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国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について

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 愛知県の大村秀章知事は3日、名古屋市において開催中の国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019のグループ展「表現の不自由展・その後」の公開を同日限りで中止すると発表した。

 「表現の不自由展・その後」は、これまで検閲や忖度などの理由で公開や展示が実現できなかったり、途中で展示内容の改変や公開中止を余儀なくされた芸術作品を展示するものであり、展示作品の中にはいわゆる「慰安婦像」を模したと思われる「平和の少女像」や、富山県立近代美術館で問題となった「天皇コラージュ事件」をモチーフとした昭和天皇の肖像をガスバーナーで焼却する映像作品、そして焼却した昭和天皇の肖像などが含まれていた。

 こうした展示内容は各方面の反発を招き、公開直後より名古屋市の河村たかし市長が「少女像」の展示中止を求めたり、殺到する抗議の電話への対応で職員が忙殺されるといった事態が発生した。また報道によると「ガソリン携行缶をもってお邪魔する」といったFAXが送り付けられたとの主催者側の発表もあったようだ。こうしたことから芸術監督を務める津田大介氏と実行委員会の会長である大村知事の判断により、公開中止に至った。

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 河村市長による展示作品の撤去要請は憲法が禁じる公権力による「検閲」であり、憲法が保障する表現の自由を侵害するものである。菅義偉官房長官もあいちトリエンナーレ2019への補助金の交付を見直すと発言したと報じられているが、これもまた憲法上重大な問題発言である。

「少女像」と津田芸術監督:時事通信

 それとともに同展への脅迫が事実とするならば、それは絶対に許されるものではない。特に「ガソリン携行缶をもってお邪魔する」などの文言が記されたFAXを送りつけるといった、先日の京都アニメーションにおける凄惨な放火事件を連想させるような脅迫は卑劣かつ悪質であり、捜査機関による厳重な対応が求められている。

 津田氏によると、警察はこのFAXについて「発信元を特定できない」などと説明しているとのことだが、FAXの発信元が特定できないような捜査力しかないのが日本警察の実態ならば、日本の治安は危機的状況といわざるをえない。

 公権力が表現の自由に踏み込み、その内容の改変や公開中止を求める行為は憲法が禁じる「検閲」であるが、警察が本来有している警察力を行使せず表現の自由への暴力的な妨害を放置し、これを間接的に中止に追い込むことも、事実上の「検閲」である。

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 一方で花瑛塾として、同展の展示内容について強い違和感と不快感を覚えたことも事実である。

 「少女像」が模したと思われるいわゆる「慰安婦像」は、戦時性暴力の問題を訴える作品である。主催者側は「『慰安婦像』ではない」と説明しているようだが、そう強弁する方が不誠実であろう。その上で、日本国内には「慰安婦」問題への様々な立場や見解があり、そうした背景の中で「表現の不自由展・その後」に「慰安婦像」を模したと思われる「少女像」を展示することは、戦時性暴力の問題とこれに関する国内の政治的状況や歴史認識の複雑さを表現する一定の芸術性を認めることができる。

 しかしながら、「少女像」とともに展示されている昭和天皇の肖像をガスバーナーで焼却する映像作品は、激しい暴力性が直截に表現されており、芸術的表現として受け止めることはできず、芸術作品として強い違和感と不快感を覚えた。昭和天皇の肖像をガスバーナーで焼却する映像にどのような芸術性があり、何を訴えたいのか理解に苦しむ。「表現の不自由展・その後」というグループ展の趣旨に合致するのかも疑問である。

 この作品は富山県立近代美術館が大浦信行氏の「遠近を抱えて」という作品の図録を焼却した事件、いわゆる「天皇コラージュ事件」をモチーフにしたものといわれている。一方で、ウェブ上で公開されている作品の解説にもあるように、昭和天皇の肖像が戦争の記憶と結びつく映像のなかで焼却される様子は、明らかに「天皇コラージュ事件」をモチーフとした表現を越え、暴力的なメッセージ性を感じざるをえない。

 表現の自由は尊重されるべきであるが、表現者は自身の表現によって他者の心を傷つけることも考慮し、傷つけられた人の声に耳を傾ける必要もあるはずだ。人々は公権力から表現の自由を絶対に守るべきだが、そうして守られた表現の自由を人々の間で調整する必要もある。そのためにもまず、表現者は自身の作品に寄せられた声に耳を傾けることが求められる。

 昭和天皇の肖像をガスバーナーで焼却する内容の映像作品を展示することの意義と妥当性について、主催者側としてあらためて検討し、広く説明をするべきではないだろうか。

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 このたびの同展の公開中止は、主催者側としては国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019の全体の成功と、市民および職員の安全を考慮した上での苦渋の決断であったことは容易に推測される。責められるべきは公開を中止した主催者側ではなく、展示内容の改変や公開中止を求めた公権力による圧力であり、また卑劣な脅迫犯であることはいうまでもない。

 一方で、いたいけな「少女像」の顔を見れば、何としてでも同展を最後まで公開することはできなかったものだろうか、そして主催者による公開の努力に対し、警察など公権力が安全確保をはじめとして全力を尽くしてサポートすることはできなかったのだろうかと思う。「少女像」が政治と暴力によって辱められ、人権を蹂躙された女性を表現するものというのならば、何としてでもこの展示で「少女像」を政治と暴力から守ることはできなかったのだろうか。

 この問題を一過性のニュースとして消費せず、皆でしっかりと検討し総括していく必要があるだろう。以上、そのための一つの論点として問題を提起する。

追記(8月5日)

 8月3日夜、「表現の不自由展・その後」実行委員会が記者会見するとともに、実行委員会のアライ=ヒロユキ、岩崎貞明、岡本有佳、小倉利丸、永田浩三の各氏の連名で「『表現の不自由展・その後』の一方的中止に抗議する」との声明が出された。

実行委員会による声明文

 声明には大村知事と津田監督が実行委員会に相談することなく、一方的に同展の中止を決定し通告してきたとあり、大村・津田両氏の中止決定について「主催者が自ら弾圧」「契約書の趣旨にも反する」などと強い抗議が記されている。

 そもそも「表現の不自由展」を鑑賞した津田氏があいちトリエンナーレ2019への出展を実行委員会の各氏に呼びかけたようだが、そうして開催された同展をわずか3日で津田氏により一方的に中止されたとすれば、実行委員会の各氏の憤懣は当然である。

 もちろん圧力や脅迫は許されざるものであり、それらが同展を中止に追い込んだことはいうまでもない。まず第一に非難されるべきは、政治的な圧力と卑劣な脅迫である。

 しかし大村・津田両氏が独裁的に一方的に中止を決定したことが事実ならば、まさしく表現の自由を「主催者が自ら弾圧」したのであり、芸術への挑戦である。何より「少女像」「慰安婦像」が表現する女性の尊厳を大村・津田両氏が踏みにじったことになるのではないだろうか。

 事態の推移を注視したい。