77年前の今日、神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が開催されました。例年、この日は神宮外苑に建つ「出陣学徒壮行の地」記念碑を訪れますが、今年は神宮外苑一帯が東京オリンピックの工事のさなかであり、記念碑が工事用の囲いで覆われているなど訪れることが難しいため、戦没日本人学徒の遺稿集『きけわだつみのこえ』の原資料などを所蔵・展示しているわだつみのこえ記念館を訪れました。
先の大戦下、兵役法では中学校以上の学校在籍者の徴兵延期が認められていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴兵延期制を廃止し、この年の年末には文系大学の学生など徴兵検査をおこなった学生約10万人が軍に入営しました。
徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。また各大学では、例えば國學院大學が10月14日、法政大学では15日など、21日までにそれぞれ壮行会が開催され、関西地方でも学徒出陣の壮行会が開催されるなどしましたが、こうした学徒出陣を記念するため、壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。
学徒出陣によって下級将校となった学徒たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちからは徹底的に差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒出身の将校であり、学徒出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。
こうした戦没学徒の遺稿集が『きけわだつみのこえ』であり、わだつのみのこえ記念館には、遺稿や遺品が所蔵・展示されています。
また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、学徒兵とともに少年兵も積極的に動員されました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。
当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。
忘れてはならないのは植民地であった朝鮮、台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員されたことです。出陣学徒壮行会から約1ヶ月後の昭和18年11月30日、日比谷公会堂において「特別志願」に基づく朝鮮・台湾出身の在日学徒の学徒出陣の壮行会が開催されています。
特別志願といっても、当時の文部省は各学校に対し、志願しない学徒には休学・退学措置を命じるなど、事実上の強制でした。また当時の新聞も「半島学徒へ決起運動」などの見出しの記事を掲載し、在日学徒へ軍に「志願」するよう煽りました。
日本人学徒の学徒出陣、そして少年兵の戦争動員という歴史的事実を忘れてはなりませんが、朝鮮・台湾出身の学徒出陣という「もう一つの学徒出陣」もけして忘れてはならない歴史的事実であるはずです。