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令和2年9月28日 安田善次郎刺殺事件99年 安田善次郎旧別邸「寿楽庵」見学、「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参

 大正10年(1921)9月28日、今から99年前の今日、大磯にある安田財閥総帥の安田善次郎の別邸「寿楽庵」に神州義団々長の朝日平吾が訪れ、安田を刺殺した上で朝日も自ら命を絶つ事件が発生しました。安田善次郎刺殺事件、朝日平吾事件などと呼ばれています。

寿楽庵の一角

 朝日は宗教運動や社会運動、社会事業を志ながらもうまくいかず、鬱々とした日々を過ごしていましたが、最後の事業として困窮した労働者を救う「労働ホテル」の建設を目指し、企業経営者や有名人のもとを訪れ、寄付を求めていました。ただし、労働ホテルの建設は、朝日が長を務める神州義団の運営費を集めるための寄付の表向きの名目でした。

 そうしたなかで朝日は安田のもとを訪れ寄付を求めたものの断られたため、事件に及んだといわれています。

 当時の安田は世間から大変な吝嗇家と思われており、事件後も安田への同情は小さいものでした。実際の安田は東大安田講堂はじめ様々な寄付・寄贈をしていたものの、それについてあまり知られることもなく、戦後恐慌の中で自分の儲けばかり考えている「奸富」「守銭奴」として、世間のうらみを買っていました。

 他方、安田を刺殺した朝日が当時の民衆、メディアから熱烈に英雄視されたかというと、けしてそうともいえず、朝日は一部からある種の狂人や政治ゴロ扱いされることもありました。

安田家累代墓

 いずれにせよ、朝日による安田刺殺は、このころよりあらわれる大正維新論、そこにおいて原型が形成されていく超国家主義・国家改造運動の先駆的なものと位置づけられ、昭和維新運動につながっていくものと理解されています。

 一方、最近の研究では、朝日が事件において名乗った神州義団と「神祇道」といわれる神州義団の理念との関連も注目され、「国家ノ宗祀」神社神道といわゆる「ネオ国教」論を結合させた「神社-ネオ国教」論の一類型とされる「神祇道」の宗教的情熱に基づく神道的な国民教化が朝日の描く理想社会のイメージの一角にあったのではないかとされ、超国家主義運動のはじまりとしての大正維新と神社神道の関連性、超国家主義の展開の中における神社神道のシンボル性の変遷なども検討されています。

 なお、朝日は安田刺殺にあたり、「斬奸状」と「死の叫声」と題する犯行声明文および遺書を残しているとともに、北一輝らに宛てた手紙をしたためています。朝日の行為は北の影響下にあったともいえるものであり、これにより北は朝日に思慕された人物としてカリスマ性を高めていきます。

 そればかりか朝日による安田刺殺は、その後の安田共済保険と安田保全社が争った安田共済生命事件においても影響をおよぼし、安田共済保険側について安田保全社と交渉した大川周明と、別ルートから安田保全社に近づき安田保全社から報酬をせしめた北、また大川と北の間に入ってさらなる報酬を得ようとした清水行之助も、それぞれ朝日による安田刺殺事件が直接間接のバックボーンであったといわれています。

朝日平吾之墓