未分類

令和3年10月12日 浅沼稲次郎没後61年 「浅沼稲次郎之墓」墓参

 日本社会党委員長浅沼稲次郎没後61年の今日、昨年ならびに一昨年に引き続き浅沼と妻享子のねむる「浅沼稲次郎之墓」を墓参しました。

「浅沼稲次郎之墓」 揮毫は河上丈太郎

 浅沼は明治31年に三宅島に生まれ、早稲田大学に入学しました。早稲田では社会主義思想を信奉し、雄弁会で活動しました。そして卒業後は社会運動の道を進むようになりました。

 社会運動家としての浅沼は官憲による徹底的な弾圧をうけ、関東大震災では「主義者」として陸軍に連行され、暴行をうけることなどもありました。

 そうしたなかで浅沼は昭和11年、衆議院議員選挙に当選します。以後、紆余曲折あり、一時は議員の道をあきらめることもありましたが、戦後も一貫して政治家として活躍しました。「革新の旗手」といわれるほどの強い信念の持ち主であり、また「演説百姓」といわれるほど貧しい暮らしをしながら日本各地を遊説し続けましたが、昭和35年10月12日、今から61年前の今日、右翼少年山口二矢に刺殺されました。

 浅沼の墓は多磨霊園内にあり、冒頭記したようにそこにおいて妻享子とともに眠っています。「人間機関車」ともいわれた浅沼の大きな体と闘魂をあらわすように、浅沼の墓は非常に大きな墓でした。

 浅沼没後の10月18日、当時の首相池田勇人が衆議院本会議場で浅沼を追悼する演説をしました。そこで池田は、

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。

と感動的に浅沼を偲ぶとともに、「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」と浅沼を詠んだ歌を紹介し、「演説百姓」としての浅沼の人柄を称えました。

 あの児玉誉士夫も浅沼とは親しかったそうです。児玉は遠藤周作との対談で「児玉さんは浅沼社会党委員長の刺殺事件をどうお考えになりますか」と問われ、

わたしは反対です。浅沼さんとは仲よかった。よく共に酒を飲みました。個人浅沼は立派な人でした。〔中略〕これで自民党と社会党は話合いの広場をなくした、といったんです。

と述べるなど、昭和の怪物、右翼の大立者と呼ばれた児玉でさえ浅沼には一目置き、浅沼を追慕しています。

 浅沼の墓を清掃し献花、しばし浅沼の事績や大きな人間性に思いを馳せ、慰霊鎮魂のまことを捧げました。

 なお浅沼刺殺事件当時、神道言論人葦津珍彦は事件を繰り返し論じ、古今東西の「政治と暴力」の問題について考究していますが、一方で「人間浅沼の命を断つことの道徳責任」についてもしっかりと視点を置いて議論しています。こちらもご参照下さい。

葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁

令和2年10月12日 浅沼稲次郎没後60年 「浅沼稲次郎之墓」墓参