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【東京大空襲74年】東京大空襲戦災犠牲者追悼碑(台東区浅草)

 東京大空襲から74年の月日が経とうとするなか、墨田川にかかる言問橋に隣接する隅田公園内に建立されている東京大空襲戦災犠牲者追悼碑(東京都台東区浅草)を参拝しました。

 昭和20年(1945)3月10日未明、米軍の長距離爆撃機B-29は台東区や墨田区、江東区、中央区など東京の下町地区を中心に焼夷弾による空襲を行い、約10万人もの市民の生命を奪いました。

 東京大空襲による犠牲者の遺体は、下町の公園や広場に仮埋葬されました。戦後になってあらためて掘り起こされ火葬されたそうですが(この際の遺骨が東京都慰霊堂に納骨されています)、この追悼碑が建立されている隅田公園もそうした仮埋葬地の一つでした。

 焼夷弾により黒焦げとなった遺体は公園や広場に山積みにされ、一部の遺体は親族が引き取ったものの、大多数の遺体はしばらくはそのまま野ざらしとなり、仮埋葬されたそうです。死の恐怖や火あぶりにされた身体の痛みはもとより、身元も不明となり遺体が野ざらしとなった犠牲者の無念はいかばかりでしょうか。

 一方で本土空襲を行った米軍機のうち、少なくない数の機体が日本の高射砲部隊や迎撃戦闘機により撃墜され、搭乗員の米兵が捕虜となりました。日本の一般市民は捕えた米兵に容赦のない暴行をくわえ、それにより命を落とした米兵もいたそうです。また撃墜された機体の残骸から米兵の遺体を見つけると、それを引きずり出し、遺体に暴行をくわえるといった常軌を逸した行動も見受けられたそうです。

 米軍もまた都市空襲について正常な感覚を失っていました。米軍内部では「日本人は人間ではない」「日本人すべてが戦闘員であり殺害しても構わない」といった認識があり、都市空襲という戦争犯罪を推進する要因となりました。

 追悼碑前にて心から犠牲者を慰霊・追悼するとともに、生き延びた人の精神まで破壊し、人間を人間でなくしてしまう戦争のおそろしさに思いをいたしました。