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浅沼稲次郎氏刺殺事件と葦津珍彦ー信頼と忠誠との情理ー

 昭和35年(1960)10月12日、政局は解散総選挙を間近に控え、東京・日比谷公会堂では自民党・民社党・社会党の3党党首立会演説会が開催されていた。民社党・西尾末広委員長が演説を終え降壇し、続いて登壇した社会党・浅沼稲次郎委員長が演説をはじめて間も無くの午後3時5分頃、右翼少年・山口二矢が壇上に駆け上り、短刀で浅沼委員長を刺殺した。浅沼委員長は病院へ運ばれたが即死状態であり、逮捕された山口少年も翌11月2日、勾留先の東京少年鑑別所で自殺した。

 戦後神道界を代表する言論人・葦津珍彦は、浅沼委員長刺殺事件と同事件を敢行した山口少年に強い関心を抱き、当時健筆を振るっていた「神社新報」で同事件を考察する複数の記事を執筆し発表した他、自著『土民のことば─信頼と忠誠との情理─』(神社新報社、昭和36年)にて同事件はじめ右翼テロの分析や政治と暴力について議論を展開している。

 同書にて葦津は、エチオピアのマラソン選手アベベが昭和35年のローマ五輪で優勝した際、自身の勝利を喜ぶのではなく祖国の勝利を喜んだ事例を紹介し、人間には凡俗な合理主義者には理解し難い「非合理」への憧れや情熱、欲求が存在していることを認め、それは日本において天皇と民族の「信頼と忠誠」による結びつきという高貴な心情として立ち現れるとする。

 そして浅沼委員長刺殺事件を敢行した山口少年もまた、合理主義者による戦後教育を受けつつも、楠木正成が湊川の戦いで発した「七生報国」の言葉を残して自ら命を絶っており、楠木正成一党が体現した天皇と民族の「信頼と忠誠」の情理をいまに受け継いでいるとしている。特に葦津は、そうした情念が山口少年ら「右翼ハイ・ティーン」たちの心をとらえていることを重視する。

 その上で葦津は、フランス革命におけるテロや左翼革命におけるテロの分析を通じたテロの本質と政治と暴力の一体性、浅沼委員長刺殺事件の分析を通じた右翼テロの論理を踏まえ、左右を問わず政治信条の根底には暴力性が潜在し、ある一定の条件ではそれが発動されることは不可避だとする。無論、テロを肯定したり正当化するのではく、それは「発生してしまう」ものなのだということである。

 そしてテロの防止のためには、「テロはいけいない」といった道徳的な説諭ではなく、例えば自由討議などによって政治的信条を異にするもの同士の政治的不信の解消が必要であり、同時に、テロを敢行した「右翼ハイ・ティーン」たちが金銭に何ほどの魅力も感じておらず、重罰を恐れる様子もないことから、テロ防止のためには資金の封鎖や重罰化は意味がなく、なぜ右翼テロが発生するのかを正確に見抜くことが必要だとする。

 刺殺された浅沼委員長の葬儀は、事件から8日後の10月20日、殺害現場でもある日比谷公会堂でいとなまれた。雨の中、3千人に近い会葬者があったという。テロは許されざることであるが、また不可避なものでもあることは葦津が力説している。その不可避なテロの発生条件を少しでも緩和するためにはどのようにすればいいか。それもまた葦津のいうごとく、ありきたりで俗物合理主義的な対策ではなく、人間の非合理性への憧れを見据えることや、政治的不信の解消などが必要であり、それこそがテロによって倒れた浅沼委員長の最大の供養であるだろう。