【花瑛塾結成5年】花瑛塾は解散し、新たな戦いを始めます

 平成28年(2016)11月16日の花瑛塾旗揚げよりちょうど5年の今日、私たちの道統の祖である故花田瑛一塾長の墓所をお参りし、墓前にて花瑛塾解散の決意をお伝えしました。

 私たちは東日本大震災と原発事故、安保法の制定、辺野古新基地建設や高江ヘリパッド建設の強行、沖縄で頻発する米兵犯罪や米軍機事故などといった現実の動向に対し、愛国者としてどのように向き合い、考え、答えを出し、戦っていくべきか、既成の右翼運動の中で長く葛藤と煩悶を続けてきましたが、今から5年前、愛国運動の原点を追及し、これを世に問おうと花瑛塾を結成し、その旗を揚げました。

 そして今、この5年間の花瑛塾の軌跡や社会的な思潮の動向、人々の意識の変化などを振り返る時、愛国運動の原点を追及し世に問うという私たちの当初の大きな目標は、おおむね達成できたのではないかと判断するに至り、ここに花瑛塾の旗を降ろし、解散を決意した次第です。

 無論、花瑛塾の旗を降ろすといっても、今日まで戦い続けてきた私たちは、明日よりまたそれぞれ新たな戦いを始めていく覚悟です。

 例えば、安倍、菅、岸田と首相はかわるも自公政権の悪政は続き、その補完勢力である維新の会の伸張を見る時、これに対抗する野党各党に心より期待し支持するとともに、私たちもまた新党を結成して国政や国政に準ずる大型自治体選挙に挑み、沖縄を始めとする私たちの考えを世に問うことなどができればと考えています。

 これまで花瑛塾にいただいた多くの皆様の叱咤激励に心より感謝するとともに、引き続きのご指導ご鞭撻をたまわりたくお願い申し上げます。

 なお花瑛塾のホームページやTwitter等のSNSアカウントの更新は、今日をもって停止いたしますが、花瑛塾のこれまでの戦史の記録や皆様との連絡のため当面はこれを残して管理を続けるとともに、開示請求をはじめ中途となっている活動の成果や新党結成など新しい動きがあれば、そのお知らせの発信などで使用していきます。

令和3年11月16日

花瑛塾 塾長 仲村之菊

花瑛塾 塾生一同

令和3年10月21日 出陣学徒壮行会78年 「出陣学徒壮行の地」記念碑、早稲田大学・國學院大學戦没学生慰霊碑お参り

 78年前の今日、神宮外苑競技場(現在の新国立競技場)で「出陣学徒壮行会」が開催されました。新国立競技場の一角には、学徒出陣の歴史を記念する「出陣学徒壮行の地」記念碑が建っています。

 昨年は五輪の関係で新国立競技場に立入ることができませんでしたが、五輪が閉会した今年、「出陣学徒壮行会の地」記念碑と早稲田大学大隈庭園ならびに國學院大學構内に建つ学徒出陣をはじめとする戦没学生、教職員らを弔う慰霊碑をお参りしました。

「出陣学徒壮行の地」記念碑

 先の大戦下、兵役法では中学校以上の学校在籍者の徴兵延期が認められていましたが、戦争の激化により下級将校が不足していったため、政府は昭和18年(1943)10月に徴兵延期制を廃止し、この年の年末には文系大学の学生など徴兵検査をおこなった学生約10万人が軍に入営しました。

 徴兵検査に先立つ同年10月21日、明治神宮外苑競技場で「出陣学徒壮行会」が挙行されました。また各大学では、例えば國學院大學が10月14日、法政大学では15日など、21日までにそれぞれ壮行会が開催され、関西地方でも学徒出陣の壮行会が開催されるなどしましたが、こうした学徒出陣を記念するため、壮行会から50年の平成5年(1993)、壮行会が開催された明治神宮外苑競技場跡(旧国立競技場)に記念碑が建立されました。

早稲田大学大隈庭園に建つ「平和祈念碑」 先の大戦で犠牲になった早稲田大学教職員、校友、学生約4300名を慰霊し平和を祈念している

 学徒出陣によって下級将校となった学徒たちは、陸軍士官学校や海軍兵学校出身の正規将校たちからは徹底的に差別され、古参兵からは軽く扱われるなど、日本の軍隊の非合理性や理不尽さに悩まされたといわれています。陸海軍特攻隊として搭乗した将校のうち半数以上が学徒出身の将校であり、学徒出身の将校は、将校のなかでも「消耗品」として使い捨てにされたということができます。

 こうした戦没学徒の遺稿集が『きけわだつみのこえ』であり、文京区にあるわだつのみのこえ記念館には、戦没学徒の遺稿や遺品が所蔵展示されています。

 また先の大戦はじめ総力戦体制下では、兵力不足を補うため、学徒兵とともに少年兵も積極的に動員されました。特に少年兵はいわゆる予科練などが有名ですが、その他にも少年戦車兵や通信兵、海軍特別年少兵などが誕生し、15歳前後の少年兵が多数戦死しました。

 当初、少年兵には特殊な専門教育を施し、下士官として育てることが目的であり、家庭の経済事情などで上級学校に進学できなかった向学心のある少年が多数志願しましたが、結局は即席の兵士として前線に送られ、実戦に投入されたといわれています。彼ら少年兵を送り出した親たちは「子どもを戦争に駆り出しているようでは、この先どうなるか」と不安や疑問を感じていたそうです。

國學院大學構内に建つ「学徒慰霊之碑」 先の大戦で犠牲になった國學院大學学生ら437人を慰霊する

 忘れてはならないのは植民地であった朝鮮、台湾からも当初は志願兵として、後に徴兵として兵力が動員されたことです。出陣学徒壮行会から約1ヶ月後の昭和18年11月30日、日比谷公会堂において「特別志願」に基づく朝鮮・台湾出身の在日学徒の学徒出陣の壮行会が開催されています。

 特別志願といっても、当時の文部省は各学校に対し、志願しない学徒には休学、退学措置を命じるなど、事実上の強制でした。また当時の新聞も「半島学徒へ決起運動」などの見出しの記事を掲載し、在日学徒へ軍に「志願」するよう煽りました。

 朝鮮、台湾出身の在日学生の学徒出陣の歴史はあまり知られていませんが、当時でも日本人学生の学徒出陣に比べ報道も小さく、朝鮮・台湾出身者の命が軽視されていたことがわかります。

 日本人学徒の学徒出陣、そして少年兵の戦争動員という歴史的事実を忘れてはなりませんが、朝鮮、台湾出身の学徒出陣という「もう一つの学徒出陣」もけして忘れてはならない歴史的事実であり、語り継いでいきたいと思います。

昭和18年11月30日に日比谷公会堂で開催された朝鮮、台湾出身の学生の学徒出陣壮行会を報ずる当時の新聞 日本人の学徒出陣壮行会の記事に比較し、明らかにベタ記事扱いとなっている

令和2年10月21日 「出陣学徒壮行の地」記念碑、わだつみのこえ記念館

令和2年11月30日 朝鮮、台湾出身陸軍特別志願学徒壮行会(日比谷公会堂)

令和2年10月14日 國學院大學学徒出陣壮行会77年 「学徒慰霊之碑」拝礼

【トークイベントのお知らせ】花瑛塾仲村がお招きをいただき、沖縄でお話しをさせていただきます

 当塾々長の仲村が沖縄の皆様よりトークイベントにお招きをいただき、お話しさせていただきます。

 下記の日程等で開催されますので、どうぞご参加下さい。

山河・社稷の営みと黄色境界線

【日 時】令和3年(2021)11月7日 日曜日 午後3時から午後5時まで

【場 所】Punga Ponga(プンガポンガ)  沖縄県那覇市牧志1-11-11

【会場費】2000円 1ドリンク付き

 予約は不要です。お席は先着順となります。

 感染症対策にご協力いただいた上で、多くの方のご参加をお待ちしております。

※仲村は、事前にPCR検査を実施しコロナ陰性であることを確認した上で沖縄にお伺いし、トークイベントに参加します。

※会場費の半分は、動物愛護団体(一社)琉球わんにゃんゆいまーるに寄付します。

令和元年11月23日 花瑛塾第21次沖縄派遣団(魂魄の塔、トークイベント「恋しうちなぁ~うちなんちゅになりたくて、なりきれない心~」)

 

令和3年10月12日 浅沼稲次郎没後61年 「浅沼稲次郎之墓」墓参

 日本社会党委員長浅沼稲次郎没後61年の今日、昨年ならびに一昨年に引き続き浅沼と妻享子のねむる「浅沼稲次郎之墓」を墓参しました。

「浅沼稲次郎之墓」 揮毫は河上丈太郎

 浅沼は明治31年に三宅島に生まれ、早稲田大学に入学しました。早稲田では社会主義思想を信奉し、雄弁会で活動しました。そして卒業後は社会運動の道を進むようになりました。

 社会運動家としての浅沼は官憲による徹底的な弾圧をうけ、関東大震災では「主義者」として陸軍に連行され、暴行をうけることなどもありました。

 そうしたなかで浅沼は昭和11年、衆議院議員選挙に当選します。以後、紆余曲折あり、一時は議員の道をあきらめることもありましたが、戦後も一貫して政治家として活躍しました。「革新の旗手」といわれるほどの強い信念の持ち主であり、また「演説百姓」といわれるほど貧しい暮らしをしながら日本各地を遊説し続けましたが、昭和35年10月12日、今から61年前の今日、右翼少年山口二矢に刺殺されました。

 浅沼の墓は多磨霊園内にあり、冒頭記したようにそこにおいて妻享子とともに眠っています。「人間機関車」ともいわれた浅沼の大きな体と闘魂をあらわすように、浅沼の墓は非常に大きな墓でした。

 浅沼没後の10月18日、当時の首相池田勇人が衆議院本会議場で浅沼を追悼する演説をしました。そこで池田は、

 ただいま、この壇上に立ちまして、皆様と相対するとき、私は、この議場に一つの空席をはっきりと認めるのであります。私が、心ひそかに、本会議のこの壇上で、その人を相手に政策の論争を行ない、また、来たるべき総選挙には、全国各地の街頭で、その人を相手に政策の論議を行なおうと誓った好敵手の席であります。
 かつて、ここから発せられる一つの声を、私は、社会党の党大会に、また、あるときは大衆の先頭に聞いたのであります。今その人はなく、その声もやみました。私は、だれに向かって論争をいどめばよいのでありましょうか。しかし、心を澄まして耳を傾ければ、私には、そこから一つの叫び声があるように思われてなりません。「わが身に起こったことを他の人に起こさせてはならない」、「暴力は民主政治家にとって共通の敵である」と、この声は叫んでいるのであります。

と感動的に浅沼を偲ぶとともに、「沼は演説百姓よ よごれた服にボロカバン きょうは本所の公会堂 あすは京都の辻の寺」と浅沼を詠んだ歌を紹介し、「演説百姓」としての浅沼の人柄を称えました。

 あの児玉誉士夫も浅沼とは親しかったそうです。児玉は遠藤周作との対談で「児玉さんは浅沼社会党委員長の刺殺事件をどうお考えになりますか」と問われ、

わたしは反対です。浅沼さんとは仲よかった。よく共に酒を飲みました。個人浅沼は立派な人でした。〔中略〕これで自民党と社会党は話合いの広場をなくした、といったんです。

と述べるなど、昭和の怪物、右翼の大立者と呼ばれた児玉でさえ浅沼には一目置き、浅沼を追慕しています。

 浅沼の墓を清掃し献花、しばし浅沼の事績や大きな人間性に思いを馳せ、慰霊鎮魂のまことを捧げました。

 なお浅沼刺殺事件当時、神道言論人葦津珍彦は事件を繰り返し論じ、古今東西の「政治と暴力」の問題について考究していますが、一方で「人間浅沼の命を断つことの道徳責任」についてもしっかりと視点を置いて議論しています。こちらもご参照下さい。

葦津珍彦は山口二矢による浅沼稲次郎刺殺事件をどう論じたか─非合理なるものへの憧れと、政治とテロとの宿縁

令和2年10月12日 浅沼稲次郎没後60年 「浅沼稲次郎之墓」墓参

令和3年9月29日 自民党総裁選、岸田文雄新総裁に物申す!

 菅義偉首相の総裁選不出馬、事実上の退陣表明もあり混迷の度合いを深めていた自民党総裁選の投開票が行われ、岸田文雄新総裁が選出されました。

岸田新総裁と菅首相:毎日新聞2021.9.29

 この自民党総裁選は、安倍晋三前首相、そして菅首相の失政悪政の連続によって追い込まれていた自民党が総選挙を前に、有権者に対して「自民党はかわった」という幻想を見せるためだけの巨大な政治ショーであり、全くのイリュージョンでしかありません。

 花瑛塾は、総裁選後に自民党本部で行なわれる新総裁による記者会見に合わせ、安倍、菅政権の「居抜き政権」でしかない岸田新総裁と新政権に何らの期待なしとして、来たるべき総選挙での岸田新総裁の落選、政権交代の実現をと自民党本部前で訴えました。

 そもそも岸田新総裁は、安倍政権において長期間にわたり外務大臣を務め、特に安保法制国会では、担当大臣の一人として安保関連法の必要性を強弁し続けた人物です。岸田新総裁は、その後も自民党政調会長として党の政策責任者を務めてきたのであり、これまでの自民党政治の主柱の一人です。

 そうした人物が新総裁となって自民党がかわるなどということはありえません。事実、岸田新総裁は、総裁選中、森友事件の再調査についても言を左右にして態度をはっきりさせず、自身の地元広島で起きた河井夫妻による買収事件についても曖昧な態度に終始しています。これでは安倍、菅政権と何が違うというのでしょうか。

自民党本部

 そればかりか岸田新総裁は、辺野古新基地建設を進めると明言し、沖縄戦の犠牲者の遺骨が含まれている可能性のある沖縄南部の土砂の辺野古埋め立てへの使用についての質問に答えることもありませんでした。また異常な中国脅威論を煽り立て防衛予算の拡大など軍拡を主張しており、沖縄に負担を押しつけ危険な対外硬論を唱えた安倍政権と全く同様の政策を打ち出しています。広島出身ながら核禁条約にも否定的で、米国の核政策を擁護し、世界的な核軍縮に取り組む意思も見えません。

 岸田新総裁は、自民党のなかでも保守本流といわれる穏健派、ハト派の派閥である宏池会の会長でもあります。総裁選でも宏池会創設者の池田勇人元首相による有名な所得倍増計画や、宏池会の元会長の大平正芳元首相の田園都市構想を取り入れ、それらを現代的にアレンジした政策を打ち出していますが、池田元首相も大平元首相もそれぞれ内政ばかりではなく平和外交を推し進め、外交での多大な成果をあげました。歴史教科書問題、慰安婦問題で重要な役割を担い、周辺諸国との関係改善を進めた宮沢喜一元首相も宏池会の会長です。

 安倍政権同様、岸田新総裁が危険な対外硬論を推し進め、平和外交を放棄し、周辺諸国との関係を悪化させていくのならば、岸田新総裁は宏池会の伝統に泥を塗ることになると同時に、自民党のなかでもいくらかでもましな部分、最後の良心とでもいうべきものすら今の自民党にはなく、自民党は安倍、菅的なものしか息をすることが許されない党なのだということがはっきりとしてきました。

 一方で、岸田新総裁が何よりもまず集中してやるべきコロナ対策については、具体的で明確な政策、方針が見えてきません。安倍、菅政権は、ともにコロナ対策に失敗し、感染拡大を招きました。二代続けて政権がコロナ対策に失敗して追い込まれ、かつ今もってコロナの終息が見えない現状において、コロナ対策が不明瞭であるということは、岸田新総裁も安倍、菅政権のコロナ対策の失敗を繰り返し、その点でも安倍、菅政権を継承していくことになるでしょう。

岸田新総裁に物申す!

 岸田新総裁は、自民党役員について、1期1年連続3期までという制限を設けると発言するなど、総裁選で党改革を訴えていましたが、総裁選での岸田陣営には、麻生太郎財務相や甘利明税調会長をはじめとするキングメーカー気取りの政治家が跳梁跋扈し暗躍しており、高市早苗候補を応援していたはずの安倍前首相も巧妙に岸田新総裁誕生を視野に入れて動いていたといわれています。

 岸田新総裁になっても、結局のところ自民党はこれまでの派閥政治、長老支配、キングメーカー気取りのボスたちによる二重権力体制が維持されるのであり、つまるところ岸田新総裁と新政権は、安倍、菅政権の「居抜き政権」「傀儡政権」でしかなく、表看板はかわってもその中身は何もかわりません。人事は水物であり、今後どうなるかわかりませんが、すでに麻生財務相に近い甘利税調会長や安倍元首相と近い萩生田光一文科相の幹事長就任が取り沙汰されており、早くも「居抜き政権」「傀儡政権」の本領を発揮しています。

 岸田新総裁は、総裁に選出された直後のスピーチで「私たちは、生まれ変わった自民党をしっかりと国民の皆さんに示し、支持を訴えていく」と述べましたが、自民党は生まれ変わってなどいないのです。この点をしっかりと見抜いていく必要があります。

 他方、岸田新総裁は、人の話をよく聞くことが自身の長所と述べています。それは確かに素晴らしい長所ですが、人の話を聞き過ぎて、そこにつけこまれ、しがらみでがんじがらめにされ、結局は自分で何もできない操り人形の傀儡となり、あるいは判断不能の立ち往生に追い込まれ、遠からず政権を投げ出すことは目に見えています。

 岸田新総裁による新政権は短命で終わる。いや終わらせなければなりません。一刻も早い政権交代を実現しましょう。

令和2年9月14日 自民党総裁選、菅義偉新総裁に物申す!

菅首相、退陣へ─政治的に「破産」した菅政権を乗り越え、野党の共闘で政権交代を─(令和3年9月3日)

令和3年9月28日 朝日平吾による安田善次郎刺殺事件から100年 「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参

 大正10年(1921)9月28日朝9時30分頃、大磯にある安田財閥総帥安田善次郎の別邸「寿楽庵」において、神州義団の団長を名乗る朝日平吾が安田を刺殺し、朝日もその場で自ら命を絶つ事件が発生しました。

 安田善次郎刺殺事件、朝日平吾事件、神州義団事件などと呼ばれているこの事件からちょうど100年のこの日、刺殺された安田善次郎が眠る「安田家累代墓」、ならびに朝日平吾が眠る「朝日平吾之墓」をお参りしました。

「安田家累代墓」

 九州で生まれ育った朝日は、早稲田大学や日本大学で学ぶとともに、軍に入隊し第一次世界大戦では青島の戦いに従軍するなどしましたが、少年期より家族や周囲との折り合いが悪く、軍の除隊後は大陸に渡り馬賊となるも長続きせず、事業を始めるも挫折し、宗教の世界や社会運動、社会事業を志すも周囲との軋轢により上手くいかず、鬱々とした日々を過ごしていました。

 そして朝日は、最後の事業として困窮した労働者を救うため「労働ホテル」の建設を目指します。

 朝日は、大倉喜八郎や浅野総一郎、古河虎之助ら財閥の総帥に労働ホテル建設のため出資を求めますが、断られ続けました。わずかに渋沢栄一が協力的な態度を示したり、森村開作から若干の出資を得るなどしたものの全く計画通りにいかず、朝日は最後の機会として安田善次郎に出資を求めようとしました。

 しかし、すでにこの時、朝日はテロを決意しており、「奸富安田善次郎巨富ヲ作ストイエドモ富豪ノ責任ヲハタサズ」「ヨッテ天誅ヲ加エ世ノ警トナス」などと記された「斬奸状」や「死ノ叫声」と題した犯行声明文をしたため、100年前のこの日、犯行におよびます。

 事件当初、民衆やメディアは朝日をある種の狂人や政治ゴロとして扱いました。当時の首相の原敬も朝日を兇漢、不良の徒と見なして事態を深刻に受けとめず、警視庁官房主事の正力松太郎も「こんどの事件はたいしたことじゃない」「思想方面なんかに関係があるものか」と発言しています。

 他方、安田は世間から大変な吝嗇家と思われており、事件後も安田への同情はあまり寄せられませんでした。東大安田講堂が寄贈者である安田の名を冠しているように、実際の安田は様々な寄付寄贈をしていましたが、それよりも戦後恐慌の中で金儲けばかり考えている「奸富」「守銭奴」として世間のうらみを買っていました。そのため当初は兇漢とされた朝日がいつしか英雄視され、同情が寄せられようになり、朝日の葬儀には右翼関係者だけではなく左翼、労働運動関係者も駆けつけたほどだったといいます。

「朝日平吾之墓」

 大正デモクラシーを代表する思想家である吉野作造は、朝日による安田刺殺を肯定するつもりはない、朝日の行動には徹頭徹尾反対だ、安田一人を除いて社会を救うなどという考えは短見であり憫笑の至りと前置きしつつ、「けれどもあの時代に朝日平吾が生れたと云ふその社会的背景に至ては、深く我々を考へさせずには置かぬものがある」と指摘しています。

 また吉野は、朝日による安田刺殺の約一ヶ月後に発生した中岡艮一による原敬刺殺事件をうけて、この事件の動機は政治的主義主張に基づくものとは思えないとし、「只何んとなく社会の何処かに暗雲が棚曳き、それが年と共に濃厚な低気圧を作りつゝあるやうに思はれてならない。果してさうだとすると、其低気圧が何時勃発して雨となるか風となるか分らない」と当時の鬱屈した、あるいは煩悶に満ちた人々の織り成す世相を表現しつつ、「誰が遣るか分らないと云ふ所に深く考ふべき点があるのではなからうか」ともいいます。

 昭和維新、超国家主義など主に戦前の日本思想史を研究した橋川文三は、朝日を身分的地位が行動の前提であった明治期の右翼テロリストと区別し、朝日は何らの身分を代表するものではなく、何らの地位もない、いわば匿名の人間であったと分析していますが、現代の社会もどことなく人々の鬱屈や煩悶が暗雲として棚引き、それが濃厚な低気圧を形成し、風雨が吹き荒れるように特定の誰かではなくどこの誰でもない匿名の大衆のなかから再び朝日があらわれ社会を攻撃する気配があるように感じられます。

 橋川は、テロについて、人間行動の極限形態として自殺と相表裏するものであるという趣旨のことを示唆していますが、年間約2万人もの自殺者を出している現代の日本社会は、まさにテロと相表裏する人間行動の極限形態が頻発しているのであり、それがいつ他者を攻撃するテロに転化しても不思議ではありません。

寿楽庵の一角(昨年撮影)

 安田刺殺を朝日という粗暴な右翼による身勝手で短絡的なテロと断じるのは簡単な話です。

 しかし橋川が朝日の犯行声明文である「死ノ叫声」について、「ここに見られる思想・心情は、敵とさし違えようとする勇壮な戦士のそれというより、自己の無力感をしたたかに嘗めた〔中略〕怨恨と憂鬱に結びついた発想」、「その底に流れるリズムは遺骸と沈鬱な無力感の告白のように思われてならない」とし、「朝日の遺書全体を貫いているものをもっとも簡明にいうならば、何故に本来平等に幸福を享有すべき人間(もしくは日本人)の間に、歴然たる差別があるのかというナイーヴな思想である」と見抜き、「朝日のパーソナリティに見られる傲慢とさえいえる要素と、その反面におけるむしろ病的というに近い懐疑・怨恨・挫折の感情との複合、葛藤の中から、近代日本人にとって、ある意味では未知というべき感受性が形成されたのではないか」と大衆社会論的視覚による分析を試みているように、その粗暴で身勝手で短絡的なテロにどのような意味と背景があったのかを考えていくことも重要であるはずです。

 実際、朝日が「死ノ叫声」において維新を志す青年志士に檄した内容には、普通選挙の実現や世襲華族世襲財産制の撤廃、小作農の救済、兵役の軽減など、驚くほど民主的である意味ではあまりに平凡な項目も含まれています。橋川も朝日を「大正デモクラシーを陰画的に表現した人間のように思われてならない」といいますが、こうした朝日像はほとんど知られていません。

 朝日が本当に求めていたものは何だったのか。朝日が求めていた何かは、現代の日本に存在し充足しているのか。存在しておらず充足してないとすれば、再び朝日が蘇るのではないだろうか。

 二度とこのような事件が起きないようにするためにも、事件を忘れることなく、朝日に向き合っていく必要があるのではないでしょうか。

令和2年9月28日 安田善次郎刺殺事件99年 安田善次郎旧別邸「寿楽庵」見学、「安田家累代墓」「朝日平吾之墓」墓参

令和3年9月24日 西南戦争終結の日 西郷隆盛「留魂祠」参拝

 西南戦争における城山の戦いで西郷軍が壊滅したこの日、洗足池湖畔に鎮座する西郷隆盛「留魂祠」を参拝しました。

洗足池湖畔に建つ留魂祠

 明治10年(1877)にはじまった西南戦争では、熊本城攻略戦や田原坂の戦いなどを経て西郷軍の敗勢が色濃くなっていきました。そして戦争末期、西郷軍は鹿児島の城山に籠城、この日最後の攻撃を敢行し、西郷隆盛が自刃するなど壊滅しました。

 江戸無血開城などで西郷と知己にあった勝海舟は、西郷の死を悼み、西郷の漢詩を刻む石碑を建てるとともに、「留魂祠」を建て、西郷の魂魄を招魂して祀りました。

 石碑と祠は当初、葛飾の薬妙寺内にありましたが、勝没後、勝の遺志により洗足池湖畔の勝夫妻の墓の横にうつされ今日に至ります。

 神道言論人葦津珍彦は「永遠の維新者」のなかで、近代国家の軍に対し市民軍必敗の法則を解説し、西郷軍に勝算のなかったことを冷徹に指摘しつつも

西郷の死は、旧時代の最後なのではない。中道の俗流ゴールに決して定着することなく、永遠の維新を目ざして戦う戦士の心中に猛進の精神をふるい起こさせる英雄詩である。永遠の維新には敗北もなければ挫折もない。

「永遠の維新者」の情念は、事にふれ、折にふれては生きつづけて、明治史の理想と現実の底流に大きな影響を及ぼしていった。明治史だけにとどまらない。それはいまもなお日本人の心の底に、消えることなき埋火のごとく生きつづけているのではないか。

 と西郷と西郷軍の英雄詩を称えていますが、私たちもこの英雄詩を忘れず継承していきたいと思います。

留魂祠

 他方、今でこそ葦津のいうように英雄として語られる西郷ですが、西南戦争当時にあっては、一大反逆者として政府からも新聞などジャーナリズム、言論界からも徹底的な非難を浴びました。

 そうした風潮のなかで、慶應義塾創設者の福沢諭吉は、その抵抗の精神、自主独立の精神、独立自尊に基づき、西郷隆盛を称え、西郷を西南戦争へ決起させた明治新政府やこれに追従する当時のジャーナリズム、言論界を批判する「明治十年丁丑公論」を著しました。

 正しきものは誰が何といおうと正しく、間違っているものは誰が何といおうと間違っている。こうした西郷の英雄詩をめぐる福沢の抵抗の精神、自主独立の精神、独立自尊の精神もまた、現代において私たちが継承していかねばならないものと思います。

令和2年9月24日 西郷軍壊滅の日 南洲西郷隆盛「留魂祠」参拝

令和3年9月13日 乃木夫妻殉死の日 乃木静子希典夫妻墓参、乃木神社参拝

 乃木静子、乃木希典夫妻の殉死より109年の今日、青山霊園内の乃木夫妻と乃木一族の墓所をお参りするとともに、乃木夫妻を祭神としてお祀りする乃木神社をお参りしました。

乃木夫妻のお墓と墓前祭の祭壇

 大正元年(1912)9月13日、崩御した明治天皇の大喪の礼が行なわれたこの日の夜、乃木夫妻は自邸にて殉死しました。殉死後、乃木邸内には夫妻を祀る小祠が創建され、これをもとに大正11年に乃木神社が創建されます。そして乃木神社では毎年夫妻殉死のこの日、例祭が執り行われるとともに、墓所にて墓前祭が執り行われています。

 乃木夫妻の殉死は、当時においても新聞紙上や街々の噂で時代錯誤として悪くいわれることもありました。例えば、乃木夫妻の殉死後に発行された「時事新報」には、乃木が自ら命を絶つとすれば、多くの犠牲者を出した日露戦争後に死ぬべきであったと批判する同紙主筆石川幹明の記事が掲載されるなどしています。それ以外にも、白樺派などの新思潮や芥川龍之介らが乃木夫妻の殉死を批判しました。

 他方、森鴎外や夏目漱石などは、乃木夫妻の殉死を重く受け止め、文学作品のテーマにしています。また石川啄木は、殉死以前から「予の畏敬措く能はざる真骨頂漢乃木将軍」と乃木を称賛していました。

 西南戦争で軍旗を奪われたり、日露戦争で我が子を失うという悲劇、そうした影の部分が乃木の名声にかえって光彩を与える結果となり、それは日露戦争の勝利とその後の三国干渉での屈辱という当時の日本が置かれていた姿と重なり合っているという指摘もあります。

乃木神社

 なお乃木家は、長州藩の支藩である長府藩の藩士ですが、そのルーツをたどると、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本に連行された朝鮮の捕虜(被虜)に行き着くとの指摘があります。実際に長府藩の藩士の家の由緒をまとめた「藩中略譜」や関連の家系図には、乃木家の始祖として「朝鮮国ノ人」「朝鮮国之人」と記されています。

 近世において、乃木家のように、被虜をルーツとする武士は少数ながら実在しました。そして彼らは、朝鮮民族としてのアイデンティティーを失わず、「略譜」にあるようにむしろそれを内外に主張していました。また朝鮮のルーツを正確に記す「略譜」の存在は、彼らがそのルーツにより公然と差別や蔑視されることがなかったということを示しています。

 一方で明治後期より乃木家は、朝鮮がルーツであることを示す家譜を書き換えますが、問題は乃木ないし乃木家のルーツが何かということではなく、日本の歴史のある時期のある一定の領域においては、朝鮮民族や朝鮮民族をルーツとすることがけして差別や蔑視の対象ではなかったということにあります。

 日清日露と日本の対外戦争は、朝鮮や中国に対する日本人の蔑視や差別感情を強める要因にもなりましたが、その対外戦争で活躍した乃木のルーツと古来の日本の朝鮮観から学ぶべきことは多いと思います。

令和2年9月13日 乃木静子・乃木希典夫妻墓参

菅首相、退陣へ─政治的に「破産」した菅政権を乗り越え、野党の共闘で政権交代を─(令和3年9月3日)

 菅首相は今日3日、自民党臨時役員会において、同党総裁選への出馬の見送りを表明した。事実上の退陣表明であり、昨年9月16日に発足した菅政権は、ついに終焉を迎える。

記者会見での菅首相:週刊女性2021.8.5

 もともと菅首相は、総裁選への出馬を表明しており、引き続き政権を担うつもりであった。しかし急降下を続ける内閣支持率や横浜市長選挙など各種選挙の敗北もあり、政権の求心力は低下していた。自民党岸田文雄前政調会長も総裁選への出馬を表明しており、同党中堅若手ばかりでなく派閥領袖クラスも含め党内は動揺し、新しい「顔」を求め権力闘争が展開されていた。

 菅首相も総裁の座にしがみつき、政権を延命させるため、権力闘争の渦中でなりふり構わぬ攻勢を仕掛けていた。

 そもそも菅首相の狙いは、パラリンピック閉幕後ただちに解散総選挙を行い、総裁選を無投票で乗り切るものであった。それが難しくなり総裁選の日程が組まれた後もなお、解散総選挙を行い総裁選を吹っ飛ばすことを目論んでいた。

 また岸田前政調会長が党役員の任期を1期1年連続3期までとし、二階幹事長の事実上の更迭を主張し党内の支持を得ると見るや、対抗するように二階幹事長の交代を含む党役員人事の刷新、さらには内閣改造まで行おうとした。

 しかし解散総選挙により総裁選を吹っ飛ばすこともままならず、最後はこの人事の問題が退陣の決定打となった。求心力を失い、泥舟と化した菅首相の周囲から人は離れ、党役員就任を求めても誰も受けなくなっていった。幹事長の受け手も見つからず、さりとて二階幹事長を続投させるわけにもいかず、全てが行き詰まり、政権の座を投げ出さざるを得なくなったのである。

 こう聞くと、自民党内の権力闘争により菅首相が退陣に追い込まれたかのようであるが、けしてそうではない。もちろん直接的には党内の権力闘争の結果であるが、わずか一年前に圧倒的多数の支持を得た菅首相を追い込んだのは、ただの権力闘争の力学だけでない。先に述べた内閣支持率の低下、選挙の敗北といった菅政権への人々の強い不満や不信感が菅首相のままでは自民党が持たない、有権者の審判に堪えられないという党内の危機感を生み、権力闘争につながっていったのだ。

 現実に各社の選挙予測の結果は、自民党の単独過半数割れを示している。ただの権力闘争ではなく、政権交代、自民党下野という切羽詰まった情勢がそこにあった。

 それほどまでの菅政権への人々の強い不満や不信感は、言うまでもなく菅政権発足直後の学術会議会員の任命拒否に始まり、汚染水海洋放出の決定、沖縄基地問題、無為無策のコロナ対策、五輪パラの強行、アフガン撤退問題など、菅政権の数々の失政悪政によるものである。

 つまり菅政権は、自らの失政悪政により行き詰まったあげく、ワクチン接種さえ進めば大丈夫、五輪をやれば政権が浮揚する、党役員人事を刷新すれば、内閣改造をやれば、解散総選挙を行えば、などと空手形をきりまくり、結局は進退窮まってどうにもならず、政治的に「破産」したのである。

安倍前首相の「意中の人」とされる岸田氏が政権を担っても、根本的には安倍政権の踏襲となろう:ハフポスト2020.9.1

 菅首相は、今月29日の新総裁選出をもって総裁を交代し、首相も辞任するとのことだ。その後は、おそらくただちに首班指名選挙、組閣、天皇陛下による任命と続き、時期を見て解散総選挙となると見られる。

 安倍前首相の辞意表明後、なぜか「お疲れ様相場」で内閣支持率が上がった。そして菅政権発足後も「ご祝儀相場」やパンケーキだ何だとのメディアによる囃し立てにより内閣支持率は好調であった。今回もおそらくそのようになり、新総裁新首相は好調な内閣支持率のまま総選挙を迎えるであろう。

 自公政権が続く限り、安倍政権そして菅政権と続いてきた失政悪政の連続は、根本的にはかわらない。政権交代しかない。

 あらためて野党は共闘し、連合政権の政権構想を高々と掲げ、選挙協議をし、政権交代を実現しなければならない。

 奇しくも明日9月4日は、あの悲しむべき沖縄少女暴行事件から26年の日である。自民党の「顔」がかわっただけでは、沖縄の基地負担はかわらない。新基地建設は止まらない。共闘の力で政権交代を実現しよう。

令和3年9月1日 米海兵隊による普天間飛行場からのPFOS汚染水の放出について米国大使館に抗議

 8月26日、在沖米海兵隊は、普天間飛行場内で保管していた発がん性が疑われている有機フッ素化合物PFOSなどを含む汚染水を下水道に放出しました。この米軍の横暴に対し、沖縄県内では県民の怒りが募っていますが、私たちも米国大使館前にて抗議の声をあげました。

米国大使館前にて

 今回、米軍が放出したPFOS汚染水は、約6万4000リットルといわれています。なぜ米軍がこれほど大量のPFOS汚染水を保管していたのかよくわかっていませんが、在沖米軍施設で使用されている泡消火剤にPFOSなどの含有が指摘されており、それとの関連が考えられます。

 米軍は、PFOS汚染水について、これまで業者に処分を委託していたが財政負担が大きいとして、今年7月に入り日本側へPFOS汚染水を希釈処理した上で下水へ放出したいと打診してきました。沖縄県や普天間飛行場のある宜野湾市はもちろん、防衛省も放出しないよう米軍に求め、PFOS汚染水の処理をどうしていくか日米で協議が進められようとしているなか、米軍は突如として下水への放出を開始しました。

 米軍は、PFOS汚染水の濃度を日本の暫定目標値よりも低くなるよう処理しており安全だと説明していますが、日本の暫定目標値は放出の基準ではありません。そもそも日本には、PFOSなどの処理について明確な安全基準などは定まっていないそうです。しかも米軍が確実に処理したかどうか確認することもできないため、不安は全く解消されていません。

 PFOSなどは、下水処理場で除去することもできず、下水に放出されればそのまま海に流れることになります。自然界でほとんど分解されない物質でもあり、海を経由して様々なかたちで人体に蓄積していくことも考えられます。

普天間飛行場内で漏出したPFOSなどを含む泡消火剤を確認する米軍関係者:琉球新報2020.4.10

 これまでも米軍は、沖縄でPFOSなどを含む泡消火剤を飛散させています。また在沖米軍施設周辺の土壌からPFOSなどが検出されるなど、沖縄の人々は米軍により危険な状況にさらされています。

 「沖縄を守る」という米軍こそが、沖縄にとって何より危険であり脅威であるのが現実です。沖縄北部での米軍廃棄物の問題も含め、沖縄の自然を汚し、人々に危険をもたらす米軍は、今すぐ撤退すべきです。

※なお都内は現在、コロナ緊急事態宣言中であることから、抗議の時間を短くしたり、抗議者の人数を限定するなど、感染対策をとった上で抗議行動を行ないました。