令和2年9月28日 安田善次郎刺殺事件99年 安田善次郎旧別邸「寿楽庵」見学、「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参

 大正10年(1921)9月28日、今から99年前の今日、大磯にある安田財閥総帥の安田善次郎の別邸「寿楽庵」に神州義団々長の朝日平吾が訪れ、安田を刺殺した上で朝日も自ら命を絶つ事件が発生しました。安田善次郎刺殺事件、朝日平吾事件などと呼ばれています。

寿楽庵の一角

 朝日は宗教運動や社会運動、社会事業を志ながらもうまくいかず、鬱々とした日々を過ごしていましたが、最後の事業として困窮した労働者を救う「労働ホテル」の建設を目指し、企業経営者や有名人のもとを訪れ、寄付を求めていました。ただし、労働ホテルの建設は、朝日が長を務める神州義団の運営費を集めるための寄付の表向きの名目でした。

 そうしたなかで朝日は安田のもとを訪れ寄付を求めたものの断られたため、事件に及んだといわれています。

 当時の安田は世間から大変な吝嗇家と思われており、事件後も安田への同情は小さいものでした。実際の安田は東大安田講堂はじめ様々な寄付・寄贈をしていたものの、それについてあまり知られることもなく、戦後恐慌の中で自分の儲けばかり考えている「奸富」「守銭奴」として、世間のうらみを買っていました。

 他方、安田を刺殺した朝日が当時の民衆、メディアから熱烈に英雄視されたかというと、けしてそうともいえず、朝日は一部からある種の狂人や政治ゴロ扱いされることもありました。

安田家累代墓

 いずれにせよ、朝日による安田刺殺は、このころよりあらわれる大正維新論、そこにおいて原型が形成されていく超国家主義・国家改造運動の先駆的なものと位置づけられ、昭和維新運動につながっていくものと理解されています。

 一方、最近の研究では、朝日が事件において名乗った神州義団と「神祇道」といわれる神州義団の理念との関連も注目され、「国家ノ宗祀」神社神道といわゆる「ネオ国教」論を結合させた「神社-ネオ国教」論の一類型とされる「神祇道」の宗教的情熱に基づく神道的な国民教化が朝日の描く理想社会のイメージの一角にあったのではないかとされ、超国家主義運動のはじまりとしての大正維新と神社神道の関連性、超国家主義の展開の中における神社神道のシンボル性の変遷なども検討されています。

 なお、朝日は安田刺殺にあたり、「斬奸状」と「死の叫声」と題する犯行声明文および遺書を残しているとともに、北一輝らに宛てた手紙をしたためています。朝日の行為は北の影響下にあったともいえるものであり、これにより北は朝日に思慕された人物としてカリスマ性を高めていきます。

 そればかりか朝日による安田刺殺は、その後の安田共済保険と安田保全社が争った安田共済生命事件においても影響をおよぼし、安田共済保険側について安田保全社と交渉した大川周明と、別ルートから安田保全社に近づき安田保全社から報酬をせしめた北、また大川と北の間に入ってさらなる報酬を得ようとした清水行之助も、それぞれ朝日による安田刺殺事件が直接間接のバックボーンであったといわれています。

朝日平吾之墓

令和2年9月24日 西郷軍壊滅の日 南洲西郷隆盛「留魂祠」参拝

 西南戦争での城山の戦いで西郷軍が壊滅したこの日、洗足池湖畔に鎮座する南洲西郷隆盛「留魂祠」を参拝しました。

留魂祠

 明治10年(1877)にはじまった西南戦争は熊本城攻略戦や田原坂の戦いなどを経て、西郷軍は鹿児島・城山に籠城し、この日最後の攻撃を敢行し、西郷隆盛が自刃するなど西郷軍は壊滅しました。

 江戸無血開城などで西郷と知己にあった勝海舟は、西郷の死を悼み、西郷の漢詩を刻む石碑を建てるとともに「留魂祠」を建て西郷の魂魄を招魂して祀りました。

 石碑と祠は当初、葛飾の薬妙寺内にありましたが、勝没後、勝の遺志により洗足池湖畔の勝夫妻の墓の横にうつされ今日に至ります。

 神道言論人葦津珍彦は「永遠の維新者」のなかで、近代国家の軍に対し市民軍必敗の法則を解説し、西郷軍に勝算のなかったことを冷徹に指摘しつつも

西郷の死は、旧時代の最後なのではない。中道の俗流ゴールに決して定着することなく、永遠の維新を目ざして戦う戦士の心中に猛進の精神をふるい起こさせる英雄詩である。永遠の維新には敗北もなければ挫折もない。

「永遠の維新者」の情念は、事にふれ、折にふれては生きつづけて、明治史の理想と現実の底流に大きな影響を及ぼしていった。明治史だけにとどまらない。それはいまもなお日本人の心の底に、消えることなき埋火のごとく生きつづけているのではないか。

 と西郷と西郷軍の英雄詩を称えていますが、私たちもこの英雄詩を忘れず継承していきたいと思います。

令和2年9月14日 自民党総裁選、菅義偉新総裁に物申す!

 安倍首相の突然の辞意表明をうけ、自民党は今日14日、両院議員総会を開催し、安倍政権で長く官房長官を務めた菅義偉氏を新総裁に選出しました。私たちは菅新総裁の選出をうけ、菅新総裁が自民党本部で行う記者会見の時間にあわせ、自民党本部前にて声をあげました。

 今回の自民党総裁選は、全国の一般党員による投票を認めず、国会議員と都道府県連による簡易型の総裁選となっており、総裁選のあり方の妥当性・正当性については、自民党内からも疑問が呈されています。

 派閥の領袖が党内を牛耳り、今後のポストの分配を念頭に党内で権力闘争が行われ、組閣名簿が飛び交い、猟官運動が公然と行われ、その一方で党員の声が平然と無視されるかたちで強行された今回の総裁選は、まさしく今後首班指名選挙と天皇陛下の任命のもとで成立する予定の菅新内閣が派閥領袖の動向を伺い、また財界など一部の利害関係者の意向を優先し、国民の声を平然と無視する政治を行うであろうことを示唆しています。

 そうして示唆された今後の菅新内閣の政治姿勢は、言うまでもなく、これまでの安倍政権・安倍政治の継続であり、菅新内閣とは、安倍政権・安倍政治の劣化コピー、あるいは安倍政権・安倍政治の負の部分を純化・強化させたものといえるのではないでしょうか。

 実際に、菅新総裁は、総裁選において、安倍政権の政策を高く評価し、アベノミクスなど安倍政権の政策を継承するといっています。森友・加計・桜を見る会などの問題についても、「丁寧さが求められている」などといいつも、けして再調査の必要を認めようとしていません。

 そもそも菅新総裁自身が第二次安倍政権で一貫して官房長官を務めてきたわけであり、菅新内閣は、安倍首相なき安倍政権であり、菅新総裁を担ぎ上げた「第三次安倍政権・第一次菅新内閣」とでもいうべきものです。

 沖縄の米軍基地問題についても、安倍政権は沖縄の基地負担軽減に取り組むといいつつ、県民が猛反対するなかで辺野古新基地建設を推進し、翁長前沖縄県知事に冷酷な態度をとるなど、まるで「沖縄いじめ」とでもいうような対応を繰り返してきましたが、菅新総裁は官房長官兼沖縄基地問題担当大臣でもあり、そうした「沖縄いじめ」の張本人であったといえます。そうしたなかで、菅新内閣が、沖縄の基地問題への方針をこれまでのものから根本的にあらため、沖縄の意向を汲んだ政策を行うとはとても思えません。

 菅新内閣を短命で終わらせ、約8年も続いた安倍政権・安倍政治を根本的にあらため、終止符をうたねばなりません。

自民党本部前にて

 そのために大事なことは、民主主義を機能させるということです。

 安倍政権は、国会を開会しないなど国会から逃亡し、公文書を改ざんし、様々なデータや数値を偽り、メディアを統制し、人々の声を押し潰すなど、民主主義を機能停止させ、それによって追及をかわして超長期政権を築いていきました。菅新総裁はそうした安倍政権のナンバー2であり、自身も官房長官会見で記者の質問にまともに答えようとしないなど、民主主義の機能停止に加担してきた人物です。

 当然のことながら、菅新内閣も同様に民主主義を機能停止させ、政権の安定をはかることでしょう。既に菅新総裁の総裁選出馬会見において、記者会見のあり方について質問した記者を嘲笑するかのような返答をしたり、首相の国会出席の頻度を見直すような発言をしています。

 求められているのは、メディアが権力と癒着せず、適切な距離感を保ち、しっかりと調査報道を行い、権力を監視し、政権を批判していくことにより、民主主義を機能させていくということです。上述の菅新総裁の総裁選出馬会見における記者の質問への嘲笑に対し、大手メディアが一緒になって笑っていた事実は、大変深刻なことです。

 コロナ禍のなかで市民が声をあげ権力を追及するのは大変難しい状況にあります。権力を監視するメディアのあり方は、今こそ問われています。権力と共犯関係になり、人々の声を無視し、これを押し潰し、パンケーキや苦労人などといって世論をミスリードするような報道であれば、メディアもまた厳しく批判、追及される必要があります。

 政治は政治として、メディアはメディアとして、人々は人々として、その本分を尽くし、民主主義を機能させていくこと。そのなかでこそ滅びるべきものは滅び、残るべきものは残っていくことでしょう。

 私たちは今後もそうした立場から声をあげ続けていく覚悟です。

令和2年9月13日 乃木静子・乃木希典夫妻墓参

 乃木静子および乃木希典夫妻の殉死より108年の今日、青山霊園内の乃木夫妻と乃木一族の墓をお参りしました。

 大正元年(1912)9月13日、崩御した明治天皇の大喪の礼がおこなわれたこの日の夜、乃木夫妻は自邸にて殉死しました。毎年、乃木夫妻の命日であるこの日に乃木神社で例祭がおこなわれるとともに、墓所にて墓前祭がおこなわれています。

 乃木夫妻の殉死は、当時においても新聞紙上や街々の噂で時代錯誤として悪くいわれることもありました。また白樺派などの新思潮や芥川龍之介なども乃木夫妻の殉死を批判しましたが、他方、森鴎外や夏目漱石などはこれを重く受け止め、文学作品のテーマとするなどしています。

令和2年9月12日 伊藤野枝・大杉栄・橘宗一墓前祭

 関東大震災時、憲兵により虐殺された女性解放運動家でアナキストの伊藤野枝、伊藤と事実上の夫婦関係にあったアナキストの大杉栄、そして大杉栄の甥の橘宗一を弔う墓前祭が「大杉栄之墓」(静岡市・沓谷霊園)にて営まれ、参列しました。

墓前祭がおこなわれた大杉栄之墓

 伊藤や大杉らは震災発生後の9月16日、東京憲兵隊に拘引され、憲兵大尉の甘粕正彦らによる激しい暴行をうけた後に扼殺され、憲兵隊の敷地の古井戸に捨てられました(甘粕事件)。

 事件は当時においても新聞報道などで話題となり、軍は厳しく批判され、震災への対応により市民から感謝や好意を寄せられていた軍の評価も大きく下がったといわれています。

 関東大震災時、軍や官憲により中国人労働者や朝鮮出身者が殺害されたことはよく知られていますが、甘粕事件のように伊藤や大杉などアナキスト、あるいは労働運動家なども組織的に虐殺された事実を語り継いでいきたいと思います。

荒畑寒村による碑文

 なお余談ながら、伊藤野枝は代準介を通じて玄洋社の頭山満から援助をうけていたり、戦後神社界を代表する言論人である葦津珍彦は若きころ大杉栄の論著に影響されてアナキズムに関心を持つなど、在野右翼と不思議な接点があります。

 また在野右翼の側も震災時の朝鮮出身者虐殺において、虐殺を逃れた朝鮮出身者から助けを求められ、これを匿い守ったという出来事もありました。

 私たちも先人の精神を継承し、思想信条が異なるものとも迎合ではなく互いに認め合い、かつ弱い立場にあるものは誰であろうとも守るという正統派でありたいと思います。

【関東大震災97年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼─九月、東京の路上で、奪われた命、奪った命を忘れてはならない─

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。関東大震災です。死者・行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。

朝鮮出身者による暴動というデマを伝える当時の新聞

 震災発生直後から朝鮮半島出身者はじめ中国人あるいは社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍や警察、そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で行われ、暴行、虐殺が発生しました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。

 関東大震災発生から97年を迎えるにあたり、歴史の継承と犠牲者の慰霊追悼のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂および慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者と虐殺犠牲者を慰霊追悼しました。その後、東京と千葉にあるいくつかの震災犠牲者や朝鮮半島出身者をはじめとする虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺現場を訪れ、追悼しました。

昨年の追悼集会での金順子さんの追悼鎮魂の舞

 毎年9月1日、東京都慰霊堂では、震災犠牲者を弔う秋季大法要が営まれますが、今年は新型コロナウイルス感染症の拡大防止の観点から一般参加者の参列はご遠慮いただき、関係者のみで法要を行うとのことです。皇族方の御臨席もないそうです。

 東京都慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑の前で開催される朝鮮半島出身の犠牲者の追悼集会についても、感染症防止の観点から今年は一般参加者の参列はご遠慮いただき、追悼式典の様子をオンラインで配信するとのことです。

 残念なことですがやむをえないことであり、9月1日のお参りや各種式典の参列は諦め、一日早い8月31日に各所を訪れました。

 九月、東京の路上で、多くの人の命が奪われた歴史、そして多くの人の命を奪った歴史を忘れてはなりません。

東京都慰霊堂、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

 関東大震災と東京大空襲の犠牲者のうち、身元不明の遺骨を安置し弔う東京都の施設である東京都慰霊堂を参拝し、東京都慰霊堂に隣接する「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を参拝しました。

 なお東京都知事は例年、「追悼碑」前において開催されている朝鮮人犠牲者追悼集会に追悼文を送っていましたが、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめています。ここには歴史修正主義のライターと、これに通じた東京都議会議員の動きが見え隠れしています。

東京都慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 震災発生のわずか数時間後には「朝鮮人が放火をしてまわっている」といったデマが飛び交いはじめました。さらに市民や官憲、そしてメディアが一体となり民族差別に基づく暴動幻想やレイピスト神話が煽られていきました。これにより関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑のある荒川旧四つ木橋付近では、軍や「自警団」による虐殺事件が発生し、多くの朝鮮半島出身者が犠牲となりました。

 なお、この追悼之碑には、官憲やデマを信じた日本人により多くの朝鮮半島出身者が殺されたと明記されていますが、このことは日本人が建立した慰霊碑としては初めてのことであったといわれています。

荒川土手沿いに建立されている追悼之碑
中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場

 震災時に虐殺されたのは、朝鮮半島出身者だけではありませんでした。

 9月3日、軍の騎兵連隊など部隊は大島8丁目(現東大島文化センター付近)に中国人労働者数百名を連行し、虐殺しました。「大島町事件」です。

 事件の背景には、中国人への差別、蔑視があったことはもちろんながら、第一次世界大戦後の不況下、手配師が安価な労働力の供給源である中国人労働者を敵視し、これを「整理」する狙いがあったともいわれています。

「大島町事件」現場
亀戸事件犠牲者之碑

 虐殺は朝鮮・中国人というアジアの人々に対するものでおさまることはありませんでした。

 9月3日頃、軍の騎兵連隊などの部隊は、日本人労働運動家を虐殺しました。「亀戸事件」です。

 亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮半島出身者に関するデマと一緒に飛び交った社会主義者に関するデマの存在があるとともに、震災による混乱を奇貨とした官憲が、かねてより危険視していた労働運動家を抹殺すべく検束、虐殺したといわれています。

 亀戸の浄心寺の境内には犠牲者を弔う碑が建立され、犠牲者10名の名前が刻まれています。

浄心寺境内に建つ慰霊碑
地方出身者虐殺事件「検見川事件」遺体遺棄現場

 9月5日には、千葉市検見川で3人の日本人が虐殺されました。検見川事件です。

 事件は、震災により沖縄出身の儀間次郎や秋田出身の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりから「朝鮮人に違いない」として殺害されたというものでした。

 途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認し「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えましたが、「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したそうです。

 最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」に、さらに数百人の群衆が群がり、そうした群集心理の沸騰の中で3人は虐殺されたともいわれています。遺体は花見川橋から花見川に東京湾に向けて捨てられたそうです。

3人の遺体が遺棄された花見川橋から眺める花見川
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

 被差別部落出身の人たちも虐殺されました。

 9月6日、旧福田村(現千葉県野田市)で香川出身の行商人ら15人が自警団に襲われ、乳児や胎児を含む9人が虐殺されました。「福田村事件」です。

 犠牲となった行商人らが被差別部落出身であったため、事件後も被害者の救済などはほとんどなされず、犯人たちは処罰されたものの早々に釈放されたといわれています。

園福寺内の追悼慰霊碑
中国人宗教家、社会活動家虐殺事件「王希天事件」現場

 虐殺は国際問題にも発展しました。「王希天事件」です。

 9月12日、軍は震災による中国人被災者の救援を行なっていた宗教家で社会活動家の王希天を現在の旧中川逆井橋付近で殺害し、遺体を斬り刻み川に投げ捨てました。

 王希天虐殺は隠蔽され、日中間の国際問題にまで発展しました。しかし日本政府は王希天虐殺をうやむやにし続けたといわれています。

王希天事件の現場の逆井橋
習志野支鮮人収容所跡

 軍は震災後、千葉県習志野にあったドイツ軍捕虜収容所(高津廠舎)を「習志野支鮮人収容所」とし、多数の朝鮮・中国人を収容しました。軍は収容した朝鮮・中国人を虐殺したり、付近の集落の「自警団」に引き渡し虐殺させるなどしました。

 第一次世界大戦中のドイツ軍捕虜は、このドイツ軍捕虜収容所において国際法規に従って丁重に扱われ、オーケストラの演奏などもおこなわれましたが、朝鮮・中国人はためらいもなく虐殺するというこの差に、事件の本質の一端が見え隠れします。

 なお付近に駐屯する騎兵第13連隊は震災時に東京方面へ出動し、亀戸事件や大島町事件に加わっています。

ドイツ軍捕虜収容所跡
関東大震災犠牲同胞慰霊碑

 船橋市の馬込霊園内に建つこの慰霊碑は、終戦後、虐殺された朝鮮半島出身の犠牲者を追悼するため在日朝鮮人連盟千葉県本部が建立したものです。

 既に法界無縁塔という朝鮮半島出身の犠牲者を弔う供養塔が建立されていましたが、碑文に虐殺の事実が記されていないなど歴史的事実と経緯を踏まえた供養塔でないことから、この慰霊碑が建立されました。

馬込霊園内の慰霊碑
関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 先ほど述べた通り、習志野支鮮人収容所では、収容中の朝鮮出身者を軍が付近の集落の「自警団」に引き渡し、彼らに虐殺させることもありました。

 千葉県八千代市高津でもそうして6人の朝鮮出身者が虐殺され、後に遺骨が高津の観音寺に安置されたことから、境内に慰霊碑が建立されました。慰霊碑の横には韓国から贈られたという韓国式の鐘楼もあります。

観音寺内に建つ慰霊碑

 以上、東京、千葉の震災関連の地、特に震災時の虐殺に関連する地を訪れ、慰霊追悼しましたが、東京や千葉にはこれ以外にも多くの関連の地があり、また神奈川や埼玉などにもあります。その他、慰霊集会や行事なども毎年各所で開催されています。この記事をご覧になり、関心を持っていただき、ご自分で関連の地や慰霊集会などを調べ、足を運び、参加し、歴史と向き合い、そして慰霊追悼のまことを捧げてほしいと思います。

令和元年9月1日 関東大震災96年 東京都慰霊堂秋季大法要、朝鮮人犠牲者追悼集会

平成30年9月1日 関東大震災発生95年 全犠牲者慰霊・追悼

安倍首相辞意表明をうけて─喜びでもなく勝利でもなく、戦いを続ける新たな決意を─(令和2年8月28日)

 安倍首相は今日午後5時、首相官邸で会見し、辞意を表明した。今後、自民党内で総裁選が行われ、新総裁が後継首班候補となる。安倍首相は首相臨時代理を置かず、新たな首班指名まで執務を続けるとのことだが、平成24年の第二次安倍政権発足以来7年8ヵ月の超長期政権が、今まさに終焉を迎えようとしている。

会見で辞意を表明する安倍首相

 安倍首相は会見で、辞意を固めた理由として、難病指定されている持病の潰瘍性大腸炎が再発し、健康問題に不安を抱えるなかで、国民の負託に応えることが難しくなったためと説明した。

 首相の座を降りなければならないほどの健康上の不安があるのならば、率直にお見舞いを申し上げなければならない。治療に専念し、一日も早く快復していただきたい。

 高齢化社会を迎える日本において、首相が健康問題を抱えたからといってただちに辞任することもなく、むしろ安倍首相は難病当事者として通院加療、あるいは一時的に休職し治療に専念することによって健康を快復し、その上で再び職務に復帰するという社会的モデルを示すのも一手だと思うが、コロナ禍のなかでそれは難しいことかもしれず、いずれにせよ辞任が本人の決断であれば、それを尊重する他ない。

 花瑛塾は平成28年に結成されたが、「花瑛」の旗の下に集う同志たちはそれ以前から長く安倍政権と戦ってきた。特に安倍政権の沖縄基地問題、安保法制、拉致事件、北方領土など内外の諸問題については徹底的に戦ってきたのであり、そうした戦いのなかで同志たちが集い、花瑛塾が結成されていったともいえる。その意味において、今日の安倍首相の辞意表明は感慨深いものがある。

首相官邸前にて
安倍首相に抗議するため何度となく出向いた首相官邸

 他方、そうした背景のなかで結成され、現在に至るまでも安倍政権と戦ってきた花瑛塾にとって、安倍政権を打倒し、7年8ヵ月にわたる無法横暴の責任をとらせることができなかったのは、残念でならない。我が非力を悔やみ、大いに反省しなければならない。

 そして今、何よりもまずしっかりと確認したいことは、安倍首相の辞任で全ての問題が解決するわけではないということである。

 辺野古の美しい海は無残にも埋め立てられつつあるが、安倍首相が辞任しても事態は本質的にかわらないだろう。ヘリパッド建設のため切り開かれた高江の自然も戻ってこない。米軍の下請けとして世界中で自衛隊が戦争することを可能にした違憲の安保法制、日米のさらなる軍事的一体化がかわることもない。拉致被害者は今なお彼の地で助けを待っている。売り払ってしまった北方領土の返還は、絶望的な状況にあるといっていい。

 その他、共謀罪もそう、原発もそう、経済政策もそう、民主主義の無視や破壊もそう、公文書の隠ぺいや改ざんもそう、政治や財政など国家の私物化もそう、コロナ対応へのことごとくの失敗もそう、自然災害への対応の軽視や被災者への薄情さもそう、歴史問題もそう、韓国との外交問題もそう、新自由主義の推進もそう、あらゆるものが今後なお私たちの国、社会、国民生活にとって悪影響を与え続けるだろう。

埋立工事が進む辺野古沖 画像奥の大浦湾側も埋立工事が予定されている

 こう考えると、安倍首相の辞意表明を手放しで喜ぶことはできない。もちろん安倍政権のみならず、メディア・マスコミの政権への迎合など、政権とともに腐り、結果として政権を支える役目を果たしていった私たちの社会の側の問題も無視できない。

 沖縄では戦後、米軍統治下から日本本土に復帰するため、祖国復帰闘争といわれる激しい闘争が展開された。多くの県民が米軍統治下から脱し、基地も核もない沖縄を目指し、祖国への復帰を渇望したが、復帰後の沖縄には引き続き広大な米軍基地が残り、日米では核密約が締結され、県民の期待は裏切られた。

 沖縄最北端の辺戸岬にたつ祖国復帰を記念する祖国復帰闘争碑は、そうした経緯を踏まえて自らの碑について碑文に「喜びを表明するためにあるのでもなく ましてや勝利を記念するためにあるのでもない 闘いをふり返り 大衆が信じ合い 自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり」と刻んでいる。

 まさしく今日の安倍首相の辞意表明をうけて、私たちは喜びを表明するのでもなく、勝利を記念するのでもなく、これまでの戦いを振り返り、信じ合い、力を確かめ合いながら、決意を新たにしなければならない。

 戦いはなお続くのであるから。

令和2年8月23日 シベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集い

 国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催されたシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いに参列し、黙祷献花しました。

献花のため並ぶ参列者

 75年前のこの日、旧ソ連の指導者であるスターリンの秘密指令により、旧満州などにいた日本兵らがソ連国内に移送された上で抑留され、シベリアやモンゴル、遠くはウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などソ連勢力圏内各地で過酷な労働を強いられました。また抑留者は兵士、男性だけではなく、満蒙開拓で現地にいて、軍の看護業務などについていた女性たちも抑留されたといわれています。

 強制抑留・強制労働された日本兵らは約57万5000人もの人数におよび、抑留は最長で10年以上にもおよび、約5万5000人もの人が犠牲となりました。無事抑留から解放され日本に引き揚げた人たちも、強制労働と寒さ、飢えという過酷な生活による肉体的な疲弊、ソ連側がつくりあげた抑留者同士での相互監視や相互密告、つるし上げなどによる精神的な荒廃に悩まされた上、「シベリア帰り」として白い眼で見られ、就職差別をされることもあったようです。

 こうした抑留経験者・引揚者に対し、日本政府は十分な支援や補償をしてきませんでしたが、10年前にシベリア特措法が成立し、抑留者への特別給付の実施や抑留の全容解明などが政府に求められました。しかし今にいたるまで抑留の経緯の解明は進んでおらず、遺骨の収容なども停滞しています。これまで約2万2000人分の遺骨が収容されたとはいえ、いまだに多くの遺骨が彼の地に眠っています。

 そればかりか昨年には、遺骨収容作業で抑留者の遺骨として持ち帰った遺骨が日本人の遺骨ではなく、現地の人たちと思われる外国人の遺骨だったという、重大な問題が明るみとなりました。

抑留者の遺骨が安置されている六角堂と献花台

 日本人抑留者が埋葬された現地の埋葬地は荒れ果てているといわれていますが、一方で同じようにソ連に連行されたドイツ兵の埋葬地は現在も整然としているといわれます。その違いの要因はなんでしょうか。それはソ連がドイツ人抑留者の埋葬地を丁重に管理し、日本人抑留者の埋葬地を軽視したということもあるかもしれませんが、日本政府の抑留問題への関心の薄さを思うと、ドイツ政府がソ連に対し埋葬地の管理を要請したり、みずから進んで管理していたが、日本政府はまったくそういうことをしなかったのかもしれない、両政府の抑留問題への意識の差があらわれているのではないかとも想像してしまいます。

 追悼の集いには厚生労働省や外務省の官僚、駐日モンゴル大使館の参事官、与野党の国会議員も参列していましたが、それぞれの立場を越えてこの問題にあたって欲しいと思います。

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

 北一輝の命日の今日、泰叡山護國院瀧泉寺(目黒不動尊)にある「北一輝先生之墓」、および興国山賢崇寺にある二・二六事件の刑死者の墓「二十二士之墓」を参りしました。

「北一輝先生之墓」 目黒不動尊

 北は昭和12年の今日の午前5時50分、弟子の西田税、元陸軍軍人の磯部浅一、同じく村中孝次とともに、二・二六事件に関連し、渋谷の陸軍刑務所内で銃殺されました。北のお骨は目黒不動尊と賢崇寺の他、北の郷土である佐渡の勝広寺にも安置されているそうです。

 丸山真男に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」といわれた北ですが、他方で北の「支那革命外史」の前半部を読んだ吉野作造は、感銘をうけて北のもとを訪ねたり、GHQが戦後、北の目指したものを「民主主義革命」と見なすなど、北の思想はそう簡単に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」と一刀両断できるようなものではありません。北と共に猶存社の同人でもあった満川亀太郎も「北君はいわゆる社会主義を嫌うが、皇室中心主義も嫌う」と述べています。

 また北は日蓮主義者ともいわれていますが、最近の研究では北を正統な日蓮主義者と位置づけることにも疑問が呈されています。北が熱心に法華経を信仰したのは事実ですが、それは北独自の法華経信仰というべきものであり、北自身はイスラム教やキリスト教など幅広く各宗教に関心を持っており、そもそも国立戒壇など法華経を国教のように位置づける思想も持ち合わせてはいませんでした。

「二十二士之墓」 賢崇寺

 北が亡くなって83年。北は刑死の前日、面会にきた弟子の馬場園義馬が「国体論」や「改造法案」など北の著書を復刊させたいと話した際、「君達はもう一人前に成って居るのだから、あれを全部信ずる必要はない。諸君は諸君自身の魂の上に立って、今後国家の為めに大体ああ云うものを実現する心持ちで努力すれば宜ろしい」と述べていますが、北の思想はこれからもまだまだ研究され、私たち自身が解釈し、再評価そして再批判し、現代に生かしていく必要があるのではないでしょうか。

75年目の8月15日「戦没者を追悼し平和を祈念する日」を迎えて

 昭和20年8月15日正午、ポツダム宣言の受託を国民に告げる終戦の詔書を昭和天皇みずから読み上げる「玉音放送」がラジオから放送されました。

日本の降伏を知り、皇居で跪く人たち

 連合国には既に前日14日、ポツダム宣言を受託する日本の最終的な意思が通知されており、また正式な降伏調印は翌月9月2日に行われ、さらに沖縄や北方地域あるいはアジア各地では8月15日以降も一部で戦闘が継続されましたが、8月15日が先の大戦の一つの大きな節目であることは否定できません。

 この日は現在、戦没者を追悼し平和を祈念する日、終戦記念日とされ、天皇皇后両陛下が御臨席のもと政府主催の全国戦没者追悼式が開催される他、各地で戦争に関連する様々な式典や行事、集会、儀式などが開催されます。

 また「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾は例年8月15日前後、先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れた国内外を問わぬ全ての犠牲者を慰霊追悼し、世界の平和を祈念するため、各種の式典や行事、集会などに出席するなどしています。

 しかし今年は新型コロナ感染症の影響により、例年出席していた式典や行事、集会など開催を取りやめたり、規模を縮小するなどしており、また私たち自身も感染症対策に取り組む必要もあることから、混雑する終戦の日を避け、前日14日、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑、靖国神社、埼玉県護国神社をお参りするとともに、宮城事件の関連の地や尊攘義軍事件関連の地を訪れました。

終戦の日に向けてみたま祭の献灯が行われている埼玉県護国神社 収穫した野菜を奉納した

 宮城事件とは、ポツダム宣言の受託をうけ、陸軍省軍務課畑中少佐らが玉音放送の阻止などを企図したクーデター未遂事件です。畑中少佐らは8月14日夜、近衛師団司令部を訪れ森師団長に決起を促したものの容れられず、ために森師団長を殺害し、近衛歩兵第2連隊芳賀連隊長に決起の偽命令を出すなどして、皇居の一部を占拠しました。宮城事件といわれます。結局、畑中少佐らは玉音盤の押収や要人逮捕なども叶わず、皇居前広場にて自ら命を絶ちました。

旧近衛師団司令部 戦後は東京国立近代美術館工芸館となったが、現在は閉館中とのこと

 尊攘義軍事件とは、ポツダム宣言受託をうけ、尊攘同志会のメンバーが8月15日未明から早朝にかけ(16日とも)、木戸幸一内大臣に切腹を迫るため木戸邸を襲ったものの目的を果たせず、愛宕山に立て篭もった上で、22日に全員爆死した事件をいいます。

旧木戸内府邸 現在は衆議院副議長公邸となっている

 その後、国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催された「第55回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典」(8.14式典)を視聴しました。

 この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」と「平和実現」を誓うものです。

 式典は毎年千鳥ヶ淵で開催され、多くの来賓や信徒、一般参列者が集いますが、今年は新型コロナ感染症対策のため、新宗連青年会のメンバーの代表者などだけが集い、式典・拝礼を行ない、その模様がライブ配信されました。

 今年の式典が感染症対策のため来賓はじめ全ての参列者、何よりこの式典を重要な祈りの場と考えている各宗派の信徒さん方の参列をお断りし、ライブ配信のみに限定していることを知ってか知らずか現地に赴き写真撮影などをしてしまう人がいるかもしれないとも案じましたが、例年式典に参列している国民民主党玉木雄一郎代表がライブ配信で式典を視聴する様子をSNSで発信するなど、多くの心ある人たちが式典会場に赴くことなく、このたびの式典のあり方を理解した上でライブ配信をもって「絶対非戦」と「平和実現」の祈りを共にしました。

昨年の8.14式典の様子

 昨年の終戦の日を迎えるにあたり述べたことと同様ですが、戦後75年を迎え、今や戦後100年が視野に入りつつあります。そうしたなかで靖国神社をめぐる情勢など日本の戦没者慰霊は落ち着きがない状況にあり、そればかりか時の政権は過去の戦争に真摯に向き合う姿勢を欠き、安保関連法はじめ自衛隊の中東派遣など、新たな「戦死者」を生み出し、そればかりか日本の攻撃により海外で新たな「戦死者」「戦争犠牲者」が生まれかねない状況になりつつあります。

 終戦の詔書には「万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」「総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ」「世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ」とあります。昭和25年の神社新報の社説にも「われ等神道人の任務は、この民のために平和を守るべく懸命の力を致すにあると信ずる」「現下の日本人にとつて、最も必要なのは、侵略者に対抗するための軍備を急ぐことでもなければ、武器を携へて海外の義勇軍に身を投ずることでもない」とあります。

 こうした言葉に戦後日本が軍事強国を目指し、隣国を威嚇するような国になることへの希求を見ることはできません。全ての戦争犠牲者に心からの追悼の意を表するとともに、二度と戦争を繰り返さないような平和な日本を実現することが、戦後100年を迎えようとする私たちの「真の慰霊」と信じ、これからも取り組んでいきたいと思います。