令和元年8月29日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(海洋文化館)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は29日、海洋博公園内にある海洋文化館を見学し、琉球・沖縄そしてアジアを考える上で重要な海と海洋文化を学びました。

海洋文化館

 海洋博は昭和50年(1975年)から昭和51年まで「海─その望ましい未来」をテーマに沖縄県本部町で開催された国際博覧会ですが、海洋博終了後、跡地は海洋博記念公園となり、海洋文化館や美ら海水族館などが建てられました。

 一方で海洋文化館を出て海を隔てて伊江島を眺めると、米軍機が旋回する光景が見えました。伊江島には伊江島補助飛行場という米軍基地があり、現在はF35Bの離発着訓練やパラシュート降下訓練などがおこなわれている他、過去には核兵器の模擬爆弾の投下訓練などもおこなわれました。

 海は琉球・沖縄にとって非常に重要なものであり、様々な恵みをもたらしましたが、その海とは異なり沖縄の発展を阻害する米軍基地と米軍の演習が日常に溶け込んでいる沖縄の悲哀と負担を思いました。

伊江島上空を飛行する米軍機

令和元年8月28日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(北部訓練場)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は28日、沖縄県国頭村・東村にまたがる米海兵隊演習場「北部訓練場」ゲート前にて語りがけをおこないました。

 北部訓練場は平成28年(2016)に「沖縄の本土復帰以降、最大規模の返還」と銘打ち、演習地の過半が返還されましたが、その引き換えとして計6ヵ所のオスプレイが離発着可能なヘリパッドの建設が強行されました。また新たに宇嘉川河口と接続水域が米軍に提供され、各ヘリパッドと歩行訓練ルートや進入路などで結ばれました。

 つまり米軍は北部訓練場の遊休地や既に経年劣化により使用が困難となっていたヘリパッドを返還することにより、新たにオスプレイが離発着可能なヘリパッドを得て、さらにそれらヘリパッドが宇嘉川河口と結ばれることにより、オスプレイでヘリパッドに着陸し、歩行訓練ルートをたどって海に脱出する、あるいはその逆に舟艇で河口に上陸し、歩行訓練ルートを辿ってヘリパッドに辿り着くといった陸海空一体となった実戦的な演習が可能となったのであり、実質は基地機能が強化され基地負担が増加したといえます。

 こうした基地問題に関する安倍政権のペテンや、「地方創生」といいつつ沖縄を平然と締め上げる欺瞞について訴えかけました。

北部訓練場メインゲート

令和元年8月23日~24日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(北部訓練場)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は23日、沖縄北部の東村・国頭村にまたがって位置する米海兵隊の演習場である北部訓練場のメインゲート前にて、北部訓練場と伊江島補助飛行場、そして現在、埋め立て工事が進められている辺野古新基地が今後一体的に運用され、沖縄北部に基地負担が集中、固定化し、さらにそれは「本土」はもとより沖縄中南部からも不可視のものとなっていくことの問題を訴えました。

北部訓練場メインゲート

 北部訓練場に新たにつくられたヘリパッドはオスプレイの離発着を想定したものであり、また伊江島補助飛行場でもオスプレイの離発着が行われていますが、辺野古新基地には将来的に200機ものオスプレイが配備されるといわれており、辺野古を飛び立ったオスプレイが北部訓練場や伊江島を飛び交うことが予想されます。

 また辺野古新基地には強襲揚陸艦が接岸する「軍港」機能もありますが、伊江島補助飛行場には強襲揚陸艦を離発着するF35Bの着陸訓練であるLHDデッキが建設されています。

 やんばる、伊江島、辺野古という沖縄北部の要塞化を許してはなりません。

 24日も23日に続き北部訓練場前にて訴えた他、チョウ類研究者のアキノ隊員こと宮城秋乃さんとともに国頭村の北部訓練場返還地である旧FBJヘリパッド地区を訪れ、米軍が廃棄したと思われる夜戦食など携行糧食の袋や空薬莢、鉄製の資材、ドラム缶などを発見、確認しました。

FBJヘリパッド地区で発見した空薬莢

 北部訓練場返還地は、返還にあたって沖縄防衛局が廃棄物の処分を実施しましたが、それでもなおこのように多くの廃棄物が残置されています。沖縄防衛局の廃棄物の処分がずさんであったことも考えられますが、返還前の北部訓練場は米軍の廃棄物だらけであったことは容易に想像されます。

 これ以外にも北部訓練場返還地では米軍の廃棄物の投棄によって土壌汚染も確認されており、米軍基地は騒音や人的被害のみならず、環境問題という面からもその基地負担を考えていく必要があります。

令和元年8月22日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(翁長雄志さんを偲ぶ会)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は22日、故翁長雄志前沖縄県知事の一周忌を迎えて沖縄空手会館(豊見城市)で開かれた「翁長雄志さんを偲ぶ会」に参列しました。

 「偲ぶ会」では翁長さんの後継として知事職に就いた玉城デニー知事、沖縄県政で共に歩んできた浦崎唯昭前副知事、「偲ぶ会」の実行委員長で翁長さんを支えた呉屋守將金秀グループ会長、同級生で翁長さんが務めた那覇市長を継いだ城間幹子那覇市長、そして妻の樹子さんらが翁長さんを偲ぶ挨拶をおこない、その後参列者で献花をしました。

 翁長さんは昨年8月、任期途中で膵がんのため亡くなりました。享年67歳でした。翁長さんは辺野古新基地建設に関し、政府・与党と徹底的に戦った政治家として知られていますが、翁長県政は基地問題だけでなく子どもの貧困問題など県民の生活や福祉にも力点をおいた政策を展開するなど、翁長さんの政治家としての実績と見識の高さは今後よく評価されることでしょう。

 翁長さんは仲井真県政を支えた沖縄保守政界の重要人物でしたが、仲井真県政や沖縄自民党が辺野古新基地建設容認に転向するなかで、「辺野古反対」を堂々と掲げ県民の支持を得ました。私たちも翁長さんのように志を最後まで捨てることなく、誇り高く正論を訴えていきたいと感じました。

翁長雄志・前沖縄県知事をしのぶ会

令和元年8月21日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(トークライブ Tell us Night ! 〜気になる4人の想いと本音が聞ける夜〜)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は21日、浦添市ハーモニーセンターで開催されたトークイベント「Tell us night ! 〜気になる4人の想いと本音が聞ける夜〜」に那覇市議会議員の翁長雄治さん、むぬかちゃー(物書き)の知念ウシさん、浦添市長の松本哲治さんとともにゲストとしてお招きいただき、登壇しました。司会は「せやろがいおじさん」こと榎森耕助さんでした。

トークイベントの様子

 このトークイベントは普段なかなか話しづらい政治のことを気軽に話してみよう、所属や立場が違う人たちがそれぞれ集まって話をし、それを聞いてみようという趣旨で開催されました。

 浦添市の松本市長と那覇市の翁長市議が出席されたことから自然と那覇軍港の浦添移設といわれる、いわゆる浦添新軍港問題が話題となりましたが、辺野古新基地建設とならぶ重要な沖縄の基地問題である浦添新軍港問題については全県的な大きな議論とならないなかで、当事者である松本市長と翁長市議のトークがあったことは非常によい機会となったと思います。

 特に松本市長はご自身が社会福祉士であることから、本来は福祉の問題などに力を入れたいが、浦添新軍港やキャンプ・キンザーなどの米軍基地問題に直面するなかで、どうしてもこの問題に取り組まざるを得ないことなど率直の思いを語っていただきました。

 また知念ウシさんは基地問題のみならず、その根本や背景にある沖縄と「本土」(日本)の歴史的関係、植民地主義の問題などを問い続けていることから、そのような琉球・沖縄の本来的位相から基地問題について発言されていました。

 その他、沖縄への自衛隊配備や米軍の駐留なき防衛の問題、核武装と保守の立場、右翼と左翼など、普段なかなか話しづらい、あるいは聞きづらいテーマについてそれぞれの立場からディスカッションしました。

【今日です】Tell us night〜気になる4人の想いと本音が聞ける夜〜

 今日8月21日(水)に沖縄県浦添市の浦添市ハーモニーセンターで開催されるトークイベントに花瑛塾々長仲村之菊もお招きいただきました。

 那覇市議の翁長雄治さん、むぬかちゃー(物書き屋)の知念ウシさん、浦添市長の松本哲治さんとともに登壇する予定です。司会はせやろがいおじさんこと榎森耕助さんです。

 皆様どうぞご参加下さい。

Tell us night〜気になる4人の想いと本音が聞ける夜〜

  • 那覇市議会議員の翁長雄治さん
  • むぬかちゃーの知念ウシさん
  • 右翼団体花瑛塾塾長の仲村之菊さん
  • 浦添市長の松本哲治さん
    (五十音順)

この四方をお迎えし、それぞれの所属や立場を超えて本音で語っていただくトークイベントを開催します。

司会進行はせやろがいおじさんこと榎森耕助さん

「右翼と左翼ってなに?」
「沖縄の民主主義とは?」
「保守と革新の違いって?」
「対立ではなく対話を実現するためには?」

など、聞いてみたい話題は盛りだくさん!
分断に煽られない、より良い沖縄の未来を考える時間になるはず!

【日時】2019年8月21日(水)18:00開場 18:30開会
【場所】浦添市ハーモニーセンター(沖縄県浦添市安波茶2-3-5)※ てだこホールの駐車場をご利用ください

※座席100名、満席となりました。

https://passmarket.yahoo.co.jp/event/show/detail/01f4df10f2tdx.html

令和元年8月20日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(アーニー・パイル記念碑など)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は20日、昨日に引き続き伊江島(伊江村)を訪れ、沖縄戦で戦死した従軍記者アーニー・パイルの記念碑、多くの人を救ったニィヤティヤガマ(千人ガマ)を訪れるとともに、沖縄戦における伊江島の戦いの犠牲者を祀る芳魂之塔にて全ての犠牲者の御霊に慰霊・追悼の祈りを捧げました。

 アーニー・パイルは米軍の従軍記者として沖縄戦の伊江島の戦いに参加していましたが、昭和20年4月18日に伊江島守備隊の機銃掃射により戦死しました。アーニー・パイルは末端の兵士の心情を事細かに愛情をもって報じたといわれています。

アーニー・パイル記念碑

 芳魂之塔は伊江島の戦いで犠牲になった軍民約3500人を祀る慰霊塔です。また摩文仁の丘の平和の礎のように犠牲者の名前が刻銘されています。なお伊江島の戦いにおける日本軍伊江島守備隊が壊滅した毎年4月21日に平和祈願祭が執り行われています。

芳魂之塔

 ニィヤティヤガマは伊江島の南側海岸に面する海食洞です。もともとは子授けの神の伝説が存在する自然壕でした。伊江島では昭和18年から日本軍の飛行場建設が進められ、多数の兵隊や徴用人夫が配備されており、彼ら軍人軍属や住民が米軍による空襲の際の避難場所として利用されたといわれています。

令和元年8月19日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(ヌチドゥタカラの家)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は19日、沖縄北部の伊江島を訪れ、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」を見学した他、沖縄戦時、日本兵が避難生活を送ったニーバンガズィマール、米軍施設である伊江島補助飛行場を見学しました。

「ヌチドゥタカラの家」にて

 沖縄では昭和31年、事実上の米軍基地の固定化をいう「プライス勧告」の粉砕を訴える「島ぐるみ闘争」が沖縄全域で爆発しましたが、伊江島などではそれ以前より米軍による土地の強制的な接収がおこなわれ、伊江島闘争といわれる住民の戦いがおこなわれていました。

 戦後、米軍は伊江島住民の家にガソリンで火をつけ、ブルドーザーでなぎ倒し、土地を強制接収し基地を建設していった。抗議する住民には容赦なく暴行をふるい投獄までしたが、阿波根昌鴻氏ら伊江島住民は「伊江島土地を守る会」を結成し、「団結道場」を拠点に抗議活動を続けたといわれています。

 こうした伊江島住民の抗議活動が後の「島ぐるみ闘争」の淵源となっていきますが、「ヌチドゥタカラの家」は当時の運動の資料館であるとともに、住民が直面した米軍基地の被害や負担をあらわすパネルなども展示されています。

 特にこの日は館長で阿波根氏のもとで学んだ謝花悦子氏より当時の状況や現在の様子などを伺った他、ご厚意で阿波根氏が生前タイヤで作ったベルトを身に着け、阿波根氏の「生き方」を分けていただきました。

 その後、井上ひさしが原案の舞台「木の上の軍隊」のモチーフとなったニーバンガズィマールを見学しました。

ニーバンガズィマール

 沖縄戦により日本軍の伊江島守備隊は壊滅し、伊江島は米軍に占領され、住民は慶良間諸島や大浦崎など沖縄各地の収容所に隔離されましたが、少数の日本兵は残存し、米軍の目を盗んで逃亡生活を送りました。このガジュマルの樹でも二人の日本兵が約2年ものあいだ隠れ住んだといわれています。

 伊江島補助飛行場は伊江島のほぼ中心に位置する滑走路です。この日、伊江島を縦断するかのような滑走路から米軍のパラシュート降下訓練を確認しました。もともと読谷飛行場で行われていたパラシュート降下訓練ですが、基地負担の軽減や読谷飛行場の閉鎖により、紆余曲折ありながらも伊江島に移転されました。こうして基地負担は沖縄北部に寄せ集められ、不可視化されてる状況にあります。

 なお伊江島補助飛行場は開放され誰でも出入りが可能ですが、れっきとした米軍施設です。

伊江島補助飛行場とパラシュート降下訓練を行う米軍機

8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 8月14日~15日戦争の記憶の継承と慰霊のための連続行動

 昭和20(1945)年8月15日正午、ポツダム宣言の受託を国民に告げる終戦の詔書を読み上げる「玉音放送」がラジオ放送されました。連合国には既に前日14日にポツダム宣言受託の旨は通知されており、また正式な降伏調印は翌月9月2日に行われ、沖縄や北方地域あるいはアジア各地では8月15日以降も一部で戦闘が継続されましたが、先の大戦の一つの大きな節目は8月15日に他なりません。

 この日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、政府主催の全国戦没者追悼式において天皇陛下がお言葉を述べられますが、今年の全国戦没者追悼式は改元後初の式典となり、天皇陛下は上皇陛下とかわらず深い追悼の意を表し、歴史に真摯に向き合うお気持ちを述べられました。

 「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾では14日と15日、各所で先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れたすべての犠牲者を慰霊・追悼し、世界の平和を祈念しました。

 14日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて行われた第54回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典に参列しました。

 この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」を誓うものです。

各宗派の儀礼での礼拝が行われる
 各宗教・宗派が合同しつつ、それぞれの儀礼をもって慰霊・礼拝をする様子から、真摯な慰霊と平和への思いを感じました。各宗教・宗派の信者による礼拝・追悼ののち、一般参列者の礼拝・追悼が行われました。参列者のなかには、新宗教系のみならず伝統宗教など宗教界や宗教学者など学界からの参列者はもちろん、大島理森衆議院議長や枝野幸男立憲民主党代表、玉木雄一郎国民民主党代表など政界からも多数参列があり、国民的な慰霊のあり方を思いました。

 またこの日、埼玉県護国神社清掃奉仕の会による埼玉県護国神社「みたま祭」の準備作業を奉仕し、境内の清掃や設営、飾り付けなどを行ったのち、みたま祭前夜祭に参列しました。

 前夜祭では手作りの行燈が奉献された他、雅楽の奉納演奏なども行われました。雅楽の奉納演奏には当塾々長仲村が参加しました。例年ですと洋楽や和太鼓の奉納演奏なども行われるのですが、天候の都合、それらの奉納演奏は中止となりました。それでも遺族を中心に心のこもった慰霊が行われました。

埼玉県護国神社みたま祭前夜祭

 15日は埼玉県護国神社を参拝しました。

 埼玉県護国神社では、毎年終戦の日に行われている「みたま祭」に参列し、同社本殿にて昇殿参拝しました。埼玉県出身の殉難者遺族や関係者を中心に多数の参列がありました。祭典では童謡の奉納や正午の時報とともに黙祷なども行われ、同社御祭神をお慰め申し上げました。

埼玉県護国神社みたま祭

 戦後74年を迎え、今や「戦後100年」が視野に入るまでにいたります。いまだに靖国神社をめぐる情勢など日本の戦没者慰霊は落ち着きがない状況にあり、そればかりか時の政権は過去の戦争に真摯に向き合う姿勢を欠き、安保関連法による自衛隊の海外派遣など新たな「戦死者」を生み出すような状況を作り出しています。

 終戦の詔書には「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ」「世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」とあります。昭和25年の神社新報の社説にも「われ等神道人の任務は、この民のために平和を守るべく懸命の力を致すにあると信ずる」「現下の日本人にとつて、最も必要なのは、侵略者に対抗するための軍備を急ぐことでもなければ、武器を携へて海外の義勇軍に身を投ずることでもない」とあります。

 こうした言葉からは戦後日本が軍事強国になり、隣国を威嚇するような姿勢を見ることはできません。全ての戦争犠牲者に心からの追悼の意を表するとともに、二度と戦争を繰り返さないような平和な日本を実現することが、戦後100年を迎えようとする私たちの「真の慰霊」と信じ、これからも取り組んでいきたいと思います。

令和元年8月6日~9日 広島・長崎原爆投下の日、ソ連対日参戦の日

 8月6日、広島への原爆投下の日のこの日、原爆投下の朝8時15分、心中にて原爆犠牲者を追悼するとともに、原爆同様、米軍の空襲で殺害された無辜の民の遺骨を慰霊する東京都慰霊堂を参拝し空襲犠牲者を弔い、これを通じて原爆犠牲者へ慰霊の念をささげました。

東京都慰霊堂

 原爆や空襲により多くの民間人や軍人軍属はもちろんのこと、様々な事情で日本にいたアジア出身の労働者や留学生、さらには米兵捕虜など外国人も含めた多くの人々が犠牲になるとともに、市街は灰燼に帰し、現在に至るまで多くの人が後遺症に悩まされています。

 それとともに忘れてはならないのは、原爆や空襲により多くの子どもたちが家族や親族を失い孤児となったことです。広島でも「原爆孤児」といわれる孤児が多く生まれ、例えば「戦災児育成所」といった施設に保護されるなどしました。東京でも占領軍の要請に基づき、警察の主導で「東水園」という施設が設置され、孤児が保護されるなどしました。施設での暮らしは過酷であったといわれています。また孤児たちは上野駅などで暮らすことを余儀なくされ、「駅の子」などと呼ばれ大人たちに蛇蝎のように嫌われたそうです。

【東京大空襲74年】戦災孤児収容施設「東水園」跡(旧品川第五台場)

 8月9日、ソ連対日参戦の日のこの日、ロシア大使館および総理大臣官邸や自民党本部、外務省周辺にて、ロシア・旧ソ連の国際法違反の対日参戦と領土の不法占拠を糾弾するとともに、「外交の安倍」と自称しながら何らの外交的成果をあげることができず、目先の利益に走って二島返還論に傾斜し、事実上北方領土を捨ててしまった安倍首相・河野外相による対ロ外交を徹底的に批判しました。

総理大臣官邸周辺での街宣

 また、そうした対ロ外交批判とともに、先住民族アイヌの人々や北方領土元島民の権利擁護や支援、水産資源の維持や環境保護などは北方地域に責任を有する国家である日ロ両国が協力して積極的にやっていく必要があることを訴えました。

 なお8月9日はソ連対日参戦の日であるとともに、長崎原爆投下の日でもあります。74年前のこの日、米国は長崎に原爆を投下し、約7万4千人の無辜の民を殺害しました。今年の長崎での平和祈念式典において、被爆者代表の山脇佳朗さんが安倍首相に核廃絶への取り組みを求めたように、戦争被爆国である日本は、それだからこそ「核なき日本」「核なき世界」を目指すべきです。

 しかし、日本政府はこれまで、米国の沖縄への核配備を黙認し続けました。長崎に原爆を投下したB-29ボックスカーは、沖縄の読谷飛行場に緊急着陸し給油をおこなったといわれています。ここに「沖縄と核」が初めて立ち現れるわけですが、以降沖縄にはオネストジョンやメースB、ナイキハーキュリーズといわれる核兵器が日本政府の黙認のもと配備され、沖縄は米国の核基地となっていきます。

 米国の核の戦争使用や現在に至るまでの大量保有は許されざるものですが、一方で日本政府の「核の容認」も許されません。日本政府は核廃絶に向けて世界各国に働きかける必要があります。