令和2年の年末の越冬闘争に食品や生活用品の支援をしました

 歳の瀬になると毎年、路上生活者や日雇い労働者をはじめ不安定な生活を余儀なくされている方々を支える越冬闘争や越年越冬活動といった言葉が聞こえてきます。

 今年も早いもので歳の瀬を迎え、越冬闘争や路上生活者などへの支援の声が聞こえ始めました。不安定な生活を余儀なくされている方々にとって、この日本で冬を越すことは凍死や病死や餓死、あるいは理不尽な暴力による落命と隣り合わせの「闘争」なのです。

 「自助」が求められる昨今ですが、自助をするために何より必要なのが共助であり公助です。社会的なサポートがあってこそ、人間は自らを助けることができます。

 まして不安定な生活を余儀なくされている方々は、自ら進んでそうした生活を求めたわけではありません。

 長年、大阪・西成のあいりん地区で労働者の支援活動などをする本田哲郎神父は、社会的弱者や困窮者に対する聖書の「小さき者」という訳を「小さくされた者」と訳しています。社会的弱者や困窮者はもともと小さいのではなく、弱い立場に追いやられ、困窮を強いられ、小さくされたのだということです。

 この小さくされた者が再び立ち上がるためには、小さくされた者を小さくした社会の側がサポートする必要があるのは当然のことです。

 そうした見地から、東京・山谷の労働者の皆さんの今年の越冬闘争の初日の今日、昨年に引き続きささやかながら食品や生活物資を支援しました。

 寄付などは誰にも言わずに影で行うものだと教えられ、今までそうしてきた私たちですが、社会問題や人々の関心を喚起し、支援の機運を醸成するためにも、今回あえて発信する次第です。

差し入れした支援物資

令和2年12月8日 対英米開戦79年 大東亜戦争開戦の意義を問い直す

 対英米開戦から79年の今日、千葉県館山市内に残る先の大戦に関するいくつかの戦争遺跡を見学しました。

 館山は東京湾に面し防衛上の要地であるとともに太平洋に近い戦略上の要地であり、軍事上の重要な拠点でした。実際に館山には海軍館山航空隊(「館空」)や海軍砲術学校(「館砲」)などが置かれていました。

 戦局が悪化し本土決戦が現実味を帯びると、館山の軍事的重要性は高まり、上陸する米軍を迎撃するための様々な部隊が配備され、軍事施設が建設されていきました。

 本土決戦が回避され、昭和20年(1945)9月2日に戦艦ミズーリ号で降伏調印式がおこなわれると、翌3日に横浜と館山に米軍が上陸し、占領を開始します。特に館山に上陸した米軍は、数日間ですが館山の地に軍政を敷きました。これは沖縄以外では本土で唯一の措置であり、いかに米軍が館山の軍事的重要性を理解し、また警戒していたかということがわかります。

 以下、見学した戦争遺跡を簡単に紹介します。

米軍上陸の地、海軍館山航空隊水上班滑走台跡

 戦艦ミズーリ号での降伏調印式の翌日の昭和20年9月3日、「館空」の水上機の滑走台に米陸軍第8軍第11軍団の3500名が上陸用舟艇で上陸し、館山の地を占領するとともに数日間ながら軍政を敷きました。これは沖縄以外で本土唯一の直接軍政でした。「館空」は現在の海上自衛隊館山基地となっており、滑走台跡は同基地に隣接する造船所内に現存しています。

水上班滑走台跡
海軍赤山地下壕

 「館空」の南側の小高い山である赤山には全長2kmもの巨大な地下壕があり、海軍航空隊の通信所や航空兵器の開発拠点、あるいは「館空」の対空砲台の指揮所などとして使用されていたといわれています。赤山地下壕に関する資料は全く残っておらず未詳な点も多いですが、司令部や野戦病院などと考えられる形状の壕も残っており、大規模な航空要塞だったと考えられます。なお地下壕は全て人力、道具はツルハシのみで掘られており、壁にはツルハシで掘った窪みが見えます。

 また赤山地下壕の近くには軍用機を隠す掩体壕がありますが、こうした掩体壕と赤山地下壕は連動し、赤山地下壕での航空兵器の開発のために使用される軍用機の掩体壕であったと考えられています。

ツルハシの跡がはっきりと残る赤山地下壕
第59震洋隊特攻艇秘匿壕、出撃地跡

 終戦間近の昭和20年7月、館山の波左間に第18突撃隊隷下として第59震洋隊総員176名が配備されました。また波左間の隣の洲崎地区には第59震洋隊の分隊が配備されました。

 震洋隊とは海軍の特攻艇「震洋」を使用し、夜陰に乗じて敵艦に体当たりして自爆攻撃を行う特攻部隊です。特攻艇は普段、秘匿壕に格納し、有事の際は秘匿壕から特攻艇を海上に前進させ、敵艦めがけて出撃することになっており、第59震洋隊は本土決戦のため米軍の軍艦が近づいてきたら出撃する予定となっていました。

震洋出撃地 桟橋状のブロックをつたって出撃する

 以上のように館山の戦争遺跡を見学しましたが、これほどまでにして戦われた先の大戦とは一体なんだったのでしょうか。

 昭和16年12月8日未明、日本陸軍第25軍はマレーシア・コタバルのサバク海岸に上陸し、英軍と交戦状態に突入しました。その数時間後、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾の米艦隊を攻撃しました。また上海の租界の接収、香港への突入、フィリピン攻略の開始などの軍事作戦も始まり、先行する中国戦線も含め、ここに英米蘭などの国と「大東亜戦争」と呼称される戦争が開戦されました。なお、この戦争については、最近では歴史学的な立場から「アジア太平洋戦争」などと称される場合もあります。

 開戦の背景には、昭和12年からの日中戦争の行き詰まりと、対日禁輸政策など日米交渉の難航といった危機的情勢があります。東南アジアへの進出により状況の打開をはかった日本ですが、いっそうの世界的孤立を強めていきました。同時に、当時の世界情勢はドイツがフランスを降伏させ、英国およびソ連と戦争状態にあるなど急展開しており、日本は急速に対英米開戦に傾いていったのです。

 対英米開戦時の日本の軍事戦略と終戦構想は、東南アジア一帯を勢力圏とし、重要資源を確保し、ドイツがソ連と英国を降伏させた上で、米国と講和を締結するというものでした。しかし既にドイツは対ソ戦で敗走を始めており、開戦前において日本の軍事戦略と終戦構想は崩壊していたともいえます。

 それでも開戦された戦争の初期、日本軍は東南アジア各地に進出し、軍政を展開しました。軍政の第一目標は石油などの重要資源の確保と日本への輸送であり、第二目標は現地に展開する日本軍のための物資獲得でした。これにより現地住民の生活や経済に大きな負担をもたらしました。

 日本の終戦構想が東南アジアにおける勢力確保であり、中国戦線のために蒋介石率いる国民党を援助する援蒋ルート遮断が重要戦略に位置づけられるなど、コタバル上陸作戦が真珠湾攻撃に先立つこともふくめ、この戦争は「アジアの戦争」であったということができます。

 事実、日本は昭和18年に大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を発出し、アジア解放とアジア諸国の互恵・平等を宣言します。またそこで、日本を盟主としアジアを従属させる意味合いの強かった「大東亜共栄圏」構想を放棄し、「大東亜同盟」構想ともいうべきアジア諸国の対等・独立を目指します。

 大東亜共同宣言は、連合国による大西洋憲章に対抗する意味もあり、フィリピンやビルマの独立を認めるなど、内容そのものは先進的な価値を有しています。しかしインドネシアの民族主義者スカルノなどは会議に招請されず、また日本はジャワやセレベスといった戦略的要所は日本領とするなど、問題も存在していました。

 ソ連の反撃とドイツの敗走という戦略的の崩壊とともに、真珠湾攻撃では日本海軍潜水艦部隊が何らの成果をあげられず、マレー沖海戦では航空作戦を用い英軍の戦艦を撃沈させながらも、日本軍攻撃機の被弾率が40パーセントを超えるなど、連合軍の防空能力の強さが示され、戦術的な失敗が存在していました。既に開戦前後において、戦局には暗雲が立ち込めていたのです。しかし開戦初期の大勝利のなかで、こうした戦術的失敗は真剣に検討されず、昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗北以降、情勢打開の見込みなき戦いが繰り返されていきます。

 戦況の悪化は、軍政下のアジアにも大きな被害をもたらしました。重要資源を日本へ運ぶ輸送船は、ことごとく連合軍によって撃沈され、アジア諸国の食料や生活用品などの輸送にも支障をきたし、食糧難や生活難が発生します。そして連合軍の逆上陸に備え、軍政下の地域の経済などは全て軍事動員されていきました。こうした日本軍政の反発のなかで、抗日ゲリラ闘争が高まり、独立運動が展開されるなどしました。

 このように先の大戦を対英米開戦というだけでなくアジアの視点から振り返った時、多くの人々の悲劇と痛苦を感じずにはいられません。奇しくも昨年の開戦の日、アジアの人々を傷つけ苦しめている技能実習生制度の問題点を曖昧にしたまま改正入管法が成立しました。そしてコロナ禍にあって、多くのアジアの技能実習生が日本において迫害に近い状況にあっています。

 今日という日にあらためて私たちの国の「アジアへの視線」を問う必要があるのではないでしょうか。

令和2年12月1日 巣鴨プリズン跡、「愛の像」

 先の大戦後、東京裁判や横浜裁判など各地の戦犯裁判の被告や受刑者が収容され、また処刑場ともなった巣鴨プリズン跡(東池袋中央公園)を訪れ、刑死者はじめ全ての死者を慰霊するとともに、処刑されたBC級戦犯の遺書をまとめた『世紀の遺書』の収益で建立された「愛の像」(東京駅)を見学しました。

巣鴨プリズン跡に建つ慰霊碑

 巣鴨プリズンはもともと東京拘置所(巣鴨拘置所)でしたが、米軍に接収され巣鴨プリズンとして戦犯とされた被告や戦犯裁判により服役することになった受刑者などが収容されました。また死刑判決をうけた人々の処刑場ともなりました。

 連合軍による占領終了後、巣鴨プリズンは巣鴨刑務所となり、引き続き戦犯受刑者を収容しました。昭和31年の時点でなお900人の戦犯受刑者が収容されていたといわれています。

 巣鴨プリズン、また巣鴨刑務所では被告や受刑者など収容者による自治が行われ、収容者が所内誌「すがも新聞」を発行したり、自主講座として教育を行う「巣鴨学園」を設立するなどして自身の戦争犯罪と向き合い、内省を深めたといわれています。

 巣鴨には戦犯とされた朝鮮出身者なども収容されました、彼らは「郷愁」という所内誌を発行し、日本統治から解放された祖国への思いを熱烈に綴るなどしています。

 巣鴨プリズンは昭和46年に解体され、あたりは公園として整備されたり、サンシャインシティが建設されるなどしました。

 「愛(アガペー)の像」は、そうした巣鴨プリズン、巣鴨刑務所の収容者のうち、BC級戦犯として死刑判決をうけた刑死者の遺書をまとめ刊行された『世紀の遺書』の収益金で建立されたブロンズ像です。刑死者たちの遺書はわずか数行のものから長文のものまで様々ですが、じつにトラック一台分もの量があったといわれています。

東京駅に建つ「愛の像」

 いわゆるA級戦犯裁判については様々な議論がありますが、BC級戦犯裁判はどちらかといえば上官の命令に従っただけの末端の下士官兵が戦勝国により報復的に裁かれたといったイメージがあると思います。

 しかしBC級戦犯裁判の実態は、個別の事件によって様々で一概にはいえません。

 BC級戦犯には確かに上官の命令に従っただけの者もいましたが、一方で山下奉文はじめ高級軍人も多数おり、上官の命令に従った末端の下士官兵だけが戦犯として裁かれたとはいえません。

 また戦犯裁判は通常の刑事裁判と異なり一審だけの裁判であり、証拠手続きも被告側に不利なように簡略化されるなど、戦勝国の報復といった面は否定できませんが、BC級戦犯のなかには残念ながら捕虜の虐殺や略奪行為など戦争犯罪として弾劾されても仕方のない残虐行為をはたらいた者がいたことも事実であり、それら戦犯への判決は、現在の刑事事件の判決に比較しても妥当といえるべきものでした。

 こうした先の大戦をめぐる加害も被害も含めた様々な歴史が凝縮された巣鴨プリズンの悲哀を忘れず、また二度とこのような歴史を繰り返してはなりません。

令和2年11月30日 朝鮮、台湾出身陸軍特別志願学徒壮行会(日比谷公会堂)

 昭和18年11月30日、77年前の今日、朝鮮、台湾出身の在日学生の出陣学徒壮行会が開催された日比谷公会堂を訪れました。

日比谷公会堂

 もともと日本統治下の朝鮮、台湾では兵役の義務がありませんでしたが、日中戦争による兵力確保の要請から昭和13年に朝鮮、台湾における特別志願兵制度が定められ、志願によって軍隊に入ることが認められました。

 昭和18年10月に日本人学生の徴兵猶予が廃止され学徒出陣が始まると、日本の大学などで学ぶ朝鮮、台湾出身の在日学生も特別志願兵制度に基づき学徒出陣をさせる気運が高まりました。もちろん、あくまでも特別志願兵制度は「志願」に基づくものであり、在日学生も「志願」によって軍隊に入る建前でしたが、警察が在日学生や在日学生の親元に「志願」したのかしつこく聞いて回ったり、学校側から「志願」を拒むと休学させると脅されるなど、事実上の強制による学徒出陣でした。

日本人学生の学徒出陣を大々的に報じる当時の新聞

 朝鮮、台湾出身の在日学生の学徒出陣の歴史は今なおあまり知られていませんが、当時から朝鮮、台湾出身の在日学生の学徒出陣は、その前月におこなわれた日本人学生の学徒出陣に比べ報道の扱いも小さく、日本人学生に比べ朝鮮・台湾出身の在日学生の命が軽視されていたことがわかります。

 また学徒出陣した日本人学生ですら軍隊内では正規将校に比べて差別され、優先的に特攻隊に送られるなど正規将校の身替わり扱いにされるなか、学徒出陣した在日学生の軍隊内での差別はいうまでもなく厳しいものがあったといわれています。

 こうした日本人学生の学徒出陣に続く朝鮮、台湾出身の在日学生の学徒出陣、もう一つの学徒出陣を忘れてはなりません。

朝鮮、台湾出身学生の学徒出陣を伝える当時の新聞 日本人学徒出陣に比べ、極端に報道の扱いが小さい

令和2年11月25日 「楯の会」事件50年 三島由紀夫墓参、学習会

 三島由紀夫、森田必勝らによる「楯の会」事件より50年のこの日、昨日の森田必勝の墓参に続き、三島由紀夫(本名:平岡公威)のねむる「平岡家之墓」をお参りし、三島森田両氏を偲びました。

「平岡家之墓」

 また三島の墓参後、再度のコロナの感染拡大により様々な集いを制限せざるを得ない状況のため、オンライン会議アプリを使い、三島文学の中でも特に優れているといわれる三島の戯曲、なかでも為朝渡琉伝説など日琉同祖論から古琉球・沖縄とも関連の深い「椿説弓張月」(原作:曲亭馬琴)を題材に、有志でオンライン学習会を開催し学習を深めました。

zoomを使ったオンライン学習会の様子

令和2年11月24日 「楯の会」事件50年 森田必勝墓参

 三島由紀夫、森田必勝らによる「楯の会」事件より50年を明日に控えたこの日、森田のねむる「森田家先祖代々之墓」をお参りしました。

「森田家先祖代々之墓」

 昭和20年に三重県四日市市で生まれた森田は、早大在学中に三島由紀夫と出会い、三島の設立した「楯の会」に入会します。入会後は楯の会の学生長などとして活躍しますが、昭和45年11月25日に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島とともに命を絶ちました。

 墓参後、森田の墓の近くにある森田の生家を弔問し、庭に建つ森田の胸像や森田の辞世が刻まれた歌碑に拝礼するとともに、森田の位牌や遺影など御仏前をお参りし、焼香合掌しました。

「森田必勝之像」と歌碑

令和2年11月16日 花瑛塾結成4周年「花田家之墓」墓参

 平成28年(2016)11月16日に結成した花瑛塾はこの日、結成4周年を迎え、5年目を迎えるなか、道統の祖と仰ぐ花田瑛一氏のねむる「花田家之墓」を墓参をし、結成よりこれまでの取り組みと今後の決意をお伝えしました。

 花田氏は昭和初期の東京に生まれ、私立大学に進学しますが、終戦直後の混乱の時代にあって中途で退学、その後は東京の渋谷で青春を過ごし勇名を馳せるとともに、昭和後期からは千葉の館山に道場を設け、多くの青少年の指導に当たりました。私たちはそうした花田氏を道統の祖として仰ぎ、範としています。

 本年は新型コロナウイルス感染症の拡大のなかで、何よりもまず感染症の収束のための行動を優先しなければならないと考え、花瑛塾として沖縄での活動はじめ表立った活動を控えていますが、感染症が収束したあかつきには、再び活発な運動を展開していくとともに、今後とも花田氏の足跡を学び、その遺志の継承と発展に務めてまいります。

「花田家之墓」

令和2年11月8日 ねりま沖縄映画祭2020(映画「ふじ学徒隊」「イザイホウ」など鑑賞)

 10月17日から11月8日まで開催された「ねりま沖縄映画祭2020」の最終日の8日、沖縄を題材とした映画を数多く撮影制作した野村岳也監督の映画「ふじ学徒隊」と「イザイホウ」ならびに野村監督を追悼するショートムービーを鑑賞しました。

映画祭の会場入口

 「ふじ学徒隊」は沖縄戦で野戦病院に動員された積徳高等女学校の女学生たちの記録映画、「イザイホウ」は沖縄の久高島の伝説的な神事を取材したドキュメンタリー映画です。特に「イザイホウ」は撮影後、40年間も封印され続けた伝説的な映画として有名です。

 野村監督の父親は軍医として沖縄戦に従軍し、沖縄の地で戦死しました。そうしたこともあり野村監督は沖縄に何度も通い、沖縄戦や沖縄の伝統的な祭祀や行事を題材に多くの映画を撮影するとともに、海燕社という映像プロダクションを設立して沖縄で映像事業を展開していったそうです。

 ふじ学徒隊(積徳学徒隊)の生存者の元女学生たちやその御遺族は高齢化が進み、その体験を直接伺うことは年々難しくなってきています。また久高島のイザイホー(イザイホウ)も祭祀をおこなう神女の数が減少し、祭祀が途絶えて久しい状況にあります。そして野村監督自身も今年5月に87歳でお亡くなりになるなかで、何かを継承したり伝承したりしていくことの大変さと重要さを感じた映画祭でした。

令和2年1月25日 花瑛塾第22次沖縄派遣団③(映画「ふじ学徒隊」鑑賞など)

米国大統領選挙の結果とバイデン次期大統領について(令和2年11月8日)

米国大統領選挙、バイデン候補が制す

 米国大統領選挙の投開票がおこなわれ、米民主党ジョー・バイデン候補が選挙人の過半数を得ることを確実にし、勝利演説をおこなった。今後、トランプ大統領による訴訟や政権移行の妨害なども考えられるが、順当にいけば来年1月にはバイデン候補が次期米国大統領に就任する予定である。

次期米国大統領に就任する予定のバイデン(左):CNNより

 トランプ大統領はこれまで様々なフェイクニュースを発信し、米国内の世論を攪乱し続けた。今回の大統領選挙においても、フェイクニュースの発信をはじめ常軌を逸した数々の振舞いをし、米国の民主主義をぐらつかせた。それ以外にもトランプ大統領による人種差別、民族差別、移民差別の言動や政策はひどいものがあり、米国社会のみならず世界に差別や偏見、分断を撒き散らした。

 目下のコロナ禍でもトランプ大統領の対応は非難を浴びている。トランプ大統領はコロナの危険性を軽視し、マスクの着用やいわゆる「3密」を避けるといったごく基本的な対応すらしなかった。そしてロックダウンなど厳しい対応をしたニューヨークのクオモ市長と対立し、「間も無くワクチンが手に入る」、「コロナの感染拡大は中国のせいだ」などといったフェイクニュースを発信する一方で、全米での爆発的感染を防ぐこともできなかった。今や米国は1日10万人単位で感染者が増えているが、その一因に感染症対策をしようとしないトランプ大統領の選挙集会があるともいわれている。

 またトランプ大統領の外交は危険極まりないものであった。対中国外交では、中国を一方的に敵視し、対立をエスカレートさせた。中国の覇権主義・大国主義的振る舞いは許し難いが、トランプ大統領の対中国外交はとにかく敵対に次ぐ敵対を繰り返し、出口なきゲームとなっていった。対イラン外交では、オバマ前大統領が実現したイラン核合意を一方的に離脱し、イランへの制裁を発動したり、イラン革命防衛隊幹部を暗殺するなど横暴を振るった。対キューバ外交では、これもオバマ前大統領が進めた緊張緩和の流れを巻き戻し、キューバへの制裁を強化した。対北朝鮮外交では、金正恩委員長との首脳会談を実現し、核開発やミサイル発射など北朝鮮の軍事的挑発を抑え込んだものの、過去にはトランプ大統領自身が北朝鮮に向けて危険な軍事的威嚇を繰り返した。

 それ以外にもパリ協定からの離脱や原子力推進など、地球環境の面でもトランプ大統領の政策を肯定することはできない。またニューヨークタイムズが報じたトランプ大統領の脱税疑惑や巨額の債務などスキャンダルも含め、今日まで4年間のトランプ大統領の振る舞いや政策を考えれば、米国にとっても世界にとっても大統領に再選させ、もう4年米国のリーダーを任せるべき人物でないことは明らかであろう。

 無論、トランプ大統領を支持した多くの米国の有権者の判断も尊重しなければならず、彼らがトランプ大統領に何を期待したのかといったことも考えるべきだが、彼らのトランプ大統領への期待が人種差別や排外主義のようなものであれば、それは実現してはならないものであり、経済的苦境からの脱却であれば、それはトランプ大統領を再選させても実現しないだろう。

 他国の民主主義、他国の有権者の判断、民意について軽々に論評し、その賛否を論じることはしたくないが、客観的に見ても、バイデン候補を米国のニューリーダーに選出し、トランプ大統領を再選しなかったことは、米国の有権者の賢明な判断であり、良識が示されたといっていいだろう。

 バイデン候補の勝利演説は、分断の統合と米国の結束を強く意識したものであった。トランプ大統領によりぐらつかされたとはいえ、米国の自由と民主主義はやはり底堅く、なお輝きを失っていない。それはもちろんバイデン候補がカマラ・ハリス氏を副大統領に指名し、ハリス氏が米国初の女性副大統領に就任予定であることにも示されている。

日米安保、沖縄の基地問題について

 それでは今回の大統領選挙の結果は、日本にどのような影響をもたらすだろうか。特に花瑛塾として力を入れている沖縄の基地負担の軽減につながるだろうか。

埋立工事が進む辺野古:東京新聞より

 沖縄の人々にとっては酷かもしれないが、私たちの見通しをいえば、バイデン候補が米国大統領になっても沖縄の基地負担がただちに軽減されるとは思えない。

 もちろんトランプ大統領よりは若干ましだろう。トランプ大統領は昨年、ロシアとの間で締結されていたINF(中距離核戦力)廃棄条約を離脱した。これに関連して、米軍が中距離弾道ミサイルを沖縄に配備する計画だと報じられている。この計画が実現されれば、沖縄の基地負担は増加するばかりか、沖縄が破滅的なミサイル戦闘の戦場となる可能性が高まる。そうしたなかでバイデン候補がトランプ大統領の外交を見直し、INF廃棄条約に復帰すれば、あるいは沖縄への中距離弾道ミサイルの配備計画も白紙となるかもしれない。

 他方、平成7年(1995)に起きたあの痛ましい沖縄少女暴行事件当時の米国大統領は、民主党クリントン元大統領であった事実を忘れてはならない。

 事件をうけてクリントン元大統領は謝罪し、国防長官であったペリー元国防長官は沖縄の基地縮小や移転を検討したが、日本政府は米国に在沖米軍基地の移転や縮小は求めなかった。そして沖縄からの強い抗議や反発をうけて、翌年に普天間飛行場の返還を柱とするSACO合意を結び、沖縄の基地負担が軽減されると喧伝したが、普天間飛行場の返還の名の下に辺野古新基地建設が強行されるなど、SACO合意の実態は基地負担の軽減どころか、基地機能を強化するものであった。

 こうした事実からいえることは、沖縄の米軍基地の永続を望んでいるのは、誰よりも日本政府自身であるということだ。そうであるのならば、バイデン候補が大統領に就任したからといって沖縄の基地負担が軽減するとは考えられない。もちろんトランプ大統領の再選は沖縄の基地負担の軽減にとって論外であるが、いずれにせよ誰が米国大統領になろうと、日本がかわらない限り沖縄の基地負担の軽減はありえない。

 言うまでもなく米国は日米安保条約の一方の当事者であり、日米安保条約や日米地位協定など日米安保体制の問題について考える必要がある。また民主主義国として沖縄の民意を尊重するべきことも当然である。しかし最後の最後は、日本政府が米国に沖縄の基地問題を説き、基地負担の軽減のために具体的で合理的な主張をし、毅然とした態度で交渉をしなければ、米国は動かない。

 バイデン候補を次期大統領とした米国民の賢明な判断と良識に敬意を表しつつ、歓迎しつつも、これをもって日本がかわる、沖縄の基地負担が軽減される、対米関係がかわるといった裏返しの対米依存のようなねじ曲がった期待は抱かず、日本として次期大統領に何を訴え、米国をどう動かすかを考えていく必要がある。

令和2年11月5日 東京都写真美術館TOPコレクション「琉球孤の写真」

 東京都写真美術館で開催中の同館TOPコレクション「琉球弧の写真」を鑑賞しました。

展示の様子

 東京都写真美術館は現在約35,000点のコレクションがありますが、本展示では同館の新規収蔵作品を中心に山田實、比嘉康雄、平良孝七、伊志嶺隆、平敷兼七、比嘉豊光、石川真生という沖縄を代表する7人の写真家の作品のうち主に初期の作品が展示されています。

 琉球孤(奄美から沖縄、宮古、八重山に至るまで諸島)に生きる人々の何気ない日常の姿、例えば伝統行事に参加したり、仕事をしたり、遊んだりする姿──それは米兵やその家族の姿も含めて──などが写し出された作品が展示されている他、コザ騒動や毒ガス移送作戦、全軍労による抗議など歴史的事象を撮影した作品が展示されています。

 11月23日までが展示期間となっています。ぜひご鑑賞ください。