令和元年9月10日 秩父事件関連史跡・記念碑
明治前期に発生した大規模な民衆運動「秩父事件」の関連史跡や記念碑などを見学しました。
秩父事件とは、明治17年に発生した埼玉県秩父地方の自由党や困民党などの闘士、困窮した養蚕農家を中心とする民衆が大規模に蜂起した事件です。
事件の背景には、折からの松方財政といわれる緊縮財政によるデフレと、山縣有朋による軍備拡大と増税などによる不況や生糸相場の暴落という失政と悪政があり、これにより高利貸しから金を借り暴利に苦しめられ没落していく養蚕農家の不満の拡大があります。
困民党は高利貸しに返済の延期を求める集団交渉をしたり、警察に高利貸しを説得するよう要請するなど合法的な請願行動をおこなっていましたが、彼らの願いは全く聞き入れられず、そればかりか高利貸しは警察や役人との癒着をほのめかすなど、困民党は追いつめられていきました。実力行使に関する会議でも困民党の総理に推挙される田代栄助はぎりぎりまで実力行使の延期を訴えましたが、「身代限」といわれる破産が民衆の目前に迫るなかで、困民党は明治17年11月1日に決起します。
以下、簡単に困民党の決起の時系列に沿って見学した史跡や記念碑などを紹介します。
明治17年10月31日:琴平神社と境内の記念碑(寄居町)、おんだし河原(皆野町)、高利貸し「永保社」跡(同)
11月1日の決起前夜、風布村や金尾村の困民軍は琴平神社に参集し、大野苗吉らの本隊は困民軍の集合場所である椋神社を目指しましたが、途中、大野福次郎らの先遣隊がおんだし河原で警官隊に捕縛されました。また新井周三郎らの一隊は高利貸しの「永保社」を襲撃し、証券など書類を焼きました。
11月1日:椋神社(秩父市)、小鹿神社(小鹿野町)、青木与一・窪田鷹男巡査の墓(秩父市)
この日夜、椋神社に集結した3千人ともいわれる困民軍は田代栄助を総理、加藤織平を副総理、井上伝蔵を会計長、菊池貫平を参謀長などとする役割を発表し、「私に金品を略奪するは斬」「女色を犯す者は斬」などの軍律五ヶ条を定め、甲乙二隊で小鹿野に進出し、高利貸しを襲撃、小鹿神社に夜営しました。途中、青木与一巡査が捕虜となり、窪田鷹男巡査が殉職しました。
11月2日:音楽寺と境内の記念碑(秩父市)、秩父神社(同)
早朝、小鹿野を出発した困民軍は小鹿坂峠を越え、音楽寺に入りました。そこで寺の鐘を打ち鳴らしし、鬨の声をあげながら荒川を渡り、大宮郷に乱入の上、郡役所や警察署を占拠し、高利貸しを襲うなどしました。役所の役人や警察らは逃亡し、一帯は「無政の郷」と呼ばれるほどの無政府状態、もっというならば困民軍の自治区域となりました。困民軍幹部はフランス革命にも明るく、郡役所を本営とし「革命本部」と名付けました。夜営地は秩父神社だったそうです。
11月3日:宿屋「角屋」跡(皆野町)、親鼻の渡し(同)
東京憲兵隊の出動により菊池貫平と乙大隊長の飯塚盛蔵ら困民軍の一隊は皆野に進出し、「角屋」を本陣としました。そしておんだし河原の上流の親鼻の渡しで憲兵隊と銃撃戦を展開し、撃退しました。防弾のため畳を立てて憲兵隊に発砲する困民軍の姿は有名です。しかし翌4日の東京鎮台兵の到着により困民軍の敗色は濃くなり、本陣は解体、一隊は信州に転戦しました。
11月9日:秩父事件本陣跡(佐久穂町)、東馬流古戦場跡(同)、秩父暴徒戦死者之墓(同)
困民軍は解隊状態となり、多数が捕縛され、一部は上州方面へ転戦するなどしましたが、菊池貫平率いる一隊は秩父地方から十石峠を越えて長野県の南佐久地方に転戦し、8日夜には井手直太郎宅を本陣としましたが、9日には本陣付近の東馬流で高崎鎮台兵に攻撃され、ここに困民軍は壊滅しました。