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平成30年11月1日 花瑛塾第15次沖縄派遣団⑧(小浜島戦争遺跡見学)

 花瑛塾第15次沖縄派遣団は1日、アールムティの特攻艇秘匿壕や震洋隊兵舎跡地、ナークレーやニシンダの慰安所跡地、仮校舎となった嘉保根御嶽など、小浜島(八重山郡竹富町)の沖縄戦戦争遺跡や関連施設跡を見学しました。

 沖縄戦時、小浜島では米軍の上陸や地上戦こそありませんでしたが、空襲が毎日のようにあったといわれています。また日本軍が駐屯し牛などの食糧や資材の供出がおこなわれたり、石垣島での飛行場建設のための徴用などもあり、住民生活に大きな影響を与えました。

 特に小浜島ではマラリアが猖獗を極め、毎日のようにマラリアによる死者が出たといわれています。なおマラリアについては石垣島はじめ八重山諸島一帯で相当の犠牲者が出ています。マラリアが猖獗を極めた理由としては、軍の命令によってマラリア有病地帯へ避難せざるを得なかったり、軍が優先的に「キニーネ」というマラリアの特効薬を確保したなどの理由が考えられます。

 以下、小浜島の見学箇所を紹介します。

アールムティの特攻艇秘匿壕と震洋隊兵舎跡地 小浜島東部のアールムティといわれる海岸に現存する特攻艇秘匿壕。昭和20年(1945)1月、小浜島には海軍の特攻艇部隊である第38震洋隊が駐屯したが、部隊は直後に石垣島へ移動したため、続いて第26震洋隊が駐屯した。第26震洋隊はアールムティの海岸に特攻艇秘匿壕を築造し、アールムティの海で特攻艇の訓練をおこなった。築造は朝鮮人軍夫が主に従事した他、島民も動員させられた。

壕の総延長は130メートルほどで、内部はH型の構造となっており、第26震洋隊犠牲者の卒塔婆が置かれている
特攻艇の訓練がおこなわれたアールムティの海岸

小浜島国民学校の仮校舎となった嘉保根御嶽 最初に小浜島に駐屯した第38震洋隊は、小浜国民学校を兵舎として利用した。そのため子どもたちは学校を追い出され、仲山御嶽や嘉保根御嶽を仮教室として授業を受けた。その後、部隊は学校への駐屯は敵の目につきやすいとして民家にも分屯し、黒島家を司令本部とするなどした。第38震洋隊に続いて駐屯した第26震洋隊も黒島家を司令本部とし、金城家の2階を無線通信所とした。第26震洋隊には朝鮮人軍夫約50人が軍属として連れて来られ、長田家や仲盛家を宿泊先として特攻艇秘匿壕などの築造作業に従事させられた。朝鮮人軍夫が毎朝トラックで築造に向かう姿が目撃されている他、朝鮮人軍夫の食事の様子などを眺めた島民が、食文化の違いを珍しく感じたという証言が残っている。

近くの仲山御嶽とともに島の集落にある仮教室となった嘉保根御嶽

ナークレー、ニシンダの慰安所跡地 第26震洋隊駐屯後、島の東南部のナークレーやニシンダといわれる地域に慰安所が建設された。どちらの慰安所かは不明だが、第26震洋隊の兵士の証言によると、ある慰安所には2坪程度の部屋が5部屋あり、朝鮮人3名、日本人1名の4名の女性が慰安婦にさせられていた。また慰安所建設のため各家庭から畳2枚の供出が命じられ、学校の床板まではぎ取って慰安所建設の資財に充てたという証言も残っている。

ニシンダの慰安所跡地と思われる場所(ナークレーの慰安所は、現在はリゾート地となっている)