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令和3年6月9日 「葦津家之墓」墓参 葦津珍彦没後29年を前に

 今年で没後29年となる葦津珍彦の命日を明日10日に控え、珍彦そしてその父耕次郎はじめ葦津家の人々の眠る「葦津家之墓」をお参りしました。

 そもそも葦津家は、福岡の筥崎宮の祝部であった大神氏をルーツとし、筥崎宮における神仏分離運動を展開し流刑に処された大神多門の弟嘉納の次男で筥崎宮や香椎宮の宮司を務めた葦津磯夫を始祖とします。

 磯夫とその妻とらの子に洗造と耕次郎がおり、洗造は父磯夫の跡を継ぎ筥崎宮の宮司を務め、耕次郎も筥崎宮に一時奉職しますが、後に耕次郎は大陸での鉱山業や靖国神社神門など社寺建築業といった事業を営みつつ、頭山満など在野の各方面と通じ、ある種の神道浪人的な立場から時の政治や社会問題について政府要路に活発に意見するなどしました。

 その耕次郎と妻ナニハ(なには)の長男として明治42年、珍彦が生まれます。

 珍彦は戦前、戦争に向かう時の政治を厳しく批判し、特にナチス批判や三国同盟批判、戦時下では東条内閣の言論統制に抗うなどし、危険人物として権力に睨まれることもありました。上海に渡った珍彦が大陸戦線における日本軍の暴虐を実見報告したり、戦争末期には政府要路に「名誉ある和平」を進言するなど、珍彦は権力に阿ることない孤高の活動を続けました。また戦前は耕次郎の営んでいた社寺建築業を継ぎ、一定の成功をおさめるなど、珍彦には事業家としての一面もありました。

 珍彦は戦後、神社の守護に身命を賭すことを決意し、神社本庁の設立に尽力奔走して占領下の神社を護持するとともに、神道ジャーナリズムの立場から活発な言論活動を展開し、元号法制化問題、靖国神社国家護持問題、政教分離問題などの運動を実践的にも理論的にも指導しました。

 他方、周囲からの批判や誤解を恐れず朝鮮戦争を契機とする日本の再武装・再軍備に神道の立場から反対の意見を呈するなど、日和見に陥ることのない独特の思想的営為と言論活動を続け、昭和から平成へのお代替わりを見届けるかのように平成4年に亡くなりました。

 私たち花瑛塾の結成趣意書も珍彦の思想に学び、その維新論を引用するなどしていますが、これからも珍彦の思想と精神を恢弘していくつもりです。

令和3年1月7日 「葦津家之墓」墓参