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前沖縄県知事翁長雄志氏と戦後の沖縄政治史─沖縄における保守と革新の対立と近接─

「沖縄保守」の大政治家翁長雄志氏

 今月8日に亡くなった前沖縄県知事の翁長雄志氏は、保守系政治家一家に生まれ、那覇市議、沖縄県議、那覇市長などを歴任した他、自民党沖縄県連幹事長や保守系の知事であった稲嶺恵一県政・仲井真弘多県政を支えた沖縄保守政界の重鎮であった。

在りし日の翁長さん:全国知事会

 翁長氏が普天間飛行場の辺野古移設に反対し、辺野古新基地建設に頑強に反対し続けたことはご承知のとおりである。保守系政治家が米軍基地建設に反対することは、戦後日本の「保守」の文脈からすると不思議に思われるかもしれないが、実はごく最近まで沖縄保守政界は辺野古新基地建設(普天間飛行場の県内移設)に反対しており、容認の場合でも何らかの条件を付すなどしていた。

 例えば1998年の県知事選挙で現職の大田昌秀氏を破った稲嶺氏は、普天間飛行場の移設先としてキャンプ・シュワブ沿岸案を拒否し、県内移設にやむを得ず容認するとしても「15年使用期限」「軍民共用空港化」などの条件を付した。

 2006年、稲嶺氏の後に知事に就任した仲井真氏は、当初は普天間飛行場の「県内移設」容認を表明していたが、10年に行われた2期目を争う選挙では「県外移設」を公約として掲げ、「オール沖縄」の体制で再選している。また国場幸之助、比嘉奈津美、西銘恒三郎、島尻安伊子、宮崎政久ら沖縄選出の自民党国会議員各氏と自民党沖縄県連も「県外移設」を訴えていた。

 こうして沖縄保守政界は普天間飛行場の県内移設に反対し、県外移設を求めていたのだが、第2次安倍政権時の13年に自民党沖縄県連が「辺野古容認」に転向し、同年末、仲井真氏も公約を翻して「辺野古容認」へと転落した。ここにおいて翁長氏は沖縄自民党と決別し、「オール沖縄」の体制により14年の沖縄県知事選挙に「辺野古新基地建設反対」を掲げて出馬、当選する。

 まさしく翁長前知事は、沖縄における保守の系譜と思想、政策を継承した「沖縄保守」の政治家といえる。

米軍統治下の沖縄における保守と革新

 平良好利氏・櫻澤誠氏らの研究によれば、そもそも沖縄では保守・革新という枠組みが現在でも健在であり、革新の凋落=総保守化というかたちで保革対立が消滅していった「本土」とは異なり、現在でも県知事選挙や国会議員選挙などでは保守・革新候補が交互に当選したり、県議会でも保守・革新の議席が伯仲するなどしている。

 戦後沖縄の主要政党のうち、最初に結成された政党は、47年に結成された瀬長亀次郎率いる人民党である。人民党は沖縄復帰後、日本共産党に合流する。もちろん人民党は革新政党とされる。50年には平良辰雄を初代党首として社会大衆党が結成されたが、社大党は後に革新へと舵をきるが当初は「中道政党」であり、ある時は保守勢力とも見なされていた。なお社大党は復帰後も「本土」政党との合流はしなかった。52年には初代行政主席である比嘉秀平を党首とする琉球民主党が結成される。琉球民主党は59年に沖縄自民党となり、復帰以後は自民党に合流する。琉球民主党、そして沖縄自民党は当然保守政党とされる。最後に結成されたのは社大党離党者を中心とした58年の沖縄社会党であり、革新政党とされる。沖縄社会党は後に日本社会党に合流する。

 これら主要政党の保革対立軸は、復帰に関する方法にあった。革新勢力は60年に復帰協(沖縄県祖国復帰協議会)という統一組織をつくり大衆運動によって復帰を実現しようとしたが、沖縄自民党は復帰協への参加を拒み、不充分な自治や沖日の法域の不一致などの障壁を沖米日が相互に信頼・理解を深めることにより取り除き、それにより「祖国との実質的一体化」を目指すとした。こうした保革の復帰へのアプローチの違いが対立軸となり、さらに復帰の具体的な中身、すなわち復帰後の基地、経済、日米安保なども対立軸となっていく。

 こうした保革対立は存在したが、上述の主要四政党は、いずれも「日本復帰」を方針として掲げ、米軍統治からの脱却をめざしていた。もともと沖縄では米軍統治下にあったため、「自由主義か社会主義(共産主義)か」といったイデオロギー的対立も弱く、各党の政策的距離は比較的近いものがあったのである。また基地・経済に関する対立軸を詳細に見ても、基地の縮小や経済の振興という点では保革は近接しており、本質的な差異はないともいえる状況であった。

「島ぐるみ」と「オール沖縄」

 55年、由美子ちゃん事件といわれる凄惨な米兵による幼女暴行事件が発生し、沖縄社会を揺るがした。また同年、米軍により土地を奪われた伊江島農民が沖縄本島を縦断し現状を訴える「乞食行進」を行い、あらためて沖縄の重い基地負担が沖縄全体での理解が進み、基地負担軽減・解消の声があがる。

 そうしたなかで比嘉主席らが「土地の買上げ、永久使用、地料の一括払い絶対反対」「使用中の土地についての適正補償と毎年払い」「米軍が加えた損害に対する適正賠償措置」「不要な土地の返還および新規接収反対」の「土地を守る四原則」を掲げて渡米するが、結局は「四原則」を考慮せず米軍基地のため強制接収されている土地の地料の一括払い=事実上の基地の固定化を認める「プライス勧告」が56年に発せられたため、「プライス勧告反対」「四原則貫徹」を訴える保革の別ない「島ぐるみ闘争」が展開していく。

「島ぐるみ闘争」の頃の那覇:沖縄県公文書館所蔵

 「島ぐるみ闘争」は基地撤去を正面から訴えるものではなく、米軍基地に関する住民の権利や生活を守ろうとするものであり、だからこそ「島ぐるみ」の動きが発生したともいえる。なお56年6月の住民大会では、翁長氏の父翁長助静氏らが本土への代表団に選出されている。しかし運動は米軍の弾圧やオフ・リミッツなどの分断工作によって、まず保守政界や財界が篭絡され運動から撤退し弱体化するが、あらたに「四原則貫徹」から「一括払い反対」に闘争目標をしぼることにより、再び運動が高揚し沖縄の総意を形成していくことになる。

 さらにその後の復帰運動も、復帰協は超党派による「島ぐるみ」での運動を目指したのであり、上述のように沖縄自民党が復帰協へ加盟しないなど保革の対立も存在したが、一方で復帰協は保革が合同した「島ぐるみ」での運動をある時期まで目指し続けたのである。

 こうした「島ぐるみ」の系譜は、現在の「オール沖縄」の体制にまで続いているものと考えられる。95年の沖縄少女暴行事件をきっかけに、基地撤去・地位協定見直しなどを目指した「島ぐるみ」の運動が高まり、それは県民投票にまでつながっていく。07年のいわゆる「集団自決」についての歴史教科書検定に関しても「島ぐるみ」の運動が高まり、県民大会委員長は自民党・仲里利信県議会議長が務め、当時の仲井真知事も出席するなどした。そして普天間飛行場県外移設などを求める県民大会が10年に開催される。この頃より「島ぐるみ」から「オール沖縄」の呼称が使われ始め、県外移設を主張した2期目の仲井真県政を支える一方で、仲井真氏の転落による翁長県政の誕生の基盤となっていく。

弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ

 以上、翁長氏の辺野古新基地建設に関する政治信念と政治行動を振り返り、それが近年の沖縄保守政界の基本的姿勢を継承したものであることを確認した。それとともに、平良氏や櫻澤氏の研究に依拠し、基地問題や米軍統治などに関する沖縄における保守・革新の対立と近接を検討し、保革の別ない「島ぐるみ」の系譜を追いかけ、それが仲井真・翁長県政を支える「オール沖縄」を生み出していったことが確認できた。

 櫻澤氏が指摘していることだが、後に沖縄における革新の代名詞ともなる沖縄教職員会は、戦後の一時期まで、沖縄戦で大きな被害を受けた沖縄県護国神社の再建運動に取り組み、再建後は奉賛会に名を連ねるなどしている。また本土復帰の象徴であった日の丸掲揚運動を推進していた歴史もある。さらに平良氏が指摘するとおり、祖国復帰運動では、基地労働者の組合である全軍労(全沖縄軍労働組合)が復帰協に加盟し、祖国復帰・基地撤去の運動のけん引役になるなど、保守と革新、あるいは基地をめぐる沖縄の総意などは、「本土」の政治的文脈でははかりきれない沖縄独自の文脈があるといえる。

 辺野古新基地建設の先頭に立った翁長氏について、「共産党と組んだ」「中国のスパイ」などという先入観にとらわれた、なおかつ根拠不明のデマをいう者もいるが、その背景にある戦後の沖縄の政治史や基地と米軍統治に対する県民の歴史的総意についてしっかりと理解をもって発言してほしいものだ。

 さらに翁長県政や「オール沖縄」が全米軍基地撤去・自衛隊配備反対を主張しているかのような批判もあるが、翁長県政そして「オール沖縄」は全米軍基地の撤去を主張するものではなく、自衛隊配備反対を主張していない。翁長県政を支え、「オール沖縄」を形成しているグループや人物にはそれぞれに考えもあるだろうが、そもそも「オール沖縄」は互いに「腹六分」「腹八分」で協力しようというものである。そしてその精神こそが「島ぐるみ」の正統的な系譜である。

 同時に、翁長県政が辺野古新基地にばかりかかりきりになり、他の政策をおろそかにし、県政に混乱をもたらしたかのようにいう者もいるが、翁長県政下で沖縄経済が好調であったことは既に指摘したとおりであり、さらに翁長氏は子どもの貧困などの対策にも力を入れ、充実した県政を展開した。もちろん翁長県政を全て礼賛するつもりはなく、批判があってしかるべきだが、無根拠であまりに無知かつ悪質な批判あるいはデマのたぐいには、しっかりと反論をしておきたい。

 「弾圧は抵抗を呼び、抵抗は友を呼ぶ」と人民党・瀬長亀次郎がいうとおり、根拠なき批判は正論による反論を呼び、むしろ翁長氏の思想を継承させ、辺野古新基地を止める大きな力を生み出すものだろう。それは、翁長氏が次男雄治氏に語った「沖縄は試練の連続だ。しかし、一度もウチナーンチュとしての誇りを捨てることなく闘い続けてきた。ウチナーンチュが心を一つにして闘うときにはおまえが想像するよりもはるかに大きな力になる」との言葉につながるものになるだろう。

 翁長氏に心から哀悼の意を表し、翁長氏の政治思想や政治的取り組みが真に理解される日の近からんことを祈念したい。