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【沖縄戦76年】「海軍中将大田実顕彰碑」、ピースフェア2021「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦」

 12日、沖縄戦で海軍沖縄方面根拠地隊の司令官を務めた大田実海軍中将の生家に建つ「海軍中将大田実顕彰碑」(千葉県長柄町)を訪問しました。

「海軍中将大田実顕彰碑」

 大田中将は明治24年、千葉県長柄町に生まれ、海軍兵学校を卒業後、主に砲術や海軍における陸戦の専門家として上海事変などに陸戦隊の大隊長として出征した他、ミッドウェー島攻略を目指す海軍部隊の陸戦の指揮官などを務めました。

 また昭和19年より海軍沖縄方面根拠地隊の司令官として沖縄の海軍部隊を指揮し、米軍沖縄上陸後は海軍小禄飛行場(現那覇空港)周辺の防衛などを担い、昭和20年6月13日未明、豊見城の海軍司令部壕において海軍部隊の幕僚ともども自決しました。

 自決直前の6月6日、大田中将は沖縄県知事にかわり海軍次官宛てて、「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」との言葉で結ばれた沖縄戦の実情を報告する文章を送りました。

 この「沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」の一節は大変有名であり、県民を思いやる立派な言葉ですが、それはあくまでも沖縄戦で軍が県民を戦争に巻き込み、保護や配慮も十分でなく、県民が多大な犠牲を強いられたという沖縄戦の現実があっての上でのものであり、「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の言葉だけが独り歩きし、まるで県民がみずからの意志でお国のために勇戦敢闘したという、ある種の殉国美談として語られることには注意が必要です。

顕彰碑と碑文

 それとともに軍首脳として沖縄戦の指揮をとった大田中将自身が沖縄戦において沖縄県民のために何をしたのか、戦争を避け、住民保護に全力を尽くしたのかということも考える必要があります。県民への配慮は、沖縄戦において大田中将自身がするべきことであったはずですが、沖縄戦では大田中将ひきいる海軍部隊も県民を多数防衛召集し戦争に動員しており、沖縄県民を「スパイ」視したり、また朝鮮出身者を戦争に巻き込むなどもしてます。

 そして何より大田中将が「御高配」を願った「後世」たる現代を生きる私たちは、沖縄戦で犠牲になった沖縄に何を押しつけ、何を強いて、何を得ているのか、そのことも考えていく必要があります。

 その後、千葉市の複合ビル Qiball(キボール)で開催中の千葉市平和のための戦争展ピースフェア2021 in 千葉「戦争孤児と戦後 東京大空襲・沖縄戦・他」を見学しました。

ピースフェアの展示

 ピースフェアでは、昭和20年5月8日、6月10日、7月7日の千葉市空襲など千葉県と千葉市に関係する戦争の展示とともに、主に東京大空襲と沖縄戦を中心とした戦争孤児の問題についての展示がなされていました。

 戦争孤児の問題は近年ようやく本格的な実態調査や研究が進み、社会的に認知されるようになりました。特に沖縄戦と戦争孤児の問題については、沖縄北部の沖縄戦や沖縄戦における護郷隊、あるいは秘密戦の問題に詳しい川満彰さんが研究を進めています。

 また戦争孤児の問題とも関連しますが、今国会での成立が期待されながらも残念ながら法案提出にいたらなかった空襲被害者救済法の早期成立に向けた展示などもなされていました。

 ピースフェアは13日(日)まで Qiball 1階のホールで開催しています。

「海軍中将大田実顕彰碑」訪問