花瑛塾第14次沖縄派遣団①(平敷兼七ギャラリー)

 花瑛塾第14次沖縄派遣団は17日、平敷兼七ギャラリー(浦添市)を訪れました。同ギャラリーでは現在、戦後沖縄を代表する写真家・平敷兼七『山羊の肺』が最近復刻されたことから、「平敷兼七写真集『山羊の肺』復刻記念写真展」が開催されており、鑑賞しました。

 なかでも『山羊の肺』を構成する「職業婦人たち」シリーズは、非常に考えさせられるものがあります。「職業婦人たち」は、職業婦人つまり米兵相手に売春をせざるを得なかった女性たちを対象としたものであり、沖縄の復興が進むにつれて「恥部」として排除されていった彼女たちのあるがままの姿が写し出されています。

 沖縄戦によりあらゆるものが文字どおり「消滅」した戦後沖縄は、経済的に米軍に依存せざるをえず、基地依存型経済を強制させられました。そこには米兵相手の売春業が存在しており、彼女たちこそ「娼婦経済」として沖縄経済を支えたのであり、たばこ一つとっても米兵から彼女たちを通じて沖縄の人々の手に渡ったのだと、沖縄のジャーナリストで「琉球新報」社長も務めた池宮城秀意、あるいは沖縄の悲哀を訴えて勾留された富村順一などが記しています。

 一方で米軍は、基地負担軽減を訴える沖縄の人々の主張や運動を弾圧するため、しばしばこうした沖縄の基地依存型経済を「利用」しました。例えば50年代の「プライス勧告反対」「土地を守る4原則貫徹」を訴える島ぐるみ闘争においては、米軍は基地周辺の歓楽街への米兵の「オフ・リミッツ」(立入禁止)を発動し、歓楽街で米兵相手に商売をしている沖縄の人々を闘争から脱落させ、「島ぐるみ」を分断していったのでした。

 『山羊の肺』についての解説に「山羊は沖縄の生き写し。やさしくおとなしいが、最後は殺され食べられてしまう。『山羊の肺』は沖縄の歴史と文化の象徴のようだ」といった言葉がありましたが、沖縄の経済を支えた「職業婦人」たちが排除されていく歴史、また「職業婦人」のような基地依存型経済が米軍の巨大な力によって翻弄され、米軍の都合のいいように利用されていった現実は、まさしく「山羊の肺」として平敷が写し出した戦後沖縄の姿といえます。

18日放送予定 ETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」

 今月18日土曜日午後11時より、EテレにてETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」が放送予定とのこと。法制時、「濫用のおそれはない」「伝家の宝刀である」といわれた治安維持法だが、実際には恣意的運用・拡大解釈がおこなわれ、多くの人が取締りにあった。18日の放送では、実際に同法により勾留された人物のインタビューなどが行われ、治安維持法の実態が明るみになるものと思う。

 治安維持法については既に多くの研究がなされ、奥平康弘『治安維持法小史』(岩波現代文庫)など入手しやすい書籍もあるが、ここでは昨年成立した「共謀罪」との関連で治安維持法を論じた内田博文『治安維持法と共謀罪』(岩波新書)第1章「拡大し続ける規制」を参照し、治安維持法について簡単に確認したい。

 そもそも治安維持法とは、加藤高明内閣が第50帝国議会に緊急上程した結社規制法で、大正14年(1925)に成立したが、終戦によるいわゆる「ポツダム勅令」によって廃止された。条文は以下のとおりである。

第1条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的卜テシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

前項ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス

第2条 前条第1項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ニ関シ協議ヲ為シタル者ハ7年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第3条 第1条第1項ノ目的ヲ以テ其ノ目的タル事項ノ実行ヲ煽動シタル者ハ7年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第4条 第1条第1項ノ目的ヲ以テ騒擾、暴行其ノ他生命、身体又ハ財産ニ害ヲ加フヘキ犯罪ヲ煽動シタル者ハ10年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス

第5条 第1条第1項及前3条ノ罪ヲ犯サシムルコトヲ目的トシテ金品其ノ他ノ財産上ノ利益ヲ供与シ又ハ其ノ申込若ハ約束ヲ為シタル者ハ5年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス情ヲ知リテ供与ヲ受ケ又ハ其ノ要求若ハ約束ヲ為シタル者亦同シ

第6条 前5条ノ罪ヲ犯シタル者自首シタルトキハ其ノ刑ヲ減軽又ハ免除ス

第7条 本法ハ何人ヲ問ハス本法施行区域外ニ於テ罪ヲ犯シタル者ニ亦之ヲ適用ス

 大正12年(1923)9月、関東大震災の発生により流言飛語が世情を混乱させ、これを取り締まるため田健治郎司法大臣は「治安維持令」を起草し、枢密院の諮詢を経て同月7日勅令403号として公布された。治安維持法は、この治安維持令にかわって成立したものである。

 治安維持法の目的が共産主義者、社会主義者、無政府主義者、そしてそれらによる結社を取締るものであることはいうまでもないが、法文上は第1条のとおり「国体変革」「私有財産否認」を目的とする結社を取締るものとなっている。その理由としては、条文で「共産主義」「無政府主義」などと明記すると、「共産党」などの組織名や「社会主義を目指す」などの規約を隠ぺいされると取締りができないからである。

 それでは結社の目的が「国体変革」「私有財産否認」にあるとの判断は誰が行うかというと、検察官(思想検事)がおこなうことになっており、公権力による治安維持法の恣意的運用・拡大解釈が可能となっている。これについては当時の国会でも批判が相次いだが、治安維持法制定を主導した若槻礼次郎内務大臣と小川平吉司法大臣は「濫用の恐れなし」と答弁し、法律が制定される。

 一方で治安当局は法制後、治安維持法の適用対象を探しあぐねていた。この頃すでに共産党は壊滅状態にあり、アナキストも力を失っていた。そこで治安当局は同志社大学の掲示板に軍事教育反対のビラが貼られていたことに端を発する京都学連事件について、無理やり治安維持法を適用する。まさしく治安維持法の恣意的運用・拡大解釈による捜査・取締りであり、以降、治安維持法の適用が進んでいく。さらに治安維持法事件に関する大審院判決は、「国体変革」について明確な説明をせずに検察側の主張を採用し、治安当局による恣意的運用・拡大解釈を支えていったのである。

 満州事変を目前にした昭和3年(1928)、緊急勅令というかたちで治安維持法が改正された。これにより「国体変革」「私有財産否認」の条文が分離され、「国体変革」の罰条が死刑もしくは無期刑まで引き上げられた。さらに「結社目的遂行行為の罪」が附属され、結社の構成員でなくとも結社の目的を遂行する行為をなした者は取締りの対象となった。これにより労働運動など合法活動を行う政党・団体も思想検事が「共産党の外郭団体」と位置づければ、これら政党・団体の合法な行為も取締ることができるようになった。

 そして昭和16年(1941)、事実上の新法ともいえるような治安維持法の改正が行われ、治安維持法の取締り対象である「結社」を、厳密な意味での結社から「集団」と解釈し、取締りの網が拡大していった。さらに予防拘禁が認められ、控訴審の省略や広範囲の強制捜査権を捜査機関に認めるなど、治安維持法に関して特別な刑事訴訟制度を新設するなどした。

 治安維持法は当初の政府の説明から全く変貌し、恐るべき弾圧の法令となっていった。大正14年の法制以来、取締り対象は拡大し続け、10万人もの検挙者を生むにいたる。政府はGHQの指令によって治安維持法が廃止された後も、終戦に関する混乱を防止するとの大義名分をもって治安維持法下に成立した諸制度を新しい刑事訴訟法に埋め込んでいったといわれている。そして昨年新設された「共謀罪」が現代の治安維持法ともいわれているなかで、治安維持法の歴史と実態を学ぶことは意義のあることだ。

 18日のETV特集「自由はこうして奪われた~治安維持法 10万人の記録~」を楽しみにしたい。

前沖縄県知事・翁長雄志氏と戦後の沖縄政治史ー沖縄における保守と革新の対立と近接ー

「沖縄保守」の政治家・翁長雄志氏

 今月8日に亡くなった前沖縄県知事の翁長雄志氏は、保守系政治家一家に生まれ、那覇市議、沖縄県議、那覇市長などを歴任した他、自民党沖縄県連幹事長や保守系の知事であった稲嶺恵一県政・仲井真弘多県政を支えた沖縄保守政界の重鎮であった。

 翁長氏が普天間飛行場の辺野古移設に反対し、辺野古新基地建設に頑強に反対し続けたことはご承知のとおりである。保守系政治家が米軍基地建設に反対することは、戦後日本の「保守」の文脈からすると不思議に思われるかもしれないが、実はごく最近まで沖縄保守政界は辺野古新基地建設(普天間飛行場の県内移設)に反対しており、容認の場合でも何らかの条件を付すなどしていた。

 例えば1998年の県知事選挙で現職の大田昌秀氏を破った稲嶺氏は、普天間飛行場の移設先としてキャンプ・シュワブ沿岸案を拒否し、県内移設にやむを得ず容認するとしても「15年使用期限」「軍民共用空港化」などの条件を付した。

 2006年、稲嶺氏の後に知事に就任した仲井真氏は、当初は普天間飛行場の「県内移設」容認を表明していたが、10年に行われた2期目を争う選挙では「県外移設」を公約として掲げ、「オール沖縄」の体制で再選している。また国場幸之助、比嘉奈津美、西銘恒三郎、島尻安伊子、宮崎政久ら沖縄選出の自民党国会議員各氏と自民党沖縄県連も「県外移設」を訴えていた。

 こうして沖縄保守政界は普天間飛行場の県内移設に反対し、県外移設を求めていたのだが、第2次安倍政権時の13年に自民党沖縄県連が「辺野古容認」に転向し、同年末、仲井真氏も公約を翻して「辺野古容認」へと転落した。ここにおいて翁長氏は沖縄自民党と決別し、「オール沖縄」の体制により14年の沖縄県知事選挙に「辺野古新基地建設反対」を掲げて出馬、当選する。

 まさしく翁長前知事は、沖縄における保守の系譜と思想、政策を継承した「沖縄保守」の政治家といえる。

米軍統治下の沖縄における保守と革新

 平良好利氏・櫻澤誠氏らの研究によれば、そもそも沖縄では保守・革新という枠組みが現在でも健在であり、革新の凋落=総保守化というかたちで保革対立が消滅していった「本土」とは異なり、現在でも県知事選挙や国会議員選挙などでは保守・革新候補が交互に当選したり、県議会でも保守・革新の議席が伯仲するなどしている。

 戦後沖縄の主要政党のうち、最初に結成された政党は、47年に結成された瀬長亀次郎率いる人民党である。人民党は沖縄復帰後、日本共産党に合流する。もちろん人民党は革新政党とされる。50年には平良辰雄を初代党首として社会大衆党が結成されたが、社大党は後に革新へと舵をきるが当初は「中道政党」であり、ある時は保守勢力とも見なされていた。なお社大党は復帰後も「本土」政党との合流はしなかった。52年には初代行政主席である比嘉秀平を党首とする琉球民主党が結成される。琉球民主党は59年に沖縄自民党となり、復帰以後は自民党に合流する。琉球民主党、そして沖縄自民党は当然保守政党とされる。最後に結成されたのは社大党離党者を中心とした58年の沖縄社会党であり、革新政党とされる。沖縄社会党は後に日本社会党に合流する。

 これら主要政党の保革対立軸は、復帰に関する方法にあった。革新勢力は60年に復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)という統一組織をつくり大衆運動によって復帰を実現しようとしたが、沖縄自民党は復帰協への参加を拒み、不充分な自治や沖日の法域の不一致などの障壁を沖米日が相互に信頼・理解を深めることにより取り除き、それにより「祖国との実質的一体化」を目指すとした。こうした保革の復帰へのアプローチの違いが対立軸となり、さらに復帰の具体的な中身、すなわち復帰後の基地、経済、日米安保なども対立軸となっていく。

 こうした保革対立は存在したが、上述の主要政党4党は、いずれも「日本復帰」を方針として掲げ、米軍統治からの脱却をめざしていた。もともと沖縄では米軍統治下にあったため、「自由主義か社会主義(共産主義)か」といったイデオロギー的対立も弱く、各党の政策的距離は比較的近いものがあったのである。また基地・経済に関する対立軸を詳細に見ても、基地の縮小や経済の振興という点では保革は近接しており、本質的な差異はないともいえる状況であった。

「島ぐるみ」と「オール沖縄」

 55年、由美子ちゃん事件といわれる凄惨な米兵による幼女暴行事件が発生し、沖縄社会を揺るがした。また同年、米軍により土地を奪われた伊江島農民が沖縄本島を縦断し現状を訴える「乞食行進」を行い、あらためて沖縄の重い基地負担が沖縄全体での理解が進み、基地負担軽減・解消の声があがる。

 そうしたなかで比嘉主席らが「土地の買上げ、永久使用、地料の一括払い絶対反対」「使用中の土地についての適正補償と毎年払い」「米軍が加えた損害に対する適正賠償措置」「不要な土地の返還および新規接収反対」の「土地を守る4原則」を掲げて渡米するが、結局は「4原則」を考慮せず米軍基地のため強制接収されている土地の地料の一括払い=事実上の基地の固定化を認める「プライス勧告」が56年に発せられたため、「プライス勧告反対」「4原則貫徹」を訴える保革の別ない「島ぐるみ闘争」が展開していく。

 「島ぐるみ闘争」は基地撤去を正面から訴えるものではなく、米軍基地に関する住民の権利や生活を守ろうとするものであり、だからこそ「島ぐるみ」の動きが発生したともいえる。なお56年6月の住民大会では、翁長氏の父・翁長助静氏らが本土への代表団に選出されている。しかし運動は米軍の弾圧やオフ・リミッツなどの分断工作によって、まず保守政界や財界が篭絡され運動から撤退し弱体化するが、あらたに「4原則貫徹」から「一括払い反対」に闘争目標をしぼることにより、再び運動が高揚し沖縄の総意を形成していくことになる。

 さらにその後の復帰運動も、復帰協は超党派による「島ぐるみ」での運動を目指したのであり、上述のように沖縄自民党が復帰協へ加盟しないなど保革の対立も存在したが、一方で復帰協は保革が合同した「島ぐるみ」での運動をある時期まで目指し続けたのである。

 こうした「島ぐるみ」の系譜は、現在の「オール沖縄」の体制にまで続いているものと考えられる。95年の沖縄少女暴行事件をきっかけに、基地撤去・地位協定見直しなどを目指した「島ぐるみ」の運動が高まり、それは県民投票にまでつながっていく。07年のいわゆる「集団自決」についての歴史教科書検定に関しても「島ぐるみ」の運動が高まり、県民大会委員長は自民党・仲里利信県議会議長が務め、当時の仲井真知事も出席するなどした。そして普天間飛行場県外移設などを求める県民大会が10年に開催される。この頃より「島ぐるみ」から「オール沖縄」の呼称が使われ始め、県外移設を主張した2期目の仲井真県政を支える一方で、仲井真氏の転落による翁長県政の誕生の基盤となっていく。

弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ

 以上、翁長氏の辺野古新基地建設に関する政治信念と政治行動を振り返り、それが近年の沖縄保守政界の基本的姿勢を継承したものであることを確認した。それとともに、平良氏や櫻澤氏の研究に依拠し、基地問題や米軍統治などに関する沖縄における保守・革新の対立と近接を検討し、保革の別ない「島ぐるみ」の系譜を追いかけ、それが仲井真・翁長県政を支える「オール沖縄」を生み出していったことが確認できた。

 櫻澤氏が指摘していることだが、後に沖縄における革新の代名詞ともなる沖縄教職員会は、戦後の一時期まで、沖縄戦で大きな被害を受けた沖縄県護国神社の再建運動に取り組み、再建後は奉賛会に名を連ねるなどしている。また本土復帰の象徴であった日の丸掲揚運動を推進していた歴史もある。さらに平良氏が指摘するとおり、祖国復帰運動では、基地労働者の組合である全軍労(全沖縄軍労働組合)が復帰協に加盟し、祖国復帰・基地撤去の運動のけん引役になるなど、保守と革新、あるいは基地をめぐる沖縄の総意などは、「本土」の政治的文脈でははかりきれない沖縄独自の文脈があるといえる。

 辺野古新基地建設の先頭に立った翁長氏について、「共産党と組んだ」「中国のスパイ」などという先入観にとらわれた、なおかつ根拠不明のデマをいう者もいるが、その背景にある戦後の沖縄の政治史や基地と米軍統治に対する県民の歴史的総意についてしっかりと理解をもって発言してほしいものだ。

 さらに翁長県政や「オール沖縄」が全米軍基地撤去・自衛隊配備反対を主張しているかのような批判もあるが、翁長県政そして「オール沖縄」は全米軍基地の撤去を主張するものではなく、自衛隊配備反対を主張していない。翁長県政を支え、「オール沖縄」を形成しているグループや人物にはそれぞれに考えもあるだろうが、そもそも「オール沖縄」は互いに「腹六分」「腹八分」で協力しようというものである。そしてその精神こそが「島ぐるみ」の正統的な系譜である。

 同時に、翁長県政が辺野古新基地にばかりかかりきりになり、他の政策をおろそかにし、県政に混乱をもたらしたかのようにいう者もいるが、翁長県政下で沖縄経済が好調であったことは既に指摘したとおりであり、さらに翁長氏は子どもの貧困などの対策にも力を入れ、充実した県政を展開した。もちろん翁長県政を全て礼賛するつもりはなく、批判があってしかるべきだが、無根拠であまりに無知かつ悪質な批判あるいはデマのたぐいには、しっかりと反論をしておきたい。

 「弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ」と人民党・瀬長亀次郎がいうとおり、根拠なき批判は正論による反論を呼び、むしろ翁長氏の思想を継承させ、辺野古新基地を止める大きな力を生み出すものだろう。それは、翁長氏が次男・雄治氏に語った「沖縄は試練の連続だ。しかし、一度もウチナーンチュとしての誇りを捨てることなく闘い続けてきた。ウチナーンチュが心を一つにして闘うときにはおまえが想像するよりもはるかに大きな力になる」との言葉につながるものになるだろう。

 翁長氏に心から哀悼の意を表し、翁長氏の政治思想や政治的取り組みが真に理解される日の近からんことを祈念したい。

8・15「戦没者を追悼し平和を祈念する日」 8月14日~15日戦争の記憶の継承と慰霊のための連続行動

 昭和20(1945)年8月15日正午、ポツダム宣言受託を国民に告げる終戦の詔書を読み上げる玉音放送がラジオ放送されました。連合国には既に前日14日にポツダム宣言受託の旨は通知されており、正式な降伏調印は翌月9月2日に行われ、沖縄や北方地域あるいはアジア各地では8月15日以降も戦闘が継続されましたが、先の大戦の一つの大きな節目は8月15日に他なりません。

 この日は「戦没者を追悼し平和を祈念する日」とされ、政府主催の全国戦没者追悼式において天皇陛下がお言葉を述べられます。「戦争の記憶の継承と慰霊」を掲げる花瑛塾では14日と15日、各所で先の大戦にて戦陣に散った戦没者と戦禍に倒れたすべての犠牲者を慰霊・追悼し、世界の平和を祈念しました。

 14日、千鳥ヶ淵戦没者墓苑にて行われた第53回戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典に参列しました。

 この式典は新日本宗教青年会連盟によるもので、新日本宗教団体連合会や新日本宗教青年会連盟加盟の新宗教系各宗教団体が教義や信条の違いを乗り越え、戦争犠牲者を慰霊し、「絶対非戦」を誓うものです。

開会の挨拶をする新宗連青年会委員長・宮口弘道氏(善隣教)

 各宗教・宗派が合同しつつ、それぞれの作法・所作をもって慰霊・礼拝をする様子から、真摯な慰霊と平和への思いを感じました。各宗教・宗派の信者による礼拝・追悼ののち、一般参列者の礼拝・追悼が行われました。参列者のなかには、新宗教系のみならず伝統宗教など宗教界や宗教学者など学界からの参列者はもちろん、大島理森衆議院議長や加藤勝信厚生労働大臣、枝野幸男立憲民主党代表など政界からも多数参列があり、国民的な慰霊のあり方を思いました。

 またこの日、埼玉県護国神社清掃奉仕の会による埼玉県護国神社「みたま祭」の準備奉仕に参加し、境内の清掃や設営、飾り付けなどを行いました。また14日はみたま祭前夜祭が行われ、参列しました。前夜祭では手作りの行燈が奉献された他、奉納演奏なども行われ、遺族を中心に心のこもった慰霊が行われました。

有志による前夜祭での献灯と奉納演舞

 15日は、埼玉県護国神社(埼玉県さいたま市)および静岡県護国神社(静岡県静岡市)を参拝しました。

 埼玉県護国神社では、毎年終戦の日に行われている「みたま祭」に参列し、同社本殿にて昇殿参拝しました。昨年は生憎の雨でしたが、今年は天気もよく、埼玉県出身の殉難者遺族を中心に多数の参列がありました。祭典では童謡の奉納や正午の時報とともに黙祷なども行われ、同社御祭神をお慰め申し上げました。

埼玉県護国神社みたま祭

 静岡県護国神社では13日より15日までの3日間、「万灯みたま祭」が行われ、御祭神をお慰め申し上げることから、境内には奉納された提灯が多数飾られ、たくさんの人が参拝に訪れていました。なお同社社務所2階には戦没者遺族より寄せられた戦争に関する遺品を収蔵した遺品館などもあり、戦争の記憶の継承と慰霊の施設ともなっています。

静岡県護国神社万灯みたま祭

 またこの日、靖国神社(東京都千代田区)を参拝しました。

 同社は明治2(1869)年に東京・九段に創建された東京招魂社を起源としますが、明治元年の太政官布告と江戸城西の丸広間で執行された東征大総督・有栖川宮熾仁親王らによる官軍将兵の招魂祭をさらなる淵源とします。これらは人霊祭祀や招魂祭祀といった当時にあっては革新的な神学に基づく祭祀であることにも注意が必要です。

靖国神社大鳥居

 戦前の靖国神社は実質的に陸軍省主管の国家的な神社でしたが、戦後は単立の神社として祭祀を継続しています。例年8月15日には戦没者遺族を中心にたくさんの参拝者が訪れますが、この日も多くの方が参拝に訪れた他、「全国戦没者追悼式」での黙祷に合わせ、参拝者全員で黙祷を執り行い、天皇陛下のお言葉を拝聴するなどしました。

 一方で、玉音放送があった今日以降も沖縄はじめ各地で戦闘が続き、アジアの混乱や悲劇もこれ以降に高まっていきます。今日という日を様々な視点から振り返り、今後の平和を希求していきたいと思います。

沖縄・翁長雄志知事の訃報に接してー命がけの姿と言葉に向き合うー

病躯をおして県民の先頭に立つ

 今月8日、沖縄県の翁長雄志知事が浦添市内の病院でお亡くなりになりました。67歳でした。昨日10日に通夜がおこなわれ、13日には告別式がいとなまれます。また県民葬なども予定されているとのことです。心より哀悼の意を表します。

 翁長知事は、今年4月にすい臓がんの切除手術を行い、公務のかたわらがん治療を行っていましたが、がんは肝臓へ転移し、今月7日には意思決定が難しい状況になっていたそうです。8日、謝花喜一郎副知事が「翁長知事は意識混濁状態である」と説明しましたが、その日のうちに不帰の人となりました。

 翁長知事は4期にわたり那覇市長を務めましたが、市長時代の2006年に初期の胃がんが見つかり、胃の全摘手術を行っています。それ以降ごく最近までお元気そうでしたが、すい臓がんを公表した今年4月以降、誰の目にも翁長知事がやせ細っていったことは明らかでした。

 病と闘いながら辺野古新基地建設反対の先頭に立つ翁長知事の姿には、時に鬼気迫るほどの強い意志を感じました。特に今年6月23日の沖縄全戦没者追悼式では、翁長知事はがん治療により髪がぼろぼろとなった姿を公としつつ、沖縄戦の壮絶な体験と過重な基地負担を指摘し、平和を求める「沖縄のこころ」を述べましたが、翁長知事のその姿と発する言葉からは、文字どおり命をかけて辺野古新基地に抗う気迫が伝わりました。

「沖縄保守」の大政治家

 翁長知事は2014年11月、任期最末期で辺野古新基地建設の埋立工事を承認した仲井真弘多前知事を大差で破り、沖縄県知事に就任しました。知事選では辺野古新基地反対を掲げ、知事就任以降も一貫して新基地建設に抗い、建設を強行する政府を厳しく批判し、激しい戦いを繰り広げました。

2017年の沖縄戦全戦没者追悼式において、厳しい目つきで安倍総理を見つめる翁長知事(「沖縄の視線」【撮影:東京新聞記者沢田将人氏】)

 政府と鋭く対峙する翁長知事には、心ない誹謗中傷も寄せられました。「翁長知事は中国のスパイ」「翁長知事の娘は中国の大学に留学している」といった根拠不明のデマも流布され、「翁長知事は左翼」「反日」といった言葉がインターネットを中心に溢れかえりました。

 しかし翁長知事は、そもそも沖縄自民党の幹部であり、那覇市議、沖縄県議、那覇市長を歴任した沖縄保守政治家の代表的な人物です。さらに父は市長、兄は副知事も務め、出身も保守系政治家一家といえます。仲井真前知事の選対本部長を務めたこともあり、沖縄保守政界を中枢で支えていました。その翁長知事が旗頭となり「オール沖縄」として保守・革新・中道・リベラルが結集し、辺野古新基地建設に反対したことに大きな政治的意味があります。

 沖縄における保守・革新の区別はいまでもはっきりとしていますが、一方で「島ぐるみ闘争」「祖国復帰運動」などでは保革対立を乗り越えた統一行動が展開された歴史もあり、基地問題についても大原則としては保革ともに基地負担軽減の主張にかわりはなく、政策的にかなり近接しています。

 その意味で基地撤去や基地負担軽減の願いは保守や革新の区別ない県民の総意であり、沖縄の歴史的・政治的文脈における保守・革新の意味や県民の総意を踏まえることのない「左翼」「反日」といった翁長知事への誹謗中傷は、沖縄のことを何も知らない、何も知ろうとしない勢力の空疎な言葉といえます。

 翁長知事の新基地建設反対の主張は、「沖縄保守」として当然のものであり、また保守・革新の区別すらない愛郷心に裏づけられた「ウチナーンチュ」の当然のものといえるでしょう。

「辺野古新基地建設反対」の先にあるもの

 沖縄保守政治家として、そして愛郷者としての翁長知事の辺野古新基地建設反対の取り組みは、けして沖縄のことのみを考えたものではありません。

 翁長知事の主張は、辺野古新基地建設をめぐる日米間の意思決定や日本政府の対応、さらに日米安保体制という大問題を指摘する高度に政治的なものであり、地方政治を切り捨て、負担を押しつけ、沖縄差別や沖縄戦などの歴史への反省を欠く「本土」の強権的政治・強圧的態度に警鐘を鳴らすもの、つまり「東京」あるいは「日本全体」に向けられたものといえます。

 さらに翁長知事は、現在の国際情勢の変化とこれからの国際社会における沖縄の役割を踏まえつつ辺野古新基地建設反対を論じますが、そこには琉球・沖縄の歴史への洞察も存在しています。

 今年6月23日の沖縄戦全戦没者追悼式で、翁長知事はこう述べています。

民意を顧みず工事が進められている辺野古新基地建設については、沖縄の基地負担軽減に逆行しているばかりではなく、アジアの緊張緩和の流れにも逆行しているといわざるを得ず、全く容認できるものではありません。「辺野古に新基地を造らせない」という私の決意は県民とともにあり、これからも微塵も揺らぐことはありません。

かつて沖縄は「万国津梁」の精神の下、アジアの国々との交易や交流を通し、平和的共存共栄の時代を歩んできた歴史があります。[中略]そして、現在の沖縄は、アジアのダイナミズムを取り込むことによって、再び、アジアの国々を絆ぐことができる素地ができてきており、日本とアジアの架橋としての役割を担うことが期待されています。

 まさしく翁長知事の言葉は、沖縄の歴史に向き合いながら日本と世界の未来を見つめるものであり、沖縄の地に足をつけながらアジアに飛躍するものです。これこそ沖縄保守の言葉であるとともに、保守政治・保守思想のそもそもの本質に立ったものといえます。

高見で笑っているのは誰か

 一方で、「基地を巡ってウチナーンチュ同士がいがみ合うさまを見せつけられた」と翁長知事はよく語り、その後に「それを高見で笑っているのは誰か」と付け加えることを忘れなかったそうですが、基地撤去・基地負担軽減の県民の総意が分断され、沖縄県民の間にこれまでにない対立が呼び込まれていることも事実です。

優しい顔つきの翁長知事の遺影:RBC琉球放送ニュースより

 2015年8月10日から1ヶ月間、政府は辺野古新基地建設を中止し、沖縄県との協議を行いました。そこにおいて翁長知事は「沖縄には魂の飢餓感があり、心に空白ができている」と述べました。

 「魂の飢餓感」「心の空白」―明治新政府のいわゆる「琉球処分」以降、沖縄は新政府の強烈な統制を受け、「本土化」「本土並」を理想とすることを強要され続けましたが、その「本土」は沖縄を蔑み、差別し、裏切り、見捨て続けました。その構造は、日米安保条約という日本全体が享受する利益の裏に存在する基地負担の大部分を沖縄が背負う現在の基地問題にまで受け継がれており、さらにそこにおいて沖縄で発生する対立は「誰か」によって「高見で笑われている」のです。

 花瑛塾は翁長知事に代表される沖縄保守の精神や愛郷心を学び、「イデオロギーよりアイデンティティ」という翁長知事の言葉を理解し、ウチナーンチュ同士をいがみ合わせ、それを高見で笑う「本土」を一喝することにより、命がけで「本土」に抗った翁長知事の御霊をお慰めしたいと考えています。

平成30年8月9日 花瑛塾行動隊街頭行動 「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 花瑛塾行動隊は73年目のソ連対日参戦の日および米国による長崎原爆投下の日のこの日、米ソ両国の国際法違反の戦争犯罪を糾弾した上で、ロシア大使館へ米国の介入を排除した日ロ新外交を求める要請行動を行い、米大使館へ核廃絶を求める車両街宣を行いました。また首相官邸・外務省周辺においても同様に訴えました。

 以下、ロシア大使館で読み上げ・投函した要請文の全文です。

要   請   書

 われわれは、ロシア・旧ソ連に奪われた北方領土の返還、戦後日本外交・日米関係の見直し、ロシアとわが国の真の平和・友好の確立、国家に翻弄された北方領土元島民・先住民族アイヌの権利擁護を訴える、花瑛塾である。

 昭和20年8月9日、旧ソ連はわが国との中立条約の有効期間内にも関わらず対日参戦し、満州・朝鮮・南樺太・千島列島を攻撃、占拠した。爾来、73年の長きに渡り、不法に占拠されている。

 旧ソ連の対日参戦が国際法違反の侵略行為であることは明白であり、さらに戦闘において旧ソ連が行った殺人・強盗・放火・略奪など数々の蛮行・戦争犯罪は許しがたく、ここに厳しく糾弾する。

 わが国は戦後、旧ソ連と領土返還・国交回復交渉を行い、昭和31年の日ソ共同宣言に至る。これにより日ソ国交は回復し、わが国は国際社会へ復帰した。その上で領土交渉が進む予定であったが、難航し現在に至る。

 領土交渉におけるわが国の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の四島を北海道の一部であるから返還せよという主張であるが、国後島・択捉島は千島列島の一部であり、サンフランシスコ条約で主権を放棄している。このようなわが国の主張は不当であり、ロシア・旧ソ連の反発も無理はない。

 いまわが国とロシアとの間で確認すべきものは、大きく四つある。

 第1に、旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これによる領土占拠の無効。

 第2に、旧ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効。

 第3に、過去のわが国の不当な領土の主張の撤回。

 第4に、旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、日ソ・日ロ領土交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、わが国と日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ領土交渉へのアメリカの妨害の排除。

 この点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状況、すなわち昭和20年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、73年という歴史の重みを踏まえ、そこにおいて新たに築かれた人々の暮らしや文化を理解し、現在の北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土交渉のあり方を模索する必要がある。

 江戸幕府と帝政ロシアの日魯和親条約以来、樺太・千島交換条約、ポーツマス条約と国際法にのっとり国境線は幾度も変更された。日ロともに、国境線の変更をためらう理由はない。特に日魯和親条約における樺太島雑居地化などは、わが国とロシアの先人の偉大な知恵である。こうした先人の知恵に学び、過去の経緯に執拗に拘らず、大胆な領土交渉をしていくべきではないだろうか。

 同時に、領土交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携すべき点は多々あるはずである。

 ロシア国民の信望あついプーチン大統領閣下と大使閣下の理解と手腕を期待し、要請する。

以上

平成30年8月9日

花  瑛  塾 一 同

ロシア連邦大統領 ウラジミール・プーチン 閣下

駐日ロシア連邦特命全権大使 ミハイル・ガルージン 閣下

車両街宣出発前の訓示
ロシア大使館での要請行動

平成30年8月8日 東アジアフォーラム第15回研究会 「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 東アジアフォーラム第15回研究会に参加しました。講師は佐藤知也氏(平壌・龍山会々長)、テーマは「平壌の日本人墓地」でした。

 平壌・龍山会とは、終戦直後に平壌郊外に埋葬された日本人の遺族の会であり、2014年に結成されました。日本人の埋葬地は龍山墓地といわれ、龍山会は定期的に北朝鮮を訪れ、墓参をおこなっています。

 現在に至るまで龍山墓地は北朝鮮側が管理していますが、遺族は日本人遺骨の返還を求めており、北朝鮮側としても遺族に遺骨を返還したいと考えているそうです。日朝間では2014年のストックホルム合意において、日本人遺骨の返還について、北朝鮮側のこれまでの努力を評価し、遺骨返還と墓地の今後について協議することが合意されましたが、進展には至っていません。

 講師からは日本敗戦前後の朝鮮とソ連による日本人収容・引き揚げの状況や平壌郊外にある日本人墓地「龍山墓地」について伺うとともに、ストックホルム合意と日本人遺骨や墓参などについてお話があり、明日の8.9ソ連対日参戦の日を前に、国家に翻弄された全ての人々の無念と痛苦に深く思いを致しました。

 73年前の8月8日にソ連は対日宣戦布告、翌9日以降満州から朝鮮北部に攻め寄せ、8月21日には現在の北朝鮮・元山へ上陸しました。さらに9月8日には米軍が仁川に進駐し、米ソが朝鮮半島を分割統治しました。これより朝鮮半島の分断の悲劇とともに、朝鮮半島からの引揚者の受難が始まります。

 例えば、日本統治下の朝鮮半島・新義州(現在の中朝国境にある北朝鮮の鴨緑江沿いの都市)の会社役員を務めた石崎操氏の日記『石崎操日記』には、操氏とその家族が新義州へのソ連軍の進駐と引き揚げの様子が記されています。新義州には8月30日にソ連軍が進駐し、翌31日には行政権など一切が朝鮮人に引き渡されました。日本人の正式な引揚げは1946年12月以降に行われ、その間ソ連軍は日本人の移動を禁止しましたが、多数の死亡者が出たため多くの日本人が38度線を越え南下し、日本へ引揚げました。石崎家は1946年9月29日に新義州を脱出し、10月12日には38度線を越え、11月1日には博多に上陸しました。

 こうした事態の背景には、米ソによるヤルタ合意が存在します。ヤルタ合意により、米国はソ連に日本領占拠などを認めるかわりに対日参戦を促し、さらにソ連へ上陸用舟艇を貸与するなどし、これによりソ連は国際法違反の対日参戦を行います。しかしソ連の対日戦のあまりの勢いに米軍は慌てて朝鮮半島南部に進駐し、軍政を敷きます。こうした大国の思惑により朝鮮半島は分断され、人々は国家に翻弄されていきます。そしてこのような東アジア情勢を築いた要因の一つに日本側のアジア政策はなかったか、検討することも必要です。

 さらに朝鮮独立活動家であり、終戦直後に「朝鮮建国準備委員会」を組織した呂運享と葦津珍彦は親しく交わった事実から、愛国者は日本の朝鮮統治をどのように総括するのか、新たな検討も必要ではないでしょうか。

講演する平壌・龍山会佐藤会長

「唯一の被爆国」だが「絶対的な核廃絶国」ではない日本ー「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 昨日6日、広島は73年目の米国による広島原爆投下の日を迎えた。9日には同じく長崎原爆投下の日を迎える。

 米国による広島・長崎原爆投下は巨大な戦争犯罪であり、それは核の恐怖とともに未来永劫語り継がれるべき人類史的な悪行だが、こうした悲惨な経験をした日本は、時に「唯一の被爆国」と自称・他称される。なお、この言葉そのものは、若干の留意が必要だ。広島・長崎では朝鮮半島出身者や中国人などアジアの人々、あるいは連合国の捕虜などヨーロッパの人々なども被爆したし、戦後の核開発競争により各国の研究者や核実験場付近の住民が被爆しており、実戦における使用・被爆という意味で「唯一の被爆国」となる。

 そうとはいえ、日本は「唯一の被爆国」であることを世界に訴え、また「非核三原則」を今日まで掲げてきたが、けして「核廃絶の国」「核禁止の国」ではなかった。

沖縄と核―1300発もの核兵器の存在―

 昨年放映されたNHKスペシャル「スクープドキュメント 沖縄と核」によると、1950年代以降、台湾海峡や朝鮮半島で緊張が高まり、東西冷戦が激化するなか、米軍は沖縄を「核の島」としていった。米軍は当初、沖縄・伊江島で模擬核爆弾の投下訓練を行っていたが、後に核ミサイルが配備されていく。例えば50年代、米海兵隊は日本「本土」に核ロケット砲「オネストジョン」の配備を計画したが、ビキニ環礁水爆実験による日本人の被爆事故などをうけた反核世論が盛り上がると、海兵隊は沖縄に移転していき、沖縄に「オネストジョン」を配備し発射訓練を繰り返していった。

 さらに沖縄・嘉手納弾薬庫などに配備・貯蔵されている米軍の核兵器を守るため、迎撃用地対空核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」が多数沖縄に配備されていく。そして60年代には沖縄・恩納村に広島型原爆の70倍もの威力の核弾頭を搭載した核ミサイル「メースB」が配備されるなどした。最終的には1300発もの核兵器が沖縄に配備されていったのである。そればかりでなく那覇沖で「ナイキ・ハーキュリーズ」の暴発事故も発生し、ひとつ間違えれば核爆発が発生していたかもしれなかった。キューバ危機の際には「メースB」が核戦争の臨戦態勢となっていた。

 こうした米軍の沖縄への核配備を、日本政府は事実上“容認”した。米軍は「メースB」が核兵器であることを秘密にして配備を行ったが、「メースB」が核兵器であることが明るみとなると、当時の小坂善太郎外相は米国側に「核であることを事前に発表するから議論となる」「事前に発表しないことはできないか」「事後に核兵器であることが判明しても、今さら騒いでも仕方がないとなる」などと発言し、米軍の沖縄への核配備を“認容”し、さらにそれを隠ぺいする悪質な懇願を行ったのであった。

日本政府の核“認容”―日米安保と「事前協議」―

 そもそも日本は、旧安保条約下、米軍が日本に核兵器を持ち込んだり、核搭載が可能な航空機や艦船に日本立ち寄りを拒むことはできなかった。鳩山一郎首相は野党対策のため、米軍が日本に核兵器を持ち込む際は日本側との「事前協議」が必要と国会答弁し、重光葵外相や外務官僚も「重光・アリソン了解」を持ち出し「事前協議」の存在をいうが、実際には「重光・アリソン了解」は存在しなかった。そして米国は、野党勢力・革新勢力の増長を抑えるために、「事前協議が存在する」という鳩山政権の虚偽を否定せず、黙認したのであった。

 60年安保交渉において、岸信介首相は、米艦船や航空機が核搭載可能であるという理由だけで日本立ち寄りを拒むことはしないとする。核兵器を搭載した米艦船や航空機が日本に立ち寄る可能性を強く指摘する野党への答弁だが、岸としては米軍の軍事行動を制約するような発言はできなかった。

 一方で岸は、核兵器を搭載した米艦船や航空機の領土・領空・領海への通過の拒否を明言している。その上で、これまでそうした事実はなく、また給水など一時的な立ち寄りであれば認め得るとした。岸はこれ以上の説明を避けたが、60年安保成立により、最終的に岸・ハーター交換公文によって「事前協議」が認められたが、核搭載可能な米艦船の寄港などは事前協議の対象から外された。そこには「核の存在を否定も肯定もしない」という米国の立場もあったが、結局は日本政府は「核搭載可能な米艦船の寄港も事前協議の対象」と国民に虚偽の説明をし、「事前協議が存在しない以上、日本に核はないのだ」と強弁し続け、もって米国の核の存在を“認容”し続けたのであった。

国連核兵器禁止条約に不賛同した日本政府

 日本政府は2017年に採択された国連核兵器禁止条約に不賛同の意志を示し、安倍総理は昨日の広島でもあらためてその立場を主張した。安倍政権で防衛相を務めた稲田朋美氏は核武装を持論とし、国会の場で追及されても持論の撤回を頑なに拒んだ。米国の核の傘の下にあり、米国の核を“認容”してきたのが日本であり、いまなおその姿勢はかわっていない。

 日本は「唯一の被爆国」でありながら、けして「核廃絶の国」「核禁止の国」ではない。米国による核兵器の実戦使用という戦争犯罪は到底許されず、いまなお核兵器を大量に保有する米国の核政策は認められないが、日本のこれまでの核政策も肯定できず、「唯一の被爆国」の論理を強調するのならば、その論理は日本にもまた突きつけねばならない。

 日米が協調し「核なき日本」「核なき世界」を実現するべきである。

平成30年8月6日 花瑛塾行動隊街頭行動 「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 花瑛塾行動隊は8月9日米国による広島原爆投下の日の今日、米大使館周辺にて、全ての原爆犠牲者・被爆者の無念にこたえ、その壮絶な痛苦に報いるため、核兵器の実戦使用国でありいまなお世界的な大量保有国である米国と、被爆国でありながらも米国の核の傘の下で沖縄への核配備や核持ち込みを容認し、国連核兵器禁止条約にも反対した日本の両国こそが、核廃絶を協調して主導・実現するよう求めました。

米大使館前にて

 また8月9日ソ連対日参戦の日を前に、ロシア大使館周辺にて、ソ連の国際法違反の対日参戦と領土侵略を糾弾しました。同時に、ソ連対日参戦を教唆し、さらに戦後日ソ・日ロ領土交渉に介入し続けた米国を排除した日ロ新領土交渉の展開を訴えました。また領土交渉とは切り離した上で、国家に翻弄された北方領土元島民や先住民族アイヌの支援・権利擁護を、北方地域に責任を有する国家である日ロ両国が実施する北方新政策を展開し、日ロ新外交の確立を呼びかけました。

 なお、車両街宣出発前、関東大震災および東京大空襲犠牲者を祀る「東京都慰霊堂」を参拝しました。

 原爆投下により、広島では日本人ばかりでなく軍需工場で働く多くの朝鮮半島出身者が被爆しました。また原爆投下は米国による巨大な戦争犯罪に他なりません。関東大震災では中国人や社会主義者、あるいは被差別部落出身者とともに、多数の朝鮮人が虐殺されました。さらに東京大空襲も米国があえて非戦闘員を選別して虐殺した戦争犯罪であることは明白です。

 私たちは原爆投下による全ての犠牲者を慰霊・追悼するとともに、同じく労働力の担い手として日本にいたために犠牲となった震災時の朝鮮人や米国による戦争犯罪の犠牲となった東京の人々の悲哀にも思いを致さずにはいられません。

 その上で怨讐を超えて、犠牲者の無念を晴らし、痛苦に報いるためにも、各国が手を取り合い世界の平和を実現していかねばならないはずです。

平成30年8月5日 花瑛塾行動隊街頭行動 「広島・長崎原爆投下の日」「ソ連対日参戦の日」連続行動

 花瑛塾行動隊はこの日、米大使館・首相官邸・自民党本部・外務省周辺にて、明日8月6日広島および8月9日長崎原爆投下の日を前に、核兵器の実戦使用国米国と被爆国日本が、また核禁止条約に反対し核武装を強行し続けた反核軍縮勢力米国とその庇護下で核を許容し続けた日本こそが、全ての原爆犠牲者の無念と苦痛を胸に刻み、「核なき日本」「核なき世界」を日米協調して実現するよう求めました。

 73年前の8月6日8時15分、米国は広島市上空に原子爆弾を投下し、15万人もの無辜の民の生命を奪いました。家屋や物資などもことごとく破壊され、長期に渡り多くの人が原爆症といわれる放射線障害に苦しめられました。8月9日には長崎にも原爆が投下され、7万3千人もの市民が殺害されました。

米大使館前にて

 殺害され、被害にあったのは日本人ばかりではありません。軍需工場などで働いていた朝鮮半島出身者も、多数、被害に遭いました。

 米国による原爆投下は、非戦闘員の殺害という戦争犯罪であり、その残忍な手法も含め許されません。3月10日の東京大空襲では、あえて非戦闘員を狙い、住宅地が密集する東京の下町を目標に定めるなど、米国の戦争犯罪と残虐さは類を見ません。

 米国の戦争犯罪は到底許されず、厳しく糾弾されるべきものですが、それ以上に重要なのは、犠牲者の無念を晴らすためにも、「核なき日本」「核なき世界」を実現し、日米がともに世界平和を築き上げることにあると考えます。そして現在の日米の核政策は、これに逆行しているといわざるをえません。

 また8月9日ソ連対日参戦の日を前に、ロシア大使館・外務省周辺にて、国際法違反のソ連対日参戦と侵略・不法占拠した北方領土の返還をロシアに求めるとともに、米国の介入・妨害を排除した新たな日ロ領土交渉と日ロ関係の構築という、日ロ新外交の展開を求めました。

 日ロ領土返還・国境画定交渉が事実上破綻しているいま、日本とロシアは、以下の4つの点を確認することにより、新たなアプローチで北方問題に取り組む必要があります。

  1. 旧ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これにもとづく領土占拠の無効。
  2. 旧ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の連合国の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効。
  3. 過去の日本政府の不当な領土返還要求の撤回。
  4. 旧ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、過去の領土返還・国境画定交渉に際し、陰に陽に介入をし続け、日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ交渉へのアメリカの干渉の排除。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状態、すなわち1945年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、73年に渡る旧ソ連・ロシアの統治という歴史の重みを理解し、そこにおいて築かれた人々の暮らしや文化を尊重し、北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな領土返還・国境画定交渉のあり方を模索する必要があります。

首相官邸周辺にて

 同時に、領土返還・国境画定交渉とは切り離した上で、北方領土元島民の故郷への自由な往来や交流、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携して果たすべき役割は数多いといえます。