7年目の3月11日を迎えて 神道と原発-「アンダー・コントロール」の思想を疑う

 2011年3月11日に発生した東日本大震災より、今日で7年を迎える。震災による死者・行方不明者は1万8000人を超え、震災関連死の死者数を含めるとその数は2万人を超える。近時、類例を見ない大災害であることはいうまでもない。そして、避難者数はいまだ7万人を超え、震災により発生した原発事故をうけて発令された原子力緊急事態宣言は、いまだ解除されていない。全ての犠牲者に心から哀悼の意を表すとともに、1日も早く被災地・被災者に平安が訪れることを祈りたい。

 震災犠牲者の死因は、約9割が溺死といわれている。震災による大津波が招いたものであることは、想像に難くない。津波は、さらに三陸沖の原子力発電所を襲い、東京電力・福島第一原子力発電所は、全電源喪失に陥った。これにより格納容器の圧力が上昇し、水素爆発やメルトダウンあるいはメルトスルーという悪夢のような事態を招き、大規模な放射能汚染が発生したのである。

 原発事故により福島第1原発付近の地域には避難指示が発令され、地域から人の姿が消えていった。現在、除染作業や復旧作業が行われ、少しずつ住民の帰還も進んでいるが、多くの地域はいまだ帰宅困難区域や居住制限区域となっている。あの日、着の身着のままで故郷を追われた人々の身の上を思うと、居た堪れないものがある。

 さらに考えるべきは、人々と共にあった地域の神社やそこに鎮まる神々のことである。避難指示が出され人々が故郷を追われ、神社の神々は毎日のお供えや祭を受けることも困難となった。神々の荒びを思わずにはいられない。神道家は、こうした点からも自身の信仰を前提として原発事故を総括していかなければならないはずだ。

核の平和利用論と神道

 昭和30年に開催された宗教世界会議において、神社本庁は原水爆禁止の議案を提出した。このことは核なき世界を求める花瑛塾の主張とも合致するものだが、議案は同時に、核の平和利用の推進を求めている。

 核の平和利用とは、端的にいえば原子力発電のことである。原子力を用いた発電は、大規模かつ安定的にエネルギーを得られ、エネルギー不足の終戦後にあって、「夢のエネルギー」ともいわれた。原発の設置には最先端の科学技術が動員され、原発はいわば戦後復興と発展の象徴でもあった。

 神道は、けして科学技術の発展と使用を否定するものではない。神道においては、存在を機能=霊的な「働き」とも捉えるから、そうした機能を活用することは、宗教的に矛盾するものではない。それゆえ高次の霊的な働きとして人間が自然に手を加え、存在の機能・働きを活用すること、つまり科学技術の発展や使用は肯定されるが、それらは「自ずからなる生命のありように反しない限り」という留保がつく。

 人間は直接に神ではないが、神の生みの子であるというのが神道の思想である。そうした人間には自ら事を成し遂げる力が与えられているが、全知全能の神がいないように、人間は全てを自らの力で成し得ることはできない。

 同時に神は自然の生命的本質が顕現した存在であるから、自然を物質と見たり、自然の運行を因果・法則と考えるのは神道的ではなく、神道においては、自然の生命的本質が顕現する「自ずからなるあり方」が尊重された。そして、神と自然と人間に本質的な差異を見ないのが神道である。

 その意味において、人間は「自ずからなるあり方」を超えない限りにおいて事を成し遂げるべきであり、有限な存在として自覚のもと、そして自然と一体のものとして、自然への畏怖や慎みが人間には求められる。しかし原発とその背後にある技術信仰には、それがなかった。

 原発とその背後にある技術信仰を象徴する言葉が、五輪招致にて安倍晋三首相がいった「アンダー・コントロール」である。安倍首相は「原発事故は収束しつつあり、廃炉作業も進み、さらなる放射能汚染の拡大はない」という文脈で「アンダー・コントロール」の言葉を使ったが、原子力に携わる研究者たちは「原発事故は絶対に起きない」といい続けた。そこには、科学そして人間は自然を完全に制御できるという思い上がり、つまり、安倍首相の言葉を借りれば「アンダー・コントロール」できるという技術信仰が存在する。この思想には、自然への畏怖や慎みをが存在しない。

 原発はウランなど存在の「自ずからなるあり方」を活用したともいえる。しかし、その存在には「自ずからなるあり方」として、恐るべき惨禍を招く可能性も有していた。原発とその背後にある技術信仰には、その「自ずからなるあり方」を「アンダー・コントロール」したという盲信があった。こうした盲信や自然への畏怖と慎みの欠如、「自ずからなるあり方」への違背は、神道の立場から容認できない。原発と技術信仰は、神道的立場と異なるものなのだ。

全原発廃炉は可能か

 当然、原発をなくせばエネルギー不足となるという心配もあるだろう。しかし、現在稼働中の原発はわずか3基前後である。そして、大飯原発の稼働停止から約2年間、1基も原発は稼働していなかったという事実もある。さらに、最近の報道では、昨年夏の電力の余力は震災前に稼働していた原発の発電量を上回っていたという報道もある。

 そもそも、原発自体が発電出力の調整が難しいため、夜間電力のために発電されているものだということは、あまり知られていない。朝から昼にかけて電力需要はピークに達するが、原発はそのために出力を増加させるといったことはできない。そのため、1日のうち電力需要が最低となる夜間電力にあわせて発電し、それ以上の電力需要は火力や水力あるいは再生可能エネルギーが賄っているのである。原発は本当に必要なのだろうか、という疑問が湧くのは当然である。

 東日本大震災は原発事故のみならず、津波対策などでも「アンダー・コントロール」の思想へ根本的な疑問符をつきつけた。無論、諦観や無為無策はまた神道的発想と異なる。自然を制御できないからといって、何もしなくていいというわけではない。震災犠牲者を心から悼み、事を為す力ある人間が自然と共にどう生きていくか、いまこそ考えていくべきだ。

平成30年3月10日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は東京大空襲から73年の今日、アメリカ大使館前において、東京大空襲は米陸軍航空部隊による「無差別爆撃」ではなく非戦闘員・一般住宅地をあえてを狙った「選別爆撃」であり、戦後の空軍設立のため派手な「戦果」を欲した同部隊による「政治的作戦」であるとし、その犯罪性を糾弾するとともに、日米両国がそれぞれの過去の戦争の違法性・犯罪性に向き合うなかで、戦争犠牲者の無念に報いるべきことを訴えました。

アメリカ大使館前

 その後、ロシア大使館前にてアメリカの介入を排除した新たな日ロ関係の確立などを訴えるとともに、首相官邸前・自民党本部前にて森友問題における公文書変造・国有地の恣意的売却疑惑についてただしました。さらに南北首脳会談・米朝首脳会談が実現する見通しのなかで、安倍政権がこれまで推し進めてきた対北朝鮮強硬外交は「無意味かつ危険」であるとし、何ら国益をもたらさず国民を危険にさらしたこれまでの対北外交の総括を求めました。

 街宣終了後、東京大空襲犠牲者などを祀る東京都慰霊堂を参拝し、空襲犠牲者に哀悼のまことを捧げました。

東京都慰霊堂

「選別爆撃」としての東京大空襲―米軍資料から見る―

 先の大戦の末期、米軍は日本「本土」を中心に、猛烈な空襲を行った。その代表的な事例が3月10日の東京大空襲である。

 1945年3月10日未明、米軍は東京の下町地区を中心に大規模な空爆を行った。いわゆる東京大空襲である。45年3月には沖縄戦も始まり、非戦闘員が戦闘に巻き込まれる悲惨な出来事が起きるが、東京大空襲も多数の非戦闘員が殺害されたことは承知の通りである。

 3月10日の東京大空襲に参加した米軍爆撃機B‐29は約300機、死者は10万人を数える。投下された爆弾は、無数の焼夷弾を束ねたクラスター爆弾であり、現在では非人道的兵器とされているものである。こうした事実だけでも、東京大空襲の残虐性が理解できるだろう。

 東京大空襲は、戦闘員と非戦闘員、軍需工場と一般住宅を区別せずに空襲した「無差別爆撃」ともいわれる。もちろん、そうした指弾は間違ってはいない。しかし、米軍資料を読み解くと、米軍は、むしろ非戦闘員と一般住宅をあえて狙って攻撃したとも考えられる。その意味で東京大空襲は「無差別爆撃」ではなく「選別爆撃」ともいえる。

 どちらにせよ東京大空襲は恐ろしい戦争犯罪であるが、本稿では、中山伊佐男「日本への住民選別爆撃の実相―米軍資料研究から」(『「『無差別爆撃』の転回点―ドイツ・日本都市空襲の位置づけを問う」報告書第3回シンポジウム』政治経済研究所付属東京大空襲・戦災資料センター戦争災害研究室、2009年)を参考とし、東京大空襲の「選別爆撃」としての実態を解明し、その残虐性を指摘したい。

  米軍資料を読み解く

 ここでいう米軍資料とは「米国戦略爆撃調査団報告書」をはじめ、日本占領期の各種の米軍資料の総称である。米国戦略爆撃調査団は、ドイツへの連合国の空爆の効果を調査するために設置されたものだが、トルーマン大統領により日本への空爆も調査するよう指示され、1947年までに同報告書を提出した。

 そうした資料の一つである、米軍による東京大空襲の『作戦任務報告書』には、同種の報告書には珍しい比較的長文の「まえがき」が付されている。そこには、「これらの攻撃の目的が、都市の市民を無差別に爆撃することではなかったということは注目すべきことである。目的は、これらの4つの重要な日本の都市の市街地に集中している工業的、戦略的な諸目標を破壊することであった」とある。しかし、この「まえがき」は正しいものなのであろうか。

 そもそも米軍は、日本の各都市の住宅地域について焼夷弾爆撃の有効性を分析し、それぞれ有効性の高い順に「ZONE-R1」、「R-2」、「R-3」と3段階に分析していたことが米軍資料から読み取れる。「R」は「RESIDENTIAL=居住」の「R」であり、実際に住宅地が地域全体の85%以上を占める地域を指している。その上で、3月10日の東京大空襲で攻撃対象とされ、大被害を出した隅田川沿いの下町地域を、「ZONE-R1」と分類していた。つまり、米軍は、下町地域が住宅地であると明確に認識していたのである。

 もちろん、こうした下町地域といえども小規模工場や家庭内工場も存在する。そのため、住宅地一帯が1つの巨大な軍需工場であり攻撃したともいわれる。しかし、米軍資料には、「このような目標に対する焼夷攻撃は、確実に住民の士気に極めて有害な影響を齎すはずである」との言葉があり、軍需工場であるから戦略的に攻撃をするのではなく、住民の士気を下げるために攻撃をするという認識が読み取れる。

 さらに、米軍資料には、下町地区の攻撃について、

目標地域にある個々の施設の物理的な損失そのものよりも(中略)多くの工場の雇用は、死傷者や、その地域からの労働者の転出による労働力の不足や、労働者の士気の低下による直接的な影響を及ぼすはずである。

ともあり、労働力つまり住民を狙った攻撃の必要性と有効性を説いている。

 実際に、東京大空襲における重要目標施設であった22の工場のうち、ZONE-R1には4つしか存在していない。

 こうした米軍の認識や実際に下町地域の無辜の民が多数犠牲になったことを総合すれば、東京大空襲は軍需工場と非戦闘員を無差別に攻撃したのではなく、住宅地域と非戦闘員を「選別」して攻撃した、「選別爆撃」だったといえる。「無差別」にせよ「選別」にせよ、その結果の重大性にかわりはないが、米軍資料を読み解くことで、非戦闘員を狙い撃ちして爆撃したという東京大空襲の残虐性と犯罪性がより明瞭になってくる。

  政治的判断としての東京大空襲

 東京大空襲を敢行した米軍第21爆撃機集団の指揮官は、悪名高きカーチス・ルメイだが、そのルメイの上官はヘンリー・アーノルドという軍人である。

 米空軍は第2次世界大戦まで独立した軍ではなく、陸軍の航空部隊という位置づけであった。それゆえ、アーノルドは空軍の独立のため、空軍主導による日本本土の空襲によって日本を降伏させる大戦果を得ようとしていた。

 実際、東京大空襲に先立つ2月、米海軍の航空部隊は東京の中島飛行機武蔵野工場を爆撃し、戦果をおさめていたが、第21爆撃機集団は目立った戦果をあげていなかった。米海軍太平洋艦隊司令長官ニミッツは、B-29の指揮権を要求し、海軍主導の日本爆撃を行おうとしていた。アーノルドは第21爆撃機集団が海軍に移管され、空軍の独立という野望が頓挫することを恐れ、部下に「結果を出す」ことを求めていた。アーノルドの焦りが東京大空襲につながったとも考えられる。

 まさしく、東京大空襲は軍事的あるいは戦略的な意味があるのではなく、米軍内部での政治的判断によって行われたといってもいいものなのである。

 東京大空襲より73年を迎えるが、いまなお焼夷弾による火傷など、身体に重篤な傷害を負って苦しむ人々もいる。米軍による「選別爆撃」、「政治的空襲」としての東京大空襲の残虐性や犯罪性を指摘するとともに、日米両国が空襲など自国の戦争犯罪の加害と被害に向き合い、戦争の惨禍を繰り返すことを防ぎたい。

トークイベント「やまとぅ問題を斬る!沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.1

 花瑛塾メンバーも登壇するトークイベントが開催されます。以下、御紹介します。

「やまとぅ問題を斬る!沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.1

 OPEN 18:30 / START 19:30

予約¥1500 / 当日¥2000(飲食代別)

なぜ沖縄に米軍基地が集中しているのか?!
なぜ沖縄に関するデマや偏見が溢れているのか?!
基地や差別を沖縄に押し付けている「やまとぅ(=日本本土)」を問い直す。

●第1部
・日本は独立国家なのか?
・米軍基地は何の為にあるのか?
・米軍基地の存在によるデメリット
・日本政府、アメリカ政府に望むこと
・自身、個人として何をおこなうべきなのか

●第2部
・メディアの在り方、役割
・米軍基地いらない=極左などと呼ばれてしまう理由
・ニュース女子の問題について
・インターネットの情報は真実なのか?
・結論として、今後どのような米軍基地のあり方を考えるか

●第3部
質疑応答など

【登壇者】
香山リカ(精神科医)
木川智(花瑛塾 塾長)
仲村之菊(花瑛塾 副長)
安田浩一(ジャーナリスト)
山口祐二郎(憂国我道会会長、フリーライター)

※あいうえお順にて掲載
※動画撮影、録音禁止

「やまとぅ問題を斬る!沖縄への視点/沖縄からの視点」Vol.1

三線の日 沖縄戦米軍収容所とカンカラ三線の記憶

 沖縄を題材としたカレンダーを眺めていると、3月4日の日付の下に「三線の日」とあった。3と4で「さんし(3、4)ん」という語呂合わせによるものだろう。

 三線は中国の「三弦」をルーツとする琉球・沖縄の弦楽器であり、胴に張られた蛇皮が特徴的である。この琉球の三線が「本土」に伝わり三味線になったといわれている。

 1945年にはじまった沖縄戦は、琉球・沖縄の貴重な文化財や人々の生活をことごとく文字通り「消滅」させたが、琉球王国に由来する貴重な三線や人々の思い出が詰まった三線も失われた。そして米軍管理下に置かれた軍人や沖縄の人々は米軍の尋問後、収容所生活を送ることになる。収容所ではマラリアが蔓延するなど、けして快適な環境ではなかった。

 そうしたなかで、人々は米軍が廃棄した缶詰の空き缶を胴に用いた「カンカラ三線」を弾き、収容所生活の慰めにしたという。例えば金武村の屋嘉に設けられた米軍捕虜収容所で謡われたものとして「屋嘉節」などがある他、「PW無情」(捕虜収容所では、人々は「PW」=Prisoner of Warと捕虜を示す記号が記された衣服を着用した )などの歌がある。

 三線の日に沖縄と三線の歴史を振り返りたい。

映画『悲情城市』 二・二八事件と現代台湾

 先月28日で二・二八事件から71年を迎えた。一昨年、花瑛塾は二・二八事件を記念する台北市内の「二二八紀念館」を訪れ、事件について学習を深めるとともに、犠牲者を追悼した。

 二・二八事件を扱った映画に『悲情城市』(監督:侯孝賢〈ホウ・シャオシェン〉、1989年)がある。本作は、ヴェネツィア国際映画祭金獅子賞受賞作であるが、日本による台湾統治終了後、国民党施政が開始されるが、国民党施政の腐敗とそれによる人々の混乱そして大規模反国民党運動となった二・二八事件を背景にしながら、ある台湾人一家の悲劇を描き出す内容となっている。

 以下、本作のあらすじと時代背景、そして二・二八事件の概要を確認しつつ、台湾における対日感情の変容を念頭におきながら若干の所感と批評を述べたい。また他の台湾映画の紹介などもおこないたい。

 本作の主な登場人物は、以下の通り。

林阿禄(李天禄…リー・ティエンルー)―「小上海酒家」先代。地元の顔役のヤクザ。息子たちの行く末を危惧している。

林文雄(陳松勇…チェン・ソンユン)―林家長男。船問屋を営みながら家業を継ぐ。ヤクザとしての生き方も父から引き継ぐが、上海ヤクザと揉める。

林文森(出演なし)―林家次男。日本軍々医としてルソン島に送られ、終戦後も生死不明。

林文良(高捷…ジャック・カオ)―林家三男。戦時中は上海で日本軍通訳を務め、終戦後、精神錯乱状態で帰国。精神状態回復後、上海ヤクザに協力するも、売国奴として密告され、拷問を受けて廃人となる。

林文清(梁朝偉…トニー・レオン)―林家四男。幼少時、聴力を失い、成人後は写真館を営む。下宿人の呉寛栄ら青年知識人たちと新台湾の将来を語り合う。

呉寛美(辛樹芬…シン・シューフン)―呉寛栄の妹。金爪石の高山病院の看護婦。林文清と恋仲になる。

 1945年8月15日、文雄の妾アイユンは臨月を迎えていた。産婆がアイユンの出産に立ち会い、文雄はそのそばでひたすら神仏に祈りを捧げる。無事に子どもは取り上げられ、文雄は室内の照明をつける。背景音として昭和天皇による玉音放送が流れる。そう、この日、戦争が終わったのである。

 戦争により休業していたが終戦により新装開店したのであろうか、「小上海酒家」では、祝宴が催され、それとともに林家は商売繁盛の祈りを捧げ、みなで記念写真を撮影する。そのような折、寛美は看護婦として金爪石の高山病院に赴く。寛栄のかわりに随行する文清。2人は写真を見合いながら、徐々に惹かれあう。林家の幸せがそこにあった。ちなみに、映画では、寛美の日記が随時読み上げられ、映画の筋立てを際立たせている。

 文清の写真館は寛美の兄・寛栄が下宿をしていた。寛栄は教師として働く青年知識人である。あるとき、寛栄が他の青年知識人を引き連れ、文清の写真館を訪れる。台湾の将来を語る文清や寛栄など青年知識人たち。そこでは大陸の混乱や新たに台湾を領有した国民党・陳儀の施政に対する批判などが提起された。そして寛栄が密かに心を通わせていた学校の校長の娘で日本人の静子は、国民党の命令により日本帰国を余儀なくされていた。

 金爪石の高山病院では、看護婦たちが中国語の勉強を始めている。新たな時代の到来のなかで、文良が帰ってくる。しかし彼は精神錯乱状態に陥っており、病院内で暴れ、文雄がそれを必死で制止する。

 先ほどの青年知識人たちは、酒を飲みながら再び台湾の未来を語る。そこではさらに踏み込んだ痛烈な陳儀批判がなされる。

 青年知識人たち、寛栄と静子、文良。台湾人たちの間に、少しずつギクシャクしたものが芽生え、どことなく冷たい風が吹き始めていた。

 精神を取り戻した文良に、新興の上海ヤクザが近づく。上海ヤクザは、黄金酒家で文良と会食しつつ、文雄が取りしきる交易船を使い、統制下であった米や砂糖の密輸をしないかと持ちかける。文良は「兄に相談しないと」と断るが、場の空気に押される。その場には文雄の舎弟である阿嘉も同席していた。

文清と寛美と男児

 その阿嘉に、黄金酒家の店主・赤猿が日本紙幣の不正な両替を持ちかける。しかしその夜、赤猿は情婦の目の前で何者かによって拉致され、翌朝、遺体で見つかる。

 文雄のもとに、文良と阿嘉が上海ヤクザと密輸をおこなっているとの密告が入り、文雄は船の積み込み場へ急行する。密輸品を押さえた文雄は、現場にいた阿嘉をなじり、文良の関与を問いただした。

 文良は上海ヤクザと博打に興じていた。そこに密輸が発覚したとの情報が入る。文良は文雄と話をするため博打場を出ようとするが、先ほどの赤猿の情婦を見つけ、赤猿拉致に関与していないかと詰め寄る。しかしキムという朝鮮人が情婦を「俺の女だ」といって間に入る。

 実はキムは上海ヤクザに属するチンピラであり、情婦は赤猿の日本紙幣の不正両替の話をキムに密告し、キムそして上海ヤクザともども赤猿殺害を実行したのであった。

 そして文良とキムは刃物を持っての喧嘩となり、文良の不始末を引き受ける文雄たち地元グループと上海ヤクザとの抗争が始まる。文雄は案じて地元の長老に調停に入ってもらい、何とか和解が成立するが、上海グループが国民党に文良が密輸に関与していると密告し、文良は逮捕される。

 文雄は上海グループに頭を下げ文良の解放を懇願する。そして文良は釈放されるが、取調べにおいて拷問にあったため、廃人となっていた。

 新しい正月の朝、眠りから覚めた文雄は、食事の準備をする妾に、独り言のように話しかける。

「最近よく夢を見る。子どもの頃の出来事の夢だ。昔、親父は大事な金を母親から預かり、それを渡しにいくことになったが、博打好きの親父を心配した母親は、俺を親父に随行させた。そしたら親父は俺を電柱に縛りつけ、大事な金で博打へいってしまった。近所の人が見つけて縄をほどいてくれたが、危うく死にかけた。それからというもの、俺は絶対に親父と2人きりで出かけなくなった」

 唐突な独白。新しく迎えた正月だが、文雄は希望に満ちて将来を語るのではなく、いささか諦念を込めて、しかしどことなく懐かしそうに、過去を語る。そして台北において「二・二八事件」が勃発したとのニュースを告げるラジオが放送される。各地で台湾人が蜂起し、国民党や大陸から渡ってきた中国人を襲撃し始めたという。台湾において芽生えたギクシャクや冷たい風は、いまや現実のものとなり、台湾人から希望や将来というものを奪い始めたのである。

 二・二八事件を期して台北に赴いた寛栄は、手傷を負って帰ってくる。そして山に篭もり、同志たちと共同体を築き、ゲリラを開始する。そして文清も寛栄たちと行動をともにしたとのことで、逮捕される。

 勾留された文清は、同室の者が次々と処刑されるなかで、嫌疑不十分として釈放される。そして同室の縁者を探し、遺品などを届ける旅に出る。あるとき、寛栄を探し出した文清は、ともにゲリラとなることを願うが、寛栄に断られ、家に戻ることになる。

 しかし家に安らぎはなかった。トラブルに継ぐトラブルで、文雄は苛立っており、小上海酒家も休業状態、文雄は博打に興じ束の間の安息をえていた。そして博打場で阿嘉と上海ヤクザが再び揉め、文雄は阿嘉を守るも殺されてしまった。そして文雄の葬式。雨の中、僧侶の読経に耳を傾ける参列者たち。そこには林家そして地元の人々の無念の顔が刻まれている。

 文清と寛美は結婚をした。ささやかな結婚式。男児の誕生。林家に笑顔が戻りつつあったが、寛栄は捕縛され、そこから寛栄との間柄が疑われた文清も逮捕されてしまった。

 ラストシーン。老境の阿禄そして廃人となった文良さらに阿嘉と林家の女性たちが、言葉もなく食事をする。ズームバックをし、パンニングをせず固定したカメラワークに映る林家の人々に、悲しみと諦めを感じないものはいないだろう。

 本作の時代背景として、日本による台湾統治終了から国民党施政開始そして二・二八事件の発生があることは先述の通りである。そこで、日本による台湾統治の開始から二・二八事件の発生までの経緯を確認したい。

 1871年、台湾南部に漂着した宮古島の島民が台湾牡丹社の原住民に殺害され、日本側は台湾に出兵する。これにより琉球の帰属を清朝に認めさせるとともに、賠償金をえた。

 そして1895年4月、日清講和条約(下関条約)が締結され、台湾が日本に割譲された。翌5月、日本軍が上陸開始、11月には全島平定が大本営に報告された。

 日本の台湾占領にあたり、各種の抵抗運動が頻発している。旧清朝系の唐景菘や劉永福らは、「台湾民主国」を建国し、フランスの支援のもと日本側に対抗した。また一般民衆や原住民も立ち上がり、ゲリラ戦を展開している。

 このゲリラは、日本の台湾占領が完了し統治が開始されてからも、数次に渡って発生している。1913年の羅福星事件や1915年のタパニー事件など死者数百名を出すゲリラ事件もあるが、ゲリラの規模や死傷者数などから特筆すべき事件としては、1930年、霧社の原住民による日本人襲撃と日本側の苛烈な掃討戦が展開された霧社事件が挙げられる。

 日本の台湾統治において主眼となったのはゲリラ対策であった。台湾総督をつとめた後藤新平は、警察力の整備と相互監視を強化し、じつに後藤の総督就任から五年間で3万人以上の台湾人がゲリラとして処刑されている。また台湾人の文系高等教育修得機会を「独立心を抱くおそれがある」として禁ずるなど、過酷なものであった。

 霧社事件の背景にも、日本側による原住民への画一的統治の押し付けや強制労働への不満があったとともに、整備された警察が行政の一部をなすなかで、警察による固有文化の無視や原住民女性を辱めるといった出来事が存在したといわれている。

 また日本の台湾統治時代においては、ゲリラだけでなく、合法的な独立運動も展開されている。日本における大正デモクラシーや中国の辛亥革命そしてロシア革命などから影響を受けた台湾知識人たちは、1918年から20年にかけて「啓発会」や「新民会」などを結成し、台湾総督の独自支配を認める「六三法」撤廃運動などを展開するとともに、21年には「台湾議会期成同盟会」を結成して台湾議会の設立を求めるなどした。

 確かに日本統治において、台湾におけるインフラが整備されたことは事実である。また公衆衛生や教育も進展した。けれども先述のゲリラや独立運動が存在したことも事実であり、賃金や雇用の面などでも厳然として日本人と台湾人との差別は存在したのである。

 1945年9月、大東亜戦争の終戦により国民党は台湾を「台湾省」と宣言する。10月、台湾を接収するべく国民党軍が上陸、国民党幹部・陳儀が台湾省行政長官・台湾警備総司令官として台湾統治の全権を握る。台湾人は台湾の国民党領有を「祖国復帰」と喜んだ。

 しかし国民党施政は腐敗と汚職にまみれていた。陳儀は日本の台湾総督並みの権限を持ち、国民党最優先の政治をおこなう。そして旧来の台湾人は徹底的に搾取と差別にあった。これにより台湾経済は大混乱に陥り、街には失業者が溢れた。自然、治安や社会機能は急速に悪化し、日本統治時代にはすでに撲滅されたはずのコレラが流行するまでに至る。

 台湾人はこの状況を「犬去りて豚来たる」と表現する。「日本人はうるさいものの番犬として役に立ったが、代わりにきた中国人は食って寝るだけの豚に過ぎない」という意味である。

 ついに国民党への不満は爆発し、腐敗官吏の処罰などを求めた二・二八事件が勃発する。

 二・二八事件の背景には、国民党によるタバコの専売制の問題が存在する。1,947年2月27日、台湾人寡婦がタバコの密売をおこなっていたところ、国民党の取締官がこれを押収するとともに所持金まで取り上げ、さらには銃で頭部を殴打した。そもそもこの寡婦は国民党施政の腐敗のため夫を亡くし、仕方なくタバコの密売を生業としていた。タバコは国民党による専売制であり、それはつまり闇にタバコを流していたのも国民党なのである。国民党が専売にするタバコを、国民党が闇に流し、そのタバコを手に入れて密売していたところ、国民党の取締官が寡婦のタバコや所持金を取り上げ殴打したのである。ここに国民党施政の腐敗がよく見てとれるだろう。

 群衆がこれに怒り取締官を糾問すると、取締官は発砲し群集の一人が死亡した。これにより群衆は警察と憲兵隊を包囲し、翌28日には長官公署前に集結、政治改革を要求するものの、国民党は機関銃を掃射して対応するとともに、戒厳令を発令する。市民は台湾放送局を占拠し、事態を台湾全土に知らせ、決起を呼びかけた。

 国民党は一旦要求を受け入れるが、3月8日には大陸から国民党軍の増援部隊が上陸、以後、2週間に渡り台湾全土で国民党軍による台湾人への無差別殺戮が繰り広げられた。

 日本統治時代の反日ゲリラの展開や熾烈な弾圧そして終戦による国民党の台湾領有を台湾人は「祖国復帰」と歓迎していた事実を見ても、日本統治下の台湾における対日感情はけして好意的なものとはいえない。

 しかし国民党施政の腐敗や二・二八事件の結果、台湾人には国民党への恐怖が植え付けられるとともに、政治的無関心が広まる。そして国民党による台湾人への差別が確立し、台湾人の反国民党感情が高まるとともに、厳しいながらも法治主義が確立し安定していた日本統治下を懐かしむ親日感情が醸成されるなど、対日感情は変容していった。

 日本統治により結果的に近代化が促進された部分があることは先述の通りである。またダム建設をおこなった八田與一や人格者の日本人教師など個々の存在により親日感情が生まれた部分ももちろんあるだろうが、台湾における対日感情の変容は、国民党に比べれば日本時代がまだよかったという複雑で屈折したものであるのだ。

 「複雑」「屈折」―本作の数々の場面に「複雑」「屈折」を見出せるが、それはまた、台湾現代史にもいえることである。

 本作の冒頭、生まれくる命は、庶子であった。悲しくもその命は、「正統」なものではなかったのだ。庶子は「光明」と名づけられ、文雄はじめ林家の者はみな庶子の誕生を喜ぶが、林家のその後に「光明」はありえなかった。

 ここに国民党による台湾領有が重なり合っていることはいうまでもないだろう。「祖国復帰」と国民党による台湾領有を喜び、人々は「光復」を祝うが、台湾に光は戻らなかったことは、先述の通りである。

 あるいは文雄の夢の独白。「親父に電柱に縛り付けられた」という文雄の子どもの頃の出来事を、ここのところよく夢で見るという独白には、日本統治への思いの「複雑」「屈折」を見てとることができるだろう。

 文雄、文森、文良、文清の生涯もまた、台湾現代史そのものである。上海ヤクザとのトラブルで命を落す文雄には大陸系による台湾人差別、日本軍々医として戦地におもむき生死不明となっている文森には日本軍兵士として徴兵を受けた台湾人の歴史、上海ヤクザとの癒着を国民党に摘発される文良には二・二八事件におけるタバコの密売、そして文清の逮捕には台湾青年知識人の粛清、そのようなことが投影されているようにおもわれる。

 こうした林家と台湾現代史の「複雑」「屈折」の極北が、映画のラストシーン、林家の人々がただただ淡々と食事をする場面である。ここには悲しみに裏付けられた林家そして台湾人の政治的無関心や無気力が描かれている。そして気がふれた文良もともに食事をとっているところからは、林家の「複雑」「屈折」と台湾現代史が悲哀を内包しつつも日々を生きている台湾の「複雑」「屈折」を表象しているといえるだろう。

 日本統治時代の抵抗運動を描く台湾映画としては、魏徳聖(ウェイ・ダーション)監督『セデック・バレ』(2011年)がある。この映画は先述の霧社事件とその背景を描いた作品である。全編二七六分の大長編であるが、金馬奨各賞受賞作であり、興行収入8.8億台湾ドルを記録した大作である。

 同じく魏徳聖の監督作品としては、『海角七号』も紹介しておきたい。

 『海角七号』は現代台湾の若者を描いたコメディータッチの作品であり、演技やストーリー展開などの面で粗も目立ち、良作とはいえないが、爆発的にヒットした。なぜこの映画が台湾で、特に若い人々に歓迎されたのか。それは、この映画が台湾における南北格差や民族問題などをディティールとしていたからである。台南出身の若者が台北で夢破れて故郷に戻るシーンからこの映画がはじまるが、こうした点に台湾における「複雑」「屈折」が読みとれるだろう。

 軽い雰囲気で台湾映画を楽しみたいなら、やはり魏徳聖監督『あの頃、君を追いかけた』などもいいだろう。若者向けのラブコメディーであり、ヒロインとして好演するミシェル・チェンの出世作である。

 『悲情城市』は台湾のキューフンという街を舞台としている。夜店が立ち並ぶキューフンの街並みは、日本人にとってどこか懐かしいものを感じる。そんなこともあって、いまでは台湾の観光名所の一つとなっているが、ここを訪れる日本人のどれだけが『悲情城市』を見たことがあるだろうか。キューフンを訪れる日本人のどれだけが、あるいは台湾を「親日」といってはばからない日本人のどれだけが、日本統治からはじまる台湾の「複雑」「屈折」や台湾の対日感情の「複雑」「屈折」におもいをめぐらせているだろうか。

 すこしでも台湾に興味があれば、本作を見ていただきたいとおもう。

平成30年2月26日 二・二六事件磯部浅一・登美子夫妻墓参(回向院)

 二・二六事件より82年を迎えるこの日、事件の主要メンバーであった元陸軍一等主計・磯部浅一とその妻・登美子の墓所(回向院)を訪れ、お参りしました。

 昭和11年(1936)のこの日、陸軍歩兵第3連隊第6中隊など1500名が岡田啓介・内閣総理大臣や高橋是清・大蔵大臣らを襲撃し、東京主要部を占拠、国家革新を訴えました。

 磯部は陸軍中尉から一等主計へと転属し、いわゆる陸軍士官学校事件(十一月事件)で停職となりますが、事件は辻政信のでっち上げとして「粛軍に関する意見書」を提出し免職され、その後は国家革新運動に挺身し、二・二六事件では要人暗殺などの主要メンバーとなります。

 戦後、三島由紀夫は『英霊の声』において彼ら青年将校の憤りを描き、作中において青年将校らは「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」という絶叫のような恨み言を繰り返します。

 思想家・葦津珍彦は三島『英霊の声』の批評にて、彼ら青年将校は真木和泉守や西郷隆盛のような烈々たる禁闕への思慕の情がありながらも、あえて賊徒として散った人々とは異なり、あくまで勅命を奉じた武人・軍人であり、それ故に賊徒の汚名が断じて許せず、「英霊」ならぬ「怨霊」として荒ぶのだとし、その鎮魂に思い至ったとします。

 同時に葦津は、『英霊の声』評において、日本の忠臣の行動方式を楠木正成に代表される「絶対随順」と、真木和泉守や西郷隆盛に代表される「法外の浪人(アウト・ロウ)」の2種類に類型化し、その上で二・二六事件の決起将校はあくまで「絶対随順」の「正常の武人」「忠誠の臣」であり、最後の最後で勅命に服して原隊復帰したのであるが、それでもなお賊徒とされたため「怨霊」と化したとするなど、現代の社会学におけるミメーシス・情念といった課題を提起しています。

また、思想史家・松本健一は、

二・二六事件を引き起こした青年将校たちは「国賊」ではなく、むしろ民主主義革命をやろうとしたのではないか、と考えられるのではないでしょうか。GHQも、二・二六事件の関係者を呼び出して徹底した調査をしていますが、誰も罪に問われることはなく、戦犯に指定された人はいません。そこにもまた、アメリカから与えられたものがあると評価すべきだと思っています。

と述べ、北一輝や二・二六事件を再検討するなど、事件は様々な角度から見直す時期に来ています。

磯部浅一・登美子の墓

花瑛塾会報「神苑の決意」第17号(3月号)、発行しました

 花瑛塾会報「神苑の決意」第17号(平成30年3月号)発行しました。読者の皆様のお手許には、近日中に届くと思います。

 1面「主張」は先月4日に投票された名護市長選挙と琉球王国の歴史について、4面「解説」では北方領土問題へ介入するアメリカと今後の日ロ関係について、論じております。

 その他、本号各記事の見出しや購読方法など、詳細については当サイト花瑛塾会報「神苑の決意」もしくは花瑛塾ONLINE STOREより御確認下さい。

 また花瑛塾会報「神苑の決意」は、ミニコミ誌を扱う「模索舎」(東京都新宿区)にも納品しており、バックナンバーなども置いていただいております。最新号(第17号)も納品済みですので、どうぞご購読下さい。

 模索舎Webサイト「神苑の決意」紹介ページ(第12号、平成29年10月号)

http://www.mosakusha.com/newitems/2017/09/12_15.html

平成30年2月22日 いわゆる「竹島の日」における日韓対話を求める街頭行動

 花瑛塾はいわゆる「竹島の日」の今日、昨年に引き続ぎ韓国大使館前にて、むき出しの植民地主義や蔑視とは異なる対朝鮮・韓国観を有する戦前の神道家などの思想を紹介し、日韓の信頼醸成と対話を求める要請行動を展開しました。

 明治38年(1905)1月28日、日本政府は竹島の島根県編入を閣議決定し、翌月22日、島根県は竹島の編入は告示しました。島根県はこれを理由に2月22日を「竹島の日」と定めています。

 日本による竹島編入は、日露戦争などによる当時の日本側の軍事的要請に基づく面もあり、さらに韓国にとって竹島は鬱陵島の属島と認識され、当時の日本の韓国統治・併合と重なり合う繊細な問題であり、そのことについては日本側も自覚し配慮する必要があります。

 戦後、アメリカは竹島の日本帰属を認めつつ、他方で李承晩による官憲を用いた竹島の占拠を事実上容認しました。さらに日本によるアメリカなど西側諸国を主とした「片面講和」は、韓国との国交正常化をもたらすものではなく、日韓の国交が正常化した日韓基本条約も竹島については曖昧な表現をしています。私たち日本人は、他国の歴史認識を責める前に、まずは自国の歴史を振り返り、問題が拗れた原因を探るべきです。

 もちろん花瑛塾は日本が竹島の領有権を主張する国際法上・歴史上の根拠は明白であると考えますが、それを叫び続けるのみで事態が解決しないこともまた明白であると考えます。花瑛塾による戦前の神道家や国士の非侵略的・反差別的な対朝鮮・韓国観の回顧と紹介が、日韓の信頼醸成と対話の進展の一助になることを祈念します。

韓国大使館前での要請文の読み上げ

平成30年2月20日 いわゆる「松代大本営」地下壕見学・朝鮮人犠牲者の碑参拝

 この日、先の大戦末期の昭和19年(1944)に本土決戦の準備と空襲回避、そして国体護持のために大本営や政府機関を移転するため計画・着工された、いわゆる「松代大本営」地下壕(長野市)を見学し、地下壕入口付近に建立されている「松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和記念碑」を参拝しました。

「松代大本営」地下壕入口

 「松代大本営」地下壕は、先の大戦の敗色が色濃くなった昭和19年に陸軍省が計画し、東部軍が実行して構築したものであり、長野市松代の舞鶴山を中心として、皆神山、象山に碁盤目状に掘削され、その延長は約10キロメートル余りに及ぶといわれています。サイパン島陥落により本土空襲の激化と本土決戦の可能性が現実化した当時、大本営や政府機関をこの地に移すため、突貫工事が行われました。

 松代の地が選ばれた理由としては、海岸からの距離や地盤の堅牢さなど地理的理由とともに、当時にあって長野県は比較的労働力の確保が容易であったからといわれています。工事には多数の日本人労働者が動員された他、多くの朝鮮人が動員されました。特に朝鮮人労働者は危険な作業に従事させられ、多くの人が犠牲になったといわれています。

地下壕の全体像

 「松代大本営」の工事をはじめとした本土決戦戦略は、沖縄戦にも大きな影響をおよぼします。昭和19年から沖縄に第32軍が展開しますが、大本営は沖縄での日米決戦戦略を変更し、本土決戦を見据えた「出血消耗戦」「捨て石」として沖縄戦を位置づけ、沖縄でなるべくアメリカ軍の兵力に損害を与え、本土上陸を遅らせるよう計画します。これにより沖縄は凄惨な戦場となっていきます。

 第32軍八原高級参謀の手記によると、昭和20年6月21日、第32軍のもとに陸軍大臣・参謀総長連名の「貴軍の奮闘により、今や本土決戦の準備は完整せり」との訣別電報が届いたとされます。そして23日未明、牛島司令官・長参謀長は摩文仁で自決します。「松代大本営」は6月半ばにおおむね完成したことから、「松代大本営」の竣工と沖縄戦のタイムスパンは軌を一にするという指摘もあります。

松代大本営朝鮮人犠牲者追悼平和祈念碑