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令和3年2月11日 紀元祭・神武天皇御陵遥拝式

 紀元節のこの日、神前にて紀元節をお祝い申し上げるとともに、紀元祭および神武天皇御陵遥拝式に参列しました。

 紀元節とは明治初期から終戦直後までの祝祭日であり、神武天皇の即位をお祝いするものです。『日本書紀』には神武天皇即位について「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治6年の太政官布告によって2月11日が神武天皇即位の日「紀元節」とされましたが、終戦後の昭和23年、GHQの意向もあり「国民の祝日に関する法律」の制定によって廃止されました。

 ところが昭和41年、2月11日が「建国記念の日」として祝日となり、「建国をしのぶ日」とされました。また戦前から紀元節を日本建国の日ととらえ、お祝いする向きもありました。

 しかし紀元節は神武天皇即位の日であっても、日本建国の日とすることは難しいのではないでしょうか。日本の建国はあくまでも瓊々杵尊の天孫降臨によるものであり、それは神武天皇即位以前のはるか遠い悠久の昔の出来事であるはずです。

 そうすると神武天皇即位とは「神武建国」ではなく、天孫降臨により建国された日本を神武天皇が中興なされた「神武中興」であり、紀元節の佳き日に神武天皇即位のお祝いを通じて、天孫降臨による日本の建国と、神武天皇即位による神武中興の大業をしのぶという意味での紀元節であり、建国記念の日と認識し直す必要があるのではないでしょうか。

 実際、紀元節制定に尽力した大国隆正や玉松操あるいは岩倉具視といった幕末・維新期の国学者や神道家、政治家も紀元節を建国の日とはしておらず、河野省三や平泉澄なども同様のことをいっている他、そのことは『日本書紀』以降の古代の文献や北畠親房らの中世の思想書・歴史書などにもあきらかにあらわれています。

 他方、歴史学の立場からは、神武天皇即位紀元は讖緯説に基づくものであり、推古天皇9年辛酉正月朔日から辛酉革命の起きる1260年ほど前倒しして設定されたともいわれております。そうすると推古天皇9年辛酉自体が聖徳太子など当時の人々にとって革命の年と考えられていたともいえるのであり、実際に十七条憲法の制定や隋との外交関係の確立など、推古天皇9年辛酉の年とその前後は国家の大変革の時期でもありました。

 神武紀元が推古天皇9年辛酉をもとにするとしても、そのころの国家の大変革もまたある種の建国として、また中興として、しのぶべきものともいえます。

 いずれにせよ天孫降臨による日本建国と神武天皇即位による日本中興、そして推古天皇9年辛酉という国家大変革という建国とその中興に関する様々な歴史と事情を学び、私たちはこれからの建国と中興と大変革へ歴史をつむいでいくべきではないでしょうか。