「沖縄返還とは何か?」の問いに向かい合う

 1965年、佐藤栄作内閣のもとでアメリカの施政権下にあった沖縄の施政権返還交渉が進められ、69年、佐藤首相とニクソン大統領が沖縄返還に合意し、72年、沖縄返還が実現する。

 しかし、沖縄返還交渉はけして順調に進んだわけではなく、核兵器の持ち込みや財政的負担など、返還交渉の水面下では様々な密約が取り交わされた。そしてあくまで返還はアメリカの軍事戦略に沿うかたちで進められたのであり、本土や沖縄におけるアメリカ軍基地の再編として沖縄返還があったともいえる。

 こうした1970年前後の在日アメリカ軍基地の再編について、我部政明「在日米軍の再編:1970年前後」(『政策科学・国際関係論集』第10号、2008年)は詳細な分析を行っているが、我部によれば、返還交渉が進む66年9月、アメリカ政府内の検討報告書「われわれの琉球基地」が作成される。同報告書はアメリカ政府内で施政権返還を考慮に入れた初めての報告書であるが、そこでは施政権返還が実現されても、アメリカの安全保障にとって必要不可欠である在日アメリカ軍基地の安定的かつ最大限の自由使用が可能であることが返還の前提であり、それを日本自身が理解することに返還の要点があるとされている。

 引き続き我部によると、検討報告書「われわれの琉球基地」とともに、アメリカ政府は66年5月付け「日本の防衛力」と題する検討報告書も議題として取り上げていた。同報告書において、アメリカは、自衛隊が自国防衛に専念することに不満を抱いていた。アメリカは、日米安保を日本防衛のためだけではなく、自衛隊がアメリカ軍の補完として成長するための枠組みとして見ていた。その上で自衛隊の防衛体制の変革とアメリカ製兵器の購入など軍備増強、そして集団的自衛権の行使・海外派兵による地域安全保障への貢献を求めている。

 そうとはいえ、自衛隊がアメリカ軍の補完になりえても、在日アメリカ軍基地や兵力の削減にはつながらないとアメリカは考えていた。つまり在日アメリカ軍が日本防衛に果たす役割は少ないとアメリカは考えているのである。これらの事実は、まさしく現在の自衛隊の装備や任務内容などをあらわしており、現在の日本の軍事情勢の原型といえる。

 また、キャンプ・シュワブ(沖縄県名護市)沿岸の埋め立てによる飛行場建設と地上部分における弾薬庫の整備、あるいは岩国飛行場(山口県岩国市)や普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)に展開するアメリカ軍ヘリコプター部隊の収容や軍港の建設は、1965年にはアメリカ軍内で計画がスタートしている。無論、これは現在の普天間飛行場「移設」と称する辺野古新基地建設計画の原型といえる。

 在日アメリカ軍基地の経費の一部を日本側が負担する「思いやり予算」についても、沖縄返還に関する日本側によるアメリカへの財政的負担がその原型となっていることはいうまでもない。

 三島由紀夫はじめ「楯の会」隊士による「楯の会」事件(いわゆる三島事件)の檄文において、三島は

沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいう如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。

と記している。70年沖縄返還とそこに至るまでのアメリカ軍の動向が現在に及ぼしている影響を、三島は既にこの時点で見抜いていたといえる。「沖縄返還とは何か?」の三島の問題提起に向かい合うのでなければならない。

平成30年2月11日 紀元節奉祝街宣

 花瑛塾はこの日、神武天皇をお祀りする橿原神宮遥拝後、都内一円にて「紀元節」奉祝街宣を行いました。

 紀元節とは、明治初期から終戦直後までの祝祭日であり、神武天皇の即位を祝うものです。『日本書紀』には神武天皇即位について「辛酉年春正月庚辰朔天皇即帝位於橿原宮」とあり、明治6年の太政官布告によって2月11日が神武天皇即位の日「紀元節」とされましたが、終戦後の昭和23年、GHQの意向もあり「国民の祝日に関する法律」の制定によって廃止されました。

 ところが昭和41年、2月11日が「建国記念の日」として祝日となり、「建国をしのぶ日」とされました。しかし紀元節は神武天皇即位の日であっても、日本建国の日ではありません。日本建国はあくまで瓊瓊杵尊の天孫降臨によるものであり、神武天皇即位はいわば「建国中興」であり、紀元節はその意味において「建国中興記念の日」といえます。

 実際、紀元節制定に尽力した大国隆正や玉松操あるいは岩倉具視といった幕末・維新期の国学者や神道家、政治家も紀元節を建国の日とはしておらず、そのことは『日本書紀』以降の古代の文献や『神皇正統記』など中世の思想書などにもあきらかです。

 他方、歴史学の立場からは、神武天皇即位紀元は讖緯説に基づくものであり、推古天皇9年辛酉正月一日から辛酉革命の起きる1260年前倒し設定されたともいわれております。そうすると推古天皇9年辛酉自体が聖徳太子など当時の人々にとって革命の年と考えられていたともいえるのであり、実際に十七条憲法の制定や隋との外交関係の確立など、推古天皇9年辛酉の年とその前後は国家の大変革の時期でもありました。

 2月11日を「建国記念の日」とするのであれば、神武天皇即位紀元に由来する建国ではなく、推古天皇9年辛酉に基づく国家の変革を建国の精神ともいえるのであり、私たちは紀元節と建国記念の日を通し、建国の精神に基づき、建国中興と国家の変革を目指す必要があるのではないでしょうか。

都内一円にて奉祝街宣を行う花瑛塾車両

日ロ新外交により2月7日「北方領土の日」を「北方の日」に

 2月7日「北方領土の日」を「北方の日」に

 1855年2月7日、江戸幕府と帝政ロシアは日魯通好条約(日露和親条約)を締結しました。これにより千島列島のうち北千島がロシア領、南千島が日本領となり、樺太島は日ロ雑居地と定められるなど、日ロ北方外交がスタートしました。

 日本政府は昭和56年(1981)、「北方領土問題に対する国民の関心と理解を更に深め、全国的な北方領土返還運動の一層の推進」のため、日魯通好条約の締結にちなみ、毎年2月7日を「北方領土の日」とし、この日に北方領土問題関係機関や民間団体などとともに集会や行事を全国的に実施しています。

 私たち花瑛塾は、この「北方領土の日」に関連し、第2次世界大戦中の国際法違反のロシア・ソ連による対日参戦とこれによる領土侵略、さらにその背景に存在するアメリカの教唆と幇助を厳しく糾弾します。

 同時に、従前の日ソ・日ロ外交の検証、アメリカの介入を排除した日ロ新外交の展開、そして北方先住民族の権利擁護と北方領土元島民の支援の実施を求め、「領土」のみに視点を置いたこれまでの「国境線外交」から脱却し、「北方領土の日」を「北方の日」と位置づける必要を訴えます。

 ソ連対日参戦とアメリカの教唆・幇助

 昭和20年(1945)8月9日、ソ連はわが国との中立条約の有効期間内にも関わらず対日参戦し、満州・朝鮮・南樺太・千島列島を攻撃、占拠しました。爾来、72年以上の長きに渡り、千島列島などの日本領は不法に占拠されています。

 ソ連の対日参戦が国際法違反の侵略行為であることは明白であり、さらに戦闘においてソ連軍が行った殺人・強盗・放火・略奪など数々の蛮行は許しがたく、ここに厳しく糾弾します。

 同時に、ソ連の対日参戦の背景に、アメリカの教唆が存在することを見過ごしてはなりません。第2次世界大戦中のヤルタ会談において、アメリカ大統領ルーズベルトは、ソ連書記長スターリンに対日参戦を促し、その見返りとして日本領であった千島列島と南樺太の領有を認めました。

 さらにアメリカは、ソ連軍に対し、北方領土上陸作戦に必要な上陸用舟艇や掃海艇などの軍艦145隻を貸与し、アラスカにてソ連軍将校と兵士1万2千人に訓練を施していたことが明るみとなっています。

 ソ連による対日参戦と領土侵略は許されませんが、それを教唆し幇助したアメリカも同罪です。戦後の日本外交が歩んだ対米協調路線の感情的根拠に領土侵略などソ連への反感・反発があるとすれば、それはまさしく錯乱・矛盾の極みといわざるをえません。

 これまでの日ソ・日ロ外交とアメリカの介入

 わが国は戦後、ソ連と領土返還・国交回復交渉を行い、昭和31年の日ソ共同宣言を締結しました。これにより日ソ国交は回復し、わが国は国際社会へ復帰しました。その上で領土交渉が進む予定でしたが、難航し現在に至ります。領土交渉におけるわが国の主張は、国後島・択捉島・色丹島・歯舞諸島の四島は、北海道の一部であるから返還せよという主張ですが、国後島・択捉島は千島列島の一部であり、サンフランシスコ条約で主権を放棄しています。このようなわが国の主張は不当であり、ロシア・ソ連の反発も無理はないといえます。

 いまわが国とロシアとの間で確認すべきものは、大きく4つあります。

 第1に、ソ連の対日参戦は国際法違反の侵略行為であり、これによる領土占拠の無効を確認すること。第2に、ソ連の対日参戦は第2次世界大戦の基本方針である「領土不拡大」に反し、これを追認するサンフランシスコ条約の領土条項の無効を確認すること。第3に、過去のわが国の不当な領土の主張の撤回。第4に、ソ連の対日参戦を教唆したのはアメリカであり、日ソ・日ロ外交に際し、陰に陽に介入をし続け、わが国と日ソ・日ロの友好を妨害し続けたのもアメリカであって、今後の日ロ外交へのアメリカの妨害の排除を確認すること。

 これらの点を踏まえた上で、国際法上もっとも適法であった状況、すなわち昭和20年8月8日の状態へ国境線をロールバックし、日本の主権を確認した上で、72年という歴史の重みを踏まえ、そこにおいて新たに築かれた人々の暮らしや文化を理解し、現在の北方地域の現状を根底から覆すことのない、新たな外交のあり方を模索する必要があります。

 「国境線外交」からの脱却と北方国家日ロ両国の連携

 江戸幕府と帝政ロシアの日魯通好条約以来、樺太・千島交換条約、ポーツマス条約と日ロの国境線は幾度も変更されました。日ロともに、今後も国境線の変更をためらう理由はありません。特に日魯通好条約における樺太島雑居地化などは、わが国とロシアの先人の偉大な知恵といえます。こうした歴史を参照すると、日ロの未来には多様な選択肢があり、「国境線」の画定のみで終始するものではありません。歴史に基づいた原則的かつ柔軟な日ロ関係の構築を目指す必要があります。

 同時に、北方領土元島民の故郷への自由な往来といった各種支援、北方地域の先住民たるアイヌの人々の権利擁護を日ロ両国で支援するなど、国家に翻弄された元島民や先住民のために、北方地域に責任を持つ国家である日ロが連携すべき点は多々あるはずです。

 今年の「北方領土の日」を契機に戦後日本外交の検証と今後の日ロ新外交が大胆に展開され、「北方領土の日」が「北方の日」となることを期待します。

平成30年1月29日 花瑛塾第12次沖縄派遣団(北部訓練場前街頭行動)

 花瑛塾第12次沖縄派遣団はこの日、アメリカ軍海兵隊演習場・北部訓練場(東村・国頭村)メインゲート前にて、頻発するアメリカ軍機の事故をうけて、オスプレイなど北部訓練場におけるアメリカ軍機の飛行・離発着に対する安全対策が講じられておらず、現在、北部訓練場および周辺住民は非常に危険な状況にあると訴えました。

 北部訓練場は、96年SACO合意により、新たに6箇所のヘリパッドを建設することと引き換えにその過半の返還が約束されましたが、新たに建設されたヘリパッドではオスプレイを中心とした飛行・離発着訓練が行われることが明るみとなっています。辺野古新基地には100機ともいわれるオスプレイの配備が計画されており、ヘリパッド建設と北部訓練場の過半の返還は、辺野古新基地に配備されたオスプレイが北部訓練場で演習を繰り広げるという「基地機能の教化」「基地負担の増加」に他なりません。

 さらに北部訓練場では新たに宇嘉川河口が提供水域とされ、宇嘉川河口から歩行訓練ルートを経てヘリパッドへという陸海空一体となった実戦的演習が可能となっています。その上で何らの安全対策がないとすれば、付近住民の恐怖や危険は頂点に達しているといえるでしょう。

北部訓練場前にて

平成30年1月29日 第121回縄文塾(第53回東京縄文塾)

 NPO法人三内丸山縄文発信の会による第121回縄文塾(第53回東京縄文塾)に参加しました。

 赤坂憲雄氏(学習院大学)を講師とし、「縄文と月の女神」とのテーマで縄文文化の解説を拝聴しました。赤坂氏は民俗学・日本思想史の分野で研究を進めており、主に東北地方を研究対象としています。「東北学」の提唱者としても知られ、特に東日本大震災以降は発言に大きな注目が集まっています。

 現在、三内丸山遺跡(青森県)をはじめとする北海道・北東北の縄文遺跡群の世界遺産登録を推進する動きもあり、縄文文化そして東北学・北方史という視座の重要性を感じました。北方地域を新たに捉え直し日本史に位置づけることは、北方地域に責任を有する日ロ領国がアイヌの権利擁護などの視点も踏まえた新しい外交関係を構築することに必ずつながるはずです。

平成30年1月29日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は29日、首相官邸前・自民党本部前・国会前・アメリカ大使館前にて、相次ぐアメリカ軍機の不時着や炎上・大破事故などについての国会質問に対し、松本文明前内閣府副大臣による「それで何人死んだんだ」との発言に象徴される、安倍政権の危機意識の欠如と沖縄への冷酷な姿勢に強く抗議しました。

 相次ぐアメリカ軍機の不時着や炎上・大破事故、あるいは窓枠落下事故は、犠牲者こそ出ていませんが、それはまったくの偶然であり、一歩間違えれば人身に関わる重大な事故です。さらにその背景には、市街地に立つ普天間飛行場の存在や航空安全に関する各種の日米合意から逸脱した飛行訓練が常態化しているアメリカ軍の無法とそれを追認する日本政府など、大きな問題が潜んでいます。

 沖縄県におけるアメリカ軍機の事故は、ここ最近急に目立って発生しているのではなく、戦後、一貫して発生し続けており、実際に沖縄県ではアメリカ軍機の事故により数多くの人が犠牲になっています。こうした悲劇を繰り返さないためにも、事故への根本的な対応が必要であるはずです。

米大使館前にて

 その後、支持率1%台となり何ら安倍政権の対抗軸となり得なかった「希望の党」に対し、徹底的な総括を要求しました。希望の党結党と総選挙への出馬は、結果として野党惨敗・与党大勝利をアシストしたわけであり、小池百合子都知事と民進党前代表・前原誠司氏は、一体何がしたかったのでしょうか。民進党から希望の党へ移った節操ない議員たちも含め、この現状の政治的責任をとるべきです。

 また、ロシア大使館前にて、ヤルタ密約という米ソが共謀し実行した1945年のソ連対日参戦と北方領土の侵略を糾弾しました。ヤルタ密約においてアメリカがソ連に北方領土の侵略を容認することにより対日参戦を教唆したことを知られていますが、さらにアメリカは対日参戦を企てるソ連に艦船を貸与し、アラスカに1万人以上のソ連兵を集めて軍事訓練を行うなど、ソ連対日参戦・領土侵略を積極的に支援したことが明らかとなっています。

来月7日は政府の定める「北方領土の日」であり、例年、北方領土返還の大会など各種の取り組みが行われております。ロシア政府に北方領土の返還を求めることは当然としても、ロシア(旧ソ連)を異常に敵視することはソ連対日参戦と領土侵略が米ソ共謀によって実行された事実を見失うことになり、危険です。

平成30年1月28日 花瑛塾第12次沖縄派遣団(沖縄戦遺骨収容作業)

 花瑛塾第12次沖縄派遣団はこの日、昨年に引き続き、各地で戦没者の遺骨収容を行う有志によるひめゆり学徒隊終焉の地・荒崎海岸(糸満市)での沖縄戦戦没者遺骨収容作業に参加しました。

 日本軍第32軍は首里(那覇市)に司令部を設けましたが、沖縄戦時の5月下旬に首里を放棄し喜屋武半島方面へ転身、摩文仁(糸満市)へ撤退しました。これに伴い沖縄陸軍病院(南風原町)も撤退となり、看護業務などに挺身していた沖縄師範学校女子部や沖縄県立第一女学校の女生徒などで結成されたひめゆり学徒隊も南部へ転身し、荒崎海岸にて終焉を迎えました。

 遺骨収容作業においては収骨には至りませんでしたが、当時の貨幣や手榴弾が発見されるなど、いまなお癒えない沖縄戦の傷跡を感じ、同所にて全ての戦没者を追悼しました。

遺骨収容作業

平成30年1月27日 花瑛塾第12次沖縄派遣団(組踊鑑賞)

 花瑛塾第12次沖縄派遣団は27日、国立劇場おきなわにて上演された組踊「二童敵討」を鑑賞しました。

 組踊とは、王命によって王府の士族で踊奉行の玉城朝薫が創作し、1719年に尚敬王の冊封の際に初演された琉球古典音楽と古典舞踊、士族などの古式によった所作と台詞によって構成される歌舞劇であり、中国の皇帝の使者や冊封使を歓待するために上演された冠船芸能の一つです。

 朝薫による「二童敵討」は別名を「護佐丸敵討」とも称され、その他「執心錨入」「二童敵討」「銘苅子」「女物狂」「孝行の巻」の5つの作品とあわせ「朝蕪の五番」といわれています。「二童敵討」のあらすじは、1458年の護佐丸・阿麻和利の乱を題材とし、勝連按司・阿麻和利の奸計によって滅ぼされた中城按司・護佐丸の遺児・鶴松と亀千代が、天下を伺い野遊びに興じる阿麻和利に近づき仇を討つ内容です。

 組踊には「二童敵討」以外にも「万歳敵討」など仇討ちものが多く、儒教的倫理感を有する冊封使なども喜んだに違いありません。また、折口信夫は組踊はじめ琉球・沖縄の芸能を深く理解し、その保存や発展に尽力しました。

 覇者となった阿麻和利の豪快な見得、鶴松と亀千代の母との別れ、阿麻和利に酒をすすめ本懐を遂げる鶴松と亀千代など、「二童敵討」の数々の見どころを楽しく鑑賞することができました。

平成30年1月26日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は今日、首相官邸前・自民党本部前・防衛省前・外務省前などで、今年に入り沖縄県渡名喜島、読谷村、伊計島で相次いで発生したアメリカ軍機の不時着や昨年発生したアメリカ軍ヘリの炎上・大破事故、窓枠落下事故など頻発するアメリカ軍機の事故について、航空機騒音規制措置をはじめ軍用機の離発着や飛行など航空安全に関する日米合意の徹底、事故の原因究明や対策の確立までの間の全機種飛行中止を求めました。

規制線内に推進し首相官邸に肉薄する

 アメリカ太平洋軍ハリス司令官は、相次ぐアメリカ軍機の事故について「事故は減少傾向にある」「一番近い安全な場所に降ろす措置に満足している」などと発言し、その危機意識の欠如と独善的な体質を明るみとしましたが、内閣府副大臣・松本文明(自民党)は25日、アメリカ軍機の事故に関する日本共産党・志位氏の代表質問に対し、「それで何人死んだんだ」と恐るべきヤジを飛ばすなど、安倍政権の危機意識の欠如と独善的な体質、さらに人命の軽視も明白です。

自民党本部前にて抗議する

 その後、東京都庁や「希望の党」本部前にて、昨年の衆院解散総選挙で「希望の党」が安倍批判票を分裂させ、野党共闘を破壊するなど、結果として安倍政権の補完勢力としてはたした役割を糾弾し、取りざたされている小池百合子東京都知事の離党や民進党との統一会派結成、分党などの延命策動の前に、前原誠司氏をはじめ民進党から希望の党へ移った志操・節操なき議員と小池都知事は、希望の党結成がどれほどの政治的悪影響を及ぼしたか総括するべきです。

東京都庁および希望の党本部前にて希望の党の大罪を糾弾する

平成30年1月26日 花瑛塾第12次沖縄派遣団(普天間第二小学校視察)

 花瑛塾第12次沖縄派遣団は26日、昨年12月にアメリカ軍ヘリCH-53Eの窓枠が落下する事故が発生した普天間第二小学校(宜野湾市)を訪れました。

 小学校にアメリカ軍基地が隣接する恐怖や危険性も当然ながら、航空機騒音規制措置や普天間飛行場の離発着経路制限など、アメリカ軍機の飛行制限に関する各種の日米合意から逸脱し、学校や市街地上空をわが物顔で飛行するアメリカ軍の無法と、アメリカ軍基地と事故をはじめとする基地負担を沖縄に押しつけ、事故の危険性を指摘したところで「それで何人死んだんだ」と嘲笑う日本政府にこそ、恐怖と危険性を覚えます。

 そもそも普天間飛行場は、戦後、アメリカ軍が宜野湾・新城・神山といった集落を接収し建設したものであり、住み家を奪われた集落の人々は飛行場の周囲に住むしかありませんでした。さらに60年代までは普天間飛行場は比較的訓練の頻度が低い飛行場であり、飛行場周囲は急速に都市化していきました。そうしたなかで70年代に北谷町のハンビー飛行場が閉鎖され、同飛行場の部隊が普天間飛行場に移転し、普天間飛行場は離発着頻度が急増するなど危険な基地となっていきました。

 普天間第二小学校は普天間飛行場の真横に隣接していますが、普天間飛行場は宜野湾市の中心部に位置するため、その他にも市役所・消防署・大学・公園・美術館・住宅など、ありとあらゆるものが普天間飛行場に隣接・近接しています。普天間飛行場には日本国内の航空法が適用されず、周囲にクリアゾーンといわれる緩衝地帯もないため、アメリカの飛行場の安全基準も満たしておりません。2004年には普天間飛行場に近接する沖縄国際大学にアメリカ軍ヘリが墜落し炎上する大事故が発生しています。

 アメリカ軍機の離発着制限など各種日米合意の徹底、事故原因の究明や対策の確立、そしてそれまでの間の全機種飛行中止の実施がなければ、必ず大事故が発生することでしょう。そして大前提としてアメリカ軍によって接収され、人々の暮らしを見出し、街の発展を妨げ、あらゆる安全基準を満たさない普天間飛行場の即時閉鎖を求める必要があります。

普天間第二小学校および普天間第二幼稚園入口