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第3次嘉手納爆音訴訟控訴審と1968年嘉手納飛行場B52墜落・爆発事故

 先日7日、第3次嘉手納爆音訴訟控訴審の第1回口頭弁論が開かれた。まさに「爆音」というべき猛烈なアメリカ軍用機の騒音と夜間・早朝の飛行が常態化している嘉手納飛行場(嘉手納町、北谷町、沖縄市)。原審では爆音の違法性と賠償を認めたが、夜間・早朝の飛行差し止め請求については、日本側にはアメリカ軍機の飛行を制限できる権限はないとして認めなかった。

B52撤去を戦うゼネスト(沖縄タイムス社『写真記録沖縄戦後史』より)

 日米合同委員会は1996年、嘉手納飛行場および普天間飛行場における騒音や夜間・早朝の飛行についての規制(航空機騒音規制措置に関する合同委員会合意)を取り決めている。そこでは高推力を得られるものの騒音が発生するアフター・バーナーの使用の自粛や22時から6時までの飛行や地上活動の制限、日曜日の飛行の制限などが定められている。しかし、規制措置の条文には「できる限り行わない」、「最大限努力する」、「最小限に抑える」といった文言がならび、実際は規制はアメリカ側の努力目標に過ぎず、アメリカ側が必要と判断すれば夜間・早朝の飛行も騒音を撒き散らす訓練も行えることになっている。日本政府はアメリカ軍機の爆音を事実上「容認」しているのである。

 1968年11月19日未明、嘉手納飛行場にて米空軍戦略爆撃機B52の墜落・爆発事故が発生した。人命こそ失われなかったものの、爆風により周辺住民や民家にも被害を出すなどした。当時、B52はベトナム戦争にも出撃し、多くの人命を奪っていた。事故と反戦への思いから、これを機にB52やアメリカ軍基地の撤去を求める運動が高揚し、当時は日本「復帰」「返還」などアメリカ軍施政下から脱却を目指す声もさらに高まり、ゼネストなども企図された。そして70年以降、B52はタイに移転することとなり、日本政府は今後のB52の沖縄への飛来を否定する。しかし、沖縄「返還」後のB52の沖縄飛来を「容認」する密約を日米両政府は交わしていた。

B52墜落事故現場の様子(読谷バーチャル平和資料館より)

 50〜60年代、核兵器搭載中のB52の墜落事故やB52からの核兵器落下事故などが世界各地で頻発していた。こうしたなかで発生した嘉手納飛行場におけるB52の墜落・爆発事故が、沖縄の人々を不安に陥れ、怒りに火をつけたことは容易に想像できる。この他、沖縄では、伊江島におけるアメリカ軍による核兵器の低高度爆撃訓練中に発生した模擬核兵器誤射事件や那覇での核ミサイル「ナイキ・ハーキュリーズ」の誤射事故なども発生しており、いつ沖縄で核爆発や放射能汚染が発生しても不思議ではなく、いつか沖縄が核戦争に巻き込まれる可能性があった。しかし、日本政府は沖縄へのB52の飛来も核の持ち込みも「容認」し続けた。

 爆音訴訟で原審は「国側に規制の権限はない」とするが、日米合同委員会で形だけの規制を行い、爆音を「容認」しているのは日本側である。それだけではなく、過去、在日アメリカ軍の無法を「容認」し続けたのも日本側である。オスプレイの事故率も上昇しており、普天間飛行場に配備された時点に比べ倍増している。「なぜオスプレイだけ事故率が上昇しているのか」という記者の質問に対し、小野寺防衛相は「それはアメリカに聞いてくれ」と返答している。この日本側の姿勢に問題があるのだ。運航者アメリカに声を上げるのは当然ながら、日本政府こそ沖縄の基地負担を生み出している原因であり、こうした日本側の姿勢を正したい。