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令和3年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参

 北一輝の命日の今日、泰叡山護國院瀧泉寺(目黒不動尊)にある「北一輝先生之墓」、および興国山賢崇寺にある二・二六事件の刑死者の墓「二十二士之墓」を参りしました。

「北一輝先生之墓」 北とともに妻のすず子、子の大輝が眠っている

 北は昭和12年の今日、今から84年前の今日午前5時50分、二・二六事件の「首魁」とされ、弟子の西田税、元陸軍軍人の磯部浅一、同じく村中孝次とともに渋谷の陸軍刑務所内で銃殺されました。北の遺体は妻すず子らが引き取り、その日のうちに火葬され、その後に近親者や友人門下生らによる葬儀を経て、遺骨は目黒不動尊と賢崇寺の他、北の郷土である佐渡の勝広寺に安置されたといわれています。

 二・二六事件の「首魁」といっても、北が「首魁」といえるようなかたちで事件を計画し、組織し、実行した事実はありません。北が事件に無関係とまではいえませんが、「首魁」というようなことはありえず、事件は明らかに冤罪でした。それは北を裁いた軍法会議の裁判長も理解していたほどですが、それでも陸軍上層部の意向に基づき処刑されました。

 そんなこともあり、北は戦前の国家主義思想の巨頭のように理解され、後に丸山真男に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」とまで評されますが、他方で北の「支那革命外史」の前半部を読んだ吉野作造が感銘をうけて北のもとを訪ねたり、GHQが戦後、北の目指したものを「民主主義革命」と見なすなど、北の思想はそう簡単に「日本ファシズム(ファシスト)の教祖」と一刀両断できるようなものではありません。北と共に猶存社の同人でもあった満川亀太郎も「北君はいわゆる社会主義を嫌うが、皇室中心主義も嫌う」と述べています。

「二十二士之墓」 青年将校らとともに北、西田が眠っている

 また北は日蓮主義者ともいわれていますが、最近の研究では北を正統な日蓮主義者と位置づけることにも疑問が呈されています。北が熱心に法華経を信仰したのは事実であり、子の大輝宛の遺品は遺言を添えた法華経であったほどでしたが、そうした北の法華経信仰は北独自の信仰というべきものであり、北自身はイスラム教やキリスト教など幅広く各宗教に関心を持っており、そもそも国立戒壇など法華経を国教のように位置づける思想も持ち合わせてはいませんでした。

 北が亡くなって84年。北は刑死の前日、面会にきた弟子の馬場園義馬が「国体論」や「改造法案」など北の著書を復刊させたいと話した際、「君達はもう一人前に成って居るのだから、あれを全部信ずる必要はない。諸君は諸君自身の魂の上に立って、今後国家の為めに大体ああ云うものを実現する心持ちで努力すれば宜ろしい」と述べていますが、北の思想はこれからもまだまだ研究され、私たち自身が解釈し、再評価そして再批判し、現代に生かしていく必要があるのではないでしょうか。

令和3年2月25日 二・二六事件85年 事件刑死者・犠牲者慰霊

令和2年8月19日 「北一輝先生之墓」「二十二士之墓」墓参