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花瑛塾第13次沖縄派遣団③(沖縄公文書館上映会、沖縄陸軍病院20号壕)

 花瑛塾第13次沖縄派遣団は16日、沖縄県公文書館(南風原町)にて開催された上映会vol.1「沖縄戦と「戦後」」に参加し、約80年前の沖縄を記録した短編ドキュメンタリー「沖縄」(製作:東京日日新聞社、大阪毎日新聞社)と米海兵隊の自国向け映画「Battle for Okinawa No.3 沖縄の戦い」を鑑賞しました。

県立公文書館

 短編ドキュメンタリー「沖縄」には「南の生命線は沖縄県人が担っている」「もっともっと私達は沖縄を知り、もっともっと沖縄に親しまなければならない」というナレーションがありました。その言葉は日琉同祖論や戦時体制という思想的あるいは時代的な注意が必要な言葉ですが、あえて文字通り受け止めたとすれば、沖縄のことを何も知らず心ない誹謗やデマを発信し続けている80年前のこれらの言葉とは真逆の現在の「本土」の状況に恥じ入りました。

 米海兵隊による映画「Battle for Okinawa No.3 沖縄の戦い」は、米軍の自国向けの戦意高揚の映画であり、日本軍の守備隊が強く苦戦したが、守備隊の一部は捕まえると意外に無力だったなどのナレーションがありました。米兵がカバン式爆弾や火炎放射器で一帯を焼き尽くし、最後に星条旗を掲揚するシーンには、戦争の無残さを感じました。なお、第3部「記録映画 人間の住んでいる島」は沖縄戦において激戦となり、また戦後には米軍飛行場が建設され、核兵器の模擬爆弾の投下訓練までも行われていた伊江島の記録を紹介するものでしたが、時間の関係で第3部は欠席しました。

 公文書館での上映会に引き続き、沖縄陸軍病院20号壕(南風原町)を見学しました。沖縄陸軍病院は昭和19年(1944)10月より那覇からこの地に移設され、なかでも20号壕は沖縄戦の陸軍病院第2外科として戦傷者の治療が行われました。医師や薬品はまったく足りておらず、軍病院の医療態勢は充分ではありませんでした。その上で戦争の激化により多くの戦傷者が送られてきたため、多くの患者が激痛の中でウジにまみれながら放置され、最後は家族の名前を呼び続け亡くなったそうです。

近年公開された20号壕内

 陸軍病院には沖縄師範学校女子部や県立第1高等女学校の女学生、いわゆる「ひめゆり学徒隊」が看護要員として配属され、空襲や艦砲射撃の間を縫って壕の外の炊事場から食事の釜を運ぶ「飯上げ」や水汲み、汚物の処理など治療の補助や患者の世話をしました。特に壕の外に出る「飯上げ」は危険であり、多くの女学生が命を落としました。

 沖縄戦後、下のモニュメントの奥のソウシジュの森で、病院壕付近一帯で戦死された人々を火葬したそうです。戦場となる前にひめゆり学徒隊が記念写真を撮ったといわれる場所に戦後建てられたこの平和の鐘のモニュメントは、両手をあわせ祈るように形作られており、今も戦死者を追悼し祈り続けています。

慰霊・平和の祈りのモニュメント