令和元年9月10日 秩父事件関連史跡・記念碑

 明治前期に発生した大規模な民衆運動「秩父事件」の関連史跡や記念碑などを見学しました。

 秩父事件とは、明治17年に発生した埼玉県秩父地方の自由党や困民党などの闘士、困窮した養蚕農家を中心とする民衆が大規模に蜂起した事件です。

 事件の背景には、折からの松方財政といわれる緊縮財政によるデフレと、山縣有朋による軍備拡大と増税などによる不況や生糸相場の暴落という失政と悪政があり、これにより高利貸しから金を借り暴利に苦しめられ没落していく養蚕農家の不満の拡大があります。

 困民党は高利貸しに返済の延期を求める集団交渉をしたり、警察に高利貸しを説得するよう要請するなど合法的な請願行動をおこなっていましたが、彼らの願いは全く聞き入れられず、そればかりか高利貸しは警察や役人との癒着をほのめかすなど、困民党は追いつめられていきました。実力行使に関する会議でも困民党の総理に推挙される田代栄助はぎりぎりまで実力行使の延期を訴えましたが、「身代限」といわれる破産が民衆の目前に迫るなかで、困民党は明治17年11月1日に決起します。

 以下、簡単に困民党の決起の時系列に沿って見学した史跡や記念碑などを紹介します。

明治17年10月31日:琴平神社と境内の記念碑(寄居町)、おんだし河原(皆野町)、高利貸し「永保社」跡(同)

 11月1日の決起前夜、風布村や金尾村の困民軍は琴平神社に参集し、大野苗吉らの本隊は困民軍の集合場所である椋神社を目指しましたが、途中、大野福次郎らの先遣隊がおんだし河原で警官隊に捕縛されました。また新井周三郎らの一隊は高利貸しの「永保社」を襲撃し、証券など書類を焼きました。

琴平神社
琴平神社境内の記念碑
おんだし河原
旧永保社跡
11月1日:椋神社(秩父市)、小鹿神社(小鹿野町)、青木与一・窪田鷹男巡査の墓(秩父市)

 この日夜、椋神社に集結した3千人ともいわれる困民軍は田代栄助を総理、加藤織平を副総理、井上伝蔵を会計長、菊池貫平を参謀長などとする役割を発表し、「私に金品を略奪するは斬」「女色を犯す者は斬」などの軍律五ヶ条を定め、甲乙二隊で小鹿野に進出し、高利貸しを襲撃、小鹿神社に夜営しました。途中、青木与一巡査が捕虜となり、窪田鷹男巡査が殉職しました。

椋神社
小鹿神社
青木与一・窪田鷹男巡査の墓
11月2日:音楽寺と境内の記念碑(秩父市)、秩父神社(同)

 早朝、小鹿野を出発した困民軍は小鹿坂峠を越え、音楽寺に入りました。そこで寺の鐘を打ち鳴らしし、鬨の声をあげながら荒川を渡り、大宮郷に乱入の上、郡役所や警察署を占拠し、高利貸しを襲うなどしました。役所の役人や警察らは逃亡し、一帯は「無政の郷」と呼ばれるほどの無政府状態、もっというならば困民軍の自治区域となりました。困民軍幹部はフランス革命にも明るく、郡役所を本営とし「革命本部」と名付けました。夜営地は秩父神社だったそうです。

音楽寺
音楽寺境内の記念碑
秩父神社
11月3日:宿屋「角屋」跡(皆野町)、親鼻の渡し(同)

 東京憲兵隊の出動により菊池貫平と乙大隊長の飯塚盛蔵ら困民軍の一隊は皆野に進出し、「角屋」を本陣としました。そしておんだし河原の上流の親鼻の渡しで憲兵隊と銃撃戦を展開し、撃退しました。防弾のため畳を立てて憲兵隊に発砲する困民軍の姿は有名です。しかし翌4日の東京鎮台兵の到着により困民軍の敗色は濃くなり、本陣は解体、一隊は信州に転戦しました。

宿屋「角屋」跡
親鼻の渡し
11月9日:秩父事件本陣跡(佐久穂町)、東馬流古戦場跡(同)、秩父暴徒戦死者之墓(同)

 困民軍は解隊状態となり、多数が捕縛され、一部は上州方面へ転戦するなどしましたが、菊池貫平率いる一隊は秩父地方から十石峠を越えて長野県の南佐久地方に転戦し、8日夜には井手直太郎宅を本陣としましたが、9日には本陣付近の東馬流で高崎鎮台兵に攻撃され、ここに困民軍は壊滅しました。

秩父事件本陣跡
東馬流古戦場跡
秩父暴徒戦死者之墓

令和元年9月7日 花瑛塾行動隊(沖縄戦終結と沖縄の米軍基地問題)

 花瑛塾行動隊は沖縄戦終結の日の7日、米大使館前にて沖縄の米軍基地問題などを訴えました。

米大使館前

 74年前の今日9月7日、沖縄の日本軍部隊が降伏文書に調印し、正式に米軍に降伏しました。これをもって沖縄戦は終結しますが、それは日本のポツダム宣言受託からもミズーリ号上での降伏調印からも遅れたものであり、日本「本土」ではとっくに終わっていた戦争が、沖縄では続いていたといえます。

 こうした「本土」と沖縄の関係に象徴されるように、現在でも「本土」の大半で返還された米軍基地が沖縄に集中し、つい先日発生した米軍ヘリの窓の落下や基地返還地への着陸、絶えることのない米兵犯罪、騒音や環境汚染など、沖縄は基地負担に苦しんでいます。

 米国は日本政府から基地を提供されているとはいえ、提供された基地を排他的に管理し、演習などで基地を運用しています。また日米の騒音規制などの最低限の取り決めも守っていません。米国もまた沖縄に基地負担を押しつけることで成り立つ日米安保について再検討する義務があります。

令和元年9月5日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(唐人墓、石垣島事件慰霊碑)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は5日、石垣島の観音崎にある唐人墓と、隣接する米軍飛行士の慰霊碑を訪れました。

唐人墓

 咸豊2年(1852)、中国からアメリカに向けて中国人奴隷を乗せて航行していた奴隷貿易船ロバート・バウン号で中国人奴隷が暴動を起し、船長や船員を殺害し船を乗っ取り石垣島に漂着した事件が起きました。

 琉球王国は詳細がわからず、中国人奴隷を保護して収容しましたが、これを発見したイギリス船が収容所を砲撃し、さらに上陸の上、中国人奴隷を殺害するなどしました。また米国船が石垣島に上陸し、中国人奴隷を探索することもありました。琉球王国は米英軍の攻撃を免れた中国人奴隷を再び保護して収容しましたが、収容所の衛生状態も悪く、そこでも中国人奴隷が命を落とすこともありました。

 唐人墓はこうして犠牲になった中国人奴隷を弔うため、昭和46年(1971)に建立されました。

 米軍飛行士の慰霊碑は、戦時中の石垣島事件で亡くなった米軍飛行士の慰霊碑です。

 沖縄戦時、石垣島では連日米英軍が空襲をおこなっていましたが、昭和20年(1945)4月15日午前9時頃、対空砲撃により米軍機が撃墜され、搭乗員の米兵3人は海軍石垣島警備隊によって捕虜になりました。午後3時頃からバンナ岳の麓の警備隊司令部で捕虜への尋問が開始され、その日の午後6時頃に全員殺害されました。この米軍捕虜殺害事件を石垣島事件といいます。

 殺された米兵はバーノン・L・ディボー中尉(28歳、操縦士)、ウォーレン・H・ロイド兵曹(24歳、通信員)、ロバート・ダグル・ジュニア兵曹(20歳、機銃操作)。

米兵殺害・遺体遺棄現場(手前)と海軍石垣島警備隊司令部跡のバンナ岳(奥)

 捕虜については、日本軍の沖縄守備隊は陸海軍とも当初は沖縄本島に送致しており、戦闘の激化に伴い台湾へ送致することになっていましたが、海軍石垣島警備隊司令井上乙彦大佐は、台湾への送致の困難や部隊の士気向上のため捕虜の殺害を企図し、警備隊司令部の南にあった照空隊の駐屯地に長さ4メートル、幅1.5メートル、深さ1.5メートルの遺体を遺棄する穴を準備して100人以上の将兵を召集しました。そして将校がディボー中尉とダグル兵曹を軍刀で斬首し、ロイド兵曹は棒に縛りつけられ集団で殴打された上で40人もの下士官・兵により銃剣で刺殺されたといわれています。

 敗戦後、捕虜殺害という戦争犯罪の発覚を恐れた井上大佐は遺体を掘り起こし、火葬した上で遺灰を海に流し、丁重に葬ったかのように3人分の十字架を建立するよう命じました。こうして事件は隠ぺいされたが、GHQに事件の全貌について情報提供がなされ、井上ら7人が戦犯として絞首刑となりました。

 こうして殺害された米軍捕虜を弔うため、慰霊碑が建立されました。今でも捕虜が殺害された4月15日には、慰霊祭がおこなわれてます。

石垣島事件慰霊碑

令和元年9月3日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(陸自石垣駐屯地問題)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は3日、石垣島の平得大俣地区において陸上自衛隊石垣駐屯地の建設工事の進捗状況を視察しました。

陸自石垣駐屯地建設現場にて

 陸上自衛隊石垣駐屯地の建設工事は今年3月から着工し、現在も進められています。石垣島への陸自配備について、住民投票を求める署名は石垣市約3万9000人のち約1万4000筆も集まりました。しかし市議会はこれをあっさりと否決するなど、陸自配備への意思決定に住民の関与や合意はありません。

 石垣市と防衛省が今年3月に駐屯地建設を強行した背景には、4月以降だと沖縄県の改正環境アセス条例の適用対象となるため、滑り込みで工事を着工したといわれています。地下水の汚染や天然記念物のカンムリワシなどの営巣への影響について心配の声もあがっていますが、防衛省はアセスの実施を否定しています。

 東西冷戦が終結し、自衛隊は根拠不明の「中国脅威論」を振りかざし、南西諸島配備を進めています。与那国、宮古島においても陸自駐屯地が開庁しましたが、それぞれトラブルや問題が絶えません。石垣島においても平時においてすら住民の声を押しつぶし、また美しい自然を破壊しながら配備を強行する自衛隊が、はたして有事に際して住民を守るのか疑問です。

 陸自石垣駐屯地が開庁すれば500人規模の警備部隊と地対艦・地対空ミサイルが配備されますが、年間130万人もの観光客が訪れる石垣島は、現在、それほどの部隊と兵器を配備しなければ対応できないほどの「脅威」にさらされているのでしょうか。誰一人そうは思っていないはずです。

陸自石垣駐屯地予定図:八重山毎日新聞より

 また実際に有事があったとしても、国民保護法に基づき自衛隊の主任務は戦闘にあり、住民保護は行政の役割となっています。平成24年、防衛省内で石垣島への敵の侵攻を想定しての防衛と奪還作戦についての検討がおこなわれましたが、そこに住民保護という想定内容はありませんでした。沖縄戦においても石垣島には独立混成第45旅団(八重山旅団)という大部隊が配備されましたが、八重山旅団は住民を米軍の手に渡すと軍事機密が漏洩するとして、マラリア有病地の白水などに強制疎開させ、多くの住民が亡くなりました。沖縄にはこうした記憶がまだまだ消えていません。

 神道言論人の葦津珍彦は自身が執筆した記事「国民は自衛隊に何を期待する─『一旦緩急アレバ義勇公に奉ズ』は生きている」、および「自衛隊に名誉を」において、急迫不正の侵害に対する自衛隊の必死の抵抗は、抑止力として機能することはもちろんだが、それ以上に、自衛隊の必死の抵抗は国家が国民を見殺しにしないことを示すものであり、国民の連帯や統合を確保し、保持するものとして自衛隊の存在意義、すなわち「建軍の本義」があるとします。

 そして皇軍は解体され、自衛隊は天皇統帥の軍ではなく、天皇との関わりは全く否定されましたが、自衛隊の「建軍の本義」が国民統合にあるのならば、日本国憲法における国民統合の象徴としての天皇と不思議な一体や統帥の出現を葦津は示唆しています。

工事現場にある赤土のろ過装置

 こうした自衛隊「建軍の本義」に立つとき、石垣島はじめ現在の自衛隊南西諸島配備によって発生している住民の対立と分断は放置していいものではありません。戦後、自衛隊は沖縄で救急患者の緊急搬送や不発弾処理で信頼を得てきました。それは沖縄に心から向き合い、慰霊の旅を続けられ、国民統合の象徴として努力されてきた上皇陛下のお姿とも重なるものです。しかし現在の自衛隊の南西諸島、そして沖縄への態度は、明らかにそれと脱線しているといわざるをえません。

 いまこそ自衛隊は南西諸島から「名誉ある撤退」をすることで人々の信頼を取り戻し、「建軍の本義」を全うするべきではないでしょうか。

令和元年9月1日 関東大震災96年 東京都慰霊堂秋季大法要、朝鮮人犠牲者追悼集会

 大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災から96年を向けた今日、震災犠牲者のうち身元不明の遺骨を納め、犠牲者を御霊を弔う東京都慰霊堂(東京都墨田区「横網公園」内)で営まれた秋季大法要に参列し焼香するとともに、横網公園内に建つ「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」前で開催された朝鮮人犠牲者追悼集会に参加し、震災後の流言飛語や官憲の企図により虐殺された朝鮮半島出身者を弔いました。

秋季大法要が営まれる東京都慰霊堂

 関東大震災時、朝鮮半島出身者を虐殺した「自警団」とは、震災直後に突如として結成された組織ではありません。大正の米騒動以後、警察を補完するかたちで上からつくられ、そのメンバーは日清戦争で朝鮮を戦場とした元軍人による在郷軍人会が中心でした。彼らは朝鮮半島で壮絶な殺戮を経験しており、既に日本には虐殺の精神的素地、社会的素地があったといえます。

 また震災時の「自警団」の暴力は、軍による戒厳令の発令や「怪しい者は殺してもよい」という警察幹部の発言を背景とするものであり、警察官が「自警団」と一緒に朝鮮半島出身者を追いかけたり、軍が朝鮮半島出身者を「自警団」に引き渡し虐殺させるなど、「自警団」は官憲と一体となったものとして把握する必要があります。

 後に「自警団」による凶行は刑事事件として処罰されますが、ある種の「義挙」として捉えられていたのか、恩赦でかなり早期に釈放されるといったこともあったようです。

 なお現在では、関東大震災時の朝鮮半島出身者の虐殺を否定する議論もあるようですが、数々の証言、人々の日記、軍や官憲の記録、新聞報道、行政機関の資料などからも虐殺の事実を否定することはできません。さらに震災から約一ヶ月半後の報道統制が解禁された10月下旬の新聞には、既に「朝鮮人による暴動」といった情報が虚報であり、そうした流言蜚語により多数の朝鮮半島出身者が虐殺されたが、実際には日本人が略奪などの犯罪行為を行っていたと報じられています。

慰霊碑の前での金順子さんの追悼鎮魂の舞

 東京都知事はこれまで朝鮮人犠牲者追悼集会へ追悼文を寄せていましたが、小池百合子氏が東京都知事に就任以降、追悼集会への追悼文送付が取り止めとなりました。今年の追悼集会にも小池都知事の追悼文が寄せられることはありませんでした。

 小池都知事の追悼文送付の取り止めの背景には、震災時の虐殺事件を否定するライターによるデマ本と、これを根拠としたある都議の都議会質問があるといわれていますが、いずれにせよ最終的には小池都知事自身による歴史修正主義に基づくものといわざるをえません。「根拠不明であっても邪魔なものは抹殺する」という都知事の対応は、まさしく震災時の「自警団」と同様のものとして厳しく非難されるべきものです。

【関東大震災96年】全震災犠牲者、虐殺犠牲者追悼

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分、相模湾北部を震源とするマグニチュード7.9の巨大地震が発生しました。死者・行方不明者は約10万人、建物の被害は全半壊あわせ約30万棟、焼失約40万棟といわれる未曾有の大災害でした。いわゆる関東大震災です。

 震災発生直後から朝鮮半島出身者はじめ中国人あるいは社会主義者が「井戸に毒を入れた」「婦女を暴行した」「爆弾を仕掛けた」「武装蜂起した」といった悪質な流言飛語が飛び交い、軍や警察、そして民間人「自警団」による誰何尋問が各所で行われ、暴行、虐殺がおこなわれました。震災犠牲者の実に数パーセントがこうした虐殺による犠牲者ともいわれています。

 関東大震災発生から明日で96年を迎えるにあたり、歴史の継承と犠牲者の慰霊のため、震災犠牲者を祀る東京都慰霊堂および慰霊堂に隣接する関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑を訪れ、全ての震災犠牲者と虐殺犠牲者を追悼しました。その後、東京と千葉の各地の震災犠牲者や朝鮮半島出身者をはじめとする虐殺犠牲者の慰霊碑や虐殺現場を訪れ、追悼しました。

東京都慰霊堂、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑

 関東大震災と東京大空襲の犠牲者のうち、身元不明の遺骨を安置し弔う東京都の施設である東京都慰霊堂を参拝するとともに、東京都慰霊堂が建つ横網公園内の「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」を参拝しました。明日1日、東京都慰霊堂では午前10時秋季大法要が営まれるとともに、関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑前では午前11時から朝鮮人犠牲者追悼集会が開催されます。

 なお東京都知事は例年、朝鮮人犠牲者追悼集会に追悼文を送っていましたが、小池百合子都知事は追悼文の送付を取りやめています。ここには歴史修正主義のライターと、これに通じた東京都議会議員の動きが見え隠れしています。

横網公園内に建つ関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑
関東大震災時韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑

 震災発生のわずか数時間後には「朝鮮人が放火をしてまわっている」といったデマが飛び交いはじめました。さらに市民や官憲、そしてメディアが一体となり民族差別に基づく暴動幻想やレイプ神話が煽られていきました。これにより慰霊碑のある荒川旧四つ木橋付近では、軍や「自警団」による虐殺事件が発生し、多くの朝鮮半島出身者が犠牲となりました。

 なお、この慰霊碑には、官憲やデマを信じた日本人により多くの朝鮮半島出身者が殺されたと明記されていますが、このことは日本人が建立した慰霊碑としては初めてのことであったといわれています。

荒川土手沿いに建立されている慰霊碑
亀戸事件犠牲者之碑

 9月3日頃、習志野の騎兵連隊など軍による日本人労働運動家虐殺事件「亀戸事件」が発生しました。亀戸の浄心寺の境内に慰霊碑が建立されていますが、慰霊碑には犠牲者10名の名前が刻まれています。

 亀戸事件発生の要因には、震災後の朝鮮半島出身者に関するデマと一緒に飛び交った社会主義者に関するデマの存在があるとともに、震災による混乱を奇貨とした官憲が、かねてより危険視していた労働運動家を抹殺すべく検束、虐殺したといわれています。

浄心寺境内に建つ慰霊碑
中国人労働者虐殺事件「大島町事件」現場

 9月3日、騎兵連隊などの軍は大島8丁目(現東大島文化センター付近)に中国人労働者数百名を連行し、虐殺しました。事件の背景には、中国人への差別、蔑視があったことはもちろんながら、第一次大戦後の不況下、手配師が安価な労働力の供給源である中国人労働者を敵視し、これを「整理」する狙いがあったともいわれています。

「大島町事件」現場
地方出身者虐殺事件「検見川事件」遺体遺棄現場

 9月5日、千葉市検見川で3人の日本人が虐殺されました。「検見川事件」といわれます。この事件では、震災により沖縄出身の儀間次郎や秋田出身の藤井金蔵など3人の青年が検見川停留所周辺に逃れたところ、「自警団」に誰何尋問され、言葉のなまりから「朝鮮人に違いない」として殺害されました。

 途中、警察官が3人の青年を派出所で保護し、身分証明書を確認して「朝鮮人ではない」と「自警団」に伝えましたが、「自警団」はこれを信じず、逆に派出所を襲い3人を連れ出して殺害したとのことです。最終的に3人の青年を取り囲む「自警団」にさらに数百人の群衆が群がり、群集心理によって殺害されたともいわれています。遺体は花見川橋から東京湾に向けて川に捨てられたそうです。

3人の遺体が遺棄された花見川橋
関東大震災福田村事件追悼慰霊碑

 9月6日、旧福田村(現千葉県野田市)で香川出身の行商人ら15人が自警団に襲われ、乳児や胎児を含む9人が虐殺されました。いわゆる「福田村事件」です。犠牲となった行商人らが被差別部落出身であったため、事件後も被害救済などはほとんどなされず、犯人たちは処罰されたものの早々に釈放されたそうです。

園福寺内の慰霊碑
中国人宗教家、社会活動家虐殺事件「王希天事件」現場

 9月12日、軍は中国人被災者の救援を行なっていた宗教家で社会活動家の王希天を現在の旧中川逆井橋付近で殺害し、遺体を斬り刻み川に投げ捨てました。王希天虐殺は隠蔽され、日中間の国際問題にまで発展しますが、日本政府はこれをうやむやにし続けました。

手前の橋が逆井橋
習志野支鮮人収容所跡

 軍は震災後、千葉県習志野のドイツ軍捕虜収容所(高津廠舎)を「習志野支鮮人収容所」とし、多数の中国・朝鮮半島出身者を収容しました。軍は収容した中国・朝鮮半島出身者を直接的に虐殺したり、付近の集落の「自警団」に引き渡し間接的に殺害しました。

 第一次大戦中のドイツ軍捕虜は国際法規に従って丁重に扱われ、オーケストラの演奏などもおこなわれましたが、中国・朝鮮半島出身者はためらいもなく虐殺するというこの差に、事件の本質の一端が見え隠れします。

 なお付近に駐屯する騎兵第13連隊は震災時に東京方面へ出動し、亀戸事件や大島町事件に加わっています。

ドイツ軍捕虜収容所跡
関東大震災犠牲同胞慰霊碑

 船橋市の馬込霊園内に建つこの慰霊碑は、終戦後、虐殺された朝鮮半島出身の犠牲者を追悼するため在日朝鮮人連盟千葉県本部が建立したものです。既に法界無縁塔という朝鮮半島出身の犠牲者を弔う供養塔が建立されていましたが、碑文に虐殺の事実が記されていないなど歴史的事実と経緯を踏まえた供養塔でないことから、この慰霊碑が建立されました。

馬込霊園内の慰霊碑
関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊の碑

 習志野支鮮人収容所では、拘束中の朝鮮出身者を軍が付近の集落の「自警団」に引き渡し、彼らに虐殺させることもありました。千葉県八千代市高津でもそうして6人の朝鮮出身者が虐殺され、後に遺骨が高津の観音寺に安置されたことから、境内に慰霊碑が建立されました。慰霊碑の横には韓国から贈られたという韓国式の鐘楼もあります。

韓国式鐘楼(左)と慰霊碑(右)

[戦争遺跡見学]陸軍野戦砲兵学校、陸軍工兵学校関連遺跡(千葉県四街道市、松戸市、銚子市)

 千葉県四街道市および松戸市、銚子市にある戦争遺跡ならびに記念碑や関連の地を見学しました。

「日本砲兵揺籃の地」記念碑

 四街道市にある「日本砲兵揺籃の地」記念碑は、砲兵の戦術や射撃の研究をする軍事学校である陸軍砲兵射的学校跡地に建てられた記念碑です。幕末、佐倉藩は砲術訓練のために下志津火業所を設置し、四街道市の下志津原を射撃場としました。明治政府は射撃場を買収し、下志津火業所の跡地に陸軍砲兵射的学校を設立しました。

「日本砲兵揺籃の地」記念碑
陸軍野戦砲兵学校跡 

 上述の陸軍砲兵射的学校は後に陸軍野戦砲兵射撃学校と改称され、付近に移転しました。その後、陸軍野戦砲兵射撃学校は陸軍野戦砲兵学校に改称され、訓練内容も拡大するとともに、学校の周囲には砲兵部隊や軍事病院も設立され、一帯は「軍郷」となっていきました。また高射砲の重要性が意識されるなかで、陸軍野戦砲兵学校内に防空学校が設置されることもありました。

 昭和17年(1942)には陸軍野戦砲兵学校内に生徒隊(通称:少年砲兵)が開設され、15歳~17歳前後の少年が下士官候補として養成されましたが、彼らは後に南方戦線に送られ、ほとんどが戦死したといわれています。

陸軍野戦砲兵学校跡にある砲弾
陸軍工兵学校跡

 陸軍工兵学校跡は、千葉県松戸市にある陸軍工兵学校の歩哨舎や正門などの関連遺跡です。陸軍工兵学校は第一次大戦により軍備の近代化の必要性を痛感した軍が大正8年(1919)に設立した日本唯一の工兵学校です。当初、現在の印西市に設置される予定でしたが、交通の利便性などから現在地に設置されました。当時、現在地には競馬場があり、この競馬場は現在の船橋市の中山村に移転しましたが、これが中山競馬場の淵源と思われます。

陸軍工兵学校歩哨舎跡
八紘石腸隊「翔天の碑」

 八紘石腸隊「翔天の碑」は、千葉県銚子市にあった陸軍銚子飛行場跡に建立された特攻隊の記念碑です。陸軍航空特攻隊の八紘石腸隊は陸軍銚子飛行場を飛び立ち鹿児島の知覧、沖縄の伊江島や石垣島を経由して台湾に行き、フィリピン・レイテ沖での特攻作戦に参加したといわれています。なお特攻隊員以外にも陸軍銚子飛行場の用地買収で土地を失った人、勤労動員で亡くなった学生や飛行訓練中に事故で犠牲となった兵士もおり、その人たちにも思いを致しながら見学しました。

翔天の碑

令和元年8月29日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(海洋文化館)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は29日、海洋博公園内にある海洋文化館を見学し、琉球・沖縄そしてアジアを考える上で重要な海と海洋文化を学びました。

海洋文化館

 海洋博は昭和50年(1975年)から昭和51年まで「海─その望ましい未来」をテーマに沖縄県本部町で開催された国際博覧会ですが、海洋博終了後、跡地は海洋博記念公園となり、海洋文化館や美ら海水族館などが建てられました。

 一方で海洋文化館を出て海を隔てて伊江島を眺めると、米軍機が旋回する光景が見えました。伊江島には伊江島補助飛行場という米軍基地があり、現在はF35Bの離発着訓練やパラシュート降下訓練などがおこなわれている他、過去には核兵器の模擬爆弾の投下訓練などもおこなわれました。

 海は琉球・沖縄にとって非常に重要なものであり、様々な恵みをもたらしましたが、その海とは異なり沖縄の発展を阻害する米軍基地と米軍の演習が日常に溶け込んでいる沖縄の悲哀と負担を思いました。

伊江島上空を飛行する米軍機

令和元年8月28日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(北部訓練場)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は28日、沖縄県国頭村・東村にまたがる米海兵隊演習場「北部訓練場」ゲート前にて語りがけをおこないました。

 北部訓練場は平成28年(2016)に「沖縄の本土復帰以降、最大規模の返還」と銘打ち、演習地の過半が返還されましたが、その引き換えとして計6ヵ所のオスプレイが離発着可能なヘリパッドの建設が強行されました。また新たに宇嘉川河口と接続水域が米軍に提供され、各ヘリパッドと歩行訓練ルートや進入路などで結ばれました。

 つまり米軍は北部訓練場の遊休地や既に経年劣化により使用が困難となっていたヘリパッドを返還することにより、新たにオスプレイが離発着可能なヘリパッドを得て、さらにそれらヘリパッドが宇嘉川河口と結ばれることにより、オスプレイでヘリパッドに着陸し、歩行訓練ルートをたどって海に脱出する、あるいはその逆に舟艇で河口に上陸し、歩行訓練ルートを辿ってヘリパッドに辿り着くといった陸海空一体となった実戦的な演習が可能となったのであり、実質は基地機能が強化され基地負担が増加したといえます。

 こうした基地問題に関する安倍政権のペテンや、「地方創生」といいつつ沖縄を平然と締め上げる欺瞞について訴えかけました。

北部訓練場メインゲート

令和元年8月23日~24日 花瑛塾第19次沖縄派遣団(北部訓練場)

 花瑛塾第19次沖縄派遣団は23日、沖縄北部の東村・国頭村にまたがって位置する米海兵隊の演習場である北部訓練場のメインゲート前にて、北部訓練場と伊江島補助飛行場、そして現在、埋め立て工事が進められている辺野古新基地が今後一体的に運用され、沖縄北部に基地負担が集中、固定化し、さらにそれは「本土」はもとより沖縄中南部からも不可視のものとなっていくことの問題を訴えました。

北部訓練場メインゲート

 北部訓練場に新たにつくられたヘリパッドはオスプレイの離発着を想定したものであり、また伊江島補助飛行場でもオスプレイの離発着が行われていますが、辺野古新基地には将来的に200機ものオスプレイが配備されるといわれており、辺野古を飛び立ったオスプレイが北部訓練場や伊江島を飛び交うことが予想されます。

 また辺野古新基地には強襲揚陸艦が接岸する「軍港」機能もありますが、伊江島補助飛行場には強襲揚陸艦を離発着するF35Bの着陸訓練であるLHDデッキが建設されています。

 やんばる、伊江島、辺野古という沖縄北部の要塞化を許してはなりません。

 24日も23日に続き北部訓練場前にて訴えた他、チョウ類研究者のアキノ隊員こと宮城秋乃さんとともに国頭村の北部訓練場返還地である旧FBJヘリパッド地区を訪れ、米軍が廃棄したと思われる夜戦食など携行糧食の袋や空薬莢、鉄製の資材、ドラム缶などを発見、確認しました。

FBJヘリパッド地区で発見した空薬莢

 北部訓練場返還地は、返還にあたって沖縄防衛局が廃棄物の処分を実施しましたが、それでもなおこのように多くの廃棄物が残置されています。沖縄防衛局の廃棄物の処分がずさんであったことも考えられますが、返還前の北部訓練場は米軍の廃棄物だらけであったことは容易に想像されます。

 これ以外にも北部訓練場返還地では米軍の廃棄物の投棄によって土壌汚染も確認されており、米軍基地は騒音や人的被害のみならず、環境問題という面からもその基地負担を考えていく必要があります。