未分類

令和3年9月13日 乃木夫妻殉死の日 乃木静子希典夫妻墓参、乃木神社参拝

 乃木静子、乃木希典夫妻の殉死より109年の今日、青山霊園内の乃木夫妻と乃木一族の墓所をお参りするとともに、乃木夫妻を祭神としてお祀りする乃木神社をお参りしました。

乃木夫妻のお墓と墓前祭の祭壇

 大正元年(1912)9月13日、崩御した明治天皇の大喪の礼が行なわれたこの日の夜、乃木夫妻は自邸にて殉死しました。殉死後、乃木邸内には夫妻を祀る小祠が創建され、これをもとに大正11年に乃木神社が創建されます。そして乃木神社では毎年夫妻殉死のこの日、例祭が執り行われるとともに、墓所にて墓前祭が執り行われています。

 乃木夫妻の殉死は、当時においても新聞紙上や街々の噂で時代錯誤として悪くいわれることもありました。例えば、乃木夫妻の殉死後に発行された「時事新報」には、乃木が自ら命を絶つとすれば、多くの犠牲者を出した日露戦争後に死ぬべきであったと批判する同紙主筆石川幹明の記事が掲載されるなどしています。それ以外にも、白樺派などの新思潮や芥川龍之介らが乃木夫妻の殉死を批判しました。

 他方、森鴎外や夏目漱石などは、乃木夫妻の殉死を重く受け止め、文学作品のテーマにしています。また石川啄木は、殉死以前から「予の畏敬措く能はざる真骨頂漢乃木将軍」と乃木を称賛していました。

 西南戦争で軍旗を奪われたり、日露戦争で我が子を失うという悲劇、そうした影の部分が乃木の名声にかえって光彩を与える結果となり、それは日露戦争の勝利とその後の三国干渉での屈辱という当時の日本が置かれていた姿と重なり合っているという指摘もあります。

乃木神社

 なお乃木家は、長州藩の支藩である長府藩の藩士ですが、そのルーツをたどると、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本に連行された朝鮮の捕虜(被虜)に行き着くとの指摘があります。実際に長府藩の藩士の家の由緒をまとめた「藩中略譜」や関連の家系図には、乃木家の始祖として「朝鮮国ノ人」「朝鮮国之人」と記されています。

 近世において、乃木家のように、被虜をルーツとする武士は少数ながら実在しました。そして彼らは、朝鮮民族としてのアイデンティティーを失わず、「略譜」にあるようにむしろそれを内外に主張していました。また朝鮮のルーツを正確に記す「略譜」の存在は、彼らがそのルーツにより公然と差別や蔑視されることがなかったということを示しています。

 一方で明治後期より乃木家は、朝鮮がルーツであることを示す家譜を書き換えますが、問題は乃木ないし乃木家のルーツが何かということではなく、日本の歴史のある時期のある一定の領域においては、朝鮮民族や朝鮮民族をルーツとすることがけして差別や蔑視の対象ではなかったということにあります。

 日清日露と日本の対外戦争は、朝鮮や中国に対する日本人の蔑視や差別感情を強める要因にもなりましたが、その対外戦争で活躍した乃木のルーツと古来の日本の朝鮮観から学ぶべきことは多いと思います。

令和2年9月13日 乃木静子・乃木希典夫妻墓参