴訟はあくまで文字通り違法の確認であり、執行力を伴うものではない。同時に、国が沖縄県を相手として違法確認訴訟を起こすことは、和解条項に反するものである。その意味で沖縄県は和解条項に従う必要がないともいえる。

司法判断の是非と今後の見通し

 違法確認訴訟に関する最高裁判決では、福岡高裁那覇支部の判決に上告した沖縄県の意見を聞く弁論が開かれなかった。ただでさえ地方自治法に基づく違法確認訴訟は2審制を採用し、主張・審理の機会が少ない。事件の重大性から考えても、最高裁が弁論を開かなかったことは許しがたい。本来であれば大法廷での審理があってもいいものであるが、小法廷において弁論を開くことのないまま判決が確定してしまった。

 そもそも福岡高裁那覇支部判決は、仲井真元知事の埋立工事承認に瑕疵はないとし、翁長前知事の埋立工事承認の取消しを違法とするものである。そして、その結論を導くため、在日米軍の沖縄駐留は妥当であるとし、沖縄の基地負担を認容している。さらに辺野古新基地建設により基地負担が軽減されるなどと、政府の主張を丸のみするものとなっている。

 同時に、福岡高裁那覇支部判決は、国の統治行為のためには、地方の意見を聞いていれば物事が前に進まないから、国の判断に重大な不合理のない限り、地方は国の要求を唯々諾々と聞くべきという内容であったことはしっかりと確認したい。これは憲法の地方自治規定や国と地方との対等性を明確にした地方自治法を踏みにじるものであり、沖縄のみならず原発問題などを抱える全ての地方自治体を委縮させる恐るべき判決である。

 最高裁判決では、国と地方のあり方や辺野古新基地建設の妥当性までには踏み込むことはなかったが、その骨子においては福岡高裁那覇支部判決を踏襲するものであり、最高裁判決を認めることはできない。そして最高裁判決を「天裕」とばかりに辺野古新基地建設の工事の再開をはかる国の対応も許すことはできない。

 翁長前知事は仲井真元知事による埋立承認の取消しを取消したが、今回の承認撤回は大浦湾における軟弱地盤の存在など新たな材料をもっての承認「撤回」である。沖縄県側にも相当な覚悟があり、前回の国との攻防を踏まえての準備もあるだろう。デニー知事を支える圧倒的な民意も存在する。

 私たちが行政上の手続きや法的なやり取りに直接関与することはできないが、前回の県と政府の攻防を確認し、政府のやり口を知ることは、今回の事態を冷静に把握することにつながり、新たな一手を見つけ出すことにもなる。そして何より、前回の攻防を知ることは、政府は法的根拠に乏しい強硬な措置でしか辺野古新基地建設をすすめることができないということを明白にさせる。しかし弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶのだ。デニー知事を支え、来たる那覇市長選挙、そして来年4月の統一地方選挙と参院選挙で勝利し、世論の力で安倍政権を追いつめ、新基地建設を断念させよう。

浅沼稲次郎氏刺殺事件と葦津珍彦ー信頼と忠誠との情理ー

 昭和35年(1960)10月12日、政局は解散総選挙を間近に控え、東京・日比谷公会堂では自民党・民社党・社会党の3党党首立会演説会が開催されていた。民社党・西尾末広委員長が演説を終え降壇し、続いて登壇した社会党・浅沼稲次郎委員長が演説をはじめて間も無くの午後3時5分頃、右翼少年・山口二矢が壇上に駆け上り、短刀で浅沼委員長を刺殺した。浅沼委員長は病院へ運ばれたが即死状態であり、逮捕された山口少年も翌11月2日、勾留先の東京少年鑑別所で自殺した。

 戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦は、浅沼委員長刺殺事件と同事件を敢行した山口少年に強い関心を抱き、当時健筆を振るっていた「神社新報」で同事件を考察する複数の記事を執筆し発表した他、自著『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』(神社新報社、昭和36年)にて同事件はじめ右翼テロの分析や政治と暴力について議論を展開している。

 同書にて葦津は、エチオピアのマラソン選手アベベが昭和35年のローマ五輪で優勝した際、自身の勝利を喜ぶのではなく祖国の勝利を喜んだ事例を紹介し、人間には凡俗な合理主義者には理解し難い「非合理」への憧れや情熱、欲求が存在していることを認め、それは日本において天皇と民族の「信頼と忠誠」による結びつきという高貴な心情として立ち現れるとする。

 そして浅沼委員長刺殺事件を敢行した山口少年もまた、合理主義者による戦後教育を受けつつも、楠木正成が湊川の戦いで発した「七生報国」の言葉を残して自ら命を絶っており、楠木正成一党が体現した天皇と民族の「信頼と忠誠」の情理をいまに受け継いでいるとしている。特に葦津は、そうした情念が山口少年ら「右翼ハイ・ティーン」たちの心をとらえていることを重視する。

 その上で葦津は、フランス革命におけるテロや左翼革命におけるテロの分析を通じたテロの本質と政治と暴力の一体性、浅沼委員長刺殺事件の分析を通じた右翼テロの論理を踏まえ、左右を問わず政治信条の根底には暴力性が潜在し、ある一定の条件ではそれが発動されることは不可避だとする。無論、テロを肯定したり正当化するのではく、それは「発生してしまう」ものなのだということである。

 そしてテロの防止のためには、「テロはいけいない」といった道徳的な説諭ではなく、例えば自由討議などによって政治的信条を異にするもの同士の政治的不信の解消が必要であり、同時に、テロを敢行した「右翼ハイ・ティーン」たちが金銭に何ほどの魅力も感じておらず、重罰を恐れる様子もないことから、テロ防止のためには資金の封鎖や重罰化は意味がなく、なぜ右翼テロが発生するのかを正確に見抜くことが必要だとする。

 刺殺された浅沼委員長の葬儀は、事件から8日後の10月20日、殺害現場でもある日比谷公会堂でいとなまれた。雨の中、3千人に近い会葬者があったという。テロは許されざることであるが、また不可避なものでもあることは葦津が力説している。その不可避なテロの発生条件を少しでも緩和するためにはどのようにすればいいか。それもまた葦津のいうごとく、ありきたりで俗物合理主義的な対策ではなく、人間の非合理性への憧れを見据えることや、政治的不信の解消などが必要であり、それこそがテロによって倒れた浅沼委員長の最大の供養であるだろう。