国立千鳥ヶ淵戦没者墓苑で開催されたシベリア・モンゴル抑留犠牲者追悼の集いに参列し、黙祷献花しました。
75年前のこの日、旧ソ連の指導者であるスターリンの秘密指令により、旧満州などにいた日本兵らがソ連国内に移送された上で抑留され、シベリアやモンゴル、遠くはウクライナ、ベラルーシ、バルト三国などソ連勢力圏内各地で過酷な労働を強いられました。また抑留者は兵士、男性だけではなく、満蒙開拓で現地にいて、軍の看護業務などについていた女性たちも抑留されたといわれています。
強制抑留・強制労働された日本兵らは約57万5000人もの人数におよび、抑留は最長で10年以上にもおよび、約5万5000人もの人が犠牲となりました。無事抑留から解放され日本に引き揚げた人たちも、強制労働と寒さ、飢えという過酷な生活による肉体的な疲弊、ソ連側がつくりあげた抑留者同士での相互監視や相互密告、つるし上げなどによる精神的な荒廃に悩まされた上、「シベリア帰り」として白い眼で見られ、就職差別をされることもあったようです。
こうした抑留経験者・引揚者に対し、日本政府は十分な支援や補償をしてきませんでしたが、10年前にシベリア特措法が成立し、抑留者への特別給付の実施や抑留の全容解明などが政府に求められました。しかし今にいたるまで抑留の経緯の解明は進んでおらず、遺骨の収容なども停滞しています。これまで約2万2000人分の遺骨が収容されたとはいえ、いまだに多くの遺骨が彼の地に眠っています。
そればかりか昨年には、遺骨収容作業で抑留者の遺骨として持ち帰った遺骨が日本人の遺骨ではなく、現地の人たちと思われる外国人の遺骨だったという、重大な問題が明るみとなりました。
日本人抑留者が埋葬された現地の埋葬地は荒れ果てているといわれていますが、一方で同じようにソ連に連行されたドイツ兵の埋葬地は現在も整然としているといわれます。その違いの要因はなんでしょうか。それはソ連がドイツ人抑留者の埋葬地を丁重に管理し、日本人抑留者の埋葬地を軽視したということもあるかもしれませんが、日本政府の抑留問題への関心の薄さを思うと、ドイツ政府がソ連に対し埋葬地の管理を要請したり、みずから進んで管理していたが、日本政府はまったくそういうことをしなかったのかもしれない、両政府の抑留問題への意識の差があらわれているのではないかとも想像してしまいます。
追悼の集いには厚生労働省や外務省の官僚、駐日モンゴル大使館の参事官、与野党の国会議員も参列していましたが、それぞれの立場を越えてこの問題にあたって欲しいと思います。