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令和元年10月26日 「伊藤博文公墓所」訪問(東京・西大井)

 東京都大田区西大井にある伊藤博文の墓「伊藤博文公墓所」を訪れました。同所は普段は閉鎖され、特定の日以外は立ち入ることができません。命日のこの日も閉鎖されていたため、門外より伊藤の墓をお参りしました。

西大井の「伊藤博文公墓所」

 明治42年(1909)10月26日、今から110年前のこの日、中国黒竜江省ハルビンにおいて、前韓国統監の伊藤博文が安重根により射殺されました。伊藤の葬儀は国葬となり、伊藤の別邸のあった西大井が墓所になったそうです。

 伊藤を射殺し逮捕された安重根は、その後短期間のあいだに処刑されますが、取り調べにおける厖大な供述や獄中で執筆した『安應七歴史』という自叙伝、未完に終わった『東洋平和論』などで自己の思想を述べ、事件の意義について語っています。

 安重根は伊藤射殺を、反日や韓国独立といった意義のみならず、東アジアの帝国主義的現状から東洋の有志の青年の精神を覚醒させるものであり、日本対韓国の関係にとどまらず、東アジアにおける歴史的事件と位置づけられるものとしています。

 安重根の東洋平和の思想は、ある種の「積極的平和主義」ということができます。伊藤もまた東洋平和の思想を有していましたが、それは武装平和主義であり、ある種の「消極的平和主義」といえます。

 東アジアの帝国主義の混乱が最終的にどうなったのか、さらに伊藤はじめ大日本帝国の東洋平和(武装平和主義、消極的平和主義)が最終的にどのような破局を迎えたのかを思う時、安重根の東洋平和の思想の確かさを知ることができます。

 安重根による伊藤射殺から1世紀以上もの時がたった今、怨讐を越え、安重根と伊藤の思想を再検討するなかで、安重根の東洋平和の思想の重要性は知られていくべきではないでしょうか。