「表現の不自由展かんさい」会場利用承認取消しをめぐって─不自由展への批判と権力の濫用の容認は別儀である─

 令和元年8月3日、国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019のグループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止が発表され、大きな話題となった。

大阪展フライヤー

 あいトリ問題については、公開中止直後、「国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展『表現の不自由展・その後』の公開中止について」として見解を発表しているので、関心があればそちらを読んでいただきたい。

 それから約2年後の今年6月後半から7月半ばにかけ、「表現の不自由展・その後」とおおよそ同一内容の展示が「表現の不自由展・その後 東京EDITION & 特別展」(東京展)、「私たちの『表現の不自由展・その後』」(名古屋展)、「表現の不自由展かんさい」(大阪展)として開催される予定であった。

 しかし東京展をめぐっては、展示会場となったギャラリー周辺での抗議活動をうけ、ギャラリー側が会場提供を取りやめた。東京展実行委員会は急遽別会場を確保したが、そちらの会場も最終的に会場貸出を拒否したため、開催は現在不透明な状況である。

 また大阪展をめぐっては、会場として利用が承認されていた大阪府立労働センター「エル・おおさか」の指定管理者が、突如として利用承認を取消したため大きな問題となっている。

一方的な利用承認取消しは許されない

 大阪展実行委員会によると、管理者側は大阪展の開催に関し電話やメールの他、街宣車を用いた抗議などがあり、一般利用者や施設の他の入居者、施設南館の保育所の幼児や保護者などの安全確保が困難であるとの理由をあげ、センターの管理上支障がある場合は利用承認を取消すことができるという府立労働センター条例に基づき取消したそうだ。

あいトリ不自由展・その後で展示された平和の少女像:朝日新聞2019.8.3

 しかし実行委員会は、これまで大阪展の警備体制について管理者側や所轄の警察署と何度となく打ち合わせをし、準備をしてきていると述べている。

 それでもなお管理者側にとって管理上の不安や問題があるというのならば、まずは管理者として実行委員会側に警備の強化を依頼するといった相談や打ち合わせがあってしかるべきであろう。そうした懸念解消に向けた努力なく有無をいわせず取消すなど、あまりに一方的だ。

 そもそも実行委員会によると、エル・おおさかで過去に開催された他のイベントでは、大阪展への抗議以上の抗議も見受けられたという。利用承認を取消さねばならないほど差し迫った危険は本当に存在していたのだろうか。

 万一、一定の危険があったとしても、2年前に各国の首脳が一堂に会した大阪サミットの警備を無事に遂行し、警視庁と並び称される“天下の大阪府警”が警備しきれないとは考え難い。警備をする気がなかったのなら話は別であるが。

 事実、あいトリでも様々なトラブルがあったとはいえ、少なくともあいトリの終盤で不自由展・その後の展示は無事に開催されている。そもそも不自由展・その後は、過去にも開催されている。今回、東京展や大阪展と並んで開催される名古屋展も同じく公共施設を利用する予定となっているが、抗議をうけつつも(カウンター的な展示会が同時に開催されるといった問題はあるとしても)現時点ではひとまず開催の見込みとなっている。

 管理者側は取消しにあたり、事前に大阪府に相談し容認を得ていたという。取消し後、吉村洋文大阪府知事も取消しを支持する発言をしている他、取消しには維新系府議が暗躍したともいわれており、こうした状況を勘案すると、取消しは事実上、大阪府・維新が主導した措置とも推測される。

 実行委員会側は今後、処分取消し(管理者側による承認取消しの取消し)を求めて提訴するとともに、取消しの執行停止を求める法的措置もとるそうだ。当然のことである。取消しをしなければならない明確な理由もなく、取消しを避けるための努力もしないまま一方的に取消すなど、管理者の裁量権の濫用であり違法行為である。

不自由展・その後の「その後」を考える

 不自由展・その後の作品の中には、花瑛塾としてもとても受け入れられないものが存在する。抗議や批判も当然あるだろう。暴力行為や住宅街での大音量での抗議など法律や社会常識を踏み外すものでない以上、そうした抗議や批判もまた認められるべきだ。

 もちろん脅迫や犯罪を構成するような抗議に対しては、法的措置や警察力による対応など毅然とした対応が必要である。他方、書面による申し入れや落ち着いた状況での面談形式での申し入れなど相応の抗議に対しては、主催者側も一切相手にしないという姿勢ではなく、やはり一定の条件の下でそれ相応の対応も必要となってくるだろう。

 ここまで事態がこじれると、主催者側も作品に関する丁寧な解説をしたり、あえて抗議者に作品を鑑賞してもらった上での対応や説得、質疑応答といったことも、あるいは必要なのかもしれない。そうした対応を重ねることで、東京展の開催実現も見えてくるのかもしれない(抗議者や批判者がただ脅迫や妨害を目的としていなければだが)。

 ともあれ、そのような不自由展・その後への批判や批判に関する市民的解決の模索と、公権力が市民による公共施設の利用を恣意的に規制するという違法行為や権力の濫用を容認するのは、全く別の話である。公権力が気に入るものや都合のよいものは、法とは別の論理で保護され、公権力が気に入らないものや都合の悪いものは、法とは別の論理で恣意的に規制される。これでは全くの暗黒社会だ。

 不自由展・その後の展示に感心はしない。不自由展・その後が開催できなくなった社会の「その後」を考える必要があるといっているのである。不自由展・その後がやられて喜んでいれば、「その後」にやられるのは自分たちだ。不自由展・その後への批判と権力の濫用を容認することは別儀である。危機感を抱いた方がよい。

国際芸術祭あいちトリエンナーレ2019 グループ展「表現の不自由展・その後」の公開中止について

【沖縄戦76年】2021沖縄シンポジウム「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」(東京弁護士会)

 オンライン開催された2021沖縄シンポジウム「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」(主催、東京弁護士会)に参加し、第一部の講演「沖縄戦を忘れない─沖縄戦とPTSD─」(講師、蟻塚亮二さん)、および第二部の講演「沖縄は今なお本土の捨て石か─辺野古新基地建設の予定地の地質・活断層について─」(講師、立石雅昭さん)を聴講しました。

 このシンポジウムでは例年、東京の弁護士会館にて沖縄戦や基地建設をめぐる講演や写真展示などが開催されています。昨年はコロナの影響で中止となりましたが、今年はオンラインでの開催となり、沖縄戦とPTSDの問題に詳しい精神科医の蟻塚さん、また地質学・堆積学を専門的に研究されている新潟大学名誉教授の立石さんより、それぞれお話しを伺いました。

 特に蟻塚さんは、戦後ほとんど把握されてこなかった沖縄戦の壮絶な体験を要因とする戦争トラウマとPTSD、特に晩発性のPTSDに精神科医として向き合い、苦しむ方々の治療やケアにつとめるとともに、シンポジウムなどで症例の報告や理解促進とケアのためにできることなどを訴えています。

 沖縄戦においては、多くの米兵が涕泣や汚物の垂れ流し、機関銃の乱射といった異常行動を伴う戦争神経症を発症させましたが、言うまでもなく少なくない数の日本兵も戦争神経症とみられる異常行動を起こしており、戦後も沖縄戦を経験した沖縄住民が戦争神経症や戦争トラウマによるPTSDに苦しみ続けました。

 しかし、そうした苦しみに対する理解や医学的解明は進まず、戦争神経症に悩む人たちはその異常行動から「戦争幽霊」「兵隊幽霊」などといわれたり、戦争トラウマによるPTSDについては「気持ちが弱いからだ」などとして片付けられたりしていました。

 特に戦争トラウマによる晩発性のPTSDは、その症状や発症数の多さという点で非常に深刻なものがあります。晩発性ですからある程度歳をとった沖縄の住民が、例えば親族の死をきっかけに沖縄戦におけるトラウマが蘇り、不眠が続いたり体調を崩したり、あるいは戦争犠牲者の遺体を思い出して肉が食べられなくなったり、遺体の匂いを感じるようになったりといった症例を訴えることが多々あったそうです。

 精神科医として沖縄に赴任していた蟻塚氏は、そうした住民と接する中で海外の軍隊におけるPTSDの事例などとも比較しつつ、戦争トラウマとPTSDの問題に向き合い、治療やケアをする一方で、この問題を広く発信してきましたが、このたびのオンラインでのシンポジウムでもその実例を紹介いただきながら戦争トラウマとPTSDの問題、そしてこれをどう乗り越えていくかなどお話し下さいました。

沖縄戦のPTSDについてお話しされる蟻塚医師:琉球新報2014.12.17

令和元年6月22日 「沖縄とともに─慰霊の日をむかえて─」シンポジウム(東京弁護士会)

【沖縄戦76年】慰霊の日「魂魄の塔」お参り、6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(ユンタンザミュージアム)

 沖縄「慰霊の日」の23日、沖縄戦の犠牲者を慰霊する「魂魄の塔」をお参りするとともに、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日に関連してオンライン配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」(講師:豊田純志氏、読谷村教育委員会文化振興課村史編集係)を視聴しました。

魂魄の塔と雨のなか訪れた人たちの献花、お供えなど

 沖縄戦直後、現在の糸満市米須付近では、亡くなった犠牲者の遺体がまだ白骨化しきっておらず、髪の毛や皮膚が残っているような状況で野ざらしとなっており、ひめゆり学徒を引率した仲宗根政善氏によると付近は「幾万の屍がるいるいとして風雨にさらされ、亡魂恨み泣き、身の毛のよだつ荒野」が広がっていたそうです。

 そうしたなかで昭和21年、金城和信村長主導のもと、米軍により米須付近に一時的に移転収容されていた旧真和志村の人々が野ざらしの遺体や遺骨の収容を始め、納骨しました。これが魂魄の塔の淵源です。

 旧真和志村の人々は同年5月に米須を去りますが、その後も地元住民が遺骨収容作業を続け、魂魄の塔に納骨しました。そうしたこともあり、魂魄の塔に合祀された犠牲者の数は約3万5000柱といわれ、沖縄最大の慰霊塔となりました。当初は自然の大きな穴に納骨していましたが、あまりの遺骨の多さで次第に山になっていったそうです。

魂魄の塔を訪れた自民党青年部慰問団 昭和34年撮影:沖縄県公文書館所蔵

 その後、魂魄の塔に納骨されていた遺骨は、識名の戦没者中央納骨所へ移され、さらに摩文仁に整備された国立沖縄戦没者墓苑に移され、魂魄の塔は現在のようなかたちの慰霊塔となりました。

 例年、慰霊の日は魂魄の塔にたくさんの参列者が訪れますが、沖縄戦から76年の今年の慰霊の日は大雨であり、また昨年も含めコロナの影響でお参りする人も少なく、物寂しい慰霊の日となりました。

 その後、読谷村のユンタンザミュージアムが慰霊の日にあわせて配信した6.23慰霊の日講座「読谷村における軍事飛行場建設について」を視聴しました。

 ユンタンザミュージアムでは今年、慰霊の日に関連し第34回平和創造展「沖縄戦と読谷村の軍事要塞化」を開催予定であり、慰霊の日には6.23慰霊の日講座として「読谷村における軍事飛行場建設について」との講演がなされる予定でしたが、コロナによる緊急事態宣言のためミュージアムが休館となり展示も行われず、6.23慰霊の日講座のみオンライン配信されるかたちとなりました。

 講師の豊田さんによると、沖縄戦の地上戦以前より読谷村では日本軍北飛行場の建設が進められ、それにより沖縄戦では米軍上陸ポイントとなり読谷村一帯は激戦地となったそうです。また上陸した米軍は北飛行場の接収を進め、拠点としていきますが、それは他方で義烈空挺隊の空挺特攻や日本軍特攻機の攻撃対象になるということでもあり、読谷村では引き続き激戦が続きました。

 北飛行場は沖縄戦後、米軍の読谷飛行場として拡張されるとともに、北飛行場北西にはさらにボーロ―飛行場という新たな飛行場が建設されるなど、読谷村一帯は軍事要塞と化していき、住民の被害や負担は長く続いていきました。特に昭和40年には、読谷飛行場でのパラシュート投下訓練中のトレーラー落下事故により女子小学生が犠牲となる痛ましい事故が起きています。

 この講座は慰霊の日が過ぎてもYouTubeで引き続き視聴することができますので、ぜひ視聴し沖縄戦とその後の米軍統治による読谷村での飛行場建設や住民の被害、基地負担などについて学んでいただきたいと思います。

令和2年6月23日 沖縄慰霊の日(魂魄の塔、平和の礎)

【沖縄戦76年】沖縄戦を学ぶオンライン学習会 第5回「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」(沖縄県平和委員会)

 沖縄「慰霊の日」を明日に控えた22日、沖縄県平和委員会主催の沖縄戦を学ぶオンライン学習会の第5回「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」(講師:山口剛史さん、琉球大学教育学部)を聴講しました。

講師の山口さん:琉球朝日放送2020.3.25

 山口さんは琉球大学で主に沖縄戦と平和教育の問題などについて研究されていますが、特に学校での授業の実践を通じ、子どもたちの歴史認識や子どもたちの疑問と向き合い、沖縄戦教育・平和教育のあり方についてお考えになっています。

 このたびのオンライン学習会で山口さんは、現在の沖縄戦教育・平和教育の一例、例えば沖縄戦で住民が避難したガマに子どもたちを連れていき見学させ、そのなかでガマ内の暗闇を体験させるという「暗闇体験」を通じて子どもたちが感じる恐怖心から沖縄戦の恐怖を想起させ共感させるといったガマ学習を取り上げ、はたしてそうした体験は学び、伝えていくべき沖縄戦の実相(恐怖)なのかと問題を投げかけます。

 その上で沖縄戦教育が陥っている問題としてしばしば指摘されている「戦争は悲惨」「平和が大事」といったいわゆる「平和教育のマンネリ」について、必ずしも戦後70数年といった歴史が生み出したものではなく、子どもが主人公の授業をどうつくりあげるかという問題だとし、「地上戦の特徴を考える」、「沖縄戦における戦争動員について考える」、「沖縄の住民はどう生き残ったのかということを考える」という山口さんの実践を紹介いただきました。

 例えば「地上戦の特徴を考える」という実践では、沖縄戦のすさまじい地上戦の惨状を形容する有名な「鉄の暴風雨」「カンポーヌクエヌクサー(艦砲の喰い残し)」といった言葉を具体的にイメージすることを大事にし、子どもたちに爆弾の破片を触らせ具体的に「モノ」を通じて戦場のリアリティを想起させつつ、いかに地上が危険だったかを考えることを通じ、上述のガマ学習でいえば住民が避難するためにガマに入ったこと、ガマを求めて南部へ避難したこと、そしてそのガマを日本兵に追い出されたといった沖縄戦教育に導き、そこから今も軍隊があり兵器があることはなぜなんだろうといった総合的な平和教育に発展させていくといった実践をなされているそうです。

 そうした山口さんの実践と沖縄戦教育・平和教育の現状のリポートを通じ、学校教育ばかりでなく社会教育や地域教育を通じ、私たちがどのように「沖縄戦の何を学び、伝えなければならないのか」ということを考えさせられました。

学習会でお話しされる山口さん

 学習会の最後、聴講者との質疑応答では、沖縄戦や過去の大戦の被害の側面ばかりでなく朝鮮出身者や大陸での加害の問題、チビチリガマを荒した少年たちと学校教育の問題、沖縄への差別や蔑視の問題などについて、活発な意見交換がなされました。

【沖縄戦76年】「沖縄の戦争展」写真・資料展示会「沖縄戦展」(戦場体験放映保存の会、文京シビックセンター)

 18日、戦場体験放映保存の会による「沖縄の戦争展」の写真・資料展示会「沖縄戦展」を鑑賞しました。

「沖縄戦展」展示会場の様子

 「沖縄の戦争展」では、沖縄戦犠牲者の遺骨が混じっている可能性のある沖縄南部の土砂を基地建設のために使用してはならないと訴えている遺骨収容ボランティア「ガマフヤー」代表の具志堅隆松さんを招いたウェブ講演会や、沖縄戦を実際に戦った元日本兵の方や白梅学徒隊として看護要員に動員された沖縄の女性から戦争体験を伺うウェブ茶話会、沖縄戦に関連する写真やガマなどから見つかった資料、沖縄戦体験者の証言をまとめたパネルなどを展示する「沖縄戦展」からなっています。

 写真・資料展示会「沖縄戦展」では、日米の激しい戦闘の様子やそれにより命を落とした犠牲者の遺体、あるいは捕虜となった兵士たちや収容された住民たちなど米軍が撮影した沖縄戦当時の写真が展示されているとともに、兵士や住民が逃れたガマを戦後に調査撮影した写真なども展示され、そこでは人々の衣服が米軍の火炎攻撃により炭化しガマに付着した様子など、凄惨な沖縄戦の現実が示されていました。

 また具志堅さんはじめ多くの人が今なお取り組んでいる沖縄戦の遺骨収容の様子を撮影した写真も展示されていました。

 展示されている写真を見ると、遺骨収容と聞いてイメージするような、遺骨がある程度骨格を保ったまま発見収容されることもある一方で、一見遺骨とわからなくなりながらもよく見ると細かく無数の遺骨が土砂に混じって発見収容されることもあり、慣れない者が簡単なチェックをして遺骨はなかったと判断し南部の土砂を基地建設に使用するようなことは絶対に避けなければならないことが理解できます。

遺骨収容の様子や土砂に混じった細かい遺骨など

 写真・資料展示会「沖縄戦展」は、文京シビックセンター1階にて今月18日から20日まで、ウェブ茶話会は19日と20日にネットもしくは文教シビックセンター近くの視聴会場にて視聴することができます。残念ながら具志堅さんの講演は終了していますが、展示会場で録画が放送されています。

 詳しくは以下の案内をご覧下さい。

【沖縄戦76年】「海軍中将大田実顕彰碑」、ピースフェア2021「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦」

 12日、沖縄戦で海軍沖縄方面根拠地隊の司令官を務めた大田実海軍中将の生家に建つ「海軍中将大田実顕彰碑」(千葉県長柄町)を訪問しました。

「海軍中将大田実顕彰碑」

 大田中将は明治24年、千葉県長柄町に生まれ、海軍兵学校を卒業後、主に砲術や海軍における陸戦の専門家として上海事変などに陸戦隊の大隊長として出征した他、ミッドウェー島攻略を目指す海軍部隊の陸戦の指揮官などを務めました。

 また昭和19年より海軍沖縄方面根拠地隊の司令官として沖縄の海軍部隊を指揮し、米軍沖縄上陸後は海軍小禄飛行場(現那覇空港)周辺の防衛などを担い、昭和20年6月13日未明、豊見城の海軍司令部壕において海軍部隊の幕僚ともども自決しました。

 自決直前の6月6日、大田中将は沖縄県知事にかわり海軍次官宛てて、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉で結ばれた沖縄戦の実情を報告する文章を送りました。

 この「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の一節は大変有名であり、県民を思いやる立派な言葉ですが、それはあくまでも沖縄戦で軍が県民を戦争に巻き込み、保護や配慮も十分でなく、県民が多大な犠牲を強いられたという沖縄戦の現実があっての上でのものであり、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の言葉だけが独り歩きし、まるで県民がみずからの意志でお国のために勇戦敢闘したという、ある種の殉国美談として語られることには注意が必要です。

顕彰碑と碑文

 それとともに軍首脳として沖縄戦の指揮をとった大田中将自身が沖縄戦において沖縄県民のために何をしたのか、戦争を避け、住民保護に全力を尽くしたのかということも考える必要があります。県民への配慮は、沖縄戦において大田中将自身がするべきことであったはずですが、沖縄戦では大田中将ひきいる海軍部隊も県民を多数防衛召集し戦争に動員しており、沖縄県民を「スパイ」視したり、また朝鮮出身者を戦争に巻き込むなどもしてます。

 そして何より大田中将が「御高配」を願った「後世」たる現代を生きる私たちは、沖縄戦で犠牲になった沖縄に何を押しつけ、何を強いて、何を得ているのか、そのことも考えていく必要があります。

 その後、千葉市の複合ビル Qiball(キボール)で開催中の千葉市平和のための戦争展ピースフェア2021 in 千葉「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦・他」を見学しました。

ピースフェアの展示

 ピースフェアでは、昭和20年5月8日、6月10日、7月7日の千葉市空襲など千葉県と千葉市に関係する戦争の展示とともに、主に東京大空襲と沖縄戦を中心とした戦争孤児の問題についての展示がなされていました。

 戦争孤児の問題は近年ようやく本格的な実態調査や研究が進み、社会的に認知されるようになりました。特に沖縄戦と戦争孤児の問題については、沖縄北部の沖縄戦や沖縄戦における護郷隊、あるいは秘密戦の問題に詳しい川満彰さんが研究を進めています。

 また戦争孤児の問題とも関連しますが、今国会での成立が期待されながらも残念ながら法案提出にいたらなかった空襲被害者救済法の早期成立に向けた展示などもなされていました。

 ピースフェアは13日(日)まで Qiball 1階のホールで開催しています。

「海軍中将大田実顕彰碑」訪問

令和3年6月9日 「葦津家之墓」墓参 葦津珍彦没後29年を前に

 今年で没後29年となる葦津珍彦の命日を明日10日に控え、珍彦そしてその父耕次郎はじめ葦津家の人々の眠る「葦津家之墓」をお参りしました。

 そもそも葦津家は、福岡の筥崎宮の祝部であった大神氏をルーツとし、筥崎宮における神仏分離運動を展開し流刑に処された大神多門の弟嘉納の次男で筥崎宮や香椎宮の宮司を務めた葦津磯夫を始祖とします。

 磯夫とその妻とらの子に洗造と耕次郎がおり、洗造は父磯夫の跡を継ぎ筥崎宮の宮司を務め、耕次郎も筥崎宮に一時奉職しますが、後に耕次郎は大陸での鉱山業や靖国神社神門など社寺建築業といった事業を営みつつ、頭山満など在野の各方面と通じ、ある種の神道浪人的な立場から時の政治や社会問題について政府要路に活発に意見するなどしました。

 その耕次郎と妻ナニハ(なには)の長男として明治42年、珍彦が生まれます。

 珍彦は戦前、戦争に向かう時の政治を厳しく批判し、特にナチス批判や三国同盟批判、戦時下では東条内閣の言論統制に抗うなどし、危険人物として権力に睨まれることもありました。上海に渡った珍彦が大陸戦線における日本軍の暴虐を実見報告したり、戦争末期には政府要路に「名誉ある和平」を進言するなど、珍彦は権力に阿ることない孤高の活動を続けました。また戦前は耕次郎の営んでいた社寺建築業を継ぎ、一定の成功をおさめるなど、珍彦には事業家としての一面もありました。

 珍彦は戦後、神社の守護に身命を賭すことを決意し、神社本庁の設立に尽力奔走して占領下の神社を護持するとともに、神道ジャーナリズムの立場から活発な言論活動を展開し、元号法制化問題、靖国神社国家護持問題、政教分離問題などの運動を実践的にも理論的にも指導しました。

 他方、周囲からの批判や誤解を恐れず朝鮮戦争を契機とする日本の再武装・再軍備に神道の立場から反対の意見を呈するなど、日和見に陥ることのない独特の思想的営為と言論活動を続け、昭和から平成へのお代替わりを見届けるかのように平成4年に亡くなりました。

 私たち花瑛塾の結成趣意書も珍彦の思想に学び、その維新論を引用するなどしていますが、これからも珍彦の思想と精神を恢弘していくつもりです。

令和3年1月7日 「葦津家之墓」墓参

令和3年5月29日 ウィシュマさんを偲ぶ会(築地本願寺)

 名古屋の入管施設で今年3月に亡くなったスリランカ出身のウィシュマ・サンダマリさんを偲ぶ会が築地本願寺でいとなまれました。

 日本が好きで日本語を学びたいと思い来日したウィシュマさんを、暴力的で差別的な日本の入管行政が死に至らしめたと思うと本当にやるせない思いです。

 ウィシュマさんに対し日本人として心より謝り、哀悼の意を表すため、ウィシュマさんを偲ぶ会に参列し、献花をしました。

ウィシュマさんの遺影と献花台

 ウィシュマさんは平成29年、母国スリランカで語学学校を開きたいという夢をもって留学生として来日、日本語学校で学んでいました。

 しかしウィシュマさんは次第に学校を欠席しがちになり、除籍処分となってしまいました。ウィシュマさんはその間、同居していた男性から暴力(DV)をうけており、おそらくその関連で学校を欠席しがちになったのではないかといわれています。

 学校を除籍となったウィシュマさんは在留資格を喪失し、オーバーステイ状態になりました。そして昨年8月、同居男性のDVに耐えかね、みずから交番に出向いたそうです。当然、オーバーステイであるため入管に送られますが、この時点でウィシュマさんは入管施設を一種のシェルターのような保護施設だと認識していたともいわれています。

 ウィシュマさんが交番に出向き、入管に送られるなかで、警察も入管庁もウィシュマさんがDV被害者であることを把握していました。そうした場合、当局はDV防止法に基づき、在留資格の確保も含め必要な保護措置をとらねばなりませんが、実際には保護措置などは充分に行われていなかったようです。

 入管に収容された当初、ウィシュマさんはスリランカへの帰国を希望しましたが、DVをふるっていた同居男性から帰国するならば家族に危害を加えるといった趣旨の脅迫めいた手紙が送られてきたことや、日本で身元を引き受ける支援者が見つかったことなどから日本に残ることを希望するようになりました。

 ところがウィシュマさんが日本に残ることを希望し始めると、入管の態度は急変し、帰国を強要するなど非常に高圧的になったそうです。

 ウィシュマさんは精神的に追い詰められ、今年1月ごろより体調を崩し、嘔吐を繰り返すようになりました。入管がウィシュマさんを外部の病院の診察をうけさせたところ、ウィシュマさんを診察した医師は入院や点滴の必要性を認め、カルテにもその旨記しましたが、入管は点滴など適切な医療をしようとはしませんでした。

 ウィシュマさんは次第に自力での歩行や食事も困難になり、体重も15キロ以上減少していきます。そして今年3月6日、息を引き取りました。享年わずか33歳でした。

 ウィシュマさんのご遺体は変わり果てた姿となっており、ご遺族はご遺体を見てもウィシュマさんだとわからないほどであったといいます。髪が抜けていたのでしょうか、ご遺体にはかつらがかぶされていたそうです。ご遺族の希望によりテレビでご遺体の一部が放映されましたが、ウィシュマさんの生前の写真からは想像できないほどぼろぼろの状態でした。

偲ぶ会の会場入口

 入管庁が公表したウィシュマさんの死についての中間報告は、いくつかの点で事実を隠しているかのような記述が見られ、実態を正確に調査し報告公表していない疑義があります。関係者らは、ウィシュマさんが入管において収容されていた居室備え付けの監視カメラの映像の開示を求めていますが、法務省・入管庁は本人の名誉や尊厳、また保安上の理由などから開示を拒んでいます。

 しかし既に開示されている入管収容者を撮影した同種映像もあり、保安上の理由で開示を拒むのは適切な対応とはいえません。そうした対応をとる法務省・入管庁こそ、ウィシュマさんの名誉や尊厳を冒涜しているといわねばなりません。

 今国会での入管法改正案はひとまず廃案となりましたが、ウィシュマさんを死に至らしめた名古屋の入管施設の職員たち、そしてウィシュマさんを死に至らしめた日本の入管行政の暴力性や外国人への差別蔑視という大きな背景や構造は、何もかわらず今でも健在です。

 真にウィシュマさんを弔うためには、何よりもウィシュマさんの死の真相を究明することが必要であり、そこに犯罪行為があるのならば、関係者を処罰する必要があります。

 その上で日本への来日滞在を希望する人が安心して暮らせるような「保護」を軸とする入管行政へ移行し、二度とウィシュマさんのような犠牲を出さないことが求められているのではないでしょうか。

献花には大勢の人が訪れた

令和3年5月26日 御嶽神社、高山神社参拝

 栃木県足利市の両崖山の山頂に鎮座する御嶽神社、ならびに群馬県太田市に鎮座する高山神社を参拝しました。

両崖山 御嶽神社

 御嶽神社は、教派神道の一つである神習教の足利丸信支教会(丸信講)が幕末、木曾の御嶽山の御嶽神社を勧請し創建されました。

 神社といっても一般にイメージされるような大きな拝殿や本殿、社務所があってといったものとは異なり、山の祠のようなものですが、創建以来、足利丸信支教会を中心に地域の尊崇を集め、また山頂までハイキングコースとなっていることから、ハイカーなども参拝に訪れていました。

 両崖山一帯は今年3月、大規模な山火事に見舞われ、御嶽神社にもその火の手がまわりました。奇跡的に御嶽神社の本宮は無事でしたが、本宮左右の月読命と天神様を配祀するお宮は消失してしまいました。神社の周囲にも山中のあちこちにもまだ山火事の痕跡がありますが、それでも御嶽神社は今なお支教会の人々が祭祀を継続し、多くの人が参拝に訪れています。

本宮と山火事により燃えた木

 御嶽神社はゲームやアニメの「刀剣乱舞」のキャラクターともゆかりのある神社とのことで、若い人も参拝に訪れており、そうした崇敬の念をもとに遠からず再建再興されるものと思います。

 その後、足利市に隣接する群馬県太田市の高山神社を参拝しました。

再建された高山神社本殿

 高山神社の祭神は、江戸時代の尊皇思想家である高山彦九郎です。高山彦九郎は江戸時代にこの地に生まれ、全国を遊学しつつ様々な人々と交わりました。その事績から蒲生君平、林子平とともに「寛政の三奇人」とまで称されています。

 高山彦九郎は尊号一件という朝廷と幕府の政治的緊張を高めた事件により幕府に警戒され、最終的に自ら命を絶ちますが、明治時代に入り太田の人々を中心に高山神社創建の気運が高まり、明治12年に神社創建、鎮座祭が行われました。

 高山神社は平成26年の年末、市内の無職の男により放火され、本殿が全焼してしまいました。火災直後にも高山神社を参拝しましたが、まさに本殿は灰燼に帰し、見るも無残な状態でした。

 この日の高山神社参拝は、それから6年を経ての参拝ですが、残念ながら今なお往時のような姿での本殿再建の目安はたっていないようです。しかしそれでも旧本殿付近も少しずつ整備され、奇跡的に無事であった旧本殿の木材を使い、篤志家による奉献などもあり、規模を小さくした本殿が鎮座しております。

 高山神社には現在も参拝者が訪れている他、地域の児童や生徒、若者たちのスポーツのトレーニングの場となっているなど、今でも地域の尊崇を集め、また地域の絆の中心となっており、人々に親しまれていることから、こちらまたそうした尊崇の念をもとに、いつの日か往時のような立派な本殿が再建されるものと思います。

消失してしまった本殿跡

令和3年5月20日 森口豁写真展「米軍政下の沖縄 アメリカ世の記憶」(銀座わした一丁目劇場)

 銀座わした一丁目劇場(沖縄県物産公社「銀座わしたショップ」地下)で開催中のジャーナリスト森口豁(かつ)さんの写真展「米軍政下の沖縄 アメリカ世(ゆー)の記憶」を鑑賞しました。

写真展の様子(撮影可の場所で撮影しています)

 森口さんは東京出身のジャーナリストで、高校時代に沖縄の高校生と出会ったことをきっかけに沖縄に関心を持ち、大学中退後は沖縄に移住、沖縄の地元紙である琉球新報の記者や日本テレビ沖縄特派員などを務めました。その後はフリージャーナリストとして米軍統治下の沖縄の実態を伝えるとともに、沖縄「復帰」後も沖縄について発信し続けています。

 写真展では、森口さんが撮影した米軍統治下の沖縄、例えば瀬長亀次郎那覇市長が米軍の不当な圧力を背景とする市長不信任に対抗し行なわれた市議会選挙(「『カメさん』を支えた夏」 那覇市首里 1957年)、B52爆撃機の撤去闘争(「B52撤去闘争」 嘉手納町 1969年)、キャンプ・シュワブ建設に伴い地域住民が基地による特需を期待するも潤ったのはベトナム戦争の一時期だけだったという辺野古(「キャンプ・シュワブがやって来る!」 旧久志村 1957年)など米軍基地の問題を撮影した作品の他、「医介輔」といわれる旧日本軍の元衛生兵や医学校中退者など代用医師がいるだけで無医村であった伊平屋島に医師がやってきた日(「島に医者が来る日」 伊平屋島 1963年)など、沖縄の島しょ部の厳しい現実を撮影した作品などが展示されています。

わしたショップは沖縄のアンテナショップとなっている

 「『カメさん』を支えた夏」は、現在の沖縄の県知事選挙などにおける政権の介入とも重なりますし、「キャンプ・シュワブがやって来る!」 は、在沖米軍基地の問題を考える上で重要ないわゆる「基地経済」の問題を考える視点ともなるなど、森口さんが撮影した米軍統治下の沖縄は、約50年もの歳月を経て今なお考えるべき様々な問題を私たちに提起しています。

 それ以外にも基地のなかにある先祖の墓、廃村となる西表島の集落、村のはずれに隔離されたハンセン病患者、祭祀を行なう久高島の女性たちとその上を飛ぶ米軍機、ベビーブームの子どもたちなど、当時の沖縄の人々のありのままの姿と様々な矛盾や苦境、そしてそこに絡みつく米軍統治や過去の戦争の問題が生々しく写し出され、展示されています。

 来年には沖縄「復帰」から50年という節目を迎えますが、あらためて沖縄について考えるためにも、森口さんの写真展をぜひ鑑賞してほしいと思います。

 写真展は5月31日まで、日によっては会場に森口さんがいらっしゃることもあるそうです。