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令和元年12月8日 大東亜戦争開戦の意義を問い直す

 花瑛塾行動隊は対英米開戦から78年の8日、先の大戦に関連する戦争遺跡を訪れました。

 まず最初に、開戦を告げる暗号「ニイタカヤマノボレ1208」を海軍の全艦隊に発信した海軍東京無線電信所船橋送信所跡(千葉県船橋市)を見学しました。

送信所跡を示すモニュメント

 送信所は、現在ではもはや当時の面影はなく、送信所があったことを示すモニュメントとプレートがあるだけですが、環状に通信塔が配置されていたため、空中写真で見ると地形にその名残があります。また関東大震災時時、「朝鮮人が暴動」といった流言飛語を各地に発信してしまった歴史的施設でもあります。

 その後、軍の食糧の開発、製造、保管などを行う施設である陸軍糧秣本廠跡(東京都江東区)を見学しました。

墨田川から越中島を望む

 敗戦時、軍はこの糧秣本廠付近に流れる運河の川底に金塊54トン、プラチナ13トンなど、現在の価値で数兆円とも換算される貴金属を隠匿し、戦後、GHQによって摘発、没収されました。

 78年前の開戦の数年後には国民は焼け出され、何もかも失いましたが、軍はなお巨額の財産を隠匿し、我がものにしようとしていたのです。この事実は、開戦の日の今日こそ振り返る必要があります。

 昭和16年(1941)12月8日未明、日本陸軍第25軍はマレーシア・コタバルのサバク海岸に上陸し、英軍と交戦状態に突入しました。その数時間後、日本海軍機動部隊はハワイ真珠湾の米艦隊を攻撃しました。また上海の租界の接収、香港への突入、フィリピン攻略の開始などの軍事作戦も始まり、先行する中国戦線も含め、ここに英米蘭などの国と「大東亜戦争」と呼称される戦争が開戦されました。なお、この戦争については、最近では歴史学的な立場から「アジア太平洋戦争」などと称される場合もあります。

花瑛塾亜細亜倶楽部として慰霊祭をおこなった日本軍上陸の地コタバル・サバク海岸

 開戦の背景には、昭和12年からの日中戦争の行き詰まりと、対日禁輸政策など日米交渉の難航といった危機的情勢があります。東南アジアへの進出により状況の打開をはかった日本ですが、いっそうの世界的孤立を強めていきました。同時に、当時の世界情勢はドイツがフランスを降伏させ、英国およびソ連と戦争状態にあるなど急展開しており、日本は急速に対英米開戦に傾いていったのです。

 対英米開戦時の日本の軍事戦略と終戦構想は、東南アジア一帯を勢力圏とし、重要資源を確保し、ドイツがソ連と英国を降伏させた上で、米国と講和を締結するというものでした。しかし、既にドイツは対ソ戦で敗走を始めており、開戦前において日本の軍事戦略と終戦構想は崩壊していたともいえます。

送信所の空中写真 環状の道路が昔の送信塔の名残といわれる

 それでも開戦された戦争の初期、日本軍は東南アジア各地に進出し、軍政を展開しました。軍政の第一目標は石油などの重要資源の確保と日本への輸送であり、第二目標は現地に展開する日本軍のための物資獲得でした。これにより現地住民の生活や経済に大きな負担をもたらしました。

 日本の終戦構想が東南アジアにおける勢力確保であり、中国戦線のために蒋介石率いる国民党を援助する援蒋ルート遮断が重要戦略に位置づけられるなど、コタバル上陸作戦が真珠湾攻撃に先立つこともふくめ、この戦争は「アジアの戦争」であったということができます。

 事実、日本は昭和18年に大東亜会議を開催し、大東亜共同宣言を発出し、アジア解放とアジア諸国の互恵・平等を宣言します。またそこで、日本を盟主としアジアを従属させる意味合いの強かった「大東亜共栄圏」構想を放棄し、「大東亜同盟」構想ともいうべきアジア諸国の対等・独立を目指します。

 大東亜共同宣言は、連合国による大西洋憲章に対抗する意味もあり、フィリピンやビルマの独立を認めるなど、内容そのものは先進的な価値を有しています。しかしインドネシアの民族主義者スカルノなどは会議に招請されず、また日本はジャワやセレベスといった戦略的要所は日本領とするなど、問題も存在していました。

糧秣本廠付近の運河の川底から発見された金塊:NHKスペシャル「戦後ゼロ年 東京ブラックホール」より

 ソ連の反撃とドイツの敗走という戦略的の崩壊とともに、真珠湾攻撃では日本海軍潜水艦部隊が何らの成果をあげられず、マレー沖海戦では航空作戦を用い英軍の戦艦を撃沈させながらも、日本軍攻撃機の被弾率が40パーセントを超えるなど、連合軍の防空能力の強さが示され、戦術的な失敗が存在していました。既に開戦前後において、戦局には暗雲が立ち込めていたのです。しかし開戦初期の大勝利のなかで、こうした戦術的失敗は真剣に検討されず、昭和17年6月のミッドウェー海戦での大敗北以降、情勢打開の見込みなき戦いが繰り返されていきます。

 戦況の悪化は、軍政下のアジアにも大きな被害をもたらしました。重要資源を日本へ運ぶ輸送船は、ことごとく連合軍によって撃沈され、アジア諸国の食料や生活用品などの輸送にも支障をきたし、食糧難や生活難が発生します。そして連合軍の逆上陸に備え、軍政下の地域の経済などは全て軍事動員されていきました。こうした日本軍政の反発のなかで、抗日ゲリラ闘争が高まり、独立運動が展開されるなどしました。

 このように先の大戦を対英米開戦というだけでなくアジアの視点から振り返った時、多くの人々の悲劇と痛苦を感じずにはいられません。奇しくもこの日、アジアの人々を傷つけ苦しめている技能実習生制度の問題点を曖昧にしたまま改正入管法が成立しました。今日という日にあらためて私たちの国の「アジアへの視線」を問う必要があるのではないでしょうか。