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「表現の不自由展かんさい」会場利用承認取消しをめぐって─不自由展への批判と権力の濫用の容認は別儀である─

 令和元年8月3日、国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019のグループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止が発表され、大きな話題となった。

大阪展フライヤー

 あいトリ問題については、公開中止直後、「国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展『表現の不自由展・その後』の公開中止について」として見解を発表しているので、関心があればそちらを読んでいただきたい。

 それから約2年後の今年6月後半から7月半ばにかけ、「表現の不自由展・その後」とおおよそ同一内容の展示が「表現の不自由展・その後 東京EDITION & 特別展」(東京展)、「私たちの『表現の不自由展・その後』」(名古屋展)、「表現の不自由展かんさい」(大阪展)として開催される予定であった。

 しかし東京展をめぐっては、展示会場となったギャラリー周辺での抗議活動をうけ、ギャラリー側が会場提供を取りやめた。東京展実行委員会は急遽別会場を確保したが、そちらの会場も最終的に会場貸出を拒否したため、開催は現在不透明な状況である。

 また大阪展をめぐっては、会場として利用が承認されていた大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者が、突如として利用承認を取消したため大きな問題となっている。

一方的な利用承認取消しは許されない

 大阪展実行委員会によると、管理者側は大阪展の開催に関し電話やメールの他、街宣車を用いた抗議などがあり、一般利用者や施設の他の入居者、施設南館の保育所の幼児や保護者などの安全確保が困難であるとの理由をあげ、センターの管理上支障がある場合は利用承認を取消すことができるという府立労働センター条例に基づき取消したそうだ。

あいトリ不自由展・その後で展示された平和の少女像:朝日新聞2019.8.3

 しかし実行委員会は、これまで大阪展の警備体制について管理者側や所轄の警察署と何度となく打ち合わせをし、準備をしてきていると述べている。

 それでもなお管理者側にとって管理上の不安や問題があるというのならば、まずは管理者として実行委員会側に警備の強化を依頼するといった相談や打ち合わせがあってしかるべきであろう。そうした懸念解消に向けた努力なく有無をいわせず取消すなど、あまりに一方的だ。

 そもそも実行委員会によると、エル・おおさかで過去に開催された他のイベントでは、大阪展への抗議以上の抗議も見受けられたという。利用承認を取消さねばならないほど差し迫った危険は本当に存在していたのだろうか。

 万一、一定の危険があったとしても、2年前に各国の首脳が一堂に会した大阪サミットの警備を無事に遂行し、警視庁と並び称される“天下の大阪府警”が警備しきれないとは考え難い。警備をする気がなかったのなら話は別であるが。

 事実、あいトリでも様々なトラブルがあったとはいえ、少なくともあいトリの終盤で不自由展・その後の展示は無事に開催されている。そもそも不自由展・その後は、過去にも開催されている。今回、東京展や大阪展と並んで開催される名古屋展も同じく公共施設を利用する予定となっているが、抗議をうけつつも(カウンター的な展示会が同時に開催されるといった問題はあるとしても)現時点ではひとまず開催の見込みとなっている。

 管理者側は取消しにあたり、事前に大阪府に相談し容認を得ていたという。取消し後、吉村洋文大阪府知事も取消しを支持する発言をしている他、取消しには維新系府議が暗躍したともいわれており、こうした状況を勘案すると、取消しは事実上、大阪府・維新が主導した措置とも推測される。

 実行委員会側は今後、処分取消し(管理者側による承認取消しの取消し)を求めて提訴するとともに、取消しの執行停止を求める法的措置もとるそうだ。当然のことである。取消しをしなければならない明確な理由もなく、取消しを避けるための努力もしないまま一方的に取消すなど、管理者の裁量権の濫用であり違法行為である。

不自由展・その後の「その後」を考える

 不自由展・その後の作品の中には、花瑛塾としてもとても受け入れられないものが存在する。抗議や批判も当然あるだろう。暴力行為や住宅街での大音量での抗議など法律や社会常識を踏み外すものでない以上、そうした抗議や批判もまた認められるべきだ。

 もちろん脅迫や犯罪を構成するような抗議に対しては、法的措置や警察力による対応など毅然とした対応が必要である。他方、書面による申し入れや落ち着いた状況での面談形式での申し入れなど相応の抗議に対しては、主催者側も一切相手にしないという姿勢ではなく、やはり一定の条件の下でそれ相応の対応も必要となってくるだろう。

 ここまで事態がこじれると、主催者側も作品に関する丁寧な解説をしたり、あえて抗議者に作品を鑑賞してもらった上での対応や説得、質疑応答といったことも、あるいは必要なのかもしれない。そうした対応を重ねることで、東京展の開催実現も見えてくるのかもしれない(抗議者や批判者がただ脅迫や妨害を目的としていなければだが)。

 ともあれ、そのような不自由展・その後への批判や批判に関する市民的解決の模索と、公権力が市民による公共施設の利用を恣意的に規制するという違法行為や権力の濫用を容認するのは、全く別の話である。公権力が気に入るものや都合のよいものは、法とは別の論理で保護され、公権力が気に入らないものや都合の悪いものは、法とは別の論理で恣意的に規制される。これでは全くの暗黒社会だ。

 不自由展・その後の展示に感心はしない。不自由展・その後が開催できなくなった社会の「その後」を考える必要があるといっているのである。不自由展・その後がやられて喜んでいれば、「その後」にやられるのは自分たちだ。不自由展・その後への批判と権力の濫用を容認することは別儀である。危機感を抱いた方がよい。

国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について