令和2年3月14日、15日 花瑛塾第24次沖縄派遣団①(北部訓練場返還地調査)

 花瑛塾第24次沖縄派遣団は14日および15日、沖縄北部の米軍演習場「北部訓練場」の返還地で米軍が廃棄あるいは放置したと見られる多数の廃棄物を確認しました。

放置され続けているライナープレート

 FBJヘリパッド跡周辺では、様々な種類の米軍の銃弾やその一部が発見された他、訓練弾なども発見されました。

 また、先だって発見されたライナープレートといわれる建設資材の鉄板も、以前とかわらず放置されたままでした。

 北部訓練場返還地は、返還にともなって沖縄防衛局が廃棄物や土壌汚染などの支障除去を「いであ」社に依頼し、いであ社が実施したといわれていますが、その後も廃棄物が無数に発見されたため、世界自然遺産登録への推薦もあり、再び支障除去がおこなわれていますが、いまだに銃弾や廃棄物が発見され、ライナープレートはじめ廃棄物が放置されています。

発見された銃弾類

 沖縄防衛局は北部訓練場返還地の支障除去を徹底すべきであり、そうした業務を受託するいであ社は作業を徹底すべきです。

森まさこ法相は「検察官が最初に逃げた」ことがウソだと知っていたはずだ

森法相の「検察官が最初に逃げた」発言

 森まさこ法相は9日の参院予算委員会において、小西ひろゆき議員の質問に対する答弁のなかで、「東日本大震災発生時、検察官が市民に先立って最初に逃げた」、「その際に勾留中の者を理由なく釈放して逃げた」との趣旨の発言をした。

 この発言について森法相は11日、衆院法務委員会で山尾しおり議員に「それは事実か」と問われ「事実だ」と答えたが、山尾議員に「本当にそうしたことがあったのか」と追求されると、「何が最初かというところもある」、「個人的な見解を述べた」などと答弁がぐらつきはじめ、その日の午後の参院予算委員会において石橋みちひろ議員らの追及にあうと答弁を修正し、撤回した。

 当然、この日の衆院法務委員会や参院予算委員会は審議ストップ、休憩、散会と荒れ模様となり、翌12日、森法相は首相官邸において安倍首相より厳重注意をうけるにいたった。

「検察官が最初に逃げた」は事実なのか

 そもそも森法相のいう「検察官が最初に逃げた」、「勾留中の者を理由なく釈放して逃げた」との発言は客観的な事実に基づくものなのだろうか。

「逃げた」発言について追及される森法相:朝日新聞デジタル版2020.3.11より

 森法相が「検察官が最初に逃げた」と表現する事態は、福島地検いわき支部の避難についてのことのようだ。

 確かに地検いわき支部は震災発生から数日後の16日、地検郡山支部へ移動・移転している。しかし、これは福島地裁いわき支部が甚大な被害をうけたことによる地裁郡山支部への一時移動・移転に伴う処置であり、同地裁からの要請も踏まえたものである。そして24日には地検いわき支部は地検郡山支部からいわきに戻っている。震災直後、誰も避難をしていないなかで何もかも放り出して真っ先に検察官が個人的に安全なところに「逃亡」したというような事態ではない。

 「勾留中の者を理由なく釈放して逃げた」についてはどうだろうか。

 地検いわき支部は震災後の15日、12人の勾留中の者を釈放したといわれている。しかし、それは検察官が逃げるために邪魔だから釈放したのではなく、勾留を続けていても甚大な被害のなかで捜査が続けられず、起訴の見込みも立たないため、刑訴法第208条に基づき釈放したそうだ。なお、釈放は地検いわき支部だけでなく、福島地検本庁や郡山支部でも行われたそうである。

 釈放したことについての批判はあるかもしれないが、少なくとも森法相のいうように「理由なく釈放して逃げた」との表現は当たらないといえる。

森法相は「検察官が最初に逃げた」ことがウソだと知っていたはずだ

 花瑛塾は既にTwitterで12日に指摘したとおり、森法相は震災の年の平成23年(2011)10月27日、当時野党議員として参院法務委員会に出席し、平岡秀夫法相(当時)に次のように発言している。

震災後、いわき市の福島地検いわき支部、それから地裁いわき支部も、ちょっと時を異にしておりますが、十五日、十六日に次々と庁舎を閉めて、十六日には郡山の方に移動してしまったということがあったんです。そして、それに先立ち、地検では勾留をしていた被疑者を全員釈放する、処分しないで釈放するということがあり、その中には女性の家に押し入って手錠をはめて性的犯罪を犯すという、そういう容疑者もおりましたし、釈放されたうちの被疑者がまた再犯を起こしたということも起こりました。

 これに対し平岡法相は

福島地検いわき支部の移転の状況というのは、この支部管内において死者、行方不明者が多数に上り、建物等にも甚大な被害が及ぶとともに、水道などのライフラインも途絶えた状況にあって、さらに余震も相次ぐという状況の中で、このいわき市内の支部庁舎に関係者を呼び出して取調べを行うことが事実上困難になるというようなことで、いわき市内の庁舎での執務遂行が大きな支障が生じるようになったということが大きな避難の原因であったというふうに思います。  
そのような状況の中で、福島地裁の方から地裁のいわき支部の執務場所を変更したい旨の申出を受け、協議をしたようでございますけれども、地裁いわき支部の執務場所の変更に合わせて地検のいわき支部の執務場所を一時的に変更をしたというふうに報告を受けているところでございます。

 と答えている。

 つまり森法相は震災発生の年の10月、地検いわき支部の移動・移転について質問し、当時の法相に「検察官が最初に逃げた、ということではない」旨を指摘されているのである。また、森法相自身の質問も「地裁いわき支部と連動して地検いわき支部が閉庁し、郡山に移動・移転した」との趣旨のものであり、「検察官が最初に逃げた」のではないことは森法相自身が当時から認識していたともいえる。

 森法相は「検察官が最初に逃げた」、「勾留中の者を理由なく釈放して逃げた」ということが、そもそもウソ・デマであることをわかっていながら先日の参院予算委員会で小西議員に対しその旨の発言をしたのではないかと思わざるをえない。

 また、森法相が平成23年の国会質疑でいうように、釈放された勾留中の者のなかに強制わいせつ容疑の被疑者がいたことは当時報道もされたようだが、その被疑者が釈放中に性犯罪を繰り返したのではなく、窃盗容疑の被疑者が釈放中に建造物侵入の疑いで再逮捕されたとのことである。この点も森法相の発言は誤解を招くといわざるをえない。

検察官定年延長の根拠が「検察官が最初に逃げた」?

 そもそも森法相の「検察官が最初に逃げた」発言は、9日の参院予算委員会において、検察官の定年延長を認める解釈変更をする理由としてあげた「社会情勢の変化」の一つの事例の紹介としてなされたものである。

問題の核心にいる定年延長された黒川検事長:文春オンライン2020.3.6

 しかし、それがウソ・デマであるならば、検察官が定年延長すべき「社会情勢の変化」もなかったことになる。検察官定年延長の根拠がないことをみずから暴露する発言であるとともに、あまりにもふざけた発言といわざるをえない。

 同時に、森法相は、黒川検事長を定年延長とする以前から「そもそも検察官の定年延長の検討をしていた」と述べ、その理由として「社会情勢の変化」すなわち「検察官が最初に逃げた」との発言をしたわけであるが、以前から行っていたという検察官の定年延長の検討は、黒川検事長の定年延長にあわせて後付け的に「以前からやっていた、ことにする」というようにつじつま合わせのものではないかと疑われている。

 本当に以前から社会情勢の変化、すなわち「検察官が最初に逃げた」という理由で法務省内で検察官の定年延長の検討をしていたとするならば、さすがに検察官や裁判官出身者が多数の法務省の官僚も「それは事実ではない」と指摘したであろう。検察官の定年延長の議論を以前から行っていたことにしなければならないため、思いつきのその場のウソで「検察官が最初に逃げた」といったからボロが出たのではないのか。

 いずれにせよ森法相は法務大臣に値しない人物である。さらに検察官の定年延長の根拠もなくなった。森法相の更迭、そして黒川検事長の定年延長の撤回、検察官全体の定年延長の議論の慎重さを求めるものである。

【東日本大震災9年】東日本大震災慰霊碑(福島県いわき市豊間地区)

 東日本大震災から9年を迎え、福島県いわき市豊間地区に建つ東日本大震災慰霊碑を訪れ、全ての犠牲者を慰霊・追悼しました。

 東日本大震災では巨大な地震とともに大津波が三陸沖一帯に押し寄せ、各地で多くの人が亡くなり、家屋が流されるなどしました。

 この慰霊碑の建つ福島県いわき市豊間地区でも地震発生後、およそ三階建ての建物に相当する高さ8.5メートルの大津波が襲い、住民85人が犠牲となり約400戸の家屋が流失しました。

 津波が襲ってきた海は、この日は風が強いため波こそ凪とはいえませんでしたが、日差しも暖かく9年前とは全くことなって平穏そのものでした。一方、後ろを振り返ると海岸と集落の間には10メートル近い高さの防潮堤が建設されていましたが、およそこの高さの津波がきたと考えると、恐ろしくてなりません。

 集落も空地が目立ち、まだまだ災害はその爪痕を残していました。

【東京大空襲75年】東京大空襲犠牲者慰霊・追悼

 昭和20年3月10日の東京大空襲より75年を迎えるなか、空襲襲犠牲者の遺骨が安置されている東京都慰霊堂や空襲後に犠牲者の遺体が仮埋葬された上野公園、そして隅田公園に建つ慰霊碑、また足下で犠牲者の遺体が火葬されたといわれる上野公園の西郷隆盛像を訪れ、犠牲者を慰霊・追悼しました。

東京都慰霊堂

 東京大空襲ではおびただしい数の市民が犠牲となり、しばらくのあいだ街のあちこちに犠牲者の遺体が無残な姿で野ざらしとなっている状況でした。こうした遺体は上野公園や隅田公園、錦糸公園などに仮埋葬され、終戦後に掘り起こされ遺骨が東京都慰霊堂に安置されたといわれています。また、上野公園の西郷隆盛像の周辺では、犠牲者の遺体の火葬がおこなわれたといわれています。

上野・忍岡中学校近くの慰霊碑 仮埋葬地の一つであったといわれる

 こうした遺体の仮埋葬は戦時下にあって丁重かつ正確におこなわれたとはいえず、遺体の状況もあって一人一人を埋葬したというよりも、まさしく「処理」という言葉がふさわしいような扱いであったといわれています。そのため仮埋葬した遺体の数もアバウトであり、そもそも仮埋葬した場所もはっきりしておらず、空襲犠牲者の数も正確なところはわからず、今なおどこか仮埋葬の地で眠っている犠牲者の遺体もあると考えられています。

上野公園の西郷隆盛像 足元で多くの遺体の火葬がおこなわれたといわれる

 また、米軍による東京を狙った大規模空襲は下町地区が主な空襲対象となった3月10日ばかりではなく、それ以降も東京各地が狙われました。例えば翌月の4月13日夜から14日未明にかけては、城北地区が襲われました。

空襲犠牲者供養の地蔵

 現在の板橋区や豊島区ではたくさんの犠牲者が出たため、供養のためのお地蔵が建立されるなどした他、現在の南池袋公園には多くの遺体が仮埋葬されたといわれています。

 日本政府は、軍人軍属への補償や援護が累計数十兆円におよぶにも関わらず、東京大空襲はじめ空襲犠牲者に対する補償・救済を頑なに拒否しています。サンフランシスコ条約で国家として米国に補償・賠償を求める請求権は保護しており、日本政府に空襲被害者を救済する義務はないが、一方で空襲被害者は個人として米国を訴える個人請求権は残っており、個人として米国を訴えろというのが日本政府のスタンスです。あまりに酷な対応といわざるをえません。

遺体の仮埋葬地となった南池袋公園

 他方、いわゆる「徴用工」訴訟において、韓国人元徴用工の人たちは当時の新日鉄などの企業に対し、不法行為に対する個人請求権に基づき慰謝料を請求し、それが認められたのであることから、こうした日本政府の主張は、徴用工訴訟における韓国人元徴用工の人たちの主張や韓国の裁判所の見解に似通った構造を持ちます。

 徴用工訴訟については韓国に対しあらゆる罵声を浴びせ、その主張や歴史的背景に向き合おうとしない日本政府が、一方で空襲被害者に対しては自分たちが罵声を浴びせた徴用工訴訟での韓国側の論理と同様の主張をおこなうのでは辻褄があいません。日本政府は一体何を守り、誰を守りたいのでしょうか。

【二・二八事件73年】映画『悲情城市』 二・二八事件と現代台湾

 1947年(昭和22)2月28日に台湾で発生した大規模な暴動事件である二・二八事件から今日で73年を迎える。

 花瑛塾は過去、二・二八事件を記念する台北市内の「二二八紀念館」を訪れ、事件について学習を深めるとともに、犠牲者を追悼しているが、日本の台湾統治と敗戦に端を発する台湾の不幸な出来事である二・二八事件については、これからも関心を持っていきたいと考えており、同時に多くの日本人にも関心を持って欲しいと思っている。

 そうしたなかで、二・二八事件を扱った映画『悲情城市』(監督:侯孝賢〈ホウ・シャオシェン〉、1989年)を紹介したい。

 本作は、日本による台湾統治終了後、国民党施政が開始されるが、国民党施政の腐敗とそれによる人々の混乱そして大規模反国民党運動となった二・二八事件を背景にしながら、ある台湾人一家の悲劇を描き出す内容となっている。なお、本作は、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞を受賞している。

 以下、本作のあらすじと時代背景、そして二・二八事件の概要を確認しつつ、台湾における対日感情の変容を念頭におきながら若干の所感と批評を述べたい。また他の台湾映画の紹介などもおこないたい。

 本作の主な登場人物は、以下の通り。

林阿禄(李天禄…リー・ティエンルー)―「小上海酒家」先代。地元の顔役のヤクザ。息子たちの行く末を危惧している。

林文雄(陳松勇…チェン・ソンユン)―林家長男。船問屋を営みながら家業を継ぐ。ヤクザとしての生き方も父から引き継ぐが、上海ヤクザと揉める。

林文森(出演なし)―林家次男。日本軍々医としてルソン島に送られ、終戦後も生死不明。

林文良(高捷…ジャック・カオ)―林家三男。戦時中は上海で日本軍通訳を務め、終戦後、精神錯乱状態で帰国。精神状態回復後、上海ヤクザに協力するも、売国奴として密告され、拷問を受けて廃人となる。

林文清(梁朝偉…トニー・レオン)―林家四男。幼少時、聴力を失い、成人後は写真館を営む。下宿人の呉寛栄ら青年知識人たちと新台湾の将来を語り合う。

呉寛美(辛樹芬…シン・シューフン)―呉寛栄の妹。金爪石の高山病院の看護婦。林文清と恋仲になる。

 1945年8月15日、文雄の妾アイユンは臨月を迎えていた。産婆がアイユンの出産に立ち会い、文雄はそのそばでひたすら神仏に祈りを捧げる。無事に子どもは取り上げられ、文雄は室内の照明をつける。背景音として昭和天皇による玉音放送が流れる。そう、この日、戦争が終わったのである。

 戦争により休業していたが終戦により新装開店したのであろうか、「小上海酒家」では、祝宴が催され、それとともに林家は商売繁盛の祈りを捧げ、みなで記念写真を撮影する。そのような折、寛美は看護婦として金爪石の高山病院に赴く。寛栄のかわりに随行する文清。2人は写真を見合いながら、徐々に惹かれあう。林家の幸せがそこにあった。ちなみに、映画では、寛美の日記が随時読み上げられ、映画の筋立てを際立たせている。

 文清の写真館は寛美の兄・寛栄が下宿をしていた。寛栄は教師として働く青年知識人である。あるとき、寛栄が他の青年知識人を引き連れ、文清の写真館を訪れる。台湾の将来を語る文清や寛栄など青年知識人たち。そこでは大陸の混乱や新たに台湾を領有した国民党・陳儀の施政に対する批判などが提起された。そして寛栄が密かに心を通わせていた学校の校長の娘で日本人の静子は、国民党の命令により日本帰国を余儀なくされていた。

 金爪石の高山病院では、看護婦たちが中国語の勉強を始めている。新たな時代の到来のなかで、文良が帰ってくる。しかし彼は精神錯乱状態に陥っており、病院内で暴れ、文雄がそれを必死で制止する。

 先ほどの青年知識人たちは、酒を飲みながら再び台湾の未来を語る。そこではさらに踏み込んだ痛烈な陳儀批判がなされる。

 青年知識人たち、寛栄と静子、文良。台湾人たちの間に、少しずつギクシャクしたものが芽生え、どことなく冷たい風が吹き始めていた。

 精神を取り戻した文良に、新興の上海ヤクザが近づく。上海ヤクザは、黄金酒家で文良と会食しつつ、文雄が取りしきる交易船を使い、統制下であった米や砂糖の密輸をしないかと持ちかける。文良は「兄に相談しないと」と断るが、場の空気に押される。その場には文雄の舎弟である阿嘉も同席していた。

 その阿嘉に、黄金酒家の店主・赤猿が日本紙幣の不正な両替を持ちかける。しかしその夜、赤猿は情婦の目の前で何者かによって拉致され、翌朝、遺体で見つかる。

 文雄のもとに、文良と阿嘉が上海ヤクザと密輸をおこなっているとの密告が入り、文雄は船の積み込み場へ急行する。密輸品を押さえた文雄は、現場にいた阿嘉をなじり、文良の関与を問いただした。

 文良は上海ヤクザと博打に興じていた。そこに密輸が発覚したとの情報が入る。文良は文雄と話をするため博打場を出ようとするが、先ほどの赤猿の情婦を見つけ、赤猿拉致に関与していないかと詰め寄る。しかしキムという朝鮮人が情婦を「俺の女だ」といって間に入る。

 実はキムは上海ヤクザに属するチンピラであり、情婦は赤猿の日本紙幣の不正両替の話をキムに密告し、キムそして上海ヤクザともども赤猿殺害を実行したのであった。

 そして文良とキムは刃物を持っての喧嘩となり、文良の不始末を引き受ける文雄たち地元グループと上海ヤクザとの抗争が始まる。文雄は案じて地元の長老に調停に入ってもらい、何とか和解が成立するが、上海グループが国民党に文良が密輸に関与していると密告し、文良は逮捕される。

 文雄は上海グループに頭を下げ文良の解放を懇願する。そして文良は釈放されるが、取調べにおいて拷問にあったため、廃人となっていた。

 新しい正月の朝、眠りから覚めた文雄は、食事の準備をする妾に、独り言のように話しかける。

「最近よく夢を見る。子どもの頃の出来事の夢だ。昔、親父は大事な金を母親から預かり、それを渡しにいくことになったが、博打好きの親父を心配した母親は、俺を親父に随行させた。そしたら親父は俺を電柱に縛りつけ、大事な金で博打へいってしまった。近所の人が見つけて縄をほどいてくれたが、危うく死にかけた。それからというもの、俺は絶対に親父と2人きりで出かけなくなった」

文清と寛美と男児

 唐突な独白。新しく迎えた正月だが、文雄は希望に満ちて将来を語るのではなく、いささか諦念を込めて、しかしどことなく懐かしそうに、過去を語る。そして台北において「二・二八事件」が勃発したとのニュースを告げるラジオが放送される。各地で台湾人が蜂起し、国民党や大陸から渡ってきた中国人を襲撃し始めたという。台湾において芽生えたギクシャクや冷たい風は、いまや現実のものとなり、台湾人から希望や将来というものを奪い始めたのである。

 二・二八事件を期して台北に赴いた寛栄は、手傷を負って帰ってくる。そして山に篭もり、同志たちと共同体を築き、ゲリラを開始する。そして文清も寛栄たちと行動をともにしたとのことで、逮捕される。

 勾留された文清は、同室の者が次々と処刑されるなかで、嫌疑不十分として釈放される。そして同室の縁者を探し、遺品などを届ける旅に出る。あるとき、寛栄を探し出した文清は、ともにゲリラとなることを願うが、寛栄に断られ、家に戻ることになる。

 しかし家に安らぎはなかった。トラブルに継ぐトラブルで、文雄は苛立っており、小上海酒家も休業状態、文雄は博打に興じ束の間の安息をえていた。そして博打場で阿嘉と上海ヤクザが再び揉め、文雄は阿嘉を守るも殺されてしまった。そして文雄の葬式。雨の中、僧侶の読経に耳を傾ける参列者たち。そこには林家そして地元の人々の無念の顔が刻まれている。

 文清と寛美は結婚をした。ささやかな結婚式。男児の誕生。林家に笑顔が戻りつつあったが、寛栄は捕縛され、そこから寛栄との間柄が疑われた文清も逮捕されてしまった。

 ラストシーン。老境の阿禄そして廃人となった文良さらに阿嘉と林家の女性たちが、言葉もなく食事をする。ズームバックをし、パンニングをせず固定したカメラワークに映る林家の人々に、悲しみと諦めを感じないものはいないだろう。

 本作の時代背景として、日本による台湾統治終了から国民党施政開始そして二・二八事件の発生があることは先述の通りである。そこで、日本による台湾統治の開始から二・二八事件の発生までの経緯を確認したい。

 1871年、台湾南部に漂着した宮古島の島民が台湾牡丹社の原住民に殺害され、日本側は台湾に出兵する。これにより琉球の帰属を清朝に認めさせるとともに、賠償金をえた。

 そして1895年4月、日清講和条約(下関条約)が締結され、台湾が日本に割譲された。翌5月、日本軍が上陸開始、11月には全島平定が大本営に報告された。

二・二八事件で蜂起する台湾の民衆

 日本の台湾占領にあたり、各種の抵抗運動が頻発している。旧清朝系の唐景菘や劉永福らは、「台湾民主国」を建国し、フランスの支援のもと日本側に対抗した。また一般民衆や原住民も立ち上がり、ゲリラ戦を展開している。

 このゲリラは、日本の台湾占領が完了し統治が開始されてからも、数次に渡って発生している。1913年の羅福星事件や1915年のタパニー事件など死者数百名を出すゲリラ事件もあるが、ゲリラの規模や死傷者数などから特筆すべき事件としては、1930年、霧社の原住民による日本人襲撃と日本側の苛烈な掃討戦が展開された霧社事件が挙げられる。

 日本の台湾統治において主眼となったのはゲリラ対策であった。台湾総督をつとめた後藤新平は、警察力の整備と相互監視を強化し、じつに後藤の総督就任から五年間で3万人以上の台湾人がゲリラとして処刑されている。また台湾人の文系高等教育修得機会を「独立心を抱くおそれがある」として禁ずるなど、過酷なものであった。

 霧社事件の背景にも、日本側による原住民への画一的統治の押し付けや強制労働への不満があったとともに、整備された警察が行政の一部をなすなかで、警察による固有文化の無視や原住民女性を辱めるといった出来事が存在したといわれている。

 また日本の台湾統治時代においては、ゲリラだけでなく、合法的な独立運動も展開されている。日本における大正デモクラシーや中国の辛亥革命そしてロシア革命などから影響を受けた台湾知識人たちは、1918年から20年にかけて「啓発会」や「新民会」などを結成し、台湾総督の独自支配を認める「六三法」撤廃運動などを展開するとともに、21年には「台湾議会期成同盟会」を結成して台湾議会の設立を求めるなどした。

 確かに日本統治において、台湾におけるインフラが整備されたことは事実である。また公衆衛生や教育も進展した。けれども先述のゲリラや独立運動が存在したことも事実であり、賃金や雇用の面などでも厳然として日本人と台湾人との差別は存在したのである。

 1945年9月、大東亜戦争の終戦により国民党は台湾を「台湾省」と宣言する。10月、台湾を接収するべく国民党軍が上陸、国民党幹部・陳儀が台湾省行政長官・台湾警備総司令官として台湾統治の全権を握る。台湾人は台湾の国民党領有を「祖国復帰」と喜んだ。

 しかし国民党施政は腐敗と汚職にまみれていた。陳儀は日本の台湾総督並みの権限を持ち、国民党最優先の政治をおこなう。そして旧来の台湾人は徹底的に搾取と差別にあった。これにより台湾経済は大混乱に陥り、街には失業者が溢れた。自然、治安や社会機能は急速に悪化し、日本統治時代にはすでに撲滅されたはずのコレラが流行するまでに至る。

 台湾人はこの状況を「犬去りて豚来たる」と表現する。「日本人はうるさいものの番犬として役に立ったが、代わりにきた中国人は食って寝るだけの豚に過ぎない」という意味である。

 ついに国民党への不満は爆発し、腐敗官吏の処罰などを求めた二・二八事件が勃発する。

 二・二八事件の背景には、国民党によるタバコの専売制の問題が存在する。1947年2月27日、台湾人寡婦がタバコの密売をおこなっていたところ、国民党の取締官がこれを押収するとともに所持金まで取り上げ、さらには銃で頭部を殴打した。そもそもこの寡婦は国民党施政の腐敗のため夫を亡くし、仕方なくタバコの密売を生業としていた。タバコは国民党による専売制であり、それはつまり闇にタバコを流していたのも国民党なのである。国民党が専売にするタバコを、国民党が闇に流し、そのタバコを手に入れて密売していたところ、国民党の取締官が寡婦のタバコや所持金を取り上げ殴打したのである。ここに国民党施政の腐敗がよく見てとれるだろう。

 群衆がこれに怒り取締官を糾問すると、取締官は発砲し群集の一人が死亡した。これにより群衆は警察と憲兵隊を包囲し、翌28日には長官公署前に集結、政治改革を要求するものの、国民党は機関銃を掃射して対応するとともに、戒厳令を発令する。市民は台湾放送局を占拠し、事態を台湾全土に知らせ、決起を呼びかけた。

 国民党は一旦要求を受け入れるが、3月8日には大陸から国民党軍の増援部隊が上陸、以後、2週間に渡り台湾全土で国民党軍による台湾人への無差別殺戮が繰り広げられた。

 日本統治時代の反日ゲリラの展開や熾烈な弾圧そして終戦による国民党の台湾領有を台湾人は「祖国復帰」と歓迎していた事実を見ても、日本統治下の台湾における対日感情はけして好意的なものとはいえない。

 しかし国民党施政の腐敗や二・二八事件の結果、台湾人には国民党への恐怖が植え付けられるとともに、政治的無関心が広まる。そして国民党による台湾人への差別が確立し、台湾人の反国民党感情が高まるとともに、厳しいながらも法治主義が確立し安定していた日本統治下を懐かしむ親日感情が醸成されるなど、対日感情は変容していった。

 日本統治により結果的に近代化が促進された部分があることは先述の通りである。またダム建設をおこなった八田與一や人格者の日本人教師など個々の存在により親日感情が生まれた部分ももちろんあるだろうが、台湾における対日感情の変容は、国民党に比べれば日本時代がまだよかったという複雑で屈折したものであるのだ。

 「複雑」「屈折」―本作の数々の場面に「複雑」「屈折」を見出せるが、それはまた、台湾現代史にもいえることである。

 本作の冒頭、生まれくる命は、庶子であった。悲しくもその命は、「正統」なものではなかったのだ。庶子は「光明」と名づけられ、文雄はじめ林家の者はみな庶子の誕生を喜ぶが、林家のその後に「光明」はありえなかった。

 ここに国民党による台湾領有が重なり合っていることはいうまでもないだろう。「祖国復帰」と国民党による台湾領有を喜び、人々は「光復」を祝うが、台湾に光は戻らなかったことは、先述の通りである。

 あるいは文雄の夢の独白。「親父に電柱に縛り付けられた」という文雄の子どもの頃の出来事を、ここのところよく夢で見るという独白には、日本統治への思いの「複雑」「屈折」を見てとることができるだろう。

 文雄、文森、文良、文清の生涯もまた、台湾現代史そのものである。上海ヤクザとのトラブルで命を落す文雄には大陸系による台湾人差別、日本軍々医として戦地におもむき生死不明となっている文森には日本軍兵士として徴兵を受けた台湾人の歴史、上海ヤクザとの癒着を国民党に摘発される文良には二・二八事件におけるタバコの密売、そして文清の逮捕には台湾青年知識人の粛清、そのようなことが投影されているようにおもわれる。

 こうした林家と台湾現代史の「複雑」「屈折」の極北が、映画のラストシーン、林家の人々がただただ淡々と食事をする場面である。ここには悲しみに裏付けられた林家そして台湾人の政治的無関心や無気力が描かれている。そして気がふれた文良もともに食事をとっているところからは、林家の「複雑」「屈折」と台湾現代史が悲哀を内包しつつも日々を生きている台湾の「複雑」「屈折」を表象しているといえるだろう。

 日本統治時代の抵抗運動を描く台湾映画としては、魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督『セデック・バレ』(2011年)がある。この映画は先述の霧社事件とその背景を描いた作品である。全編二七六分の大長編であるが、金馬奨各賞受賞作であり、興行収入8.8億台湾ドルを記録した大作である。

 同じく魏徳聖の監督作品としては、『海角七号』も紹介しておきたい。

 『海角七号』は現代台湾の若者を描いたコメディータッチの作品であり、演技やストーリー展開などの面で粗も目立ち、良作とはいえないが、爆発的にヒットした。なぜこの映画が台湾で、特に若い人々に歓迎されたのか。それは、この映画が台湾における南北格差や民族問題などをディティールとしていたからである。台南出身の若者が台北で夢破れて故郷に戻るシーンからこの映画がはじまるが、こうした点に台湾における「複雑」「屈折」が読みとれるだろう。

 軽い雰囲気で台湾映画を楽しみたいなら、やはり魏徳聖監督『あの頃、君を追いかけた』などもいいだろう。若者向けのラブコメディーであり、ヒロインとして好演するミシェル・チェンの出世作である。

 『悲情城市』は台湾のキューフンという街を舞台としている。夜店が立ち並ぶキューフンの街並みは、日本人にとってどこか懐かしいものを感じる。そんなこともあって、いまでは台湾の観光名所の一つとなっているが、ここを訪れる日本人のどれだけが『悲情城市』を見たことがあるだろうか。キューフンを訪れる日本人のどれだけが、あるいは台湾を「親日」といってはばからない日本人のどれだけが、日本統治からはじまる台湾の「複雑」「屈折」や台湾の対日感情の「複雑」「屈折」におもいをめぐらせているだろうか。

 すこしでも台湾に興味があれば、本作を見ていただきたいとおもう。

令和2年2月26日 二・二六事件84年 磯部浅一・登美子夫妻墓参

 二・二六事件より84年のこの日、事件の中心的メンバーの一人である「菱海」磯部浅一と妻の登美子の墓をお参りしました。

 磯部は陸軍一等主計を務めましたが、青年将校および陸軍士官学校生徒らによるクーデター未遂事件(陸軍士官学校事件)に関連し、陸軍大尉村中孝次とともに免職となります。その後、やはり村中らとともに二・二六事件に参画し、陸軍大臣官邸の占拠などを敢行し、逮捕・処刑されます。

 磯部が獄中で記した日記や手記など獄中記には、「陛下に直通することが第一番です」「今となっては、上御一人に直接に御すがりするより他に道はないと思います」といった昭和天皇への希求や渇仰が記される一方、激しい叱責の文言も散見されるなど、昭和天皇をめぐる磯部の揺れ動く心情が記されています。

 こうした磯部、そして青年将校らの天皇をめぐる心情の揺れ動きは、天皇を絶対化した国体論に内在される問題でもありました。一方で、それは国体論という枠組みのなかでの問題であり、天皇へのある種の信仰そのものが否定されるわけではありません。それとともに、こうした青年将校らの天皇信仰は、同時に彼らの精神的指導者であった北一輝の天皇論とも乖離があり、二・二六事件について特に北の天皇論からどう見るかは様々な議論があります。

 ところで、こうした磯部らの激しい天皇信仰をモチーフとして、三島由紀夫は戦後、「英霊の声」という文学作品を発表しますが、戦後神道界を代表する言論人である葦津珍彦は、彼ら青年将校の心情を冷静に分析し、彼らを日本の忠臣の一つの典型とするなど日本精神史上への位置づけを試みつつ、他方で彼らの荒ぶる御霊は「英霊」ではなく「怨霊」であり、その鎮魂が必要であるとするなど、神道家として的確な批評をおこなっており、こうした葦津の指摘は現在においてもなお有効であると思われます。

令和2年2月22日 「竹島の日」に関する要請行動

 島根県が制定した「竹島の日」のこの日、花瑛塾は例年同様、駐日大韓民国大使館(東京都港区)を訪れ、韓国による竹島占領という不法行為を批判し、竹島の領有問題について日韓が国際司法裁判所に提訴し、国際法に従った解決をするよう求めるとともに、日本側の韓国差別・蔑視・排外主義を戒め、いわゆる徴用工問題などに端を発する日韓の対立を解消し、信頼醸成と対話を求める要請行動を行いました。

駐日韓国大使館

 以下、韓国大使館前によて読み上げ、投函した要請の内容です。

要 請 書

 われわれは、花瑛塾である。

 現在、貴国が不法に占拠している竹島は、明治時代に島根県が平和裏に編入したものである。終戦後のサンフランシスコ条約においても、わが国は竹島の領有権を放棄していない。歴史的にも国際法的にも竹島がわが国固有の領土であることは疑いない。

 わが国は貴国へ竹島の不法占拠をやめるよう意見書を提出し、さらに国際司法裁判所への提訴を求めているが、貴国はこれに応じようとしない。貴国が竹島領有に国際法的な根拠があると考えるなら、ただちに国際司法裁判所へ提起し、わが国とともにその司法判断に従うべきである。

 われわれは、貴国に対し、ただちに竹島の不法占拠をやめるよう求めるとともに、国際司法裁判所への提訴を求めるものである。

 他方、竹島問題を複雑化させている背景には、わが国と貴国との間に先の大戦と韓国併合に関する歴史認識問題が存在する。

 わが国の竹島編入が、わが国が韓国に進出し、併合する時期と重なり合うため、竹島問題が歴史認識問題と一体化し、国際法や歴史的・地理的経緯とは別の問題として認識されていることも事実であろう。

 また過去の歴史を踏まえない一部の勢力が排外主義を鼓吹し、民族差別・憎悪表現を言い募り、躍動するアジア、統一と平和に向けて動き出す朝鮮半島という世界の動きとは真逆の展開をしていることにより、竹島問題が複雑化している事実もあるだろう。

 昨年は、いわゆる徴用工問題やこれに端を発する輸出規制問題などが起き、わが国と貴国の関係が敵対的なものとなってしまった。

 われわれは必ずしも貴国へ敵対するのではない。戦前、戦後と、民族主義者・右翼といわれる陣営の人々こそ、貴国との友好を熱望し、関係改善を目指してきたのは歴史的事実である。われわれは、本当の日韓友好を望む立場から、竹島問題に関する解決を求めるものである。

 貴国の回答を伺いたく、ここに要請する。

以上

令和二年二月二二日

 花瑛塾 塾長 仲村之菊

 塾生一同

大 韓 民 国

大統領 文在寅 閣下

駐日特命全権大使 南官杓 閣下

 花瑛塾は結成以来、「竹島の日」に関連して要請行動を行っています。

 特に戦前戦中には、むき出しの植民地主義や差別・蔑視とは異なる対朝鮮・韓国観を有した戦前の神道家がおり、彼らは日本の朝鮮統治を批判し、朝鮮独立に尽力するなどしました。そうした日本側、特に右翼・民族派などといわれる側の「もう一つの対朝鮮・韓国観」の紹介や提示を日韓対話の糸口にしたいと考え、一昨年までの要請書にはそうしたことも記していました。

要請書の投函

 昨年は歴史認識問題や戦後の国際的な領土問題、あるいはいわゆる徴用工問題や火器管制レーダーの問題を取り上げました。

 昨年の行動記録も参考までにご覧下さい。

平成31年2月22日 いわゆる「竹島の日」に関する要請行動

令和2年2月20日、21日 花瑛塾第23次沖縄派遣団④(陸自石垣駐屯地問題、石垣島沖縄戦関連史跡見学)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団は20日および21日、石垣島の平得大俣地区で進められている陸上自衛隊石垣駐屯地の建設状況を確認しました。

木を山積みした工事車両

 石垣島への自衛隊誘致や駐屯地建設については、その是非について住民投票を求める署名が法定数を大きく超え有権者の約4割に達する約1万5千筆集まりましたが、石垣市議会は住民投票の実施を否決しました。これについては住民側が訴訟をおこすに至っています。

 また、駐屯地の区域には市有地が含まれていますが、石垣市は住民の反対の声があがるなかで、市有地を沖縄防衛局に売却・貸付する方針を一方的に決め、検討委員会での検討が進んでいます。その際、検討の議事録が残されていないなど、手続き上の問題も指摘されています。

セメントを搬入する工事車両

 陸自駐屯地建設は環境面でも問題が指摘されています。付近には国指定の天然記念物であるカンムリワシなど希少生物の生息地となっており、工事による影響が考えられます。しかし、沖縄防衛局は環境アセスを脱法的な措置で逃れ建設工事を着工しました。

 2日間にわたって建設工事の状況を確認しましたた、セメントの袋や砂利を積んだ工事車両が工事現場に引っ切り無しに入ったり、伐採したと思われる木を山積みしたトラックが出て行く様子には心が痛みました。

 その後、沖縄戦時、石垣島の宮良集落に駐屯した海軍の特攻艇部隊である第23震洋隊(隊長:幕田稔大尉)の特攻艇格納庫壕跡や特攻艇出撃用のさん橋跡、また第23震洋隊の兵舎が置かれた外本御嶽を見学しました。

特攻艇格納庫壕跡

 宮良集落に駐屯した第23震洋隊は、付近の住民から食糧を徴発するなどしました。これを拒む住民に対し、幕田隊長は抜刀して刀を振りかざし、「集落を焼き払うぞ」などと脅したため、現在も集落の人々にはよく思われていません。

 また、幕田隊長は戦後、沖縄戦中に石垣島に不時着した米軍機の乗組員の米兵捕虜を惨殺した罪(石垣島事件)によりBC級戦犯として処刑されました。

特攻艇出撃用のさん橋

令和2年2月19日 花瑛塾第23次沖縄派遣団③(石垣島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団は19日、石垣島の沖縄戦関連史跡を見学しました。

 はじめに石垣島の最北端である平久保にある海軍特設見張所を見学しました。

見張所は正面の山の山頂にあった 現在は立入禁止

 平久保の海軍特設見張所は昭和18年(1943)に大島防備隊により平久保﨑の灯台近くに設置されました(後に安良岳に移転)。見張所には八角形の監視廠やアンテナなどが設けられた他、付近には兵舎が建てられ10人ほどの兵士が常駐していたそうです。

 海軍特設見張所は翌年10月、沖縄一帯を襲った十・十空襲の3日後の空襲により炎上しましたが、見張所はその際、状況報告の電信を発したといわれています。特に十・十空襲においては各地の見張所や部隊が様々な電信を発し、それは日本全体に飛び交いました。米軍は十・十空襲において、こうした電波を傍受し、暗号解読などに役立てたといわれており、物理的な戦闘の背景で熾烈な情報戦が繰り広げられていたことは注目すべきことです。

 その後、登野城小学校正門横にある奉安殿跡を見学しました。

旧登野城尋常高等小学校の奉安殿

 奉安殿とは戦前、天皇皇后両陛下の御真影や教育勅語を安置しておく施設で、奉安殿や奉安室として各学校に設置されました。

 沖縄戦において、こうした御真影の奉護は非常に重要な課題であり、校長や教職員による奉護隊が結成され、沖縄島では北部に奉護壕がつくられるなどしました。石垣島でも御真影が集められ、白水につくられた奉護壕に安置され、校長などが管理したといわれています。

 沖縄には他にも沖縄市と宮古島市に奉安殿が残っています。戦後、「本土」の奉安殿はGHQの神道指令によりほとんど破却されましたが、沖縄は米軍の軍政下にあったため、皮肉なことにこれらの奉安殿が残ることになりました。沖縄では戦前の宗教関係法令である宗教団体法も戦後しばらく残るなど、「本土」とは異なる戦後の歩みがありあす。

令和2年2月18日 花瑛塾第23次沖縄派遣団②(竹富島沖縄戦関連史跡見学)

 花瑛塾第23次沖縄派遣団はこの日、八重山諸島の竹富島を訪れ、竹富島に残る沖縄戦関連史跡を見学しました。

大石隊「慰霊之塔」

 米軍の上陸が現実のものとなりつつあった昭和19年(1944)12月、石垣島に配備されていた独立混成第45旅団の第301大隊第1中隊(隊長:大石喬中尉)が竹富島に配備された。人口1200人程度の島に150人もの部隊が駐屯することになり、のどかな島にも緊張が走りました。

 大石部隊は接収した竹富国民学校を兵舎とし、その付近の住宅も接収され中隊本部や大石隊長の宿舎となりました。

旧竹富国民学校

 米軍は竹富島には「4000フィートの滑走路が適している」などと報告しており、竹富島を制圧する何らかの意志や関心があったと考えられます。日本軍も米軍は石垣島上陸の前進基地として竹富島を攻略する可能性があるとし、米軍上陸の可能性が高いと見られた島の南海岸に銃眼を設置するなどしました。

島の南海岸に残る銃眼

 その他、住民のうち男子青年は「くろがね隊」として、女子青年は「薫風隊」として集められ、竹槍訓練や急造爆雷を背負っての敵戦車への自爆攻撃の訓練などに動員された他、防空壕掘りや陣地構築作業などにもかりだされました。

竹富町出身戦没者「慰霊之塔」

 米軍の上陸が間近となると西表島への疎開もおこなわれ、住民は疎開先で飢えや病気に苦しめられたといわれています。