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令和2年12月1日 巣鴨プリズン跡、「愛の像」

 先の大戦後、東京裁判や横浜裁判など各地の戦犯裁判の被告や受刑者が収容され、また処刑場ともなった巣鴨プリズン跡(東池袋中央公園)を訪れ、刑死者はじめ全ての死者を慰霊するとともに、処刑されたBC級戦犯の遺書をまとめた『世紀の遺書』の収益で建立された「愛の像」(東京駅)を見学しました。

巣鴨プリズン跡に建つ慰霊碑

 巣鴨プリズンはもともと東京拘置所(巣鴨拘置所)でしたが、米軍に接収され巣鴨プリズンとして戦犯とされた被告や戦犯裁判により服役することになった受刑者などが収容されました。また死刑判決をうけた人々の処刑場ともなりました。

 連合軍による占領終了後、巣鴨プリズンは巣鴨刑務所となり、引き続き戦犯受刑者を収容しました。昭和31年の時点でなお900人の戦犯受刑者が収容されていたといわれています。

 巣鴨プリズン、また巣鴨刑務所では被告や受刑者など収容者による自治が行われ、収容者が所内誌「すがも新聞」を発行したり、自主講座として教育を行う「巣鴨学園」を設立するなどして自身の戦争犯罪と向き合い、内省を深めたといわれています。

 巣鴨には戦犯とされた朝鮮出身者なども収容されました、彼らは「郷愁」という所内誌を発行し、日本統治から解放された祖国への思いを熱烈に綴るなどしています。

 巣鴨プリズンは昭和46年に解体され、あたりは公園として整備されたり、サンシャインシティが建設されるなどしました。

 「愛(アガペー)の像」は、そうした巣鴨プリズン、巣鴨刑務所の収容者のうち、BC級戦犯として死刑判決をうけた刑死者の遺書をまとめ刊行された『世紀の遺書』の収益金で建立されたブロンズ像です。刑死者たちの遺書はわずか数行のものから長文のものまで様々ですが、じつにトラック一台分もの量があったといわれています。

東京駅に建つ「愛の像」

 いわゆるA級戦犯裁判については様々な議論がありますが、BC級戦犯裁判はどちらかといえば上官の命令に従っただけの末端の下士官兵が戦勝国により報復的に裁かれたといったイメージがあると思います。

 しかしBC級戦犯裁判の実態は、個別の事件によって様々で一概にはいえません。

 BC級戦犯には確かに上官の命令に従っただけの者もいましたが、一方で山下奉文はじめ高級軍人も多数おり、上官の命令に従った末端の下士官兵だけが戦犯として裁かれたとはいえません。

 また戦犯裁判は通常の刑事裁判と異なり一審だけの裁判であり、証拠手続きも被告側に不利なように簡略化されるなど、戦勝国の報復といった面は否定できませんが、BC級戦犯のなかには残念ながら捕虜の虐殺や略奪行為など戦争犯罪として弾劾されても仕方のない残虐行為をはたらいた者がいたことも事実であり、それら戦犯への判決は、現在の刑事事件の判決に比較しても妥当といえるべきものでした。

 こうした先の大戦をめぐる加害も被害も含めた様々な歴史が凝縮された巣鴨プリズンの悲哀を忘れず、また二度とこのような歴史を繰り返してはなりません。