「神苑の決意」第29号発行

 「神苑の決意」第29号、発行しました。読者の皆様のお手許には、近日中に届くと思います。

 今号巻頭言では、2月24日に投開票が行われた辺野古埋め立ての是非を問う沖縄県民投票で示された圧倒的な民意をうけ、「新基地建設は不可能だ」「日米両政府は沖縄の民意を尊重しなければならない」と訴えています。

 沖縄人民党瀬長亀次郎は「民衆の憎しみに包囲された軍事基地の価値はゼロに等しい」と述べましたが、まさしく県民の圧倒的民意に包囲され、さらにその様子が世界に示されようとしているなかで、新基地建設を強行するなど絶対に不可能です。また、そのようなかたちで建設された基地を提供されることについて、米国もためらわざるを得ないでしょう。

 本号各記事の見出しや購読方法など、詳細については当サイト「神苑の決意」もしくは花瑛塾ONLINE STOREよりご確認下さい。

 また「神苑の決意」は、ミニコミ誌を扱う「模索舎」(東京都新宿区)にも納品しております。最新号も納品済みです。バックナンバーなども置いていただいておりますので、そちらからもご購読下さい。

平成31年2月22日 いわゆる「竹島の日」に関する要請行動

 花瑛塾はいわゆる「竹島の日」の今日、一昨年・昨年に引き続き駐日韓国大使館(東京都港区)前にて、むき出しの植民地主義や差別・蔑視とは異なる対朝鮮・韓国観を有した戦前の神道家などの思想を紹介し、日韓の信頼醸成と対話を求める要請行動を展開しました。

駐日韓国大使館前

 明治38年(1905)1月28日、日本政府は竹島の島根県編入を閣議決定し、翌月22日、島根県は竹島の編入を告示しました。島根県はこれを理由に2月22日を「竹島の日」と定めています。

 日本による竹島編入は、日露戦争などによる当時の日本側の軍事的要請に基づく面もあり、さらに韓国にとって竹島は鬱陵島の属島と認識され、当時の日本の韓国統治・併合と重なり合う繊細な問題であり、そのことについては日本側も自覚し配慮する必要があります。

 戦後、アメリカは竹島の日本帰属を認めつつ、他方で李承晩による官憲を用いた竹島の占拠を事実上容認しました。さらに日本によるアメリカなど西側諸国を主とした「片面講和」は、韓国との国交正常化をもたらすものではなく、日韓の国交が正常化した日韓基本条約も竹島については曖昧な表現をしています。私たち日本人は、他国の歴史認識を責める前に、まずは自国の歴史を振り返り、問題が拗れた原因を探るべきです。

 もちろん花瑛塾は日本が竹島の領有権を主張する国際法上・歴史上の根拠は明白であると考えます。竹島が日本領である歴史的根拠は複数あり、竹島が日本領であることに間違いはありません。

 しかし、それを叫び続けるのみで事態が解決しないこともまた明瞭です。韓国海軍による火器管制レーダー照射問題や徴用工問題などをうけて、日本では韓国への敵視・蔑視が強まっていますが、それは日本の未来と日韓の平和、ひいては東アジアの繁栄を危うくする危険な主張です。花瑛塾による戦前の神道家や国士の非侵略的・反差別的な対朝鮮・韓国観の回顧と紹介が、日韓の信頼醸成と対話の進展の一助になることを祈念します。

平成31年2月18日[戦争遺跡見学]旧陸軍騎兵旅団司令部・連隊兵舎跡(千葉・習志野、船橋)

 京成大久保駅付近(千葉県習志野市・船橋市)にあった旧帝国陸軍騎兵第1旅団および第2旅団の司令部や同旅団隷下連隊の兵舎跡などを見学しました。

栗林中将が揮毫した石碑

 帝国陸軍騎兵旅団は日露戦争で活躍した秋山好古大将が旅団長をつとめ、奉天会戦などで活躍しました。また昭和20年(1945)2月19日に米軍が上陸して始まる硫黄島の戦いで指揮をとった栗林忠道中将も旅団長を務めました。そのためか旅団司令部跡に隣接する神社には栗林中将が揮毫した石碑などが残っています。

 習志野は明治以降、これら騎兵旅団などの軍事施設が多数置かれ「軍郷」として発展しましたが、その裏面には習志野学校など毒ガス戦の研究と訓練の施設が置かれたり、関東大震災時には朝鮮・中国人の虐殺と関連する外国人収容所が置かれたという歴史もあります。

騎兵第13連隊発祥の地の石碑(左)と司馬遼太郎の石碑(右)

平成31年2月13日 旧米陸軍朝霞キャンプ「キャンプ・ドレイク」返還地見学

 旧米陸軍朝霞キャンプ「キャンプ・ドレイク」返還地(東京都練馬区、埼玉県朝霞市・同和光市・同新座市)を見学しました。

 同地には戦時中、陸軍被服支廠がありましたが、終戦と占領により米軍に接収され、朝鮮戦争やベトナム戦争において、米国の戦略上重要な役割を果たしました。例えば朝鮮戦争において、米陸軍はまず横浜に上陸し、キャンプ・ドレイクで配属などの手続きを行い、そこから長崎のキャンプ・マウアーを経て戦線に送られたといわれています(青木深「日本『本土』における米軍基地の分布と変遷─占領期からベトナム戦争終結まで」)。

キャンプ・ドレイク返還地にある米国製の消火栓

 現在、キャンプ・ドレイクは全面的に返還され、市民の競技場や公園、文教施設などになっており、米軍基地を思わせるようなものはありません。しかし返還地をよく見ると、米国製の消火栓や英語らしき文字が見える何らかの遺構が確認できます。また周辺には「コンバット」の文字が見える飲食店跡があるなど、返還地やその周辺にはわずかに「アメリカ」が残っています。

「コンバット」の文字が残る飲食店跡

平成31年2月11日 紀元祭・神武天皇御陵遥拝式参列

 紀元節のこの日、紀元祭・神武天皇御陵遥拝式に参列しました。

社殿での紀元祭に続いて斎行された神武天皇御陵遥拝式

 紀元節とは、明治初期から終戦直後までの祝祭日であり、神武天皇即位を祝うものです。『日本書紀』には神武天皇即位について「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治6年の太政官布告によって2月11日が神武天皇即位の日「紀元節」とされましたが、終戦後の昭和23年、GHQの意向もあり「国民の祝日に関する法律」の制定によって廃止されました。

 ところが昭和41年、2月11日が「建国記念の日」として祝日となり、「建国をしのぶ日」とされました。しかし紀元節は神武天皇即位の日であっても、日本建国の日とすることは難しいのではないでしょうか。つまり日本の建国はあくまでも瓊々杵尊の天孫降臨によるものであり、それは神武天皇即位以前のはるか遠い昔の出来事であるはずです。あえていうならば神武天皇即位とは「建国中興」であり、紀元節の佳き日に神武天皇即位のお祝いを通じて、天孫降臨による日本の建国と、神武天皇即位による建国中興の大業をしのぶという意味での「建国記念の日」と認識し直す必要があるのではないでしょうか。

 実際、紀元節制定に尽力した大国隆正や玉松操あるいは岩倉具視といった幕末・維新期の国学者や神道家、政治家も紀元節を建国の日とはしておらず、そのことは『日本書紀』以降の古代の文献や北畠親房らの中世の思想書・歴史書などにもあきらかです。

 他方、歴史学の立場からは、神武天皇即位紀元は讖緯説に基づくものであり、推古天皇9年辛酉正月朔日から辛酉革命の起きる1260年ほど前倒しして設定されたともいわれております。そうすると推古天皇9年辛酉自体が聖徳太子など当時の人々にとって革命の年と考えられていたともいえるのであり、実際に十七条憲法の制定や隋との外交関係の確立など、推古天皇9年辛酉の年とその前後は国家の大変革の時期でもありました。

 天孫降臨による日本建国、神武天皇即位による建国中興、そして推古天皇9年辛酉という国家大変革という建国とその中興に関する様々な歴史と事情を学び、私たちはこれからの建国中興と大変革へ歴史をつむいでいくべきではないでしょうか。

平成31年2月7日 「北方領土の日」に関する街頭行動

「北方領土の日」にあたって

 本日2月7日は政府が定める「北方領土の日」です。花瑛塾行動隊は首相官邸・外務省・自民党本部・ロシア大使館・アメリカ大使館など各所で北方領土問題に関する街頭行動を展開しました。

「北方領土の日」根室管内住民大会で着用を見合わすことになった「島を返せ」のタスキを着用

 政府・自民党はこれまで、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の北方四島の返還を旧ソ連・ロシアに要求してきましたが、安倍政権は、これまでの北方四島の返還要求をうやむやにし、色丹島・歯舞諸島の二島返還要求に切り替えようとしています。

 戦後70年以上、北方領土問題がまったく進展しなかったことを振り返れば、これまでの交渉のあり方を見直し、新たなアプローチで交渉をやり直すことは、けして悪いことではありません。しかし、そうであれば、これまでの四島返還論とは一体何だったのか、なぜうまくいかなかったのか、真剣な総括が必要です。

 また今年の「北方領土の日」根室管内住民大会では、「島を返せ」のタスキの着用が見送られたそうです。外務大臣ですらも北方四島が日本固有の領土であり、旧ソ連・ロシアにより不法に占拠されているとの認識を示すことに消極的です。今後、国後島・択捉島の二島の返還はどうするつもりなのか、わが国にとって北方領土の位置づけとは何なのか、国民への明確な説明が必要なのではないでしょうか。

「外交の安倍」が功に焦ったか

 そもそも、ロシアの主張を聞く限り、ロシアは北方領土の不法占拠を認めず、戦争の結果、正当に得た領土かのような主張をしています。また二島返還といっても、色丹島・歯舞諸島の主権が返還されるかも不透明であり、日本にとって利のある北方領土交渉なのか、大いに疑問です。

外務省前

 これまで安倍首相とプーチン大統領の日ロ首脳会談は25回行われてきましたが、結果的にプーチン大統領は、日本側の主張と大きく異なる日ソ共同宣言に基づく二島返還による平和条約締結を提案してきました。このプーチン大統領の提案に安易にのってしまったのが安倍首相です。

 安倍首相は自分のことを「外交の安倍」などといって得意になっているようですが、第二次安倍政権の6年間で目立った外交的成果はあがっていません。日ロ首脳会談も何度も開催され、安倍首相はプーチン大統領を「ウラジミール」などと呼び、多額の経済的援助をしてきたが、領土問題に関し何らの進展もありませんでした。こうした状況下、安倍首相が「点数かせぎ」のために功を焦って二島返還に舵をきったとすれば、日本とロシアの将来、なかでも北方領土元島民や現在北方領土に住んでいるロシアの人々に、大きな禍根を残すことになります。

 もちろん日ロ首脳同士が親密であることを否定するわけではありません。また日ロの平和と友好は大事であり、経済協力も重要でしょう。特に北方地域に責任を持つ国家として、先住民族や北方領土元島民の権利擁護や支援、水産資源の維持や環境保護などは両国が協力し積極的にやっていく必要があります。けれども領土交渉は領土交渉であり、あくまで歴史と国際法に根拠をもった原則的な領土交渉こそ、ロシアの不当性を明瞭にするのであり、そこにおいて交渉が成立するのではないでしょうか。

 安倍首相はこれまでの対ロ外交を根本的に見直す必要があります。

旧ソ連の対日参戦とアメリカの教唆

 昭和20年(1945)8月9日、旧ソ連はわが国との中立条約の有効期間内にも関わらず対日参戦し、満州・朝鮮・南樺太・千島列島を攻撃、占拠しました。爾来、70年以上の長きに渡り、不法に占拠されています。旧ソ連の対日参戦が国際法違反の侵略行為であることは明白であり、さらに戦闘において旧ソ連が行った殺人・強盗・放火・略奪など数々の蛮行は許しがたく、私たち花瑛塾はこれを厳しく糾弾します。

 一方で、ソ連の対日参戦の背景には、アメリカによる教唆が存在することは見過ごせません。

 第二次世界大戦中のヤルタ会談において、アメリカ大統領ルーズベルトは、ソ連書記長スターリンに対日参戦を促し、その見返りとして日本領であった千島列島と南樺太の領有を認めました。さらにアメリカは、ソ連軍に対し、北方領土上陸作戦に必要な上陸用舟艇や掃海艇などの軍艦145隻を貸与し、アラスカにて、ソ連軍将校と兵士1万2千人に訓練を施していたことが明るみとなっています。

 ソ連による対日参戦と領土侵略は許されませんが、それを唆したアメリカも同罪であり、戦後の日本外交がソ連の領土侵略への反感をもとに、反ソ連・対米協調路線に極端に舵を切ったことは、まさしく錯乱・矛盾の極みといわざるをえません。

アメリカ大使館前

戦後の対ソ・対ロ領土交渉の問題点

 わが国は戦後、旧ソ連と領土返還・国交回復交渉を行い、昭和31年(1956)の日ソ共同宣言を締結しました。これにより日ソ国交は回復し、わが国は国際社会へ復帰しました。その上で領土交渉が進む予定でしたが、難航し現在に至ります。

 領土交渉におけるわが国の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の四島は、北海道の一部であるから返還せよという主張ですが、色丹島・歯舞諸島は北海道の一部だとしても、国後島・択捉島は千島列島の一部であり、二島についてわが国はサンフランシスコ条約で主権を放棄しています。このようなわが国の主張は不当であり、その意味においてロシア・旧ソ連の反発も無理はないといえます。

ロシア大使館前

 いま、わが国とロシアとの間で確認すべきことは、以下、大きく四つあります。

 第一に、旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これによる領土占拠の無効を確認すること。

 第二に、旧ソ連の対日参戦は第二次世界大戦の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効を確認すること。

 第三に、過去のわが国の不当な領土の主張の撤回。

 第四に、旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、日ソ・日ロ領土交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、わが国と日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ領土交渉へのアメリカの妨害の排除を確認すること。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状況、すなわち昭和20年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、74年という歴史の重みを踏まえ、そこにおいて新たに築かれた人々の暮らしや文化を理解し、現在の北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土交渉のあり方を模索する必要があるのではないでしょうか。

日ロ新外交の確立と展開を

 江戸幕府と帝政ロシアの日露和親条約以来、樺太・千島交換条約、ポーツマス条約と国際法にのっとり国境線は幾度も変更されました。日ロともに、国境線の変更をためらう理由はありません。特に日露和親条約における樺太島雑居地化などは、わが国とロシアの先人の偉大な知恵といえます。こうした先人の知恵に学び、過去の経緯に執拗に拘らず、大胆な領土交渉をしていくべきではないでしょうか。

 同時に、領土交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携すべき点は多々あるはずです。

花瑛塾メンバーは過去、ロシア・旧ソ連により不法に占拠されている南樺太(サハリン)で行われた日本人犠牲者慰霊祭を祭員として奉仕している

 これまでの北方領土交渉の問題点を真剣に総括した上で、原則的かつ柔軟な日ロ新外交の確立と展開を訴えます。

KAEI SEMINAR「沖縄はうちなんちゅのもの─本土からやまとんちゅが出来ること─」開催しました

 2月1日、3回目の KAEI SEMINAR を開催しました。

 今回の講師は当塾仲村之菊、テーマは「沖縄はうちなんちゅのもの─本土からやまとんちゅが出来ること─」でした。

 講師は、これまで約2年半に渡り沖縄で活動を続け、多くの沖縄の人々と交流してきました。そのなかで講師が沖縄の人々から伺った基地や暮らし、政治や本土への思いなど、沖縄の人々の多様で複雑ながら率直な声の紹介がありました。

 また講師が沖縄で活動するにあたり、自分自身が沖縄に対立と分断を呼び込み、持ち込む存在とならないよう気をつけていることなどを伺った他、沖縄の人々が基地をめぐって賛成派・反対派などと別れさせられ、対立させられている現状への憂慮などを伺いました。

平成31年1月28日 花瑛塾第17次沖縄派遣団④(「魂魄の塔」慰霊参拝)

 花瑛塾第17次沖縄派遣団は28日、沖縄戦犠牲者慰霊碑「魂魄の塔」(糸満市米須)訪れました。

 米須一帯は沖縄戦の激戦地の一つでもあり、戦後も多くの犠牲者の遺骨が放置されていました。米須には、米軍の命令で真和志村の人々が移住していましたが、真和志村民がこれら犠牲者の遺骨を日米・軍民の別なく収骨し、納骨した自然窟が「魂魄の塔」の原型です。

 納骨した遺骨の数は3万5千体ともいわれ、遺骨は山になったそうです。そのため石垣を組んで現在の形になりました。なお当時、遺骨の収骨・納骨作業の先頭に立ったのは翁長雄志前沖縄県知事の父である翁長助静(じょせい)氏といわれ、「魂魄の塔」には助静氏の歌碑も建立されています。

 現在は「魂魄の塔」に納骨された遺骨は、戦没者中央納骨所(那覇市)を経て国立戦没者墓苑(糸満市摩文仁)へ納骨されていますが、「対馬丸」事件の遺族らが「魂魄の塔」内にまだ事件犠牲者の遺骨がある可能性を指摘するなど、沖縄戦の傷跡はいまだ生々しく残っています。

平成31年1月27日 花瑛塾第17次沖縄派遣団③(伊波リンダさん)

 花瑛塾第17次沖縄派遣団は27日、沖縄の写真家である伊波リンダさんとお会いし、写真を通して見た沖縄の魅力などをお聞きしました。

伊波リンダさん(左)と

 伊波さんは同じく沖縄の写真家である東松照明に師事し、これまで「どこでもない場所」「I am」「Design of Okinawa」などの写真展(個展)を開催しています。

 また前日の農作業・畜産業の1日体験に続き、台風により赤土が流出してしまった小川の復旧作業を行いました。この小川は川底まで普段はかなりの深さがありますが、流出した赤土が沈殿し数センチほどの水深となってしまいました。

平成31年1月26日 花瑛塾第17次沖縄派遣団②(農業・畜産業体験)

 花瑛塾第17次沖縄派遣団は26日、やんばる(沖縄島北部)の農家のご好意により、島ラッキョウなどの畑作業やヒ―ジャー(山羊)の飼育など、農業・畜産業の1日体験をしました。

 沖縄では農業や畜産業が盛んですが、特にやんばるでは農業はパインアップルやマンゴー、あるいは菊の栽培が行われ、畜産業ではアグー豚などの豚や牛、鶏、そしてヒ―ジャー(山羊)の牧畜が行われています。

 しかし他の都道府県同様、少子高齢化による後継者不足や海外産品の輸入により、沖縄の農業・畜産業を取り巻く環境は年々厳しさを増しています。今回、やんばるの農業・畜産業を1日体験し、第一次産業のすばらしさに触れながら、自然や生き物を相手にする大変さや苦労を実体験しました。

 なお、ヒ―ジャーの牧畜は本土では比較的珍しいかもしれませんが、沖縄では15世紀には大陸からヒ―ジャーが伝わり(現在の種とは異なる)、現在に至るまで沖縄各地で大事に育てられています。