令和元年10月10日 花瑛塾亜細亜倶楽部(大東亜戦争・ビルマ方面戦没者慰霊祭)

 花瑛塾亜細亜倶楽部は、タイのゴールデントライアングル公園にある「タイ・ビルマ方面戦病没者追悼之位」慰霊碑前において、社団法人戦没者慰霊の会櫻街道主催の「大東亜戦争・ビルマ方面戦没者慰霊祭」に参列しました。

慰霊碑と祭壇

 対英米開戦前、日本軍は仏領インドシナといわれたベトナムに進駐するとともに、開戦とともにタイに進駐し、当時の英領であったビルマを攻撃するとともに、さらにインドのインパールにまで兵を進めていきました。また戦争末期には仏領インドシナ植民地政府を解体し、さらに同じく仏領インドシナの保護国としてのラオス政府を解体するなどしました。

 こうした先の大戦におけるタイ・ビルマ方面での戦病没者を慰霊するため、慧燈(えとう)財団が平成3年、木製の「タイ・ビルマ方面戦病歿者追悼之位」慰霊碑を建立し、平成16年には大理石製の現在の石碑に建て替えられました。なお、この慰霊碑は保利耕輔元文部大臣の揮毫によるものとなっています。

 このたびの慰霊祭は、社団法人戦没者慰霊の会櫻街道が主催し、末廣神社宮司竹之内喜良司を斎主とし、遺族の方や有志の参加者など20人ほどで行われました。

 社団法人戦没者慰霊の会櫻街道は、例年、東南アジア各地で慰霊祭を行っており、昨年10月はフィリピン・ダバオで慰霊祭を行っています。

令和元年10月4日 花瑛塾第20次沖縄派遣団④(石垣島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は4日、沖縄戦時の石垣島の飛行場関連史跡を見学しました。

 沖縄戦時、石垣島には独立混成第45旅団はじめ陸軍部隊や特攻艇部隊など海軍部隊が駐屯し、米英軍による連日の空襲や強制的な住民の疎開による戦争マラリアなどの悲劇が発生しました。

 以下、見学した史跡をご紹介します。

海軍南飛行場跡と掩体壕

 海軍南飛行場は昭和19年に完成した飛行場です。現在の南ぬ島石垣空港(新石垣空港)が完成するまでは、石垣空港として使用されてきました。現在は県立八重山病院や消防本部が建ち、新石垣市役所の建設が予定されるなど、飛行場の面影はありませんが、周囲には掩体壕と呼ばれる軍用機を秘匿する格納庫が残っています。

海軍南飛行場跡付近の掩体壕
海軍北飛行場跡

 海軍北飛行場はヘーギナー(平喜名)飛行場とも呼ばれ、沖縄戦以前に建設された飛行場です。当初は不時着用の小規模な飛行場でしたが、沖縄戦を控え本格的な飛行場として整備・拡張されていきました。工事には朝鮮半島出身者や石垣住民が多数動員されたといわれています。飛行場跡は現在、国際農林水産業研究センターとなっています。

海軍北飛行場跡にたつ国際農林水産業研究センター
陸軍白保飛行場跡とみのかさ部隊兵舎跡

 陸軍白保飛行場は沖縄戦を控え、住民総動員の昼夜兼行の突貫作業で建設されました。米英軍の空襲が本格化し、同飛行場が爆撃されると、軍服も支給されず蓑と笠を身にまとった第506特設警備工兵隊(みのかさ部隊)が付近に秘密滑走路を建設しました。

 なお、このみのかさ部隊の隊長は高良鉄夫大尉で、現在の高良鉄美参院議員の父親にあたります。高良鉄夫氏は戦後、動物学者として大きな業績を残しましたが、特に西表島でイリオモテヤマネコにつながる幼獣の発見をしたことで有名です。

陸軍白保飛行場跡

 史跡見学後、石垣島の平得大俣地区で進む陸上自衛隊石垣駐屯地の建設工事現場を訪れました。

 石垣駐屯地完成後は、宮古駐屯地とともに米軍の軍事戦略を補完するミサイル部隊が配備される予定となっています。特に米国は最近、中距離核戦略廃棄条約を破棄し、沖縄に中距離弾道ミサイルを配備する計画が取りざたされています。アジアやロシアを攻撃する米国の弾道ミサイルを宮古・石垣の自衛隊のミサイルが防衛する態勢が完成しつつあり、万一の場合は沖縄が真っ先に戦場になる可能性があります。

 他にも石垣駐屯地建設は、環境問題や住民投票と民主的手続きの面からも大きな問題があり、あらためて再検討する必要があります。

陸自石垣駐屯地建設工事現場付近

【お知らせ】KAEI SEMINAR「ネトウヨはどこから来て、どこへ行くのか ─右でも左でもない“ネトウヨ”という空虚さの漂流─」

 10月25日(金)開催の公開セミナー KAEI SEMINAR のご案内です。

 画像下の申し込みフォームよりお申し込み下さい。

ネトウヨはどこから来て、どこへ行くのか

─右でも左でもない“ネトウヨ”という空虚さの漂流─

 SNSやネット上に溢れかえる民族差別や憎悪表現、排外主 義的言説、歴史的事実を無視した極端な過去の肯定など歴史修 正主義の言論は、今やこの国の公共空間にも充満し、時に現実 の政治まで動かしている。

 こうした言論を繰り出すネトウヨ(ネット右翼)については、 これまで多くの人が取り上げ検討されてきたが、つまるところ 何なのか、今一つはっきりしない。移民排斥など世界的な極右 の台頭の文脈で読み取るべきか、日本的な保守・右翼の思想を 視点とするべきか、あるいはもっと異質な精神態様なのか。

 良識的な保守系政治家を中心にインタビューを重ねるととも に、過去には故翁長雄志元沖縄県知事を左翼と見なすある種の ネトウヨ的な言説を批判した「月刊日本」中村友哉副編集長よ り、ネトウヨのこれまでとこれからを伺いたい。

講師:中村友哉(月刊日本 副編集長)

講師プロフィール

「月刊日本」副編集長。1986年福岡県生。早大在学中より「月刊日本」の編集業務に携わる。与野党問わず多くの政治家や識者に取材し、時に政権の国策や世論の大勢に与せぬ記事を編集、執筆。最近では沖縄選出の自民党議員國場幸之助著『「沖縄保守」宣言』を編集。

日時:2019年(令和元年)10月25日(金) 開場:18:30 開会:19:00
予約:必要(席に限りがあるため、参加希望者は下記フォームよりお申し込み下さい)
会費:1000円(学生、障がい者、介護者無料)
会場:NATULUCK水道橋西口・神保町会議室(東京都千代田区西神田2-4-1東方学会新館2階)
 ※ 1階にヤマト運輸西神田センターが入居しているビルの2Fです
会場までの経路
東方学会新館入口(こちらの建物の2階です)

地下鉄神保町駅A2出口を出てすぐの専大前交差点を右折し、専大通りを水道橋駅方向に200メートル進み、セブンイレブンとホテル「ヴィラフォンテーヌ九段下」の交差点(西神田交差点)を右折し、50メートルほど進んだ一つ目の交差点を左折してすぐ(東方学会本館ではなく隣の東方学会新館です)。

※ナビは「ヤマト運輸西神田センター」で設定して下さい。

第7回 沖縄「北部訓練場」返還地の現状─返還されてなお沖縄を苦しめる米軍基地の環境問題─ 12月20日 参加申し込み
※↑チェック必須

※携帯キャリアのメールアドレスをご使用の場合は、@kaeizyuku.comからのメールが受信出来るよう設定の上、お申込みください。

令和元年10月3日 花瑛塾第20次沖縄派遣団③(西表島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は3日、西表島の沖縄戦関連史跡などを見学しました。

 イリオモテヤマネコやカンムリワシなど希少生物が生息し、海も山も美しいこの島にも沖縄戦時、重砲兵部隊やゲリラ戦部隊の護郷隊、海軍特攻艇部隊などが配備され、陸軍病院や慰安所も設置されるなど、戦争に巻き込まれていきました。また波照間島・鳩間島・黒島・竹富島などの住民が強制的に疎開させられ、マラリアに罹患し犠牲になりました。

 以下、見学した西表島の沖縄戦関連史跡をご紹介します。

祖納の慰安所

 西表島の祖納集落には陸軍中野学校出身諜報要員に率いられた沖縄北部のゲリラ戦部隊である第2護郷隊の隷下部隊である第4中隊(今村隊)や陸軍重砲兵第8連隊北村隊が駐屯していたこともあり、現在の祖納集落にある西表西部診療所付近に日本軍慰安所が設置され、数名の女性が「慰安婦」として働かされていた。「慰安婦」とされた女性は日本人ばかりでなく、朝鮮半島出身もいたといわれる。

付近に慰安所があった祖納の西表西部診療所
祖納集落の第2護郷隊今村隊本部付近

 西表島や波照間島など八重山の島々の青少年を召集し編成された第2護郷隊第4中隊(中隊長:今村武秋少尉)は、祖納集落の慰安所近くに隊舎を構えた。そして万一、米軍が西表島に上陸してきた際には祖納の集落を焼き払い、祖納岳など山中に住民を避難させ、山中の陣地を拠点にゲリラ戦を展開する作戦であった。

 実際に沖縄島では第1護郷隊などが名護の集落を焼き払うゲリラ戦を展開している。集落を焼き払ったのは、その集落出身の青少年であり、護郷隊の少年兵たちは自分の故郷や実家に火をつけなければならなかった。

 西表島でもこうした悲劇が繰り返される可能性があったが、いずれにせよ「軍隊は住民を守らない」という沖縄戦の典型例がここでも確認できる。

護郷隊今村隊本部跡
白浜集落の憲兵隊の隊舎および慰安所付近

 西表島の白浜集落には憲兵隊の隊舎や慰安所が複数箇所あり、朝鮮・台湾・沖縄の女性が「慰安婦」として働かされていた。将校は白浜の慰安所の「慰安婦」を現地妻とし、現地妻にされた「慰安婦」は住民から「司令官の奥さん」と呼ばれることもあった。また集落の女性に勤労奉仕として洗濯などの世話係を命じ、性的関係を迫ることもあった。

白浜の慰安所跡周辺
白浜港から見る内離島と外離島

 内離島(うちばなりしま)および外離島(ふかばなりしま)には重砲兵部隊の本部が置かれた他、陸軍病院や慰安所なども設置された。沖縄戦以前から軍はこの地を重視し、要塞司令部を置き、高射砲隊などを配備するなどした。陣地構築作業には西表島の島民の他、朝鮮半島出身者も動員されたといわれている。

内離島
波照間島や竹富島の島民の一部が疎開した由布島

 マラリア有病地の西表島から少し離れた由布島はマラリア無病地であった。波照間島に送り込まれた諜報要員の山下虎雄(偽名、本名は酒井喜代輔)は、マラリアを恐れて西表島への疎開を嫌がる波照間島民を脅して強制疎開させたが、疎開後、実際に西表島でマラリアが発生すると、山下は何人かの波照間住民を連れてマラリア無病地の由布島に住んだ。

由布島
南風見田海岸の「忘勿石」と識名信升氏の像

 波照間島民の多くは西表島の南風見田集落に疎開した。西表島の南部の南風見田の集落からは、波照間島を臨むことができ、洞窟も多く空襲を避けることもできたため、ここに疎開したといわれる。しかし南風見田はマラリア有病地であり、梅雨の時期に入るとマラリアが発生した。

 波照間国民学校の識名校長は、南風見田の海岸で青空教室の授業を続けるとともに、山下と対峙し、波照間への帰島を指揮した。識名校長は、悲劇を忘れること勿れとして「忘勿石(ワスルナイシ、ワスレナイシ)」と海岸に刻み、後に記念碑が建立された。

識名校長が刻んだ「忘勿石 ハテルマ シキナ」の文字

 なお、記念碑を訪れた際、前面の銘板が崩落し、周囲に散乱していた。先月25日には記念碑前で慰霊祭が行われたが、その際は何もなかったので、その後崩落したものと思われる。台風や波などによって崩落したものと信じるが、チビチリガマが荒らされた事件もあり、人為的な破損という可能性もないとはいえない。

 すでに竹富町教育委員会には通報したが、速やかな復旧をお願いしたい。

銘板などが崩落した記念碑

令和元年10月2日 花瑛塾第20次沖縄派遣団②(波照間島沖縄戦関連史跡)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は2日、有人島として日本最南端の波照間島(沖縄県八重山郡竹富町)を訪れました。

 波照間島は南国の日差しと気持ちのいい海風に包まれ、自然豊かで赤瓦と石灰岩やサンゴの石垣といった昔ながらの家並みの残る穏やかな島ですが、沖縄戦時、「山下虎雄」を名乗る陸軍中野学校出身諜報要員である軍曹の酒井喜代輔(酒井清とも)が送り込まれ、島を恐怖支配し、多くの住民が犠牲になりました。

 以下、見学した波照間島の沖縄戦関連史跡などをご紹介します。

美しい空と海のニシ浜
カツオ工場跡

 波照間漁港近くにはサトウキビの製糖工場がありますが、かつて製糖工場の周囲には初福丸や大福丸、昭洋丸などカツオを燻製しカツオ節などにするカツオ工場が多数ありました。波照間島はカツオ漁が盛んで、島民はカツオ漁と農業の半農半漁で生計を立てていましたが、戦況が悪化しカツオ工場の煙突が空襲の目標になりやいとして、煙突が撤去されるなどしました。

 こうして穏やかな島が戦争に巻き込まれる中で「山下虎雄」が島にやってきます。

付近にカツオ工場があった製糖工場
山下虎雄と広井修獣医少尉、食肉業者の宿泊先

 西表島でゲリラ戦部隊である第二護郷隊第四中隊付であった山下虎雄は、波照間の冨嘉集落の西島本家に下宿しました。また冨嘉集落には、後に島の家畜を奪って解体し食肉にする広井修獣医少尉および食肉業者も宿泊しました。

 青年学校指導員として島に着任した山下は、子どもを可愛がり島民の歓心を買い、島はあまり人の往来がないため一部の島民から怪しまれながらも、島民から「山下先生」と呼ばれ親しまれた。特に島は男手は兵隊にとられていたため、島の女性や子どもたちは山下の来島を喜んだそうです。

 しかし実際の山下は住民の動向を監視したり、ゲリラ戦を展開し米軍の後方攪乱を任務とする「離島残置諜者」といわれる諜報要員であり、人目につかないところでは島の調査に余念がなかった。

山下が宿泊した冨嘉集落
ケーパル山

 昭和20年4月、沖縄島に米軍上陸後、山下は島民に西表島への疎開を命令しました。波照間島はマラリア無病地でしたが、西表島はマラリア有病地であり、島民は西表島への疎開に反対しました。そうすると山下はこれまでの態度を豹変させ、軍刀を振り回して島民を脅迫し、島民から尊敬されていた巡査を殴りつけ、「疎開に反対する者は全員斬る」「井戸に毒を入れて島に住めなくする」などと言い放ちました。やむなく島民のうち集落の有力者同士がケーパル山の避難所で話し合い、西表島への疎開を決めました。

ケーパル山
島の暮らしを支えた家畜が食肉にされ骨などを燐鉱山跡地

 西表島への島民の疎開が決まると、軍は住民に牛や山羊などの家畜を強制的に供出させ、獣医少尉や食肉業者を派遣し、家畜のほとんどを奪って解体した上で食肉にし、石垣島の司令部に送りました。軍は同じく八重山の黒島でも同様に家畜を供出させ解体し食肉にしており、波照間島の島民を疎開させ、家畜を奪うことが軍の強制疎開の狙いの一つであったことが推測されます。

 島は農業の際に牛を使うなどしており、一世帯で数頭の牛を飼うなど、島には多くの家畜がいました。そのためフルマヤマのヤラブ林で行われた家畜の解体は凄まじく、おびただしい家畜の血液でヤラブの木が立ち枯れしたともいわれます。また解体した家畜をきちんと埋めることもできず、フルマヤマには家畜の骨や体の一部が山となり、むごたらしい光景になった他、ハエが異常に大量発生したといわれています。

 戦後、フルマヤマに山となった家畜の骨を燐鉱山跡地に集め、あらためて埋めました。

家畜の骨などを集めて埋めた燐鉱山廃鉱
島民を埋葬したサコダ浜

 西表島へ疎開すると、島民は危惧していた通りマラリアに罹患し、犠牲者が続出した。しかし沖縄戦の組織的戦闘の終結と米軍の沖縄戦終結宣言などをうけ、生存者は波照間島へ帰島しました。しかし家畜の供出や畑の荒廃などにより島に食糧はなく、島民は引き続き栄養状態の悪い中で西表島で罹患したマラリアに波照間島においても苦しめられ、西表島疎開時以上に島民は犠牲となりました。

 犠牲者は当初は墓地に埋葬するなどしましたが、島民の98%がマラリアに罹患する状況でそれもままらなず、波照間漁港に近いサコダ浜に埋葬されました。丁重な埋葬とは到底いえない無残な最期でした。

サコダ浜
識名信升校長と波照間国民学校

 旧波照間国民学校の識名信升校長は、山下に脅されても屈することなく、石垣島の司令部と交渉し、島民の西表島から波照間島への帰島を指揮しました。識名校長は軍刀で島民を威嚇し続けた山下に「斬るなら私を斬りなさい!」と立ち向かい、山下は識名校長に恐れをなし、何もいえなくなりました。識名校長は西表島の疎開地の海岸の石に「忘勿石 ハテルマ シキナ」と刻みました。この惨劇を忘れてはならないという識名校長の決意が読み取れます。

 なお波照間国民学校は後に波照間小学校となり、波照間小学校創立90周年記念事業として島に「学童慰霊碑」が建立されました。慰霊碑は西表島を臨む場所に建立され、碑文には「山下軍曹の行為は許しはしようが然し忘れはしない」とあります。「忘勿石」とともに、「忘れない」ということがどれだけ重要なのか思い知らされます。

旧波照間国民学校(波照間小学校・中学校)
ソテツ祭と大泊海岸

 戦争後、島の大泊海岸でソテツ祭(ソテツ感謝祭)が行われました。帰島後、食料不足に悩まされた島民は、島のソテツを切り倒し、実はもちろん幹からデンプンを抽出して食し、栄養を摂取したといわれています。昭和23年夏、島の復興が一定の目途がたち、冨嘉集落の住民を中心に命をながらえさせてくれたソテツへ感謝するソテツ祭が行われましたが、戦時の悪夢が復活する呪術のようで気味が悪いとして参加しない島民も多くいたといわれ、ソテツ祭はこの一回きり行われただけといわれています。

大泊海岸

令和元年10月1日 花瑛塾第20次沖縄派遣団①(ババハルさん追悼、沖縄戦関係史跡訪問)

 花瑛塾第20次沖縄派遣団は1日、石垣島の川平湾付近の日本軍慰安所で「慰安婦」とされたババハルさん(馬場ハル? 出身地など詳細は不明)の埋葬地を訪れ、慰霊・追悼しました。

ババハルさん埋葬地

 ババハルさんは戦時中、川平湾付近の日本軍慰安所で「慰安婦」として働かされましたが、何らかの事情で命を落とし、日本兵により川平の底地ビーチにほど近いこの場所に埋葬されました。

 沖縄戦が終わり、兵士たちは戦死した戦友の遺骨は持ち帰りましたが、「慰安婦」であったババハルさんのことなど気にもかけず復員していきました。ババハルさんは今なおこの地で一人さみしく眠っています。

 そもそも川平湾には沖縄戦時、米軍上陸に備え、海軍の特攻艇部隊である第19震洋隊(隊長:大河原茂美中尉)が駐屯し、川平湾の海岸に特攻艇を秘匿し、湾内で特攻艇作戦の演習をおこなうなどしていました。ババハルさんはこの海軍部隊による慰安所で働かされていたといわれています。

川平湾

 なお、特攻艇秘匿壕の建設には、朝鮮半島出身の徴用工も多く働かされたといわれています。また川平湾に海軍震洋隊が駐屯し、特攻艇が秘匿され、秘密作戦である特攻艇作戦が川平湾で演習されるにあたり、軍は付近の住民を強制的に疎開させようとしました。

 住民たちはこれに反撥したところ、軍は川平湾を集落から見えないよう遮蔽垣を設置すれば疎開しなくてもいいとしました。つまり、軍のいう疎開とは、けして住民保護のための措置ではなく、軍の機密保護のための措置であったということがよくわかります。

 このように住民を軽視し、軍を最優先させ、あらゆるものを戦争に動員していった日本兵たちは、ババハルさんに辱めの限りを与え、命を落とした彼女をここに埋め、思い出すこともありませんでした。しかし全ての日本兵が彼女のことを忘れようとも、私たちはババハルさんのことを永遠に忘れません。

 その後、石垣市のサザンゲート公園に建立されている「伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑」を訪れました。

伊舎堂用久中佐と隊員の顕彰碑

 伊舎堂中佐は沖縄戦時、陸軍第8飛行師団誠第17飛行隊の隊長として僚機とともに石垣島の陸軍白保飛行場から出撃、慶良間諸島沖の米艦船に向けて航空特攻をおこない、戦死しました。

 沖縄では昭和18年、ガダルカナル島の戦いで戦死した大舛松市大尉が「軍神」として語られ、この軍神大舛伝説が「大枡大尉に続け」と戦意高揚や精神的な精神動員に使われ、沖縄戦の住民動員の一つの背景となっていきます。

 現在、伊舎堂中佐の航空特攻による戦死は、沖縄県民こそが郷土沖縄を守るため、沖縄戦を積極的に戦ったのであるという沖縄戦歴史修正主義の文脈で語られ、第二の軍神大舛の英雄譚とされようとしています。

 しかし伊舎堂中佐も大舛大尉も戦争は絶対に繰り返して欲しくない、戦争と戦争につながる一切を沖縄に置いてはならないと私たちに伝えているはずであり、平和の神として両者に向き合っていくべきではないでしょうか。

【お知らせ】ライブ・ドキュメンタリー in ドキュ・メメント2019にゲスト出演します

 ドキュ・メメント2019の企画のライブドキュメンタリーに花瑛塾々長仲村之菊がゲストとして登壇します。

 以下、ライブ・ドキュメンタリー in ドキュメメントのフェイスブックより、企画の詳細とタイムテーブルなどを転載します。

【ドキュメメントとは?】

 ドキュメメントは、ドキュメンタリーを通して、社会に埋もれがちな”聴きとりづらい声”を聴く場所です。無名の当事者たちが主人公となり、その知られざる物語を自由に語ることで、今という時代を露わにします。当事者・作り手・観客が同じ空間で過ごし、自分たちが生きるこの時代の物語を作ります。

【潮風、赤提灯、ビールにおつまみ、ライブ・ドキュメンタリー】

 メイン会場は、品川宿の船着き場にある、赤提灯の居酒屋です。社会問題の真ん中で思考する10人が、映像とトークで物語る『ライブ・ドキュメンタリー』を行います。日本で暮らす移民たちの歌を紐解く“移民カラオケ”や、発達障害とは果たして問題なのかを語る当事者、テロリストの巣窟と言われるソマリアギャングの解散の物語、中国政府の規制と闘うラッパーの叫びなど、すべてのトークに当事者や作り手が登場し、共感を引き起こします。

  • 会期:2019年10月19日(土) 、20(日)
  • 会場:一龍 屋台村(東京都品川区東品川1-1-11)
  • アクセス:京浜急行電鉄『北品川』駅 or 『新馬場』駅 or JR山手線『品川』駅
  • 時間:両日とも16:00開場、17:00~22:30
  • 入場料:3,000円 (食事付・飲み物別)

■19:30~20:00 登壇
「米国の正義を疑え」
仲村之菊(政治活動家) with 新田義貴(ドキュメンタリスト)
(交流タイム)

 

会場:一龍屋台村・品川店

地図:https://goo.gl/maps/AHiXx5MHBG62

ご来場、お待ちしています!

【お問い合わせ先】
ドキュ・メメント実行委員会
MAIL:bug.document@gmail.com

【お知らせ】MBS ドキュメンタリー 映像’19「ガチウヨ~主権は誰の手にあるのか~」

   9月22日〔日〕24時50分〜25時50分(日付としては23日〔月〕0時50分〜1時50分)、MBSテレビ(毎日放送:関西ローカル)のドキュメンタリーシリーズ「MBS ドキュメンタリー 映像’19」で花瑛塾の活動を取り上げた番組が放送される予定です。

   番組名はずばり「ガチウヨ~主権は誰の手にあるのか~」(斉加尚代ディレクター)。差別と排外主義、そして知性の劣化であるネトウヨ的な言説が溢れ返る現在、花瑛塾の思想と行動を取り上げ、私たちの国の思想地図を問い直す内容となっています。

   なお「MBS ドキュメンタリー 映像’19」では毎月、憲法や外国人労働者、ネット上のデマや医療、沖縄の基地問題など、様々なテーマで現代社会の問題を取り上げるドキュメンタリーが放送されています。すでに30年以上続き、 国際エミー賞やギャラクシー賞各賞を受賞した番組もあるなど、非常に有名なドキュメンタリーシリーズとなっています。

    ナレーターは「せやろがいおじさん」こと榎森耕助さんだそうです。関西ローカルとなりますが、どうぞご視聴ください。

https://www.mbs.jp/eizou/

 

※ 22日深夜に放送された MBS ドキュメンタリー 映像’19「ガチウヨ~主権は誰の手にあるのか~」は現在、MBS :毎日放送の動画サイト「動画イズム」で公開中です(有料での視聴となります)。

MBS「動画イズム」
https://dizm.mbs.jp/title/?program=eizou_series&episode=31

 

日刊スポーツと毎日新聞に花瑛塾が出演する番組が紹介されました

 MBS(毎日放送:大阪)では毎月、「MBS ドキュメンタリー 映像’19」として、憲法や外国人労働者、ネット上のデマや医療など、様々なテーマで現代社会の問題を取り上げるドキュメンタリーが放送されていますが、今月9月22日(日)24時50分からの放送では、「ガチウヨ~主権は誰の手にあるのか~」とのタイトルで花瑛塾の活動が取り上げられる予定となっています。

 この MBS ドキュメンタリー 映像’19「ガチウヨ」について、20日の日刊スポーツで「“いま”の日本が見えてくる『ガチウヨ』の声との見出しで、番組内容の紹介と制作ディレクターのコメントなどが掲載されています。

    また21日の毎日新聞にも「『米国の正義を疑え!!』沖縄基地問題に取り組む『ガチウヨ』女性に密着」との見出しで、日刊スポーツと同様ながら違った視点で番組内容の紹介制作ディレクターのコメントなどが掲載されています。

 ぜひお読みになって下さい。

日刊スポーツ  https://www.nikkansports.com/general/nikkan/news/201909200000357.html

毎日新聞  https://mainichi.jp/articles/20190920/k00/00m/040/152000c

沖縄タイムスに花瑛塾の活動が取り上げられました

 今日11日の沖縄タイムス社会面「高江刻々」に「米軍撤退 右翼の尊厳──愛国 ゲート前で問う」(記者:阿部岳氏)との見出しで、沖縄県東村・国頭村にまたがる米軍演習場「北部訓練場」前での花瑛塾々長仲村之菊の訴えが取り上げられました。

 紙面の他、ネット配信「沖縄タイムス+プラス」でも読むことができます。ぜひお読みになって下さい。

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/469402