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令和3年8月7日 オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)

 明治大学平和教育登戸研究所資料館2021年度帝銀事件関連企画オンライン講演会「帝銀事件と日本の秘密戦 捜査過程で判明した日本軍の実態」(講師:山田朗館長、明治大学文学部教授)を視聴、学習しました。

事件発生直後の帝銀椎名町支店:JAPANアーカイブスより

 陸軍登戸研究所では、「秘密戦」といわれる日本軍の特殊作戦のための兵器開発や諜報謀略などに関する研究がおこなわれていました。具体的には電波兵器やレーダーの開発から偽札製造、風船爆弾の開発、盗聴器などの謀略資材の研究開発、はては毒物や薬物、細菌兵器などの研究開発がおこなわれていました。

 戦後、登戸研究所一帯は紆余曲折を経て明治大学が購入し、研究所跡も様々な経緯によって同大の資料館となり、これまで各種の展示や講演会などがおこなわれてきましたが、現在はコロナの感染状況や緊急事態宣言の発令により直接の見学や資料館内での講演会等が実施できないため、オンラインでの講演会が定期的にされています。

 第1回のオンライン講演会では、登戸研究所資料館展示専門委員の渡辺賢二さんを講師とし、戦後長らく闇に埋もれてしまった登戸研究所に関連する証言や資料の掘り起こしと実態解明について、資料館として結実していくまでの地域の人々や関係者の取り組みについて伺いました。

 第2回は、明治大学平和教育登戸研究所資料館の館長で、明治大学で日本近現代史を専門とされる山田朗さんを講師とし、昭和25年に明治大学が登戸研究所跡地を購入して以降、大学としてどのように登戸研究所の歴史的検証や跡地の活用をしてきたか、平和教育や理化学教育の面から登戸研究所をどう位置づけてきたのかなどを伺いました。

初公判に際して法廷に立つ平沢さん:Wikipedia「帝銀事件」より

 今回は、引き続き山田館長より、戦後まもなくに発生した大事件で冤罪事件としても知られる帝銀事件と日本軍の秘密戦、そこにおける登戸研究所の存在についてお話を伺いました。

 そもそも帝銀事件とは、昭和23年に帝国銀行椎名町支店で発生した強盗事件です。犯人は支店の行員ら16人に「集団赤痢が発生した。予防薬を飲んでもらいたい」などといって毒物を飲ませ12人を殺害、現金と小切手を奪って逃走しました。

 警察は目撃証言に基づく聞き込みなど従来型の捜査に加え、毒物を用いての事件ということもあり、秘密裏に軍関係者への捜査を開始します。犯人は現場で行員らに名刺を渡しますが、帝銀事件の関連事件と思われる事件で利用された名刺に記された人物名を辿ると、南方軍防疫給水部(9420部隊)で現地住民を毒殺した人物であることがわかり、そこを解明していくと731部隊にも行き着くこともあって、警察はこれは怪しいと見て軍関係者への捜査を徹底します。

 そうした警察の捜査は、同時に軍の生物化学兵器開発やその使用という暗部の解明にもつながっていきました。そして捜査の過程で登戸研究所における毒物や生物化学兵器の実態なども解明されていったそうです。

 日本軍の秘密戦や731部隊をはじめとする生物化学兵器開発の実態の解明は、歴史的には相当後に本格化するのであり、戦後まもなくのこの時期に捜査というかたちであっても解明が進んだのは、非常に意義のあることといえます。

 他方、GHQは昭和22年頃から軍関係者について戦犯免責し、対ソ情報を提供させるなど協力関係を築き、取り込んでいきましたが、そうしたこともあってか帝銀事件の捜査が進み警察が軍関係者に接触し始めると、GHQが秘密事項を口外しないよう働きかけたり、軍関係者も同様に組織的に根回しするといった動きもありました。

 事件は画家の平沢貞通さんが逮捕されることで急展開しますが、平沢さんに毒物の知識はなく、平沢さんを取り調べても毒物の入手ルートは解明されず、自白もかなり無理やりにつくられたものであることから、きわめて冤罪の可能性が高いと思われます。警察の捜査陣ですら当初、平沢さんを「シロ」と表現していたほどでした。

 平沢さんは死刑判決をうけ獄中で亡くなってしまいますが、今でも再審請求が続けられ冤罪を晴らすための戦いがおこなわれていますが、山田館長の講演後、再審請求を続けている帝銀事件再審弁護団の渡邉良平弁護士より、「帝銀事件第二十次再審請求の進捗状況報告」として再審請求の現状と展望についての報告を伺いました。

令和3年5月15日 オンライン講演会2「資料館開館にむけての明治大学の取り組み」(明治大学平和教育登戸研究所資料館)