人々の暮らしの上に強制的に建設された普天間飛行場

 アメリカ軍海兵隊普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)周辺における、アメリカ軍機の部品落下事故など、アメリカ軍機関連事故が多発している。つい先日、同飛行場の付近の普天間第二小学校にアメリカ軍海兵隊大型輸送ヘリCH-53Eスーパースタリオンの窓が落下する事故が発生した。また2004年には、同じく同飛行場の付近にある沖縄国際大学に同ヘリが墜落する重大事故も発生している。

1944年9月29日アメリカ軍撮影航空写真(赤枠内が神山集落)【国土地理院提供】

 普天間飛行場は、沖縄戦においてアメリカ軍が宜野湾・神山・新城などの集落を接収し建設された。集落の他にも、普天間飛行場内には宜野湾村役場や小学校などもあり、畑が広がり、カーといわれる井泉や御嶽など信仰の場もあった。戦中の航空写真には、現在の普天間飛行場内にあった神山集落の様子がはっきりとわかる。また現在の旧神山集落跡の航空写真を見ると、集落が普天間飛行場内に位置していることも見てとれる。これは宜野湾・新城などの集落についても同様である。

 アメリカ軍機関連事故を受けて、「何もない飛行場の周囲に人々が住み始めたのだ」といった言説が飛び交っているが、それはまったく倒錯した議論である。そもそも普天間飛行場は人々が暮らす集落をつぶし、そこので祭祀・信仰を破壊し、人々の故郷への愛着や記憶の上に建設されたものなのだ。「本土」のアメリカ軍基地はほぼ国有地など公有地に立地するが、普天間飛行場の敷地面積のうち民有地が占める割合は約90%となっていることも、普天間飛行場の建設経緯を示している。飛行場の周囲に人が住んだのではない。そもそも人の住んでいるところに飛行場がつくられたのだという基本線を確認したい。

 さらに沖縄全体にいえることだが、沖縄のアメリカ軍基地は比較的高地の居住性のよい場所に建てられている。戦後、アメリカ軍の収容所から解放された人々が故郷に帰るとそこはアメリカ軍の基地となっており、故郷という意味でも居住性という意味でも基地の周囲に家屋を建てるしかなかった。

現在の普天間飛行場の航空写真(赤枠内が旧神山集落跡)

 また普天間飛行場は、もともとはあまり激しい訓練が行われなかった比較的静かな飛行場であり、人々は飛行場周囲に定住していった。しかしハンビー飛行場(北谷町)が1976年に返還されると同飛行場所属部隊が普天間飛行場に移転するなど普天間飛行場の基地機能はすこしずつ強化され、騒音や墜落の危険性が高まっていったのである。既に1970年代にはアメリカ軍は普天間飛行場の危険性を認識しており、この危険性の除去を怠ってきたのはアメリカ軍と日本政府なのである。

 普天間飛行場内には遺跡も多数ある。戦前・戦中はいうまでもなく、古来よりそこに人が住んでいたのである。そして集落を追い出されたがため、戦後も飛行場の周囲に住まざるを得なかった罪のない住民を指弾するのではなく、人々の住むなかに飛行場をつくり、さらにその危険性を認識しつつも根本的な解決をはかろうとしなかったアメリカ軍や日本政府を批判するのが議論の本筋であることはいうまでもない。

平成29年12月21日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は今日、首相官邸前で福祉や文教費などの予算の減額といった民生切り捨てと平和外交を欠いた安倍政権の軍備拡大を糾弾し、さらに沖縄を犠牲にして得る日米安保の「抑止力」の意味と価値を問い質しました。

首相官邸前にて

 またロシア大使館前にて北方地域に責任を有する国家である日本とロシアが、アイヌの人々や北方領土元島民、そして現在北方領土に暮らす人々の生活に目を配った上での、新たな日ロ関係の構築や領土交渉の展開を呼びかけました。

ロシア大使館前にて

日本とアジアの信頼醸成という「国防」-上昇を続ける防衛関連予算を問う

 2016年度の防衛関連予算(SACO・米軍再編関連費含む)は、5兆541億円であった。2017年度(今年度)は5兆1251億円となっている。そして2018年度(来年度)の防衛関連予算の概算要求は5兆2551億円とされ、2012年の第2次安倍内閣発足以降、防衛関連予算は一貫して上昇を続けている。2019年10月に消費税の8%から10%への増税が予定されているが、増税分の税収は約5兆6千億円といわれており、ほぼ防衛関連予算と同額である。いかに防衛関連予算が巨額なものかわかるだろう。

朝日新聞2015年12月20日朝刊より

 もちろん花瑛塾は防衛の必要性を否定しない。また災害対応においても自衛隊は重要な存在である。しかし自衛隊は日本国憲法において「自衛のための必要最小限度の実力」である限りにおいて合憲とされているのであり、複数のイージス艦を保有した上でさらに巨額のイージス・アショアなど地上イージス導入は妥当なのであろうか。そして専守防衛を掲げながら、敵のレーダーを掻い潜り敵基地攻撃が可能な最新鋭ステルス戦闘機F-35Aや高高度無人偵察機グローバルホークの購入に問題はないのか。

 対英米開戦の年の1945年9月、御前会議を経て「帝国国策遂行要領」が定められたが、そこでは軍事と外交の並行が追求された。同時点で日本に開戦決意はなく、南方進出や日中戦争の泥沼化など緊張と瀬戸際を招いた責任は別の議論としても、すくなくともこの時点において軍事と外交の並行は日本の真意であった。北朝鮮の「脅威」を煽る安倍政権は軍事のみであり、防衛省は「焼け太り」かのごとく予算を獲得し、巨額のアメリカ製兵器購入にひた走っているが、その予算の一部をアジアとの外交・友好・交流に振り分けるだけでも、日本を取り巻く安全保障環境は長期的に変化するはずだ。例えば莫大な防衛関連予算の一部をアジアの学生の日本留学基金とし日本とアジアの信頼醸成を「国防」とすることもあり得る。

 花瑛塾は先の大戦に真剣に向き合うものとして、外交・友好の追及の重要性を訴え、防衛関連予算の見直しを求める。

平成29年12月19日 日韓外相会談について

 今日19日、康京和・韓国外交部長官が来日し、飯倉公館(東京都港区)にて河野太郎外務大臣と会談が行われた。外務省によると北朝鮮問題が主な議題となったようだが、従軍慰安婦問題や日韓合意にも話が及んだとのこと。なお、康長官は明日20日まで日本に滞在する予定である。

 従軍慰安婦やいわゆる徴用工問題はじめ労務動員など、日韓のあいだには日本の韓国併合と先の戦争に関連する様々な問題が存在するが、近年、これらの問題の背景に日本のアジア主義を見る松浦正孝氏などの指摘がある。

 例えば日本統治下の朝鮮では、満州事変と「満州国」建国をうけ、宇垣一成・南次郎朝鮮総督時代、朝鮮半島南部から北部へ、そして満州へと、その後の日本本土や東南アジアでの強制労働・強制移動へつながる労働力の大規模移動をはかる労務政策が行われた。こうした労働力は日本の凡アジア主義の下に動員され、そこで労働者が受け取る賃金は凡アジア主義の恩恵とされ、アジア防衛の一体感の醸成が企図されるなど、日本の労務政策と凡アジア主義が結びつくとされる。

 こうした凡アジア主義は、アジアの諸民族の独立と日本と朝鮮といった日アの一視同仁を掲げるが、結果として戦争を招き、アジアに多大な犠牲も強いた。他方、日本のアジア主義はけして単純なものではなく、石橋湛山に見られるアジア主義は、第一次世界大戦後、日本が植民地台湾と朝鮮を放棄し、それぞれの独立を認め、進んで中国における様々な権益の返還をいう理想主義的なものでもあった。

 「東洋平和」を掲げる神道家・葦津耕次郎(葦津珍彦の父)は、朝鮮神宮御祭神論争において政府と鋭く対峙するなど、熱烈な凡アジア主義者でもあり、現代の視点から見ればその思想には様々な問題も存在するが、大正12年(1923)に日中間で二十一か条要求の廃棄問題が起こり、さらに中国で旅順・大連の回収運動が高まると、耕次郎は日本で回収運動に反対する大会に出席し、「日本は喜んで是を支那(ママ)に還附してやるべき」、「要は只支那国民を救済する大国策を建ててやる事にある」と反対論に反対する演説を行うなど、ある局面では石橋に代表される理想主義的なアジア主義を主張している。

 今日の日韓外相会談で河野外相と康長官は、それぞれの主張、申し入れ、説明などをした上で、日韓のあいだに存在する様々な困難を適切にマネージしつつ、未来志向で日韓関係を前進させるよう協力することで一致したが、そこにおいて日本のアジア主義を先入観や偏見なく客観的に顧みることは、けして無駄なことではないはずだ。

平成29年12月18日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は18日、首相官邸前・自民党本部前にて現状の日米関係の見直しを求めました。

 神道家・葦津珍彦氏は、日米安保体制を「米国に運命を委ねた隷属状態」と規定し、その打破を唱えていますが、政府・自民党は、このような「隷属状態の日米関係」を「対等な日米関係」と思い定め、さらにその隷属を深めることを「日本の自立」「日本の強国化」と妄信しています。

 アメリカには先進的な価値観と素晴らしい文化、歴史が存在しています。そして日本とアメリカは多くの価値観を共有し、両者が密接な関係にあることは間違いありません。他方、アメリカには軍事や外交の面で多くの問題を抱えており、アメリカの非は非として指摘すべきことは指摘することが真のパートナーシップであるはずです。そのような対等かつ友好的な、新しくかつ本来的な関係を築いた日米が、世界の問題へ共同対処することが重要ではないでしょうか。

 その後、アメリカ大使館前にてMV-22オスプレイの墜落事故やCH-53Eスーパースタリオンの部品落下事故など、頻発するアメリカ軍関連事故や、飲酒運転による死亡事故や軍属による殺人事件などの米兵犯罪について綱紀粛正を求めました。

首相官邸前にて
アメリカ大使館前にて

NHKドキュメンタリーETV特集「砂川事件 60年後の問いかけ」

 16日、NHKドキュメンタリーETV特集「砂川事件 60年後の問いかけ」が放送された。

 砂川事件とは、砂川闘争と呼ばれるアメリカ軍立川飛行場の拡張工事をめぐる反対運動が盛り上がるなか、立川飛行場へ進入した学生ら7人が在日アメリカ軍基地への進入を取り締まる刑事特別法違反で起訴されたが、1959年、東京地裁が日本へのアメリカ軍駐留を憲法違反とし無罪を判決するものの(伊達判決)、同年、最高裁は「統治行為論」をもって日米安保条約についての違憲・合憲の憲法判断を避け、さらに日本国憲法における自衛権の問題に言及しつつアメリカ軍の駐留を合憲とし、審理を一審に差し戻したものである。

砂川闘争(立川市ホームページより)

 砂川事件の最高裁判決では、裁判所は日米安保条約など「高度の政治性を有するもの」については、「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外」とし、日米安保条約の憲法判断を避け、他方、日本国憲法は自衛のための必要な措置は認めているとしつつ、憲法9条は「わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となってこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするため」とし、「駐留軍隊は外国軍隊であって、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となってあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らか」と解し、アメリカ軍の日本への駐留を合憲化した。

 このように最高裁が判決する以前より、つまりアメリカ軍駐留を違憲とする伊達判決以降、岸信介内閣が進める日米安保条約の改定(新安保条約)を念頭に、当時の藤山愛一郎外務大臣や田中耕太郎最高裁長官がマッカーサー駐日大使と接触し、政府の憲法解釈への自信を示し、また訴訟スケジュールをマッカーサーに伝え、マッカーサー大使が「伊達判決は覆るだろう」との手応えを得たことが公開された秘密文書によって明るみとなっている。田中長官とマッカーサー大使との接触は、訴訟手続き上、重大な問題であり、さらに藤山外相の行動からは異常な日米関係のあり方が読み取れる。そして当時の日米両政府の思惑通りに最高裁が判決したことを考えれば、そこに何らかの日米の合意や取り決めがあったことも推測される。

砂川事件最高裁判決の様子(毎日新聞「昭和毎日」より)

 さらに砂川事件の最高裁判決では、「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」とし、いわゆる個別的自衛権を認めているが、安倍政権による2014年の限定的な集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定や、その翌年に審議・成立した一連の安全保障関連法にあたり、高村正彦自民党副総裁は最高裁判決における自衛権への言及について、「集団的自衛権も含まれるもの」と拡大解釈・曲解・牽強付会し、解釈改憲・安保関連法成立の「法的根拠」とした経緯がある。

 砂川事件以降、「本土」のアメリカ軍基地は沖縄へ移転・集中していき、砂川闘争や内灘闘争など50年代に「本土」各地で展開されたアメリカ軍基地撤去・反対運動は成功したが、それは結果として沖縄の基地負担を増加させるものとなってしまった。そして司法は憲法判断を避ける統治行為論を固定化させていき、さらに政府・自民党はかかる沖縄と司法の間隙を縫い、日米安保の強化と安保関連法などに砂川事件を利用していったのである。砂川事件が突きつける「60年後の問いかけ」は重い。

 

平成29年12月17日 花瑛塾行動隊街頭行動

 花瑛塾行動隊は17日、首相官邸前・自民党本部前・防衛省前・アメリカ大使館前にて、MV-22オスプレイの墜落事故やCH-53Eスーパースタリオンの炎上・大破事故、あるいは部品落下事故など、頻発するアメリカ軍用機の事故や米兵犯罪について、沖縄県へ押しつけられている過剰な基地負担とアメリカ軍関連事件やアメリカ軍の無法・横暴を追認する日米地位協定によって成り立つ、いびつな日米安保体制が根本的な原因として、これを肯定し続ける日本政府の無策を糾弾しました。

首相官邸前

米軍ヘリCH-53Eスーパースタリオン窓落下・児童負傷事件に関する緊急行動

 花瑛塾行動隊は13日および14日、自民党本部前・首相官邸前・アメリカ大使館前にて、13日に発生したアメリカ軍海兵隊普天間飛行場所属の大型輸送ヘリCH-53Eスーパースタリオンの窓が沖縄県宜野湾市の普天間第二小学校に落下し、児童が負傷した事件について、緊急の抗議行動を展開しました。

米大使館前での緊急行動(13日)

 同事件により沖縄県はアメリカ軍機全機種の飛行中止を求めていますが、アメリカ軍機は依然として飛行を続けています。10月に発生した沖縄県東村高江におけるCH-53Eスーパースタリオンの炎上・大破事故や部品落下事故など、アメリカ軍機の事故は頻発しています。同種事故は過去にも多数発生しており、犠牲者も存在します。

 沖縄県では、翁長知事が上京し日米両政府への抗議を行い、自民党・公明党も含む県議会各党が沖縄防衛局など関係部局を訪れ抗議するなど怒りの声が沸き起こっていますが、山本防衛副大臣は、沖縄県によるアメリカ軍機全機種の飛行中止要求について、「CH-53Eの事案であり、他の飛行機も同じように扱うというのはどういうロジックなのか分からない」「全ての機種の飛行停止を求める考えはない」などと県民感情を逆なでする発言をしました。

 アメリカ軍機事故の原因として、沖縄県への過剰なアメリカ軍基地の集中や、度重なる申し入れや議会の議決、あるいは日米の取り決めにも関わらず、市街地上空を我が物顔で低空飛行するアメリカ軍の無法があげられます。同時に、繰り返されるアメリカ軍機の事故について、日米地位協定や地位協定に関する日米合意によって事故原因の真相解明がなされず、再発防止策が徹底されていない点があげられます。

首相官邸前での緊急行動(14日)

 事実、日米地位協定に関する合意議事録では、アメリカ軍機の事故について「日本側は捜索・検証・差押えを行う権利を行使しない」と取り決められています。このような不当な日米合意が事故の再発を許す原因となっていることは明白です。また事故が発生するたび、日本側はアメリカ軍機の飛行停止を求めますが、時の経過とともになし崩しにされ、事故原因の究明や再発防止策の徹底がなされないまま飛行が再開されているのが実情です。

 今回、沖縄県警はアメリカ軍の協力のもと普天間飛行場内に立ち入り、事故機の検証を行いました。警察は、あらゆる手段を駆使し、捜査・検証を徹底するべきですが、10月の東村高江におけるアメリカ軍ヘリ炎上・大破事故に関する航空危険行為処罰法の捜査は進んでおらず、今回の捜査もどこまで実効性があるか疑問といわざるをえません。

米大使館前での緊急行動(14日)

 このままアメリカ軍機の飛行中止と事故原因の究明などがなされなければ、同種事故の再発は目に見えています。沖縄県への過剰な基地負担の押しつけと、アメリカ軍の無法・横暴を許す日米地位協定によって成立する歪んだ日米関係・日米安保体制を是正する必要があるのではないでしょうか。

 もちろん花瑛塾は、単純かつ感情的な反米論を煽り立てるつもりはありません。例えば、嘉手納飛行場を抱える沖縄県沖縄市のコザの街では、若い米兵たちが軍服姿でハンバーガーを食べ、コーラを飲み、楽しそうに笑い合うような光景を日常的に目にします。こうした若い米兵を見る時、けして憎しみを覚えることなどなく、むしろ無事に兵役を終え帰国して欲しいと思います。特に最近のアメリカ軍では、ヒスパニック系の移民者などがアメリカ国籍を得るために志願する事例や奨学金の確保など経済的な面から志願し入隊する事例が増えています。その意味では、彼ら米兵も社会の矛盾の中で危険な任務に就かざるを得ないという被害者的側面もあり、闇雲に憎悪の対象とするべきものではありません。

 また国家間の関係においても、花瑛塾は日米の緊張状態や敵対を望むものではなく、主権国家同士、日米が真に対等で友好的な関係を構築し、新しいかつ本来的な日米関係を望んでいます。そのためにも現状の日米安保体制を是正していく必要があるはずです。

平成29年12月8日 日本の対英米開戦とアジア進出を考える街頭行動

 昭和16年(1941)12月8日、日本軍はマレー・コタバルへの上陸作戦を開始、その1時間後ハワイ真珠湾の米艦隊を奇襲攻撃し、先行する日中戦争も含め「大東亜戦争」「太平洋戦争」「アジア太平洋戦争」などといわれる大戦が始まりました。

 この大戦は、どちらかといえば対英米開戦とその後のアメリカを中心とする連合国との死闘が注目されがちですが、アジア太平洋地域から英米蘭を駆逐した上で日本が東南アジアに進出し、膠着し泥沼化する大陸戦線の打開と重要国防資源の日本への輸送など東南アジアを勢力圏とした総力戦の展開を目指すという「アジアの戦争」でもありました。

 「アジアの戦争」としては、戦中使用された「大東亜共栄圏」などといった言葉にも注意する必要があります。戦前から開戦後しばらく喧伝されていた「大東亜共栄圏」構想は、日本をアジアの盟主とする色彩が濃いため、昭和18年の大東亜会議やそこで採択された大東亜共同宣言にて改変され、アジア各国の互恵・平等が目指され、ビルマやフィリピンの独立が認められるなどしましたが、ジャワやセレベスなど重要地域は日本領とされるなど問題もありました。さらに戦況の悪化もあり、日本軍政下の東南アジアでは民生に大きな被害を出しました。

 日本が先の大戦で行ったこと、行おうとしたこと、そして連合国や東南アジアの植民地旧宗主国が行ったこと、行おうとしたこと、これらについて花瑛塾はアジアの視点から検討するべきと考え、本日都内各所にてその旨訴えました。街頭行動終了後、花瑛塾青年・学生寮神前にて全ての戦争犠牲者に黙祷を執り行いました。

 またアメリカ大使館前にて、トランプ大統領の対北朝鮮軍事的威嚇・外交的威圧を糾弾し、あくまで対話を追及するよう訴えるとともに、度重なる米兵犯罪や軍関連事故の再発防止と、日米地位協定を含めた歪な日米安保体制の改定を訴えました。

アメリカ大使館前

 同時に、渋谷・富ヶ谷の私邸を出発し首相官邸へと入る安倍首相の専用車と警護車両など首相車列をとらえ、安倍政権の悪政・無法の数々を糾弾し、首相官邸前の規制線内に推進し抗議行動を展開しました。

首都高霞が関ランプで総理大臣車列をとらえる

 安倍首相が強行する軍備拡大は、安倍首相が喧伝する「北朝鮮の脅威」なるものに裏付けられています。しかし、トランプ政権内部にも北朝鮮との対話を模索する勢力が存在するなど、安倍首相が叫び続ける「北朝鮮の脅威」なるものは本当に存在するのでしょうか。

 もちろん、北朝鮮のミサイル発射や核実験は、国連安保理決議に違反する重大な国際社会への挑戦ですが、北朝鮮のミサイルは宇宙空間を飛翔したのであり、さらにミサイルはアメリカに向けられていると北朝鮮自身が発言するなど、北朝鮮脅威論の根拠は不明です。安倍首相は北朝鮮の脅威なるものを利用し、政権への求心力を高めているに過ぎません。

 安倍政権が煽り立てる北朝鮮脅威論と、これに基づき突き進む軍備拡大路線は、北朝鮮問題の解決につながらないことは、これまでの北朝鮮外交の経緯が証明しています。

 私たちは、いまこそ安倍政権が進む道に未来はあるのかを考え直し、新たな政治を構築する必要があるはずです。

首相官邸前の規制線内に推進

1941年(昭和16)12月8日 対英米開戦とアジアの戦争

 1941年(昭和16)12月8日、日本陸軍はマレー半島コタバルへの上陸作戦を開始し、さらに海軍はハワイ真珠湾を攻撃した。ここに先行する中国戦線も含め、アジア・太平洋一帯での戦争が始まる。この戦争を日本側は「大東亜戦争」と称し、戦後は「太平洋戦争」、あるいは「アジア太平洋戦争」「15年戦争」などと呼称される。

 37年7月に発生した盧溝橋事件は第2次上海事変に発展し、全面戦争となる。こうして始まった日中戦争が長期化し膠着するなかで、日本は40年9月に日独伊三国同盟を締結し、さらに同月、フランス領北部インドシナ(北部仏印)への進駐を開始する。北部仏印進駐には、援蒋ルートの遮断と南進のための基地を確保する意図があったといわれている。こうした日本の外交と南進政策は、アメリカの態度を硬化させ、アメリカは対日禁輸政策など圧力外交を展開し始めた。そして日本は41年4月に日ソ中立条約を締結し、ソ連の中国大陸への介入を防ぐとともに、北の備えとした。

 当時の世界情勢は、既に39年9月にナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦を布告、第2次世界大戦が始まっていた。40年6月にはドイツ軍はフランス・パリを陥落させ、さらに同年8月には対イギリス航空戦(「バトル・オブ・ブリテン」)を開始するが、イギリス軍の抵抗は激しく、ドイツ軍は対英上陸をあきらめ、41年6月には対ソ連戦(「バルバロッサ作戦」)に突入していった。39年8月に独ソ不可侵条約が締結されており、ドイツ軍のソ連攻撃はスターリンにとって予想外であり、ソ連軍は戦争準備が不十分であった。さらにスターリンによる粛清の影響もあり、ソ連軍は敗退を続け、ドイツ軍はモスクワまであと一歩のところに迫っていた。

 こうした世界情勢の急転と日米交渉の行き詰まりのなかで、日本は対米開戦を決意し始め、41年11月5日「帝国国策遂行要領」を決定し、同年12月初頭の対米開戦を定めた。以降、陸海軍は戦争準備を開始する。そうとはいえ、対米戦で軍事的に勝利することが不可能であることは日本にとっても自明のことであり、開戦時の日本の軍事戦略・終戦構想は東南アジアでの日本の勢力圏を築き、天然資源を始めとした軍需物資を確保し、さらに長期持久戦態勢を樹立した上で、ドイツ・イタリアがソ連とイギリスを降し、アメリカの戦争継続意思を挫折させ、有利な条件でアメリカと講和を締結するというものであった。

 開戦早々、日本軍はアメリカ軍の動きを制し、東南アジアに展開していたイギリス軍やオランダ軍を降した。そして東南アジア各地に進出し、占領地において軍政を展開する。日本軍の軍政の基本方針は、石油・ゴムなど「重要国防資源」を日本へ輸送するとともに、現地に展開する軍の物資を確保するというものであった。例えば、マレーシアにて軍政を展開した山下奉文中将隷下の日本軍第25軍は、現地人を優遇し、華僑とイギリス人へ峻厳な態度で臨み、既存の政治制度や勢力を利用しつつ、ボーキサイトやゴムあるいは錫といった天然資源の確保を急ぎ、軍の自活態勢を確立していった。東南アジアでの勢力圏確保をいう終戦構想、真珠湾に先立つ事実上の開戦であるコタバル上陸、援蒋ルート遮断戦略など、この戦争は「アジアの戦争」であったといえる。

 「アジアの戦争」として忘れてはならないのは、43年11月、東京で開催されたいわゆる「大東亜共栄圏」における独立国の指導者を集めた「大東亜会議」と、そこにおける「大東亜共同宣言」の発出である。大東亜会議・大東亜共同宣言は、当時の外相・重光葵が連合国による「大西洋憲章」に対抗するため発出されたものであり、「大東亜共栄圏」は「盟主・日本がアジア各国を領導する」といった意味合いが強すぎるとして放棄され、「アジア解放」「平等互恵」などを内容とする。一方、インドネシアの民族主義者スカルノが会議に招請されず、またフィリピンやビルマの独立が認められながら、セレベスやジャワといった重要地域は日本領とされるなど、問題点もあった。

 また、ここでいくつかのことに注意しなければならない。41年6月に開始された独ソ戦において、ドイツ軍はモスクワまで33キロメートルに迫っていたものの、41年12月5日にはソ連軍が総反撃を開始し、敗走を始めていた。開戦前において日本の軍事戦略・終戦構想は崩れていたのであった。さらに日本軍の戦術にも問題があった。真珠湾攻撃では日本軍潜水艦部隊がアメリカ軍の対潜部隊に圧倒されており、以後、太平洋上においてアメリカ軍の潜水艦部隊に苦しめられ、またイギリス軍の誇る戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」「レパルス」を航空作戦によって撃沈させたマレー沖海戦では、日本側軍用機の被弾率は40%を超えるなど、連合軍の高い防空能力が示されたといわれている。戦略の崩壊と戦術の綻びは必然的に戦局の悪化をもたらし、早くも42年6月のミッドウェー海戦以降、日本軍は敗色を濃くする。そして45年8月のポツダム宣言受託までガダルカナル、ソロモン、アッツ、マーシャル諸島、インパール、サイパン、マリアナ沖、レイテ、硫黄島、沖縄と絶望的な戦闘が続き、都市空襲や原爆投下が行われていったのであった。

 さらに戦争と戦況悪化はアジアに疲弊と犠牲をもたらしていった。上述のマレーシア軍政においては、そもそもマレーシアは自給能力が低いことに加え、戦況悪化により物資輸送船の撃沈などが続き、物資の不足や生活難を引き起こしていった。そして資源確保と日本への輸送が困難になると、軍政は軍の自活と民政の維持に努めたが、さらに戦争末期になると連合軍の逆上陸への備えから軍政は資源の戦力化と防衛体制の構築に全力が注がれた。こうした軍政の展開に反発し、アジア各地で抗日闘争や独立運動も高まっていったのである。

 12月8日、日米開戦のみならず、アジアの視点から先の大戦に向き合いたい。