伊藤博文が安重根に射殺されて111年の今日、昨年に引き続き東京都品川区西大井にある伊藤博文の墓「伊藤博文公墓所」墓参しました。
明治42年(1909)10月26日、今から111年前のこの日、中国黒竜江省ハルビン駅において、前韓国統監の伊藤博文が安重根により射殺されました。伊藤の葬儀は国葬となり、西大井の伊藤の別邸が墓所となり葬られました。
伊藤を射殺し逮捕された安は、明治12年(1879)に黄海道海州府で地方名士の家に生まれ、甲午農民戦争では義兵として農民軍の鎮圧を行った経歴もありますが、日露戦争をきっかけに日本の朝鮮支配が進展すると韓国の独立のため愛国啓蒙運動を展開し、国際世論に韓国の現状を訴えるなどの活動を展開するようになりました。しかし第三次日韓協約による韓国高宗の廃位や韓国軍の解散などの出来事を契機に義兵闘争に身を転じ、最終的に伊藤暗殺の挙を敢行することになります。
伊藤暗殺により捕えられた安は、その後短期間のあいだに処刑されますが、取り調べにおける厖大な供述や獄中で執筆した『安應七歴史』という自叙伝、未完に終わった『東洋平和論』などで自己の思想を述べ、事件の意義について語っています。
安は伊藤暗殺の理由について第三次日韓協約の問題を指摘し、伊藤は「大韓独立主権侵奪の元凶」だと述べています。他方、安は自身の挙を反日や韓国独立といった意義のみならず、東アジアの帝国主義的現状から東洋の有志の青年の精神を覚醒させるものであり、日本対韓国の関係にとどまらず、東アジアにおける歴史的事件と位置づけられるものとしています。
安のこうした東洋平和の思想は、ある種の「積極的平和主義」ということができます。伊藤もまた東洋平和の思想を有していましたが、それは武装平和主義であり、ある種の「消極的平和主義」といえます。
東アジアの帝国主義の混乱が最終的にどうなったのか、さらに伊藤はじめ大日本帝国の東洋平和(武装平和主義、消極的平和主義)が最終的にどのような破局を迎えたのかを思う時、安の東洋平和の思想の確かさを知ることができます。
安による伊藤射殺から1世紀以上もの時がたった今、怨讐を越え、安と伊藤の思想を再検討するなかで、安の東洋平和の思想の重要性は知られていくべきではないでしょうか。
また安の人間性については、大変立派なものであったといわれています。伊藤暗殺の場に居合わせた満鉄理事の田中清次郎は事件後、これまで出会った人のなかで一番立派だと思う人物は誰だと聞かれると、すぐさま「それは安重根だ」と答えたといいます。田中は安による伊藤暗殺の瞬間、そしてその後の安の立ち居振る舞いを見て、そのように感じたそうです。
戦後神社界を代表する言論人の葦津珍彦も安を「民族英雄の名にふさはしい、烈々たる信念のつよい志士で、その最後の処刑にいたるまでの進退行動は、文字どほり毅然たる国士の風格がいちじるしい」と評価しています。
こうした安の人間性、国士・義士としての風格についても今少し知られてもいいのではないでしょうか。