【関東大震災98年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼─九月、東京の路上で、奪われた命、奪った命を忘れてはならない─

 大正12年(1923)9月1日、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生しました。関東大震災です。死者、行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。

 また震災発生直後から朝鮮半島出身者はじめ中国人や社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍や警察、そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で始まり、暴行、虐殺も発生しました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。

関東大震災後の浅草一帯:時事通信

 毎年9月1日、東京都慰霊堂では、震災犠牲者を弔う秋季大法要が営まれています。また東京都慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前では、朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会が開催されています。

 しかし、昨年同様、今年もコロナ禍のためいずれの式典も一般参加者の参列はご遠慮いただき、関係者のみで執り行うこととなっています。なお朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会の様子は、オンラインで配信されるとのことです。

 花瑛塾は例年9月1日に歴史の継承と犠牲者の慰霊追悼のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂および慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者と虐殺犠牲者を慰霊追悼しています。その他、東京や千葉にあるいくつかの震災犠牲者や朝鮮半島出身者をはじめとする虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺現場を訪れ、追悼しています。

 今年もコロナ禍の情勢や各種行事の開催状況に鑑み、一日早い8月31日に各所を訪れました。

一昨年の追悼集会での金順子さんの追悼鎮魂の舞

 虐殺の事実は様々な歴史修正にさらされていますが、九月、東京の路上で、多くの人の命が奪われた歴史、そして多くの人の命を奪った歴史を忘れてはなりません。

 また忘れないばかりでなく、吉野作造が震災後に虐殺事件を振り返り、「今度の災害に際しても〔中略〕一面に於て悲しむべき幾多の罪悪を伴つた事に付ては、昨今遅ばせに報ぜらるゝ司直官憲の検挙所罰等に満足することなく、吾人はもつともつと深く考ふる所がなければならぬと思ふ」といったように、深く考えをめぐらしていかねばなりません。

 吉野は虐殺事件の要因の一つとして「力の玩弄」ということを指摘し、「我国の民衆には法律的に若くは社会的に何等かの権力を与へられると其の本旨に遵つて運用する代りに動もすれば無暗に之を振り廻し他の迷惑がるを寧ろ痛快がると云ふ悪癖のあることである」と述べました。いわば吉野は虐殺事件について社会的な考察を加えたといえますが、この指摘は一面の事実といえるでしょう。

 私たちもなぜこんなことが起きたのか、今も虐殺事件に通底する社会状況や人々の心性、差別の構造などがあるのではないのか、よくよく考えていかねばなりません。

東京都慰霊堂、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

 関東大震災と東京大空襲の犠牲者のうち、身元不明の遺骨を安置し弔う東京都の施設である東京都慰霊堂を参拝し、東京都慰霊堂に隣接する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を参拝しました。

秋季大法要の準備が進む東京都慰霊堂

 なお東京都知事は例年、「追悼碑」前において開催されている朝鮮人犠牲者追悼集会に追悼文を送っていましたが、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめました。今年も送付はしないとのことです。

 こうした小池都知事の動きの背景には、歴史修正主義のライターが執筆した虐殺の事実を歪曲するトンデモ本をネタ本とした古賀俊昭元都議の都議会質問があるといわれています。

 古賀元都議は都議会質問で小池都知事に追悼文の送付の取り止めばかりか追悼碑の撤去すら求めており、追悼文の送付の取り止めはいわば彼らの狙いの「第一歩」でしかなく、最終的には追悼碑の撤去、そして虐殺の事実の抹消につながっており、警戒していかなければなりません。

東京都慰霊堂の横に建つ関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 震災発生のわずか数時間後には「朝鮮人が放火をしてまわっている」といったデマが飛び交いはじめました。さらに市民や官憲、そしてメディアが一体となり民族差別に基づく暴動幻想やレイピスト神話が煽られていきました。これにより関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑のある荒川旧四つ木橋付近では、軍や「自警団」による虐殺事件が発生し、多くの朝鮮半島出身者が犠牲となりました。

 なお、この追悼之碑には、官憲やデマを信じた日本人により多くの朝鮮半島出身者が殺されたと明記されていますが、このことは日本人が建立した慰霊碑としては初めてのことであったといわれています。

 追悼之碑近くの荒川河川敷では例年、関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し追悼する会や市民グループ「ほうせんか」の方々など有志による例年追悼式典が開催されていますが、今年は9月4日に追悼式典が開催されるそうです。また最近、震災や虐殺の事実を継承するための証言集『風よ鳳仙花の歌をはこべ』(編著:ほうせんか、出版:ころから)が増補復刊したそうです。

関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑
中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場

 震災時に虐殺されたのは、朝鮮半島出身者だけではありませんでした。

 9月3日、軍の騎兵連隊など部隊は大島8丁目(現東大島文化センター付近)に中国人労働者数百名を連行し、虐殺しました。「大島町事件」です。

 事件の背景には、中国人への差別、蔑視があったことはもちろんながら、第一次世界大戦後の不況下にあって、手配師が安価な労働力の供給源である中国人労働者を敵視し、これを「整理」する狙いがあったともいわれています。

中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場の東大島文化センター
亀戸事件犠牲者之碑

 虐殺は朝鮮出身者や中国人というアジアの人々に対するものでおさまることはありませんでした。

 9月3日頃、軍の騎兵連隊などの部隊は、日本人労働運動家を虐殺しました。「亀戸事件」です。

 亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮半島出身者に関するデマと一緒に飛び交った社会主義者に関するデマの存在があるとともに、震災による混乱を奇貨とした官憲が、かねてより危険視していた労働運動家を抹殺すべく検束、虐殺したといわれています。

 亀戸の浄心寺の境内には犠牲者を弔う碑が建立され、犠牲者10名の名前が刻まれています。

亀戸事件犠牲者之碑
地方出身者虐殺事件「検見川事件」遺体遺棄現場

 9月5日には、千葉市検見川で3人の日本人が虐殺されました。検見川事件です。

 事件は、震災により沖縄出身の儀間次郎や秋田出身の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりなどから「朝鮮人に違いない」として殺害されたというものでした。

 途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認し「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えましたが、「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したそうです。

 最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」に、さらに数百人の群衆が群がり、そうした群集心理の沸騰の中で3人は虐殺されたともいわれています。遺体は花見川橋から花見川に東京湾に向けて捨てられたそうです。

新花見川橋 当時の花見川橋がかけ替えられたと思われる
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

 被差別部落出身の人たちも虐殺されました。

 9月6日、旧福田村(現千葉県野田市)で香川出身の行商人ら15人が自警団に襲われ、乳児や胎児を含む9人が虐殺されました。「福田村事件」です。

 犠牲となった行商人らが被差別部落出身であったため、事件後も被害者の救済などはほとんどなされず、犯人たちは処罰されたものの早々に釈放されたといわれています。

関東大震災福田村事件追悼慰霊碑
中国人宗教家、社会活動家虐殺事件「王希天事件」現場

 虐殺事件は国際問題にも発展しました。「王希天事件」です。

 9月12日、軍は震災による中国人被災者の救援を行なっていた宗教家で社会活動家の王希天を現在の旧中川逆井橋付近で殺害し、遺体を斬り刻み川に投げ捨てました。

 王希天虐殺は隠蔽され、日中間の国際問題にまで発展しました。しかし日本政府は王希天虐殺をうやむやにし続けたといわれています。

王希天の遺体が投棄された逆井橋
関東大震災犠牲同胞慰霊碑

 船橋市の馬込霊園内に建つこの慰霊碑は、終戦後、虐殺された朝鮮半島出身の犠牲者を追悼するため在日朝鮮人連盟千葉県本部が建立したものです。

 既に法界無縁塔という朝鮮半島出身の犠牲者を弔う供養塔が建立されていましたが、碑文に虐殺の事実が記されていないなど歴史的事実と経緯を踏まえた供養塔でないことから、この慰霊碑が建立されました。

関東大震災犠牲同胞慰霊碑
関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 習志野にあった習志野支鮮人収容所では、収容中の朝鮮出身者を軍が付近の集落の「自警団」に引き渡し、彼らに虐殺させることもありました。

 千葉県八千代市高津でもそうして6人の朝鮮出身者が虐殺され、後に遺骨が高津の観音寺に安置されたことから、境内に慰霊碑が建立されました。慰霊碑の横には韓国から贈られたという韓国式の鐘楼もあります。

関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 以上、東京、千葉の震災関連の地、特に震災時の虐殺に関連する地を訪れ、慰霊追悼しましたが、東京や千葉にはこれ以外にも多くの関連の地があり、また神奈川や埼玉などにもあります。その他、慰霊集会や行事なども毎年各所で開催されています。

 この記事をご覧になり、関心を持っていただき、ご自分で関連の地や慰霊集会などを調べ、足を運び、参加し、歴史と向き合い、そして慰霊追悼のまことを捧げてほしいと思います。

【関東大震災97年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼─九月、東京の路上で、奪われた命、奪った命を忘れてはならない─

令和2年9月12日 伊藤野枝・大杉栄・橘宗一墓前祭

令和3年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

 昨年に続き、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催されたシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いに参列、献花黙とうしました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 76年前のこの日、スターリンの秘密指令により、満州などにいた日本兵らがソ連国内に移送された上で抑留され、シベリアやモンゴル、遠くはウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などソ連勢力圏内各地で過酷な労働を強いられました。抑留者は男性兵士だけではなく、満蒙開拓で現地にいて、軍の看護業務などについていた女性たちも抑留されたといわれています。

 強制抑留、強制労働された日本兵らは約57万5000人にもおよび、抑留は最長で10年以上も続き、約5万5000人もの人が犠牲となりました。

 無事抑留から解放され日本に引き揚げた人たちも、強制労働と寒さ、飢えという過酷な生活による肉体的な疲弊や、ソ連側がつくりあげた抑留者同士での相互監視や相互密告、つるし上げなどによる精神的な荒廃に悩まされ、さらには「シベリア帰り」として白い眼で見られ就職差別をされることもあったといいます。

 こうした抑留経験者、引揚者に対し、日本政府はこれまで十分な支援や補償をしてきませんでしたが、11年前にいわゆるシベリア特措法が成立し、抑留者への特別給付の実施や抑留の全容解明などが政府に求められました。

 しかし今にいたるまで抑留の経緯の解明は進んでおらず、遺骨の収容なども停滞しています。コロナ禍で遺骨収容が全面的に停滞する昨年までに、約2万2000人分の遺骨が収容されたとはいえ、それでもなお半数であり、いまだに多くの遺骨が彼の地に眠っています。

 そればかりか一昨年には、遺骨収容作業で抑留者の遺骨として持ち帰った遺骨が日本人の遺骨ではなく、現地の人たちと思われる外国人の遺骨だった、しかもそうした情報に接しながら確認などしなかったという、重大な問題が明るみとなりました。

献花台にて献花合掌する参列者たち

 日本人抑留者が埋葬された現地の埋葬地は荒れ果てているようですが、同じようにソ連に連行されたドイツ兵の埋葬地は現在も整然としているといわれます。その違いの要因はなんでしょうか。

 ソ連がドイツ人抑留者の埋葬地を丁重に管理し、日本人抑留者の埋葬地を軽視したということもあるかもしれませんが、遺骨問題などに象徴される日本政府の抑留問題への関心の薄さを思うと、ドイツ政府がソ連に対し埋葬地の管理を要請したり、みずから進んで管理していたが、日本政府はまったくそういうことをしなかったのかもしれない、両政府の抑留問題への意識の差があらわれているのではないかとも思います。

 集いで挨拶された抑留体験者の方も、埋葬地やこれまで建立した慰霊碑の荒廃を憂い、政府に再三再四、管理を要請していました。今年の追悼の集いには、御遺族や関係者、一般参列者とともに、厚生労働大臣の代理として厚労省幹部や与野党の国会議員も参列していましたが、それぞれの立場を越えてこの問題にあたって欲しいと思います。

 また近年、日本軍に徴用され軍属等となっていた朝鮮半島出身者約2万人のうちの1万人ほどがソ連の捕虜となり、そのうち約2000人がシベリアで強制抑留され、少なくない朝鮮半島出身者が犠牲になっていた事実が調査により明るみとなりました。しかしソ連側の資料提供などの状況から、犠牲者の数もさらに増える可能性があるなど、実態は判然としていません。

 こうした朝鮮半島出身者のシベリア抑留の実態解明や犠牲者の遺骨の収容、葬送なども、日本政府の責任として行っていく必要があります。戦後76年もの年月が経ちながらまったく戦争が終わっていない現実を直視し、早急に具体的な対策を進めていくべきではないでしょうか。

令和2年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

令和3年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

 北一輝の命日の今日、泰叡山護國院瀧泉寺(目黒不動尊)にある「北一輝先生之墓」、および興国山賢崇寺にある二・二六事件の刑死者の墓「二十二士之墓」を参りしました。

「北一輝先生之墓」 北とともに妻のすず子、子の大輝が眠っている

 北は昭和12年の今日、今から84年前の今日午前5時50分、二・二六事件の「首魁」とされ、弟子の西田税、元陸軍軍人の磯部浅一、同じく村中孝次とともに渋谷の陸軍刑務所内で銃殺されました。北の遺体は妻すず子らが引き取り、その日のうちに火葬され、その後に近親者や友人門下生らによる葬儀を経て、遺骨は目黒不動尊と賢崇寺の他、北の郷土である佐渡の勝広寺に安置されたといわれています。

 二・二六事件の「首魁」といっても、北が「首魁」といえるようなかたちで事件を計画し、組織し、実行した事実はありません。北が事件に無関係とまではいえませんが、「首魁」というようなことはありえず、事件は明らかに冤罪でした。それは北を裁いた軍法会議の裁判長も理解していたほどですが、それでも陸軍上層部の意向に基づき処刑されました。

 そんなこともあり、北は戦前の国家主義思想の巨頭のように理解され、後に丸山真男に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」とまで評されますが、他方で北の「支那革命外史」の前半部を読んだ吉野作造が感銘をうけて北のもとを訪ねたり、GHQが戦後、北の目指したものを「民主主義革命」と見なすなど、北の思想はそう簡単に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」と一刀両断できるようなものではありません。北と共に猶存社の同人でもあった満川亀太郎も「北君はいわゆる社会主義を嫌うが、皇室中心主義も嫌う」と述べています。

「二十二士之墓」 青年将校らとともに北、西田が眠っている

 また北は日蓮主義者ともいわれていますが、最近の研究では北を正統な日蓮主義者と位置づけることにも疑問が呈されています。北が熱心に法華経を信仰したのは事実であり、子の大輝宛の遺品は遺言を添えた法華経であったほどでしたが、そうした北の法華経信仰は北独自の信仰というべきものであり、北自身はイスラム教やキリスト教など幅広く各宗教に関心を持っており、そもそも国立戒壇など法華経を国教のように位置づける思想も持ち合わせてはいませんでした。

 北が亡くなって84年。北は刑死の前日、面会にきた弟子の馬場園義馬が「国体論」や「改造法案」など北の著書を復刊させたいと話した際、「君達はもう一人前に成って居るのだから、あれを全部信ずる必要はない。諸君は諸君自身の魂の上に立って、今後国家の為めに大体ああ云うものを実現する心持ちで努力すれば宜ろしい」と述べていますが、北の思想はこれからもまだまだ研究され、私たち自身が解釈し、再評価そして再批判し、現代に生かしていく必要があるのではないでしょうか。

令和3年2月25日 二・二六事件85年 事件刑死者・犠牲者慰霊

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

76年目の8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えて

 昭和20年8月15日、今から76年前のこの日、昭和天皇みずからポツダム宣言の受託を国民に告げる終戦の詔書を読み上げる「玉音放送」がラジオ放送されました。

76年目の終戦の日の靖国神社

 日本のポツダム宣言受託の旨は、連合国に対し既に8月10日に第一次受託通告がなされ、14日に最終受託通告がなされています。また陸海軍人へ降伏を告げる昭和天皇の勅語は17日に渙発されており、さらに正式な日本の降伏調印式は翌月9月2日に行われています。その一方で、沖縄や北方地域あるいは中国大陸を含むアジア各地では、8月15日以降も一部で激しい戦闘が続けられています。

 こうした事実関係を見ると、8月15日とは一体何の日なのか一考を要します。少なくともこの日をもって正式に戦争が終結したということはできませんが、それでも8月15日が先の大戦の一つの大きな節目であることは間違いありません。

 8月15日は現在、戦没者を追悼し平和を祈念する日、終戦記念日とされ、天皇皇后両陛下御臨席のもと、政府主催の全国戦没者追悼式が開催されている他、各地で戦争に関連する様々な式典や行事、集会、儀式などが開催されています。

 「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾も例年8月15日前後、先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れた国内外を問わぬ全ての犠牲者を慰霊追悼し、世界の平和を祈念するため、各種の式典や行事、集会などに出席するなどしています。

 しかし昨年は、折からのコロナ禍によって様々な動きを制限せざるをえませんでした。

 今年もコロナ禍の収束を見ないなか、昨年同様きわめて限られた動きとなりましたが、8月14日から15日にかけ、戦争犠牲者の慰霊追悼と世界の世界の平和を祈念し、埼玉県護国神社みたま祭への献灯と参拝、第56回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8.14式典)の視聴をした他、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝しました。

埼玉県護国神社みたま祭献灯

 埼玉県護国神社では例年8月15日、みたま祭を斎行し、同社に祀られている埼玉県出身の国事殉難者の霊をお慰めするとともに、前日14日にはみたま祭前夜祭として奉納演奏などが行なわれていますが、昨年よりコロナのためみたま祭への一般参列が中止となり、前夜祭もまた取り止めとなっています。

 しかし、みたま祭の献灯は続けられていることから、私たちも例年通り今年も献灯するとともに、みたま祭前日の14日、個人として同社を参拝し、慰霊追悼の念を捧げ、世界の平和を祈念しました。

 その後、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催された第56回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8.14式典)のオンライン配信を視聴しました。

式典が行なわれた千鳥ヶ淵戦没者墓苑

 この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」と「平和実現」を誓うものです。

 式典は毎年、多くの来賓や信徒、一般参列者が千鳥ヶ淵戦没者墓苑に集い営まれていますが、昨年に引き続き今年もコロナのため、新宗連青年会のメンバーのうち関東在住の代表者などだけが集い、式典拝礼を行ない、その模様がオンライン配信されました。

 昨年、そして今年と式典がコロナのため来賓やこの式典を重要な祈りの場と考えている各宗派の信徒さん方、そして一般参列者の参列をお断りし、オンライン配信のみに限定していることを知ってか知らずか、現地に赴き写真撮影などをする者が出てくるかもしれないと案じましたが、多くの心ある人たちがこのたびの式典のあり方を理解し、オンライン配信を通じて「絶対非戦」と「平和実現」の祈りを捧げており、私たちも心を共にし「絶対非戦」「平和実現」を誓いました。

 また8月15日には、靖国神社と千鳥ヶ淵戦没者墓苑を参拝し慰霊追悼した他、全国戦没者追悼式における正午の黙とうに合わせて黙とうするとともに、天皇陛下のお言葉を拝聴しました。

千鳥ヶ淵戦没者墓苑の一角に建つ平和祈念、追悼慰霊碑

 終戦の日にあたり例年同様のことを述べていますが、戦後76年を迎え、今や戦後100年が視野に入りつつあるなか、靖国神社をめぐる情勢など日本の戦没者慰霊は落ち着きのない状況が続いています。

 そればかりか時の政権は過去の戦争に真摯に向き合う姿勢を欠き、安保関連法の制定や自衛隊の中東派遣、南西諸島への配備、空母建造など軍拡路線を続け、このままでは新たな「戦死者」が生まれるおそれがあるばかりか、日本の攻撃により海外で新たな「戦死者」「戦争犠牲者」を生みかねない危険な状況にあります。

 終戦の詔書には「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ」「世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」とあります。

 また昭和25年の神社新報の社説には、「われ等神道人の任務は、この民のために平和を守るべく懸命の力を致すにあると信ずる」「現下の日本人にとつて、最も必要なのは、侵略者に対抗するための軍備を急ぐことでもなければ、武器を携へて海外の義勇軍に身を投ずることでもない」とあります。

 こうした言葉に接する時、私たちはけして軍事強国など目指してはならず、再び隣国を威嚇するような国になってはいけない、それこそが先人の願いであり、また終戦の詔書における「爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ」の語の本義であるということを理解できるはずです。

今年の全国戦没者追悼式でお言葉を述べられる天皇陛下:NHK2021.8.15より

 全ての戦争犠牲者に心からの慰霊追悼の意を表するとともに、二度と戦争を繰り返さないような平和な日本を実現することが、戦後100年を迎えようとする私たちの「真の慰霊」と信じ、これからも平和の実現のために取り組んでいきたいと思います。

75年目の8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えて

 

令和3年8月7日 オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館2021年度帝銀事件関連企画オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(講師:山田朗館長、明治大学文学部教授)を視聴、学習しました。

事件発生直後の帝銀椎名町支店:JAPANアーカイブスより

 陸軍登戸研究所では、「秘密戦」といわれる日本軍の特殊作戦のための兵器開発や諜報謀略などに関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発から偽札製造、風船爆弾の開発、盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 戦後、登戸研究所一帯は紆余曲折を経て明治大学が購入し、研究所跡も様々な経緯によって同大の資料館となり、これまで各種の展示や講演会などがおこなわれてきましたが、現在はコロナの感染状況や緊急事態宣言の発令により直接の見学や資料館内での講演会等が実施できないため、オンラインでの講演会が定期的にされています。

 第1回のオンライン講演会では、登戸研究所資料館展示専門委員の渡辺賢二さんを講師とし、戦後長らく闇に埋もれてしまった登戸研究所に関連する証言や資料の掘り起こしと実態解明について、資料館として結実していくまでの地域の人々や関係者の取り組みについて伺いました。

 第2回は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長で、明治大学で日本近現代史を専門とされる山田朗さんを講師とし、昭和25年に明治大学が登戸研究所跡地を購入して以降、大学としてどのように登戸研究所の歴史的検証や跡地の活用をしてきたか、平和教育や理化学教育の面から登戸研究所をどう位置づけてきたのかなどを伺いました。

初公判に際して法廷に立つ平沢さん:Wikipedia「帝銀事件」より

 今回は、引き続き山田館長より、戦後まもなくに発生した大事件で冤罪事件としても知られる帝銀事件と日本軍の秘密戦、そこにおける登戸研究所の存在についてお話を伺いました。

 そもそも帝銀事件とは、昭和23年に帝国銀行椎名町支店で発生した強盗事件です。犯人は支店の行員ら16人に「集団赤痢が発生した。予防薬を飲んでもらいたい」などといって毒物を飲ませ12人を殺害、現金と小切手を奪って逃走しました。

 警察は目撃証言に基づく聞き込みなど従来型の捜査に加え、毒物を用いての事件ということもあり、秘密裏に軍関係者への捜査を開始します。犯人は現場で行員らに名刺を渡しますが、帝銀事件の関連事件と思われる事件で利用された名刺に記された人物名を辿ると、南方軍防疫給水部(9420部隊)で現地住民を毒殺した人物であることがわかり、そこを解明していくと731部隊にも行き着くこともあって、警察はこれは怪しいと見て軍関係者への捜査を徹底します。

 そうした警察の捜査は、同時に軍の生物化学兵器開発やその使用という暗部の解明にもつながっていきました。そして捜査の過程で登戸研究所における毒物や生物化学兵器の実態なども解明されていったそうです。

 日本軍の秘密戦や731部隊をはじめとする生物化学兵器開発の実態の解明は、歴史的には相当後に本格化するのであり、戦後まもなくのこの時期に捜査というかたちであっても解明が進んだのは、非常に意義のあることといえます。

 他方、GHQは昭和22年頃から軍関係者について戦犯免責し、対ソ情報を提供させるなど協力関係を築き、取り込んでいきましたが、そうしたこともあってか帝銀事件の捜査が進み警察が軍関係者に接触し始めると、GHQが秘密事項を口外しないよう働きかけたり、軍関係者も同様に組織的に根回しするといった動きもありました。

 事件は画家の平沢貞通さんが逮捕されることで急展開しますが、平沢さんに毒物の知識はなく、平沢さんを取り調べても毒物の入手ルートは解明されず、自白もかなり無理やりにつくられたものであることから、きわめて冤罪の可能性が高いと思われます。警察の捜査陣ですら当初、平沢さんを「シロ」と表現していたほどでした。

 平沢さんは死刑判決をうけ獄中で亡くなってしまいますが、今でも再審請求が続けられ冤罪を晴らすための戦いがおこなわれていますが、山田館長の講演後、再審請求を続けている帝銀事件再審弁護団の渡邉良平弁護士より、「帝銀事件第二十次再審請求の進捗状況報告」として再審請求の現状と展望についての報告を伺いました。

令和3年5月15日 オンライン講演会2「資料館開館にむけての明治大学の取り組み」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

【広島・長崎原爆投下76年】「核なき世界」の実現と被爆者、戦争被害者の救済に全力を

広島、長崎原爆投下76年

 広島、長崎への原爆投下より76年を迎える。

 昭和20年8月6日、米国は広島に原爆を投下し、約15万人もの人々の命を奪った。そして9日には長崎にも原爆を投下し、約7万3千人もの人々の命を奪った。奇跡的にも生き延びた人々や原爆投下直後より救護等で市内に入域した人々は、その後長期間にわたり原爆症といわれる放射線障害に苦しめられた。

 また忘れてはならないことは、原爆により被害をうけたのは日本人ばかりではないということだ。勤労動員など様々な理由で広島に連れてこられていた朝鮮半島出身者や、捕虜として収容されていた米兵なども原爆の被害をうけている。

 かかる米国の戦争犯罪は到底許されず、厳しく糾弾されなければならない。

日本の使命としての核廃絶

 しかし今を生きる私たちにとって重要なことは、米国の非道をただただ追求し、謝罪要求に終始することのみではないはずだ。

原爆が投下地点の真下にあった広島県産業奨励館跡(原爆ドーム):Wikipedia「原爆ドーム」

 何よりも大切なことは、何の咎もなく核の火に焼かれた犠牲者の無念を晴らし、苦しむ御霊をお慰めするため、核の戦争被爆国である日本と戦争使用国であり今なお大量保有国である米国という日米両国こそが協調連携し、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」を実現するということ、二度とこのような惨禍を繰り返さないため具体的に行動することである。

 それはまた、私たち自身が核の恐怖から逃れ、平和で豊かな世界を生きるために求められていることでもあろう。

 先の大戦の終戦の詔書には

敵は新に残虐なる爆弾を使用して、頻に無辜を殺傷し、惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。くむは、朕何をてか億兆の赤子し、皇祖皇宗神霊せむや。

とある。

 戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は、この終戦の詔書をひきつつ、核兵器の残虐性と軍事情勢の変化から日本核武装論へ疑問を呈し、日本の核なき防衛と世界的な核廃絶を訴え、日本が世界的な核廃絶の先導役になるべきだと論じている。そして、それは非核保有国の共感を結集させるものであり、日本の国家的使命、世界史的使命であるとも述べている。

 葦津氏はまた

日本が将来に於て、万一にも自ら原爆を使用したならば終戦の詔書は、その道義的権威を失ひ、民族の存亡を賭した悲史の教訓はその意味を失はねばならない。終戦の詔書に明示せられし原爆拒否の道義的宣言は、断じて弱者の悲鳴ではない。

目的のために手段を誤ってはならない。終戦の大詔は、この道義の大原則を明示せられてゐる。犯罪的手段を選ぶほどならば、目的の放棄も亦やむを得ぬ、この悲痛なる道念あってこそ、地上に道義は保たれるのである。

として、日本の核武装を否定している。終戦の詔書にも反する日本核武装論などあってはならず、むしろ積極的に「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」の実現のために努力することこそ、本来的な日本の立場であることを確認したい。

核廃絶と被爆者、戦争被害者の救済

 そうであればこそ、日本は核廃絶に向けたあらゆる行動をとるべきである。

長崎平和祈念式典:毎日新聞2020.8.9

 しかし日本政府が現にやっていることは、核廃絶の動きに真っ向から反し、米国の核保有を擁護し続けるものである。

 例えば政府は平成28年、国連での核兵器禁止条約をめぐる交渉開始決議に反対し、翌年の核兵器禁止条約交渉会議も不参加とした。それでも国連で採択された核兵器禁止条約は世界の国々が批准し今年初頭に発効、それにより核兵器はついに違法な兵器となったわけだが、こうした各国の核廃絶に向けた具体的な行動に対し、政府は背を向けるばかりか、足を引っ張っている。

 また国内的には、被爆者はじめ犠牲者も含む戦争被害者の救済に後ろ向きな政府の姿勢も問われなければならない。

 政府はこれまで広島原爆後の「黒い雨」の範囲や雨以外での被爆の可能性をきわめて限定的にとらえ、多くの被爆者への原爆手帳の交付を拒んできた。こうした政府の対応をめぐる「黒い雨」訴訟は地裁、高裁での原告勝利判決を経て最近になりようやく和解がなされたが、訴訟は長年にわたり、少なくない原告が訴訟の途中で命を落としている。

 原爆以外でも、東京大空襲はじめ米国による空襲の被害をうけた民間人空襲被害者への救済は、戦後何一つなされていない。今年の通常国会で空襲被害者救済法の制定が目指されたが、政府と自民党の一部の反発をうけ、法案提出にも至らなかった。

 核廃絶や平和の取り組みとともに、被爆者や戦争被害者へのあまりに冷酷な政府の姿勢も見直されるべきである。

 あらためて日米が手を携えて広島、長崎に向き合い、「核なき日本」「核なき米国」「核なき世界」の実現を目指すよう日米両政府に訴えるとともに、特に日本政府には被爆者や戦争被害者に一刻も早く十分な救済を講じるよう求める。

【広島・長崎原爆投下75年】日米が連携し「核なき世界」を実現しよう─戦後神社界の反核・原水爆禁止の思想に学ぶ─

令和3年8月3日 陸自部隊の在沖米軍施設への配備に関する行政文書の不開示決定(存否応答拒否)に対する不服審査への意見書の提出

 本年1月、陸上自衛隊水陸機動団の在沖米軍施設キャンプ・シュワブへの配備計画が報じられました。これをうけ私たちは、1月25日付で配備に関する検討等の行政文書を開示せよと防衛大臣に宛てて開示請求をしました。

「離島奪還」を目的とする演習を行なう水陸機動団:西日本新聞2018.4.8

 ところが防衛大臣は、この開示請求について、対象文書の存在の有無を明らかにするだけで外国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれるおそれがあるとし、3月29日付で対象文書の存在の有無を明らかにしない不開示決定、いわゆる存否応答拒否を理由とする不開示決定をしました。

 私たちはこれを不服とし、4月1日付で不服審査を請求したところ、防衛大臣は6月30日付で情報公開・個人情報保護審査会へ諮問したことを通知し、同審査会が私たちに不服審査についての意見書や資料の提出を求めてきたため、今日付で意見書と資料を提出しました。

 意見書は以下のリンクからご覧になれます。

令和3年(行情)諮問第277号、「水陸機動団の在沖米軍施設への配備についての検討・協議等に関する文書の不開示決定(存否応答拒否)に関する件」についての意見書

 意見書は、大きく二つの主張をもって存否応答拒否を理由とする不開示決定の不当性を指摘しています。

 一つは、防衛大臣の国会答弁をもとにした主張です。

 防衛大臣は、対象文書の存否を明らかにするだけで他国との信頼関係や率直な意見交換が損なわれ、不開示情報を開示することになるため存否の応答を拒否する不開示決定を行ったわけですが、すでに防衛大臣は国会答弁で過去に陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が行われていた事実を認めています。

 対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は、陸自部隊の在沖米軍施設への配備をめぐる検討等が過去に行われていたかどうかということですが、すでに防衛大臣によりそうした検討等が過去に行われていたことが明らかにされている以上、対象文書の存否が明らかになることにより判然とする情報は公知のものであり、対象文書の存否の応答を拒否することはできないはずです。

 もう一つは、過去の行政文書の開示をもとにした主張です。

 実は平成24年の時点で、統合幕僚監部内で陸自部隊の在沖米軍施設への配備や共同使用をめぐる検討等が行われており、それに関する行政文書も存在しておりました。これについて防衛大臣も当該行政文書の真正性を認めるとともに、平成30年には当該行政文書の開示もされています。

 つまり、私たちの開示請求の対象文書の原型ともいえる行政文書、少なくともそれに関連する行政文書が存在し、それを防衛大臣が真正と認め、また開示されている以上、対象文書の存否の応答を拒否する不開示決定は不当です。

 今後、審査会で私たちの意見書やそれに対する防衛大臣による反論の審査が行われ、数ヶ月から長ければ数年後に答申が出されるとのことです。

 また進展があればご報告いたします。

令和3年1月25日 北部訓練場放射性廃棄物問題・辺野古新基地陸自配備問題について情報公開請求をしました

靖国神社 第74回みたままつりに献灯しました

 靖国神社では毎年7月に「みたままつり」が開催され、祭典が執り行われるとともに境内には各界名士などが揮毫した雪洞や崇敬者による献灯が掲揚点灯され、靖国神社の御祭神をお慰めしています。昨年のみたままつりはコロナの影響で中止となりましたが、今年は第74回みたままつりとして無事開催の運びとなり、花瑛塾も例年通り献灯しました。

多くの献灯が掲揚されている靖国神社神門前

 みたままつりは昭和21年7月、長野県遺族会の有志による境内での奉納盆踊りを契機として靖国神社側と柳田国男が検討を重ね、翌年7月から正式な祭典として執り行われるようになりました。

 みたままつりの神学的基礎づけは柳田『先祖の話』によるもので、仏式の盆行事とは異なるものとされています。むしろ柳田は、先の大戦末期、わが子の召集や折口信夫の養子である折口(藤井)春洋の戦死などを受け、「〔日本〕固有の生死感を振作せしめる一つの機会」について思索を続けていました。

 そんな柳田と新たな民衆的な基礎を持つ慰霊祭祀のあり方を模索していた靖国神社が交流を深めるなかで、みたままつりが成立していきます。

今年の花瑛塾の献灯
夜になり点灯された献灯

 そうした背景もあり、昭和24年には7月13日のみたままつり前夜祭に先立ち、靖国神社に合祀されている祭神(戦没者)以外の一般戦没者も慰霊する「慰霊祭」が同社神職の発意のもと行われ、以後「諸霊祭」として恒例のお祭りとなるなど、みたままつりは靖国神社に祀られていない一般戦没者も慰霊の対象としているところに大きな特徴があります。

 その諸霊祭が行われていた場所が旧招魂斎庭(本殿向かって左側の境内地)であったといわれ、常磐木の神籬をたて、そこへ臨時に諸霊を招くかたちで祭儀が行なわれていたそうです。

 昭和40年に旧招魂斎庭の奥(元宮の隣)に「鎮霊社」が建立され、嘉永6年以降の戦没者で靖国神社に祀られざる御霊、および同年以降の諸外国人の戦没者を祀ることになると、それ以降は鎮霊社の例祭(7月13日)が諸霊祭にかわっていきました。

 靖国神社は占領中、GHQに対してみたままつりを「フォークの祭(民俗行事)」と説明していますが、いわゆる「A級戦犯」の靖国神社への合祀以前の一般戦没者をも慰霊の対象とする民衆的基盤を持つお祭り(「フォークの祭」)としてのみたままつりを通じ、靖国神社における戦没者慰霊の多様性や戦後の戦没者慰霊のあり方などに思いを巡らせていただければ幸いです。

例祭に向けて舗設が進んでいた鎮霊社

 なお今年のみたままつりは、感染症対策として露店の出店や各種奉納行事などは中止となっています。ただし祭典は16日までですが、雪洞や献灯の掲揚点灯期間は18日まで、閉門時間も夜8時までに延長されています。また期間中は、夜間中庭参拝として拝殿からさらに進み本殿前の中庭での参拝が可能となっています。

 その他、感染症対策の観点から境内の様子のオンライン配信などもなされ、オンラインによる祈願の申し込みも可能となっています。

 

本年も靖国神社みたま祭(7月13日~16日)に献灯しました

令和元年7月16日 靖国神社みたま祭 旧招魂斎庭・鎮霊社 拝礼

名古屋市での「私たちの『表現の不自由展・その後』」に対するテロを許さない

 名古屋市の市施設「市民ギャラリー栄」で開催中の「私たちの『表現の不自由展・その後』」(名古屋展)をめぐり7月8日、ギャラリーに宛てた郵便物をギャラリー職員が開封したところ、同封されていた爆竹が爆発するという事件が発生した。

テロに見舞われた名古屋展の会場:東海テレビ2021.7.8

 郵便物には爆竹の他、名古屋展の中止を求める内容を記した紙片も入っていたとの情報もあり、事件が名古屋展を狙った“テロ”であることは明白である。

 事件をうけ名古屋市は、名古屋展最終日である11日までのギャラリーの休館を決めた。これにより名古屋展はこの日をもって事実上の閉幕、中止に追い込まれた。

 ギャラリーを一時休館し安全を確認することは当然であるが、被害状況や規模などから考えて、はたして8日から11日まで数日間にわたって休館する必要があるのかは疑問である。施設内に危険物などがないか確認し、警備体制を増強するなど相応の措置をとれば、再開可能だったはずだ。

 公共施設の利用の規制について、最高裁は「明らかな差し迫った危険の発生が、客観的な事実に照らして具体的に予見される場合でなければならない」と厳格な判断をしている。テロ行為直後は確かにそうした危険な状況であったといえるだろうが、その後もその翌日も翌々日も、警備体制を増強するなどしてもなお「明らかな差し迫った危険の発生が、客観的な事実に照らして具体的に予見される」といえるのだろうか。

事件後に名古屋展会場を捜査する警察:メーテレ2021.7.8

 憎むべきは卑劣なテロ犯人であるが、名古屋展の開催期間を狙い定めたかのように休館にする名古屋市の対応は、あたかもテロに乗じて名古屋展を中止にさせたかのようであり、はなはだ不審である。

 本当に安全確認のため11日まで休館する必要があるというのならば、12日以降に展示を再開できるよう名古屋市として対応すればいい。あるいは11日までの間、他に展示できる施設を用意したり、斡旋するなどの代替措置もとりえたはずだ。

 テロを実行することなどは絶対に許されない。またテロに屈することもあってはならない。そしていうまでもなく、テロを利用することもあってはならない。まして政治の側が、である。

 名古屋展で展示されている平和の少女像は、戦時性暴力の問題を訴える作品であるが、2年前のあいちトリエンナーレに続き、再びこの少女像が暴力にさらされてしまったのは、あまりに残念である。いたいけな少女像の顔を見れば、何とか最後まで展示をし、政治と暴力からこの少女像を守ってあげられないものかと慚愧に堪えない。

 ともあれ気に入らない表現がテロにより平然と圧殺され、さらには政治がそうした事態を利用するような社会の「その後」の恐ろしさについて、私たちはあらためて考え、そして警戒していく必要がある。

 いうまでもなく私たちは表現の不自由展・その後の一部作品について受け入れ難いものがある。しかし、それとこれとは別だ。名古屋展に対するテロを許さない。

「表現の不自由展かんさい」会場利用承認取消しをめぐって─不自由展への批判と権力の濫用の容認は別儀である─

国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について

令和3年7月4日 熱海市土石流災害支援行動

 静岡県熱海市伊豆山地区で発生した土石流災害から一夜明けたこの日朝、避難所となっている市内の「いきいきプラザ」へ飲料水やマスクなどの支援物資をお届けにうかがいました。

熱海市伊豆山地区の土石流災害現場:静岡新聞2021.7.4

 現地へ到着した時点で行方不明者の捜索救助活動は再開されていたものの、二次災害の危険が伴うため土砂の撤去作業などは始まっておりませんでした。そのため土砂の撤去作業などもお手伝いしたかったのですが、やむなく支援物資の搬入後、撤収しました。

 いきいきプラザとともに災害現場近くの伊豆山小学校なども避難所となっているようですが、交通が確保されていないため、現在のところいきいきプラザが支援物資の受付、集積所となっているようです。

 また熱海市内や熱海市へ向かう道路も各所で通行止めや迂回指示が出されています。

 そうした状況を踏まえ、支援物資の搬入やボランティアなどで現地を訪れる際には、交通の状況をよく確認するとともに、避難所での支援物資のニーズやボランティアの募集状況、物資受付所の場所など事前によく確認し、また新型コロナウイルスの感染対策をするなどして、住民の方々や災害救助関係の方々のご迷惑にならないよう配慮をした上での行動をお願いします。

 全ての行方不明者の早期の救助と無事を祈り、引き続き事態を注視してまいりつつ、必要ならば今後も支援活動を継続していく予定です。

熱海市内のいきいきプラザ

 それとともに、昨年のこの日は九州を中心とする豪雨により熊本の球磨川がはん濫する災害が発生しました。その一年前の令和元年6月には、台風15号によって千葉県や神奈川県を中心に停電や断水、家屋の損壊など大きな被害が出ました。さらにその前の平成30年7月には、西日本豪雨が発生しています。

 コロナ禍での災害にはもっとも警戒が必要であり、注意しなければなりませんが、この時期はそもそも台風や豪雨、水害など大規模な自然災害が多く発生する傾向にあり、東京五輪にリソースを割いている余裕はありません。また五輪にリソースを割くがゆえ、コロナ対策と災害対策がおろそかになることも考えられます。

 今こそ東京五輪はきっぱり中止し、人々の命を守る行動に全力をあげるべきではないでしょうか。

お届けした支援物資の一部

西日本豪雨災害に関連し、皆様からお預かりした物資を被災地へ届けました